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 嵐はすぎさり、雨はやんでいた。
 つめたい風だけがのこって、したたか濡れた男たちの身体をなぶっていく。
 イニス・グレーネの精鋭たちは、うっすらと明るくなった広場で栗毛の馬が森からひかれ出てくるのをみぶるいしながら見まもっていた。
 馬はぬかるみにはまり、濡れた草になでられて汚れていた。みだれたたてがみがわずらわしいのか、あるいは、人間の注目をあびていることに気づいているのか、落ち着きがない。
 その背にのっているものは、馬よりもさらに汚かった。
 泥だらけの濡れそぼったそれがかれらの探し求めていた姫君だと、だれがどのようにして気づいたのか。アマリアは気を失っており、荷物のようにうつぶせに身を預けていたのだから、これは不思議なことと言えた。
 栗毛の馬がかれらの指揮官の前に連れてこられると、姫君は丁重におろされ、ようやく蒼冷めた小さな顔があらわになった。
 褐色の髪はもつれ放題で草がからみついている。服はかつて新しかったところが想像もできないほどに汚れ、さらに言えば、引き裂かれていた。
 白い肌があらわになっていることに気づいた者が、とっさにみずからのマントをアマリアにかけた。
「この馬にこうしておられるところを見つけたんです」
 コーヴェルに状況を訊ねられた騎士は、困惑顔だった。
「はい。発見したときには、馬上で、気を失っておられました」
「クレヴィンさま、とりあえず中にお連れしたほうがよろしいのではありませんか」
 従者に耳打ちされて、クレヴィンはようやくアマリアを陣幕へ移すように命じた。
 アマリアは騎士の汚れたマントにくるまれたまま、こわれもののように陣幕のなかへと運びこまれていった。
 クレヴィンは最初の衝撃から解放されてため息をついた。そこにコーヴェルがやってきて、なにげなく話しかけてきた。
「今宵は冷え込みそうです」
 クレヴィンはアマリアを運んできた馬の首に手をかけようとして、自分のゆびさきがふるえるのをみた。
「みな疲れていますが、はやく出立した方がよろしいでしょう」
「なぜだ」
 馬は触れられることを嫌がらなかった。クレヴィンは汚れた顔をなぜてやりながら、額の星に気づいて、息を呑んだ。
「ここで夜を迎えるのは、得策とは申せませんな」
 コーヴェルは辛抱強くかれが頭をはたらかせるのを待っていた。
 ローマラスは――かつてローマラスと呼ばれた村落は、跡形もなく燃えつきていた。その上から豪雨が襲い、消し炭にかわった建物は湿りきって、薪にも使えないだろう。食料もない。
 放心状態の侍女たちは、はやくあたためて介抱してやる必要があった。働きずくめの騎士たちにも、休息が必要だ。それになにより、アマリアのことがある。
「ロノスまでは無理としても、途中の村落までならば行けましょう。先触れを出したいと思うのですが」
「わかった。まかせるから、用意ができたら呼んでくれ」
 クレヴィンは馬を側にいた従者にまかせると、コーヴェルの目礼に背をむけて陣幕に戻った。
 中では比較的正気をたもっていると思われる侍女のひとりが、ランプの光のもとで、まだ意識のないアマリアの介抱をしていた。
 自分のみなりもひどいままだというのに、かたわらにひざまずいて、顔についた泥をぬぐってやっている。
 侍女はクレヴィンに気づいて顔をあげた。見たことのない顔で、おそらく輿入れの際にかきあつめられた娘たちのひとりと思われた。こめかみに青ぐろいあざがあり、顔色も悪いが、まなざしはしっかりしている。
 侍女は訊ねられるのを待たずに報告をはじめた。
「ところどころに青あざができていますけど、傷になって残りそうなものはありません。ただ、身体がだいぶ冷えています。できるだけのことはしましたが、ここでは充分な手当てができません。はやくあたためてさしあげる必要がありますわ」
 神経質な口調の報告に、クレヴィンはぼんやりとうなずいた。
 この娘は、どうしてこんなに冷静なのだろう。きまじめそうな口元は、かれがなんらかの反応を返すことがいまもっとも望んでいることなのだと言いたげだった。
 見れば、さきほどかけられたマントの他に、どこからもってきたのか古ぼけた毛布らしきものがアマリアの身体を包んでいた。
