天空の翼 Chapter 1 [page 1] prevnext

第一章 エリディルの六の巫女


1 西へむかう旅人


 気持ちよく晴れわたった空の下、大地にまっすぐにのびる道に濃い影を落として、ひとりの騎士とその従者が旅をしていた。
 足どりは急いでいるふうではない。しかし、ゆったりとした物見遊山の旅のようでもなかった。必要以上に足を速めることもゆるめることもせず、休息場所を求める以外に寄り道をすることもない。視線はたいてい前を向いており、太陽の出ている間はふたりともほぼ馬上にあって、つねに先へと進むことを考えているようだった。ある目的のためにたてた一日ごとの計画を、着実に消化しつづけているような、そんな一定した速度の歩みだ。
 かれらは、西へとむかっていた。
 いにしえに希望を求めて歩みつづけたものたちのように、ひたすらに太陽の沈む方向をめざしていた。
 都はかれらの背後かなたに遠ざかり、前方はるかは幾重にも連なる霞のかかった山々の稜線をのぞんでいる。
 いま、立派な体格をした鹿毛と黒毛の馬たちが踏みしめているのは、通りかかる者もまばらな公街道だった。街道沿いの街はこれまでにいくつも通り抜けてきたが、このところ街と街との距離はどんどん広がって、途中、人の住む集落を見ることもまれになっていた。規模も縮む一方で、昨夜は泊まる宿の選り好みもできなくなった。報告のために立ち寄る神殿も、こぢんまりとささやかなものに変化してきている。
 ここ数日、かれらはなだらかな起伏が大きな波のようにつづく土地のただなかを、道以外のめあてもなく進みつづけていた。
 ときおり名もない小さな森の端をゆきすぎる以外に、視界を遮るものもない。
 遅い芽吹きの季節を迎えたらしく、周囲は、ひからびた褐色からあざやかな緑の牧草地へと変貌を遂げようとしていた。目を凝らしてみると、ひろがる土地にちらほらと草を食む四つ足のすがたが見うけられるが、人の姿はない。管理の手もそれほど行き届かぬ公街道に刻まれているのは、荷車の轍と、家畜の足跡だけだった。
 雪の名残に黒ずんだ土が、しばらくつづいた晴天で乾き、風に吹かれて舞いあがっていた。家畜の鳴き声のほかに聞こえるのは、はるか頭上を飛んでいく鳥の声と、耳をかすめる風の音ばかりだ。
「空気がちがうな」
 ふたりきりの一行の統率者であり、聖騎士の称号を持つ男は、馬上に揺られながら感慨深げにそういった。
 高い鼻梁を空へむけ、ゆったりと鹿毛にまたがった聖騎士はもう一度確かめるように深呼吸をする。それはまるで、温室で咲いた花を愛でつつ、たちのぼる芳香を楽しんでいるようなしぐさだった。
「長老がたの言われるとおり、たしかに、ここは神の領域に片足半歩くらいは踏みとどまっているのかもしれない」
 規則正しい上下動に眠気を誘われ、聖騎士団の宵闇色のマントが風にはためくさまをぼんやりと見ていた従者は、聖騎士の声に我にかえった。体格のよい聖騎士の声は豊かにはりがあり、だだっぴろい草原でむきだしの風に吹かれているにしては、やけに通るのである。
 若者はわずかに白い雲の浮かぶ、幾分うるみを帯びた青い空を、かかり落ちる黒髪ごしに目をほそめて仰ぐ。
 人いきれで大気もぬるむ都と比べれば、空気はずいぶんとひんやりしている。空も澄み、目にうつるすべてがくっきりとあざやかだった。人の営みのつくりだす濁りとは無縁の、透明で冷たい、清らかな大気。昼日中に頬を撫でる風ですら、春のものとは思えないほど冷ややかで鋭い。分厚いマントと目の詰んだ毛織りの下着がなければ、ずいぶん寒い思いをすることになっただろう。
 行く手に霞む遠い稜線から吹き下ろされてくる風が、神々の息吹にたとえられるのも、わかるような気がする。
 幾重にも折りかさなってつづく西方の山々は、中腹より高みに一年中雪をいただいているという高山のつらなる巨大な山脈である。山々には果てがあるのか、あるとすればどこまで行けばたどり着くのか。それを知らない人の子にとって、高きデインの峰と、霊峰をかこむ稜線の峻厳な世界は永遠につづく異界への入り口である。
 西方山脈を越えることに成功し、その先へと進み得たものはいない。人の歩みがわずかに伝説として残るようになってから数千年の歳月を経た今でもだ。
