天空の翼 Chapter 1 [page 4] prevnext


4 〈見晴らしの壁〉


「クレアデールさまとビリング卿は、どちらへお出かけになったんでしょうか」
 どこか期待をまじえたようなくちぶりで侍女のミアがいうのは、三の巫女とその護衛をつとめる後見の騎士のことである。
 中庭での寸劇に毒気をぬかれてから、なんとはなしに歩きはじめてはみたものの、ふたりの話、いやミアの話は、三の巫女のまわりをぐるぐるとめぐって離れてゆく気配もなかった。
 神殿の裏門を通りぬけるとき警備兵の前では、なるべく注意をひかないようにと口をつぐんでいたが、目的地へとむかう城壁外の一本道に出てしまうと、もうどこにも人の姿は見あたらない。
 折れ曲がりながらふもとの村へとつづく一本道を、道端の草をながめつつ、ふたりはぶらぶらと歩きつづけている。
 風はまだ冷気をはらんでいたが、城壁の途切れるごとに真昼のつよい陽射しが降りかかる。芽吹いたばかりの草の香りが地面から芳しくたちのぼり、神殿の鳩たちの縄張りを離れるにしたがって、小鳥のさえずりも聞こえるようになってきた。
 フィアナはときおり足を止め、かがみ込んでは目についた草の芽をボーヴィル師の袋の中にほうり込んでいたが、手元はろくに確かめてもいない。ミアにいたっては、薬草などすでに眼中にないようすだった。先行した騎馬のふたりに追いつけようはずもないのに、ときおりなにかを求めるように遠くへ視線を伸ばしてはため息をついている。
「あいかわらず、ビリング卿はクレアデールさまひとすじなんですよねえ」
 ビリング卿は、クレアデールの幼いころから世話係をしているという噂だ。主家の息女が巫女となるにあたり、護衛兼後見人としてともにエリディルにやってきたのは、三年ほど前のことである。
 三の巫女が実家からひき連れてきたのは護衛の騎士だけではなかった。少女のまわりにはべるあの仰々しい女官たちは、すべて、神殿とは関わりなくクレアデールの生家に雇われている。神殿のとぼしい財源から侍女ひとりをあてがわれている六の巫女とは雲泥の差だ。
「クレアデールさまは、どうしてビリング卿にあんなに冷たいんでしょう」
 嫁いだ姉が連れあいにあんな態度をとったら烈火のごとく怒鳴りつけられてしまうのに、とミアは憧れの美少女のふるまいに始終感銘を受けているようだ。
 クレアデールの相手を無視するやり方は、見ているこちらがひやりとするほどに容赦がなかったが、それはなにも今回が初めてというわけではなかった。もともと周囲とうちとけるような性格の少女ではないが、後見の騎士に対してはなぜか首尾一貫して冷ややかな態度を崩さないのだ。けれども、そこには陰湿な感情や相手を困らせたいというようなひねくれた意図はあまり感じられず、そのため、深遠な理由があってのことのではないかと深読みするむきもあるほどだった。それがまた、ミアのような少女の妄想をかきたてる一因なのだったが。
「クレアデールは、ビリング卿を嫌っているわけではないと思うけど」
 むしろ、眼中にない、というのがいちばん近いのではないかと、フィアナは感じている。
「もちろん、嫌ってらっしゃるはずはありません。だってビリング卿はあんなに献身的じゃあないですか」
 ミアの言うことには、なんの根拠もとりとめもない。その場の思いつきで話しているだけだが、勢いがあるので押し切られてしまうことがままあった。
「女官のひとりから聞いた話なんですけど」
 なにかを思いだしたらしく、ミアがくるりとふりかえった。内緒の話をすること自体が楽しい幼い子どものような、きらきらと輝く緑の瞳にみつめられて、フィアナは一瞬、身がまえる。
「クレアデールさまが巫女になると決まったときに、お父さまが護衛を任命しようとしたそうなんですけど、エリディルみたいな辺鄙なところに行きたがる人物はいないだろうと内心悲観されていたんですって。でも、いたんです、ビリング卿が。まっさきに手を挙げて、クレアデールさまをお守りするのが私のつとめですって、きっぱりとおっしゃったそうなんですよ」
