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 リルは狂乱の場から逃げだしていた。
 よそ者は、はじめはラドクの手柄だという以外にはなんの意味もないはずだった。
 そのよそ者のために、リルはいままで味わったことのない恐ろしさを感じていた。四肢がふるえて、まっすぐ歩くのもやっとだ。まるで足が他人のものになってしまったかのようだった。
 頭上の轟音が大気をぶるぶるとふるわせ、リルは耳を押さえた。
 空が怒っているのだ。
 リルにはわかっていた。よくないことが起こるのだ。
 うなじがちりちりと痛む。それは予兆だった。ラドクと父親に、よくないことが起こる。
 飛び散った血の記憶が脳裏になまなましく甦って、リルはちいさく悲鳴をあげた。
 泣きながら父親を呼んだが、その行為が父親の冷酷な命令によってはじめられたことが思い出されて、口をつぐんだ。よそ者を殴りつづけるラドクの姿は、乳母の言う魔物のように恐ろしかった。もしかすると、かれらはリルの知らないあいだに闇に巣くう魔にとり憑かれてしまったのかもしれない。
 リルは声を殺して泣いた。聞かれたら、見つかって殺されるのではないかと思ったのだ。
 かれらの瞳には、鋭い牙をもった狂暴な獣がやどっていた。それはリルには狂気に見えた。母親の狂った瞳が見せる、ゆがんだ光だ。
 リルは幼い心でさとった。
 父親と叔父は、ついに神罰の対象となるのだ。
 それはもう、逃れようもない間近までせまってきている。
 とどろく雷鳴に身をふるわせて、リルは館にとびこんだ。
「ディード」
 戸口でぶつかったのは、茶色の猫だった。
 小型の肉食獣は名を呼ばれて、ちらとリルのほうを見たが、すぐに外に走り出ていってしまった。
 猫のしなやかなうごきを釈然としないままに見送ったリルは、地面を重いものが転がるような音を聞いて中に入った。
 夜のような暗さの室内には、からむような匂いが漂っていた。
 厨房にゆこうとしたリルは、途中で足をすべらせて転んだ。ついた手にぬるりとした感触があり、鼻に近づけると匂った。油の匂いだった。
 気がつくと油に浸かっているのではないかと思いたくなるほどに、そこかしこから匂いがたちのぼっていた。
 ごろごろとものを転がす振動が、すぐ近くから聞こえてきた。
 手も膝も油にまみれながら、リルは立ちあがって音のほうにむかった。
 父親の部屋で、だれかが大樽を押しながら、のろのろと前進していた。そのかたわらで、老婆がしわがれた声にできうるかぎりのやさしげな声でなにやらささやいている。
 異様な光景は、老婆のかかげもった小さな蝋燭で闇の中にうかびあがっていた。
 リルは戸口にへばりついたまま、目を凝らしてようすをうかがった。
 老婆はもう一本の手に杓をもっていた。ゆらゆらとゆれる蝋燭のあかりに、年老いた顔にのぼる笑みがちらちらと見える。
「さあ、もそっとこちらにお願いしますよ。この壁掛にもかけましょう。ほうら、よく染みること」
 ふくんだ笑いがきれぎれに聞こえ、壁にかけられた織物に油がふりかけられる。はねた液体が光って老婆の前におちてゆく。南方でつくられたたいそう高価な品だと父親に教えられた、美しい織物に何度も何度も油をかける。織物の色は沈んだように変化していた。
 老婆のすがたにリルはじっと見入っていた。膝がふるえ、心臓が早鐘をうっている。
「さ、こっちですよ。こんどはこっち」
 老婆はひどく楽しそうだった。
 樽がゆっくりと後を追うのを待って、杓に油をすくいあげる。ぎこちなく腕をふって、衝立に油をかける。
 それだけのことが彼女にとってはなによりも嬉しいらしかった。
 リルは老婆が笑い声をたてるたびに背筋がちぢんだ。いまの老婆には気味が悪い以上のものがあった。男たちのような見ているだけで侵されてゆくような恐ろしさが、油をまく老婆の中にも見える。
「ねえ、はやくしましょうよ。あのかたはまだなの」
 老婆のものではない女の細い声がして、リルは打たれたように息をとめた。
 樽を押している人物が、腰を曲げたまま伸びあがるように老婆に顔をよせるのが、壁にうつった影でわかった。長い髪が帳のように流れおち、樽につくのを老婆があわててかきあげてやる。
