prev 一角獣の虜[Chapter 7-4] next

 追いかけてくる騎士の罵声を背中に、盗賊の若く強靱な足は森の道なき道をかきわけていった。
「戻って! 戻りなさいったら、ばかっ」
 アマリアの命令はすでに悲鳴に近かった。草や木の枝にむきだしの肌を傷つけられ、救いにきた騎士たちからどんどん離れてゆく現実に、アマリアは怯えた。
 追う声が遠ざかり、雨音とラドクの荒い呼吸、踏みしだかれる草の音ばかりが、眼を覆った彼女の耳に大きい。
 ラドクがこのまま逃げおおせるとしたら、アマリアは永遠にイニス・グレーネには戻れない。アマリアは必死にもがいた。
「離して。離してよ」
 すぐそばに、味方がいたというのに。もうすこしで助かるところだったのに。
 アマリアは胴にまわされた腕をはずそうとした。つねり、ひっかき、歯をたてたが、がっしりと食い込んだまま、離れない。ラドクはどなった。
「おとなしくしろ!」
 髪の毛を鷲掴みにされ、背中を反らせ顎をうわむけたアマリアは、滝のような雨のしぶきの中に熱い息を感じた。
 空が光り、ラドクの顔が逆さまになってうかびあがった。
 ぬれそぼった髪が険しい顔にはりつき、灰色の眼が稲妻を反射して光る。
 闇が戻ってたがいの姿が見えなくなっても、印象は消えなかった。手負いの獣のような追いつめられた眼には、このうえなく残忍で狂暴な意志が見えた。
 ラドクはまた、刺し殺そうとするかのようなまなざしでアマリアを見ていた。黒々とした憎しみと欲望が渦をまいて彼女に襲いかかろうとしていた。
「姫君がなんだ」
 闇に沈んだ雨の帳の中で、憎々しげなささやきが降ってきた。
「てめえのどこが、おれたちよりえらいんだ」
 髪の毛をひっぱられたまま、アマリアは男の息から逃れようとした。顔をそむけ、身体をこわばらせる娘の耳に、男は厚ぼったいくちびるを近づけた。
「ふるえてやがる」
 男はおかしそうに笑った。喉だけでくつくつと。
「はなして」
 濡れた手に喉首をつかまれて、アマリアはあえいだ。ラドクは彼女を捕らえたまま、大地に押したおした。
 アマリアの悲鳴をかき消すように、雷鳴が鳴った。
 横倒しになった瞬間、アマリアは膝で思いきり相手を蹴った。
 衝撃が走り、うめくような悲鳴があがった。身体のどこかにあたったのだ。
 アマリアは身体をひねって立ちあがると、無我夢中で駆けだした。
 濡れた服の裾が重くまとわりついて、もどかしい。腹立たしさと恐怖で、意味のない声が口からもれてくる。
 暗闇を濡れた木々にしがみつくようにしてまろびぬけながら、味方の居場所をどうやって深しだせばよいのかわからず、追いかけてくる盗賊の気配が迫るにつれてアマリアは悲鳴をあげていた。
「だれか」
 声はくぐもって、雨の闇に吸いこまれた。
「たすけて」
 水溜まりが足をすくった。
 アマリアは、走ってきたいきおいのままにすべってころんだ。ラドクが肩で息をしながら背後に立ったのは、立ちあがろうとようやく手をぬかるみについたときだった。
 熱い痛みが側頭部にはじけた。
 驚きに、アマリアは声もなくころがった。
 朦朧となったアマリアの上に、ラドクが大きな体で覆いかぶさった。背中に固く冷たい地面の感触が、じわりとひろがった。
 雨は降りつづいていた。
 濡れた服と冷えた大気が、体温を奪ってゆく。からだじゅうがこわばって、四肢はつめたい。
 なのに、つかまれた腕と額が、焼けるように痛い。
 ラドクのせわしない呼吸が、額に頬にふりかかった。
 しめった獣のような匂いが、のしかかってくる男の躯からにおってくる。
「…いや」
 なまあたたかい湿ったものが首筋を這うおぞましさに、からだじゅうが嫌悪にふるえた。眼に熱いものがあふれ、ぬれた頬にまじっていった。
 いまや泥だらけになった服の上を、粗野な手がまさぐってゆく。アマリアはあらがったが、顔を嫌というほど殴られた。服地が理不尽な力によってひきちぎられてゆく音が、むきだしになった肌にあたる雨のつめたさが、アマリアの麻痺しかけている意識に突き刺さる。
 風が吹きわたり、葉ずれの音がざわめいた。雨音が、地面にはじけてちる水音が耳朶をうった。
 憎しみが、荒れ狂う嵐に呼応するように首をもたげた。
 鳥肌のたった乳房をもみしだく手を、握りつぶそうとするかのごとくに腕をつかんだままの手を、ねばつく唾をぬりたくる生ぬるい舌を、アマリアの肌は憎んだ。
 男の中で荒々しく燃えさかる炎に傷つけられることを厭って、アマリアの魂は怒った。
「ころしてやる」
 息もれのようにかすかなつぶやきは、口の中で消えた。
 男の手は下腹部に移っていた。脚の間にゆびをさしこまれて、アマリアは身をすくませた。
 屈辱が冷えた身体をかけあがり、火のように彼女を焼き焦がした。
「殺してやる」
 高まった怒りがはけ口を求めてあふれでようとする。
 アマリアはつかまれていないほうの腕をふりあげ、行為に没頭している男の頭に叩きつけた。男がうるさげに顔をあげると、もう一度。
