ジェーナというのがかしらの奥方であることは、記憶の中に残っていた。
昨夜、かしらとそのまだ幼い娘とラドクがアマリアの所有をめぐってもめたときに、カーズがいかにも折衷案めいた申し出をした。かしらの奥方の側におけば、彼女の気が晴れようと提案したのだ。
そのときには盗賊の女なぞにかしづくのかと思ってぞっとし、こんな粗野でゆきあたりばったりに生きているような者の中にも、気欝で悩むような人間がいるのかと、ぼんやり考えただけだった。
いずれにしろ、ラドクのものになるのだけは願いさげだったし、ほかの男の慰みものにされるのも我慢ならなかったので、彼女にとってカーズの提案は、まだしも受け入れやすいものだったのだ。
「ジェーナさまは、かわいそうな御方なんでございますよ」
あきらかに掠奪品とわかる洗練された木製の器にスープをよそいながら、老婆はアマリアに言いつけるように話した。
スープは入れられた器とはそぐわない、粗野で素朴なこしらえかたをされていた。お腹がこれほどすいていなければ吐きすてたかもしれない液体を、アマリアはむさぼるように飲んだ。温かかったのが救いという、それだけの料理だったのに、彼女はおかわりを望む必要があった。
老婆は当然という顔をして器をうけとり、木杓子で薄いスープをそそぎいれ、今度は手近にあったパンもそえてくれた。
「あやつらが私どもになにをしたと思われるかの。ここは昔から一角獣の御神を祀り、神殿を護って、ひとつ角のおかたを崇めて生きてきた村なんですわ。それをあのけだものどもは、御神のお住まいを蹂躙し、お姿を穢したばかりか…」
それからあとは口にするのも汚らわしいと言うように、老婆はみぶるいで感情を示した。アマリアはカチカチになって歯の立たないパンを手にもったまま、昨日の出来事と老婆の記憶している村の悪夢をかさねあわせていた。
盗賊たちがあのときのように整然と、しかも残忍にふるまったのであれば、小さな村のひとつなど、赤子の手をひねるように陥としてしまえたろう。そのあとに繰りひろげられた惨状が目に浮かぶようだ。道のあちこちにころがった死体は、腕や足がばらばらになったものばかりで、思い出したとたんに食欲がなくなった。
侍女たちはみな、レセニウスの許しをうける前に男をしらされた。ここの村の女たちもおそらく、おなじめにあったのだろう。それは神の祝福を受けし乙女、レセニウスの巫女であった、もっとも穢されるべきでない存在ですらも例外ではなかった。
「ジェーナさまというのは巫女だったのに辱められたのね」
炎の燃えたつ炉の側で膝をかかえこむようにしてアマリアはつぶやいた。
彼女がいくらイニス・グレーネの姫だと主張してもなんの意味もなかったはずだ。盗賊たちは神ですら崇めないのだから。
老婆は粗末な造りの低い木の椅子によろよろと腰をおろして、大儀そうにため息をついた。
かれらのいる台所は、ドゥアラスの館のものとくらべるとひどく古めかしくて、簡素なものだった。
炉は壁ぎわではなく部屋の中央にあり、屋根にかろうじての煙出しがある。そのため部屋の中はうっすらと煙におおわれていて、眼が痛かった。
けれど、火が燃えているということは、ありがたいことだった。すくなくともここの空気はあたたかく、かわいている。
からだじゅうがこわばってうごけなくなるまで冷気の底にいたので、台所のあたたかさはうれしかった。
「ジェーナさまは、おかわいそうな御方なんでございますよ」
老婆がしみじみとくちにする。口調は、それにくらべればおまえは幸せだと言われているような気がするほどだった。
そのとき、背後のかすかな気配にアマリアはふりかえった。
鳴き声がして、小さな獣の茶色い姿が近づいてくるのが見えた。警戒している証拠にしっぽを立てたまま、ふたりを遠巻きにするようにそろそろと寄ってくる。針のような眼が用心ぶかげにアマリアを見ていた。
「ディード、どうしたの」
はずんだ声とともに、今度はべつの客がとびこんできた。かしらの娘だ。
リルは台所にいたふたりに驚いて、凍りついたようになった。かすかに息を呑んで、おびえたように眼を見ひらいてみせる。怯えの対象は、老婆でもあり、アマリアでもあった。
「リルさま」
老婆が息漏れのする口で名を呼ぶと、リルはぎくりとしてまばたきをする。老婆は、さきほどアマリアに見せたようなおだやかな顔で少女をみつめる。
「なかなかお顔を見せてくださらんので、婆はさみしゅうございます。お母上といつもお待ちしておるのでございますよ。リルさまがおいでくださるのをね」
やさしく諭すように語りかけているのに、リルはからだをこわばらせたままだ。まだ幼くて老人が恐ろしいのかもしれない。老婆はけして威嚇するような態度はとらず、むしろ下手にでて少女の機嫌をうかがっているようでもあったが、リルは警戒を解かない。
「きょうは、おいでくださろうの。リルさま、婆がお頼み申します。お母上に、お顔を見せてくださいましね」