 ビリング卿、西の公爵に直訴す、の図を思い浮かべているのだろう。ミアがうっとりと喜ぶかたわらで、フィアナは摘みとったばかりの一年草の茎をもてあそびながら、ただひたすらに感心していた。
 たしかに、あのビリング卿ならばそういうことを恥ずかしげもなくやりそうだ。
「ビリング卿は、クレアデールにつねに目の見えるところにいてほしいんじゃないかしら」
「ああ、そうすればいつでも危険なときにはご自分で守ってさしあげられますものね」
 あまりに屈託なく後見の騎士の愛と忠誠を信じているミアに、フィアナはすこしばかり冷や水を浴びせたくなっていた。
 手にした草の青い香りを嗅ぎながら立ち止まり、ぼそりとつけ加える。
「そうじゃなくて、将来の金蔓だから」
 やはりそれなりに重たいのだろう、ミアは手提げ籠をゆすりあげながら不満そうに口を尖らせている。
「……フィアナさまのおっしゃることは、身も蓋もなさすぎです」
「だって、クレアデールはグローズデリアの血をひくお姫さまなのよ」
 ボーヴィル師の袋に草をほうり込むと、フィアナはしばし止めていた歩みを再開した。
 エリディル神殿の三の巫女クレアデールは、烏の濡れ羽色をした髪に黒い瞳の少年のような涼やかな美貌、さらに身にそなわった威厳とが相まって、見るものに強烈な印象を残す少女だ。
 いまはエリディルの三の巫女としてのつとめを申し分なく果たしているクレアデールであるが、いつかはつましい巫女の衣を脱ぎ、世俗の世界へと立ち戻ってゆくことだろう。そのときに彼女のまとう衣は、巫女をつとめあげたほかの少女たちが夢見るような、幸福という名の平凡な衣装ではないのにちがいない。
 けれど、フィアナがよりうらやむのは、クレアデールの巫女としての優秀さだ。
 生まれも育ちも非凡な少女は、ぬきんでた巫女としての資質をもそなえていた。
 クレアデールは、額に神の宝玉をいただいている。ほそい金属製の環は、宝玉のための台座だ。それ自体が精緻なつくりの高価な宝飾品ではあるが、巫女はそれをただのうつくしい飾りとして身につけているわけではない。宝玉に秘められた力を期待どおりにひきだして、人々の望む奇蹟としてみせるのが彼女たちの存在する意義だった。その宝玉の巫女に求められる役割を十二分に果たしたうえに、奔出する力に翻弄されることもない三の巫女がどれだけ希有な存在であることか。
 祭儀のおりに宝玉と共鳴するクレアデールのすがたを幾度も見ているが、そのたびに背筋にふるえが走るのを感じる。宝玉に対して鈍いとされるフィアナですら、クレアデールの感じている力の源にふれているような気持ちになるほどだ。
 クレアデールは、うわつくことのない現在の地位とたしかな未来を両手にし、つねに前を見すえている。
 期待はずれと揶揄されることの多い六の巫女にとって、三の巫女の存在は文字通りに眩しすぎるのだ。
 しらず口調が卑屈になるのも無理はないのではなかろうか。
「でも、フィアナさま。ビリング卿がクレアデールさまを大切に思ってらっしゃることは、絶対に確かですよ」
 あるじの複雑な胸中を知ってか知らずか、ミアは鼻息荒くそう断言した。ふりまわされる籠の中身を心配するのはそろそろやめようかと思いつつ、一方でぼんやりと浮かぶのは、なにゆえそこまで力が入るのだろうという疑問。
 その答は、すぐあとにぽんと返ってきた。
「だから、アーダナの騎士がフィアナさまを大切に思わないとは言えません。それに、フィアナさまのご実家だって、どこかの御領主でいらっしゃるんでしょう?」
 フィアナは意表をつかれてまばたきをした。もしかして、ミアはこれでもあるじを元気づけようとしていたのだろうか。
 おなじように騎士と名乗ってはいても、聖騎士と世俗の騎士とはまったくちがう。聖騎士と守護騎士が、根本的に異なる存在であるように。
 しかし、神殿の教義や世の中の仕組みとは関わりなく過ごしてきた少女にとっては、どの騎士もおなじように憧れの対象であるのだろう。そして、三の巫女のかたわらにビリング卿がいるように、フィアナのそばにも彼女をあがめ、なぐさめる騎士がいてほしいと、思っているのにちがいない。