 いくつかの直前まで到達したと思われる記録はあるものの、みな志半ばで挫折し、あるいは行方知れずとなっている。たとえひとしれず望みをかなえたものがいたのだとしても、生きてふたたび帰り着き、彼方の知識をこの地にもたらすものはいなかった。
 それを評して以前のあるじは、神を見て、帰還したものはいないと語った。
 西方は人の営みの尽きるところ。人の世の果てである。そこにはいまだに神の代の神秘が息づいているのだという。
 そのなかには、はるか昔に消え失せてしまったという、いにしえ人の足跡もあった。
 たとえば、見晴るかす限りつづく緑の丘陵地を注意してみると、そこかしこに崩れた石積みをみつけることができる。
 草に埋もれ、歳月にさらされて破壊されたそれは、いにしえの王国が築いた大砦のなれの果てなのだ。昨夜泊まった宿のあるじが、あたかも自分の財産であるかのように得意げに語ったところによれば、であるが。
「グローズデリアの廃墟じゃないのかと尋ねたら、そんなものよりはるかに由緒があるんだと、怒られてしまったが」
 こわばった身体をほぐすための休憩時、なかでも比較的かたちのはっきりと残っている石積みの影で、簡単な腹ごしらえをしているところだった。
 朝から駆けどおしの後に初めて口にするのはくだんの宿でつめてもらった相当量の食糧だったが、あっというまに男二人の胃の中に消えていく。
 胃に負担をかけないようにゆっくりとよく噛んで飲みくだしたあと、水筒の水で喉をうるおして食事を終えると、若者はおもむろに旅をつづける準備を始めた。
 従者の仕事はこまごまとしたささいなものばかりだが、つぎからつぎへと尽きることがない。とくにこれまであまりしたことがなかった馬の世話については、直前に馬丁について習ったことを反芻しながらの作業なので、つねに気をぬくことができなかった。いまだに勝手が充分には飲み込めていないうえ、きちんとやらないと馬が文句をたれるのだ。
 そのかたわらで、聖騎士はのんびりと皮袋の果実酒をふくみ、酸っぱいと文句をつけている。
 グローズデリア帝国が瓦解して今に至るまでに、人の一生なら十世代分の歳月が経過していた。その帝国が成立したのはというと、さらに千年も前のことである。それはすでに神話の時代の話だといってもいいだろう。アーダナの大神殿にすら、そんな昔のことを記した文書は残っていない。ひとびとは帝国成立前の混乱の時代にすべての記録を失ったのだ。
 そのはるかな遠い過去、とうに時という名の霧へと閉ざされてしまった彼方のできごとを、一介の酒場のあるじが、まるで見てきたように語るのだ。聖騎士のくちぶりは、おもしろがりながらもいくぶん感心しているもののそれだった。
「あの親父を神殿の文書官のところにつれていったら、感謝されるだろうかね。きっと、だれも知らないいにしえの王国の昔話を、それはたくさん教えてくれるに違いないよ」
 昨夜、年代物の黒ずんだ木製のカウンターに腰掛けて、羮を啜りながらパンをかじっている間じゅう、つぎからつぎへと話を聞かされつづけたことを思い出す。常連客が苦笑しつつ遠巻きにしていたところをみると、それもいつものことなのだろう。慣れた語りにはよどみがなく、つらつらとすべるようだった。
 ときおり疑問などを差しはさんで興味津々だった聖騎士とはべつに、従者はかなり離れて席を取っていた。しかし、親父の語りを耳から閉め出すことはできず、好き嫌いに関わらず、馬に揺られて疲労したからだには、さまざまな昔語りの言葉がしみ込むこととなった。暖炉の炎とランプのほのかな灯りに照らしだされる薄暗い酒場にあって、それはふしぎな感覚をもたらす体験だった。もしかすると、飲んだ麦酒がまずかったのかもしれないが。
 昼日中、陽光の下では筋をたどることもおぼつかない。思い出そうとすると、ぼんやりとした断片が影のようにひらめいては消える。そんな他愛のない話の多くには、帝国の古い金貨に刻まれた王族の横顔のように、うっすらとエリディルの伝説の刻印が押されていたのだと聖騎士は言う。
 山の端に湧きいずる泉のごとく清らかな巫女と、巌も断ち切る鋭い剣をふるったといわれる美丈夫の騎士の、原形もとどめないくらいに膨れあがった言い伝えの数々は、伝説の地であるエリディルの大地に神樹の巨木のように深々と根づいているらしい。伝説は、この地方の事物に密接にからみあいながら、歳月とともに育ちつづけてきたのだ。いくつもの異なったできごとにむすびついたために一見べつの話と思えるものも、遡ってゆけばひとつの根にたどり着くに違いない。それを選り分けて真実の物語を探り出そうと試みることもできなくはないだろうか、容易なことではないだろう。