リルは老婆のまなざしにくぎづけにされた大きな眼を、うなずくことを代償としてやっとの思いでひきはがした。一瞬、少女がそらした視線がアマリアにぶつかり、蒼冷めた顔がさらにこわばった。
少女は身をかわすように向きをかえ、興味を失った猫の去った方向に逃げていこうとする。
「お約束ですよ」
老婆が念押しすると少女はしぶしぶとふりかえり、うなずこうとした。
「ここでなにをしているんだい」
はりつめたものが、女の甲高い声でひきさかれた。それまで他の仕事をするために姿を消していた台所の主が戻ってきたのだ。
がっしりとしたからだを簡素な服で覆った女は、みずからの領域に不法侵入した者どもへの怒りをからだじゅうにみなぎらせて警告した。
「ここはあたしの縄張りだよ。あたしが招待さしあげてない客は出てっとくれ。ほら、ばあさん、あんたなんてお呼びじゃないんだよ。奥方には充分に食べさしてやってるじゃないの。日がないちんち、部屋んなかでなあんにもしないでころがってる人が、なんでまたお腹が空くのか、あたしにゃとんとわかりませんけどねえ。それでもまだ足りなくて、こんなとこまで漁りにくるんだからね。いやしい巫女さんだよ」
下品に舌をまるめながらまくしたてる女は、息をつぐためにそこまで言ってことばを切った。
「けだものどもの下婢ふぜいが、なにをえらそうに。ろくな料理もつくれないくせに、一人前に主婦をきどりたがりおって。おまえたちはジェーナさまにお世話をさせていただいているんだよ。ありがたく思わないと、罰が当たる」
老婆は辛辣に言いかえしたが、あごの張った四角い顔の女は不快そうにくちもとをゆがめただけだった。老婆のふりかざす権威を、すこしも認める気がないのだ。
「さあ、出ていきな。でないとほうりだしてやるよ。ほら、リル。あんたもだよ。ディードはとっくに行っちまったよ」
リルはおどおどとうなずくと、ちらりとこちらを見てから走り出ていった。
なにも履いていない両足をふんばって手を腰にあてた女は、老婆とアマリアを威嚇するように横目で見た。
「さあ、欲しいんなら、そこの砂糖漬けをもっていってもいいよ。おかしらが奥方にって言ってたからね。それを取ったらさっさと行っとくれ」
女は土間に山積みになった掠奪品の壼をあごでしゃくった。包んであった油紙が半分ひきはがされているが、たしかに見覚えがある。
アマリアは壷を手にとると女を睨みつけた。
「おまえに恵んでもらう理由などない。これはわたしのものよ」
しかし料理女は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、老婆とともに彼女を台所から押し出した。
「もう勝手に入らないどくれよ」
背中にたたきつけるように言われて、アマリアは怒りに息を呑んだ。ドゥアラスの館でだれが彼女にこんな口をきいただろう。
「まったく、なさけない」
老婆はアマリアをおさえるように腕をまわしながら、失望と愚痴のまじったような言いかたをした。
「あのものは、もとからの村の者なんでございますよ。ひとでなしの食べ物をつくって暮らすようになるまえは、村長のところで下働きをしておったのに、こんな性悪だったとは、思ってもみませなんだ」
いかにも生粋の盗賊の女のようなふるまいをしたあの女が、この村出身のものだと知らされて、アマリアはわけもなくふるえた。かかえた壼をだきしめて、くしゃくしゃの油紙が頬をかすめるのを感じながら、こけももの砂糖漬けの匂いをかいだ。
「私どもがこうして日々の屈辱を耐えておるというのに、あのものはまるで自分も盗賊の仲間になりたいかのようにふるまい、とうとう本当になってしまいましたのよ。本来ならばジェーナさまをお助けする立場の者が、いい気になって嫌がらせばかり」
薄暗い中に立ちどまると、老婆は扉を開いた。しずかに、あたりをはばかってというよりは、中にいるものへの配慮のように。そっとおし押しひらかれた扉は、ゆっくりと蝶番の音をひきずって遠のいてゆく。
「ジェーナさま、サイラにございます」
老婆の声は暗がりにさらに低められ、這うようにして中央にいる女のもとに届いた。
長椅子の上にけだるそうにもたれているその姿が、ほんのわずか、反応したように見えた。錯覚だったのかもしれない。
部屋には、嗅ぎなれない香の匂いがみちていた。吸うと眉間がしびれるような感じがする。
みちびきいれられた部屋は、アマリアの目から見るとせまかったが、女がのっている長椅子のほかに寝台や長持ちなどが置いてあるにもかかわらず、なお余裕があった。
建物の他の部分のように土間ではあったが、新しい藁が敷きつめられ、その上に南方のものかと思われる絨毯が敷いてある。複雑で細かい模様は、この部屋の明るさでは識別できないほどだった。これも掠奪品のひとつなのだろう。
アマリアは香の刺激に不快を覚えながら、部屋の主を見さだめようとした。