 女はそんなことには頓着していない。彼女の関心はべつのところにあった。
「ジェーナさま、あぶのうございますよ。髪をうしろにやってくだされ。さ、これをすませてしまいましょう」
「そうしたら、あのかたにお会いできるの」
 無邪気に尋ねる女に、老婆はしわだらけの顔をゆがめて笑いかける。
「そうですとも。ジェーナさまも、わたしめも、ようやくたすかるんでございますよ」
 ですから、とうながされて、ジェーナは幸せそうにうなずく。
 リルは戸口から離れて、みつからぬように裏口から外に出た。
 雷鳴がとどろいて、世界がふるえていた。
 リルは涙を流しながら倒れこむように走った。
 いままで、意識も感情もなく、生きていることになんの意味もないのだと思っていた母親が、笑っていた。死んでいるのと変わらないと思っていた母親が、笑っていた。
 いつもひきつれたようにねじくれて、うっすらとひらかれたままだったくちびるがほころんでいるのを見ても、うれしくも、悲しくもない。
 ただ、恐ろしかった。胸が切り裂かれるような気もちがした。
 混乱したままリルは厩に駆けこんだ。
 昨日の戦利品のおかげで、厩はいままでになく混雑していた。ここもやはり暗かったが、館ほどではない。屋根の明かりとりがあいていて、中の様子は見てとれた。
 リルは断続的に鳴る空の音におびえながら、馬の匂いのする中を乾草置場にむかってつっきった。
 こんもりと積んである藁の上に、リルは手足をちぢめてうずくまった。
 馬たちは大気の緊張を感じとってか、神経質になっていた。鼻を鳴らし、足踏みをする音がし、ときおりうなり声もする。
 リルは目をしっかりとつぶり、耳を手でふさいだ。かちかち鳴る歯をくいしばって、涙をこらえる。ふくれあがった不安に、おしつぶされそうだ。
 母親の中にある暗黒は、いまでは父親やラドクまで侵している。老婆だけでは飽きたりないというのだろうか。
 理解のできないゆがんだ情熱につきうごかされるかれらの瞳には、いちように昏い炎が燃えていた。
 あの恐ろしい火はそのうち、自分にも燃えうつるのだろうか。リルは得体の知れないものから逃げようとして必死にからだをちぢこめた。
 そのとき厩の中に侵入者が来た。
 気がつくと、天窓からのわずかな光の中に大きな人影が見えた。闇の淵からあがってきたかのようだった。男のいるところだけが、周囲からうきあがってみえる。
 リルは恐れていた男の後姿に息をころした。カーズは彼女に気づいてはいない。それでも男が恐いことにかわりはない。
 リルは髭だらけのごつごつした顔を見たいとは思わなかった。父親やラドクの眼に見た、あの狂気の炎をふたたび見つけるのが恐かった。
 いまにして思えば、あの背筋の凍るような感じはつねにカーズにつきまとっていたものだった。瞳の翳り、その中で燃えているつめたい炎が、リルには恐かったのだ。それに、カーズはあきらかに彼女を嫌っている。その感情はリルには冷たい帳となって感じられていた。
 カーズは厩の中を歩きまわっていた。なにをしているのかはわからない。好奇心はうずいたが見つかる危険をおかす勇気はなかった。
 外からひときわ大きな歓声が聞こえた。カーズは神経質にあたりを見まわしている。
 みながよそ者の処刑に興じているときに、ひとりでしていることだ。見られては困るのだろう。
 母親と老婆が館中に油をふりまいていたことと、関係があるのかもしれない。
 また、雷鳴がした。
 馬は落ち着きを失いかけていた。かき乱された大気とカーズが行なっていることへの不審が、いななきと仕切り棒への攻撃になっている。硬い蹄で蹴りつけられて、厩は悲鳴をあげはじめた。
 リルは藁の中で身を起こした。カーズがいるはずの暗闇に目をむけると、カッとなにかが光るのが見えた。
 なにが起こったのかを、リルが理解することはなかった。
 カーズはすぐにその場から退き、手近の馬にまたがった。光ったものは空気をこするような音をたてて、一瞬のうちに天窓から空へ飛んでいってしまった。わけがわからずに上を見あげたそのとき、とてつもなく大きな音が耳を聾せんばかりに響きわたった。



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