朝から怪しかった雲行きが悪化の一途をたどっているのは、空を見ずとも周囲の暗さで知れた。
灰色だった空が黒い天幕におおわれたようになり、昼間というのに黄昏の不吉が大気にただよっていた。
ノルデン峠からの山道は街道からそれた悪路で、馬での道ゆきははかどらない。騎士たちの乗馬は凶々しい匂いを嗅ぎとってか、神経質で落ち着かない。
しかし、乗り手たちのほうに臆した空気はなかった。かれらは憤りにまかせて前進している。そのことの危険を案じるものは、いなかった。
湿ったつめたい風を頬にうけながら、クレヴィンは自分の中の暴走しようとする怒りをなだめようとしていた。いましもゲムルに鞭をあて、ひとり飛び出してゆきたい衝動にかられている。
横で馬を走らせているアルベスの気づかわしげなようすがときおり眼に入り、かれは顔をしかめた。
抑えているつもりなのに、従者の眼には、不安定で危なげな存在に映っているようだった。クレヴィンには、むしろアルベスの距離を置いた視線が理解できない。
コーヴェルが全員を停止させたのは、せまい道がますますせまくなり、のぼりの傾斜もきつくなってきたところだった。
「これ以上近づくと、気づかれます」
馬をおりると、背の高い木々があたりを覆い、まるで視界がきかない。
まず、置いてきたトレナルを連れてくると言って、壮年の騎士は徒歩で森の中に踏み入ろうとした。
「待て」
クレヴィンが制止するよりはやく、コーヴェルも反応していた。
木々の間の暗がりの中で、なにかうごくものを見たのだ。
ふたりの緊張はすばやく他の者につたわり、騎士たちはいっせいに剣に手をかけた。
「待ってくれ、味方だ」
警戒に気づいて影がうったえた。
樹間からまろび出てきたのは、ひょろひょろとした、泥まみれの若者だった。せっかちな者が構えた武器に驚いて、おびえた顔で足をとめた。
「私はグランスールのタラン。女王ダルウラ陛下に剣を捧げし者トレナルの従者です」
身のあかしをたてようと必死の若者に、最初に気づいたのはコーヴェルだった。
かれはクレヴィンにうなずき、クレヴィンは警戒をとくように命令した。
「タラン、トレナルどのはどうした」
疲れはてた姿の従者はひざを折り、上目づかいに女王の甥を見、ついでおずおずと騎士コーヴェルの厳しい顔を見た。
若者は言わずにすませることができるなら、という顔をしていたが、それでは埒があかない。
クレヴィンはもじもじとためらうタランを一喝した。
「騎士トレナルはどうした、と訊いてる」
タランは首をすくめて謝った。
「申し訳ございません。捕まりましてございます」
クレヴィンは眼をみはり、ついで不機嫌に眉根をよせた。コーヴェルがいらだたしげに問うた。
「賊どもにか」
「はい」
タランがうながされて事の次第を語る間にも、あちこちから呪いのことばが聞こえてきた。コーヴェルは怒りと失望とで顔を赤くし、語るタランはますます小さくなった。
「それで、トレナルはどうなったのか」
話の途中でクレヴィンが問うと、従者は顔を伏せたまま答えた。
「はい、まだ無事のようです」
「無事のよう?」
訝しげにひくめられた声に、タランはさらに頭をさげた。
「はい…その、じつは、われらに協力したいと申し出ているものがおりまして…」
泣きださんばかりになっていた従者は、ようやくよい報せがつたえられると顔をあげ、ほとんどかわらぬ歳の指揮官を見た。
クレヴィンはタランから眼をはずし、常緑樹の間からやってくる人影を見た。
長槍を持った男はつぎつぎに鞘ばしる剣にも表情ひとつ変えず、まっすぐにクレヴィンを見つめ、クレヴィンをめざしてやってきた。
その格好がいかにもむさくるしく、不潔でいかがわしげでなかったら、堂々と落ち着いて隙のない物腰に感銘を受けたものもいただろう。ゆったりとした足取りは怖じることなく、大柄な体躯は威厳にみちてさえ見えた。
真っ向から凝視されたクレヴィンは、やはり逃げることなく凝視めかえした。男はタランの横までやってくると、ぶしつけに尋ねた。
「あんたがイニス・グレーネの指揮官か」
それまで迫力におされて沈黙していた騎士たちが、無礼な男を懲らしめようと柄を握りなおす気配がする。クレヴィンは眼でコーヴェルに制止の合図をすると、あらためて男にむかい、うなずいた。
「そうだ。おれはイニス・グレーネのクレヴィン・イスラ・ドゥアラス。いまは女王陛下からこの騎士たちをあずかっている」
黒曜石の瞳はきらめいて、男の眼を見返した。
強い挑戦を、濃い髭と蓬髪にふちどられた青い眼はそのままに受けた。
なにものにも動じないように思えたまなざしが、刹那、燃えるように輝いたのを、クレヴィンは驚きとともにみとめた。
男はすばやく穂先を下げ、槍をクレヴィンに差し出した。
「おれはローマラスのカーズ。かつてはティアルカースのコルマンに仕えし者。ゆえあって盗賊に身を落とし、ひとつ角の御神に顔むけのできぬ悪業を重ねてきた者だ」
正規の騎士の礼に、まわりのものたちはふいをつかれた。男のみごなしに、たしかに、かつては騎士だったのだろうと、納得できるだけの余裕と威厳をかぎとって、息をのんだ。
「イニス・グレーネのクレヴィン・イスラ・ドゥアラスに助力したい。あんたがたの姫君と仲間のひとりを救う手伝いだ。おれはやつらのやりくちを知っている」
「…かつては騎士だったとおまえは言う。だが、いまはあきらかに賊の仲間だ。そのおまえがわれわれに助力するゆえんはなんだ」
クレヴィンはカーズと名乗った男に詰問した。
カーズはきっ、と顔をあげると、若者の顔をそれが恨みの対象であるかのようにねめつけた。クレヴィンはおもわず息をとめた。
「ここがおれの故郷だからだ。ここが、かつてはローマラスと呼ばれるレセニウスの祝福を受けた土地だったからだ。やつらは神殿を穢し、巫女を穢し、ローマラスを破壊した」
怒りと憎悪と悲しみがようやく捌け口をえようとしている。その喜びが男の瞳を輝かせているのだ。クレヴィンは答のわかっていることを尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
「それで、われらになにを望む」
カーズは期待どおり、激しい想いを秘めた静けさでこたえた。
「やつらに苦しみを」
喉から血を吐くような、苛烈な意志が声に宿っていた。