 手には短剣を握っていた。
 光を帯びた鋭い剣先が、ラドクの額を割り、眉間を突き、眼球をつぶしていった。
 ラドクも起こったことが理解できずに、驚きの声をあげるだけだった。
 血しぶきがあがり、肉がひきさかれ、男の顔は見る間に破壊されていった。
 苦痛にはねおきて逃げようとするラドクを、アマリアは追った。追いかけてさらに傷つけた。短剣はかすめただけでも皮膚をえぐり、肉を焼いた。
 悲鳴があがった。
 あがりつづけた。
 半狂乱になって突きつづけるうちに、男はよこたわったまま、うごかなくなった。
 ぐずぐずになった顔面に黒々とした眼窩が穿たれ、流れだす血液に雨水がまじりあい、泥水のたまりは黒に染まっていた。屠殺された家畜のようにたくさんの血が男の躯から流れ出て、湯気をたてていた。
 からだ全部で息をしながら、アマリアはただの肉塊となった盗賊を見おろした。
 手の中で発光している短剣が、彼女自身の息をも白くうきあがらせた。アマリアは初めて気づいたもののように血にぬれた刃物を見た。
 細身の優美な短剣だ。
 柄は白いなめらかな素材に繊細で優美な彫り物がほどこされ、手にしっくりとなじんでいた。
 刃の部分は見たこともないくらいに鋭く、血を浴びているにもかかわらず無垢な冷たさを感じさせる。
 アマリアは短剣がまとっている輝きに、我を忘れた。
 自分が触れている得物は、人の手によるものではない。
 このように完壁な美しさと非情なまでの冷たさを、人の手がつくりだせようはずがなかった。
 畏れのあまりからだじゅうが痺れた。
 レセニウス。
 白き一角獣の姿をした美しい姿が、樹間にたたずんでいた。
 かの神からは、雨も風も避けて通った。森の木々は尊き神の出現にうやうやしげに身をただし、遠巻きに機嫌をうかがっているようだ。
 青白い炎につつまれたこの世のものではない存在は、アマリアの姿をじっとみつめていた。
 幾億もの叡知を秘めた眼がなにを思っているのかは、定命の存在にははかりしれぬこと。しかし超越者が誇らしげに微笑むのを見たような気が、アマリアにはした。
――そなたに祝福をあたえよう
 一角獣は呆然としているアマリアをまねきよせた。
 アマリアはためらい、すすみかけて、またためらった。なぜか、以前にもおなじことをしたことがあるような気がした。
 そう、神殿で。
 うち壊されて廃墟となり果てていた、あの場所で。
 さまざまに彩りをかえる深いまなざしは、アマリアのとまどいの原因をすべて見透しているようだった。それを見て、ふと、なにかを思い出しかけた。
 神は言った。
――そなたは、実にひさしぶりにローマラスから捧げられし巫女だ。そなたは人の子としても希有な存在。そなたに祝福をあたえることは、われらにとっても喜びとなろう
 アマリアは聞いたことのないローマラスという名に、さしのべる手をとどめた。
 神は頭をめぐらし、優雅にたてがみをふりたてた。えもいわれぬ芳香がふわりと漂った。すべらかな白い毛並みに触れると、レセニウスは首を彼女の身体に巻きつけるようにした。
――誓うのだ
 おだやかな、けれど有無を言わさぬ命令だった。
――つまらぬものに、身を穢されぬこと。真実愛したものにのみ、その身をあたえることを。われの哀しみは、乙女たちの美しさが長つづきはせぬことだ。むやみに花を散らすでないぞ、よいか
 アマリアはレセニウスの瞳に吸いこまれそうになりながら、それでも警いをたてる前に問わずにいられなかった。
「誓いを破ったら、どうなるのです」
 かつての巫女の姿が脳裏にうかんだ。
 彼女が誓いを破ったのは、みずから望んでのことではなかった。暴力によって一方的に辱められたのだ。
――そのために、剣をあたえたのではないか。そなたはよく、身を守った
 アマリアは手の中の短剣を見かえした。
 それではこの武器を授けてくれたのは、レセニウスだったのか。姿も威力も並大抵のものではないはずだ。
――これからも、望めば助けは得られよう
 ならば、ジェーナはなぜ。
 しかし、神に対してそれ以上の疑問を持ちつづけることはできなかった。
 ジェーナがレセニウスに救いを求めなかったのだ。それがなにゆえかはわからない。アマリアはひとつ角の獣の姿をした神の首に、陶然として頬をよせ、ささやいた。
「誓います。イニスにかけて。わたしの祖であるディアルスの御名にかけて」
――すでに巫女であるそなたに、われの祝福をあたえる。そなたは封印された。そなたが望むときまで、この封印は解かれることはない
 レセニウスのことばがアマリアの身体のすみずみを聖なる光でみたした。
 歓喜の横溢に、アマリアの意識はかすんだ。
 世界が、神の御徴を得たものとして、彼女を聖別した。
 森が歌う喜びの歌が高らかに神と自分をつつみこむのを、アマリアはうすれゆく意識の中で感じていた。



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