 赤ら顔の中年男の披露する、大いなる矛盾と魅力に満ちた話の数々を前にして、まじめくさった顔に困惑を滲ませる神官の姿を想像したのだろうか。たのしげな笑い声をひとしきりあげたあとで、草に片手をついてやおら聖騎士はふりかえった。
「エリディル神殿では、このことをどう扱っているのだろうね。地元のことだ、無下に否定するわけにもいくまい」
 とつぜん話を振られた従者は無表情のまま、馬の頸を撫でながら視線だけを騎士に返した。
「神学上のことは、わからない」
 聖騎士はかたちのよい濃い眉をわずかによせた。微妙に癖のある金髪の下で、うっすらと紫がかった青い瞳が、あきれたようにほそめられる。
「何度言ったらわかる。おまえは聖騎士の従者なんだぞ。言葉には気をつけろ。わからない、ではない。わかりません、というんだ」
「――わかりません」
 やはり表情を変えずに、ぼそりとつぶやく従者に、騎士はつづけた。
「つまらない答だ。わからないならわからないなりに、もうすこし楽しい返答をしてみろよ」
 無茶な要求に、黒髪の従者は沈黙する。
 聖騎士はかまわずに日に灼けた顔をあおむけ、ゆるく波うつ髪をふりはらいながらどさりと草の中に倒れ込んだ。
「たとえば、おまえがすこぶるつきの美少女の前にいたとしてだな、彼女をどうやって笑わせたらいいだろうと考えたとする――」
「なぜ、ここでそんな例えが出てくるんだ」
「バカだな、楽しい話をするのは、好ましい女性のために決まっているだろうが」
 わかってないなと、聖騎士は大げさにため息をつく。しかし、従者には聖騎士の思考過程のほうが見えない。かれがいま、話をしているのは年上の成人男性であるアーダナ聖騎士団の聖騎士カーティス・レングラードであって、どうみても美少女ではない。楽しい話をしろと要求したのもカーティスで、いもしない、好ましい女性とやらではないはずだ。
 百歩ゆずって、カーティスが美しい女性だったとしても、なにゆえ笑わせなければならないのか。
 反応芳しからざる若者のようすに、カーティスは、ふと思いついたように尋ねてきた。
「おまえ、いったい今幾つだ」
 黒髪の従者は無言だった。
 返答が返ってこないようすに、なにを感じ取ったものか。聖騎士はゆっくりと、噛んでふくめるようにつづけた。
「私が何者なのか、これからどこに何をしに行くのか、ちゃんとわかっているんだろうな、従者ルーク」
「もちろん、わかっている」
 そらとばかりに、聖騎士が咎める。
「わかっています、だろう」
 律儀に語尾の間違いをなおされて、従者はふたたび沈黙する。面倒だと思ったのかもしれない。
「エリディルは宝玉の巫女の神殿だぞ。われわれは巫女の護衛をするために派遣された、つまり巫女のそばにつねに侍らねばならないわけだ。巫女といえば、必然的に妙齢の女性。そのうえ、この私の血縁ときたら美しくないわけがない」
「血縁?」
 従者は思わず、両腕を枕にして寝そべっている相手の姿をまじまじと見つめた。
 たしかに聖騎士はととのった面をしてはいる。しかし、骨格のがっしりとした、どこまでも男っぽい顔立ちであって、これを女性の美しさと同列にあつかうのはいかがなものかと思われる。
 そもそも、聖騎士の見てくれには、華奢だの繊細だのというところがひとつとしてなかった。けして大柄ではないが小柄ともいえない従者と比べても頭ひとつ分以上背が高く、ついでに言えば、からだもひとまわり以上大きい。肩は広く胸板も相応に分厚い。もちろん、手も足も人並みよりずっと大きい。この男のそばにいて、威圧感を覚えないものもそれほどいないだろう。
「そうだ。六の巫女は私のいちばん上の姉の娘。つまり、姪だな。芳紀十七歳、咲きそめの花だよ」
 そこで聖騎士はにやりと笑った。
「十七才の乙女と、おまえ、ふたりきりになったらどうするんだ?」
 聖騎士と血縁の十七歳女性を想像して、すこしばかり怯んでいたらしい従者だが、この問いかけには冷淡だった。
「おれたちの仕事は護衛だ。巫女の機嫌とりではない」
 まなざしは下に落としたまま、手際よく聖騎士の放りだしたナイフの汚れをふき取り、鞘に収めて鞍袋にしまい込む。