ここが暗いのは、押しあげ窓がほんのわずかしか開けられていないせいだった。部屋を多少なりとも照らしているのは、あちこちに立てられた腰の高さほどもある燭台で燃やされている蝋燭だけだ。おそらく、この蝋燭に香料がふくまれているのだろう。部屋のすべてに香の匂いが染みついている。住人はすでに匂いを意識することもないのかもしれない。
長椅子はひとつの燭台の照らしだす領域のはずれにあって、女のからだの半ばは闇に沈んでいた。
すぐに目につくのは、地に這うほどに長い髪の毛だ。
ちいさな顔をかこみ、肩にかかり、細いからだを紗のように覆って、長椅子の上から絨毯までとどいている。波うつ髪からのぞく顔は若くはなかった。かといって、しわが刻まれているわけでもない。あるはずの生気が感じられないために、本来の年齢よりもはるかに老けて見えるのだという気がした。
女は気配を感じて入ってくるもののほうへ顔をむけた。かすかな光がつやのない顔にあたり、女は鋭い悲鳴をあげた。
「閉めなされ」
長椅子の上にうずくまってひいひいとからだをふるわせている女をなだめながら、老婆は驚いているアマリアに命じた。
扉は閉められたが、女はなかなか落ち着かなかった。アマリアは香の刺激に閉口しながらわけのわからぬことばをつぶやきつづける女を見つめていた。
高くなったり低くなったりする声でジェーナがうったえているのは、彼女の平安をひき裂き、踏みにじったものへの恐怖らしかった。
老婆は彼女の肩をやさしくたたきながら、
「だいじょうぶでございますよ。もう、ジェーナさまを虐めるものはどこにもいやしませんからね」
と言いつづける。
アマリアはくちもとの傷を意識した。
男の力は容赦なく女をくみふせる。
ジェーナのみじかい鳴咽のような声が、アマリアの胸に針のように突きささった。女の中に、残滓のような輝きが見える。それはかつてレセニウスにまみえたおりに、かの御神よりあたえられし祝福とみずから望んで受けた封印。すでに暴力によって穢され、破られた一角獣の乙女のあかしだ。
なぜそんなものが見えるのか、疑問はうかばなかった。それよりも、ジェーナの恐怖が彼女の恐怖とまじってひどくなまなましい。
クレヴィンに腕をとられて、恐いと思ったことはなかった。こんなに圧倒的な力の差があるとは思っていなかったから。
けれどラドクは従兄のように力を隠したりはせず、殴ること、ほうり投げることでその差を思い知らせた。
アマリアにはジェーナの恐怖を見ることができた。
レセニウスの巫女であり、かの神の角にかけて純潔を誓った彼女が、盗賊の太い腕に抵抗虚しく抱きすくめられるところを。
彼女は隠れていた神殿からひきずりだされ、やさしい闇の中から容赦なくすべてをあばく太陽のもとへひったてられる。盗賊は泣き叫ぶ彼女に容赦なく襲いかかる。彼女に突き立てられるのは、男の剣だけではない。欲望と興奮にみちて血走ったいくつもの視線が、白い裸体に矢のようにふりそそぐ。
ようやくしずかになったジェーナの頭をなでながら、老婆が言う。
「不幸中の幸いとも言えないが、ジェーナさまは盗賊のかしらに気に入られたおかげで、他の者から乱暴されることはなかったのでございますよ。だからといって、けしてそれでよかったというわけではない。あやつらの野蛮で乱暴なことときたら、かしらだとてすこしもやわらぐわけではありはせぬ。ええ、ジェーナさまは一角獣の御神の巫女。かの神の祝福を受け、花を捧げる者。みずからの想う者にのみ、その身をあたえることを許される貴いおかたでありましたのに」
からだから力がぬけて、アマリアは扉に背をあずけ、ずるずると地べたにくずれた。
視界がもとにもどり、蝋燭の炎が照らしだすぼんやりとした光景が戻ってきていた。かすかに残った残像もじんわりと消えてゆく。
「代々の巫女は恋をするとつぎのものに地位を譲り、結婚して子を生んだもの。けれど、ジェーナさまのからだは望みもせぬ獣に奪われ、その地位を譲るべき者は殺された。おかわいそうに、ジェーナさまはあとひと月で巫女をおりられるところであったのに」
「サイラ?」
ジェーナのはっきりとした呼びかけが、アマリアのしびれた感覚にひびいた。
老婆が手をとめて女の顔をうかがおうとする。
「私は、どうしてあのかたに会ってはならないの」
子どものように無邪気な問いに、アマリアは胸をつかれた。この女は正気を失っている。
「ジェーナさま。ジェーナさまには、リルさまがおいでではありませぬか」
「リル」
それはだれ、と彼女は尋ねた。
老婆は悲痛な面持ちで女の手をさすった。
「リルさまは、ジェーナさまのお子でありましょうに。お忘れですか」
「こども…」
女はつぶやいて、うつろなまなざしをさまよわせた。記憶をたぐりよせようとでもしているのだろうか。瞳にはそんな意志の力は感じられない。
アマリアは暴力に破壊された人格をみつめ、ふるえていた。
ジェーナは打ち砕かれていた。つくろうことができないほどに。