「すぐにここを発てるように準備をしているところだ」
 侍女は頭を下げ、アマリアの足をさすりはじめた。それを見て、クレヴィンは反対側に膝をついた。
 裸足で歩きでもしたのだろうか。足の裏からすねのあたりまで、泥がはねてこびりついているうえにひっかき傷だらけだ。
 顔には大きなあざができていた。二ヶ所もだ。そうとうな衝撃をうけなければ、これほどくっきりとしたあとは残らないだろう。
 くちびるの端が切れて、ひきつれているのにたまらなくなったクレヴィンは、力なくなげだされている腕をとってその冷たさに驚いた。
 いったい彼女はどんな体験をしたのだろう。
 娘はアマリアの手をさすりはじめた若者に目をまるくしたが、なにも言わなかった。
 クレヴィンはアマリアの細い腕にあたたかみをとり戻そうと必死になった。これでは、まるで死体とおなじではないか。
 怒りがさらに高まったのは、引き裂かれ泥まみれになったドレスに染みついた毒々しい血痕を眼にしたときだった。
 よく見れば、ドレスは浴びたと言ってもいいほどに血にまみれていた。もとは、あざやかな色の美しいドレスだったのに褐色めいて見えるのは、そまるほどに血を吸ったせいだったのだ。
 隠れていたものがあらわになったとき、いままで恐れてはいても意識しないようにしてきた疑念が急にかれの脳裏にうかびあがった。
 そういえば、アマリアを連れて逃げのびようとした盗賊は、まだ捕らえられていない。
「だいじょうぶです」
 侍女の声におどろいたクレヴィンは、思わずアマリアの腕をとりおとしそうになった。侍女はかれの顔は見ずに、声をひそめてくりかえした。
「だいじょうぶ。姫さまは穢されてはおりません」
 なぜそのように確信をもって言えるのか。
 いらだちと怒りのまじった視線で侍女を見たが、相手は一心不乱に手をうごかすだけで、それきりひとことも発しようとはしない。
 クレヴィンはアマリアをゆすり起こし、なにがあったのかを訊ねたかった。
 捕らえられてから、盗賊になにをされたのかを、あざの理由を、服が裂けたわけを、からだごとゆさぶって、問いただしたかった。
 それを聞いてなにをしたいのかは、自分でもわからない。
 盗賊はほとんど滅ぼした。
 最後のひとりをのぞいて。
 では、そのひとりを探しだして、血祭りにあげたいのだろうか。
 アルベスがやってきて、支度がととのったと告げた。
 クレヴィンは思いをふり切るように立ちあがり、まだ意識の戻らないアマリアを見おろした。
「彼女を頼む」
 侍女ははっとして、頭を垂れた。
 クレヴィンが外に出、アマリアが幌をかけた荷車に移されると、陣幕はすみやかにたたまれた。
 騎士たちはすでに準備を終えて自分の馬に騎乗し、従者たちはそのかたわらにひかえて出発の号令を待ち受けていた。
 クレヴィンの姿を見て、男たちは一斉に姿勢を正した。かれが葦毛の馬に飛び乗るのを待ち、コーヴェルが声をあげた。
「私、イニス・グレーネの騎士コーヴェルはクレヴィン・イスラ・ドゥアラス殿に敬意を表する」
 クレヴィンはコーヴェルが抜き身を空にかかげて高らかに宣言するのを、呆然となってながめていた。一瞬、他の騎士たちの失笑を買うのではという恐怖が、身体を縛りつけた。
 だが、コーヴェルのあとにつづいて、次々に剣はさしあげられた。かれは背筋がぞくぞくするほどの歓喜をあじわった。
 騎士たちの表情は明るく誇らかだった。それは勝ち戦のためであり、直接にはかれの手柄ではないということは、よくわかっていた。
 しかし、騎士たちから存在を認められたことにかわりはない。かれらにとっては、クレヴィンが勝利をもたらした指揮官である、という事実が大切なのだ。
 かれはまたレーヴェンイェルムの殿を、超然とした支配者の顔を思いうかべて、かすかに微笑んだ。
 いまはまだ、足元にもおよばぬ存在でしかない。それは認めねばなるまい。
 だが、イニス・グレーネはいつまでもこのままではいない。自分もだ。
 クレヴィンは出発の合図をコーヴェルに出しながら、そのために支払う大きな代償を思い出し、考えまいとしてくちびるを噛んだ。



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