 そのようすを眺めながら、聖騎士はため息をひとつついてみせた。
「ご機嫌とりを面倒がるなよ。騎士の仕事のほとんどは機嫌とりみたいなものなんだ。おまえは愛想がなさ過ぎる」
 口調のかすかな変化に、従者は鞍袋をまとめる手を止めた。聖騎士は自嘲気味に肩をすくめると、そのあとはいつものからかうような調子に戻った。
「そうやって何でも切り捨てるようにして扱っててみろ。巫女はおまえを怖がって信頼しようとしないぞ。護衛があるじから遠ざけられていては、つとめが果たせない」
 聖騎士の声音には、どうやらかれに対する懸念がこめられているようだった。
 かれらの拝命した任務には、失敗が許されない。失敗してもよい任務など、どこにもないが、今回のものはとりわけ重要なのだと、出発前にひときわつよく念押しされている。そのことはおたがいに重々承知していて、一見のんびりとした道中にあっても見えない緊張感はつづいていた。
 事をうまく運ぼうと自分なりに考えて、慣れない仕事も率先してこなしてきたつもりだったが、どうやら、やらねばならないことがまだあるらしい。そう思うと、すこしばかり肩の荷が重くなったような気分になる従者だった。
「……善処する」
 神妙に耳をかたむけていた従者の、真剣だがずれた返事に、聖騎士はひとまずうなずいた。
「ま、習うより慣れろだ。おいおい教えてやるとも。伝説の地の巫女たちと出会うのももうすぐだ」
 皮袋の液体を飲み干して、くしゃりと潰すと、聖騎士は威勢よく立ちあがった。広い肩にまとったマントがひるがえって、陽光をさえぎった。休んでいるうちにだいぶん角度が変わっている。日は伸びていく季節だが、そろそろ次の宿の心配をせねばならない頃合いだった。
 ふたりは馬の点検を終えると、すぐに鞍上に飛び乗った。こうして、これまでに何度休憩と騎乗をくり返したことだろう。二頭の馬もこころえたもので、人間たちが定位置におさまるとわずかな合図と同時に走りはじめる。とたんに冷たい風が襲いかかってきた。陽光のぬくもりが薄れはじめようとしている。
 ひろがりだした雲に隠れかけた太陽の光が、オパールのような色合いの隙間から幾本もの筋となって地上へと降りそそいでいる。
 軽快に走りつづける馬の上で風に顔を打たれていると、さきほど騎士が口にしたさまざまな言葉が脳裏をよぎった。
 エリディルは伝説の土地だという。
 宝玉の巫女と騎士のいいつたえが残り、神の息吹をふくんだ風の吹くところだという。
 その言葉が意味するものは、なんなのだろう。ひびきを耳にするたび、現実とはちがう、別の世界のことを聞かされているような心地になる。
 だが、かれらはいま、そこへ向かっているのだ。
 こんなことを考えるのは初めてだった。
 理由を求めて、かれは前をゆく男の背中を見つめてみる。
 さきのあるじにひきあわされた大柄な聖騎士は、変わらぬ様子でゆうゆうと馬を御していたが、まるで視線に気づいたように速度を落とし、半身になって話しかけてきた。
「見えてきたぞ、伝説の神殿が」
 手綱をひいて速度をゆるめ、革手袋に覆われた手が指し示すその先に、視線をのばす。
 霞がかかったように白んでいた山肌が、日が傾くにつれて伸びる影に凹凸を濃くし、かなりはっきりとようすが見えるようになっていた。
 そこに神殿があった。
 まだ距離はずいぶん遠く、そこに行き着くのにはあと丸一日以上はかかりそうだったが、聞かされたとおりの古い石造りの神殿がたしかに見えた。
 あれは鐘楼だろうか。ひときわ高くぬきんでた細い建物のまわりを、鳥らしき小さな影がいくつも飛びめぐっていて、風が吹くたびに掃き寄せられるように位置を変えている。
 ふたりはしばし無言で前方を見つめつづけた。
「あとすこしだな。じきに巫女の顔を拝めるぞ」
 聖騎士は口の端をあげて笑い、従者の肩を軽く叩くと、馬の腹を蹴ってとびだしていった。
 その後を追おうとして、ふと目の前になにか小さなものが飛んできたのを、若者はすばやく掴みとった。
 ひらいてみると、革につつまれた手のひらにゆびさきほどの白い花びらが載っている。
 どこから飛んできたのだろう。
 思う間もなく、それはふたたび風に吹き飛ばされていった。



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