 聖騎士の到来を耳にしてからずっと、不安をかきたてられてはいるものの、けして期待に胸を膨らませるような心地にはないと話したら、ミアはどんな顔をするのだろうか。
 六位の巫女には守護騎士どころか、護衛の騎士すら滅多につくことがないという事実にはいっこうに気づいてくれないくせに、どこかからか実家のことまで聞きこんでくる年下の少女に、フィアナは苦笑してしまう。
「ディアネイアはそれは小さな国らしいわよ。西の公爵の領地とは、くらべものにならないわ」
 そういわれて、ミアは未知の土地への好奇心を刺激されたようだ。
「フィアナさまの故郷って、どんなところなんですか」
 この質問に答えるためには、昔の記憶をさらってみる必要があった。
「なんとかっていう湖のほとりにあって、そこには白い水鳥がたくさんいて、ここよりは暖かいところだと聞いたような気がするわ。領土は狭いくせに隣人がたくさんいて、領主には子どもがたくさんいるんだって」
 フィアナ自身が故郷について尋ねる機会を得たのは、もうずいぶんと前のことだ。昨秋やってきた使者たちは書簡を手渡したあとで、冬の到来を前にあたふたと帰っていってしまったので、会話をする暇もなかった。記憶はおさないころのままで、答えてくれた人物の顔すら、忘れかけている。指を折るようにかぞえあげてみたころで、
「なんだか素敵なところみたいですね」
 といわれたが、素直にうなずく気持ちにはなれない。
「そうかしら」
 フィアナは視線を切って、空をふり仰いだ。
 さきほどから風が頬をひとなでするごとに、雪のように白い花びらがひとひら、ふたひらと飛んできては視界をよぎっていた。
 いつのまにか、前方に、古びた累壁のひとつが見えはじめていた。黒ずんだ石積みと対照的な白い影が、無骨な輪郭をふちどるようにしてつづいている。花はそこから流れて落ちてくるのだ。
 かつてエリディルがまだ王国の砦だった時代に築かれたという堅牢な城壁の、現存しているわずかな名残であるそこは、いまではエリディルの象徴ともいうべき樹の北方にはめずらしい群生地となっている。それは、あらたな巫女が誕生するたびに、少女たちの華奢な手によって一株ごとに植えられてきたものだ。
 長年の間にくずれてきた土砂で埋もれかけた累壁の上に、まるで女神の白い衣を被せたようにひろがるシャンシーラの花煙。
 〈見晴らしの壁〉と、いつのころからかその累壁の周辺は呼ばれている。
 そこでは花の季節に巫女たちが正装をして、玉と化して名を失った神を慰めるために舞を舞ったものだった。それぞれの宝玉を身につけた年上の乙女たちの美しさ、薄衣が春風をはらんでやわらかになびくさま、花びらが吹雪のように舞い散るさまは、幼かったフィアナの心にあざやかに刻まれている。
 花占とよばれるその祀りは、舞手となるべき高位の巫女が存在しなくなったせいで中断されたままだ。
 最後の花占が行われてから、どれくらいたったのだろう。
 シャンシーラは春になると毎年白い花を咲かせているが、フィアナはしばらく〈見晴らしの壁〉を訪れていなかった。いろいろと口実をもうけてはいたものの、実のところは舞手になれなかったという現実を受け入れたくなかっただけなのかもしれないと、いまにして思う。
 それからふたりは一応は手入れの行き届いた道を逸れて、滅多に人の入り込まない累壁にそった通路を歩きはじめた。薄暗い足下には、大きさもかたちもまばらなたくさんの石がそこかしこにころがっている。その荒れた通路をまっすぐに進んでいくと、累壁の上へとつづく傾斜のきつい石段につきあたる。ちょうど横手から陽をうけるかたちで、積みあげられた石の風雨にさらされてざらついた輪郭がうかびあがっていた。
 石段を前にしたふたりの少女はそこでひとまず足を止め、空を見あげるようにして累壁上の目的地をひとしきりながめた。
「近くで見るとずいぶん高いんですね」
 ミアの実家のあるふもとの村からは、この石積みは神殿を取りかこむ塀ぐらいにしか見えないのだという。村は山裾のもっとも低い場所にある。いちばん上までのぼればミアの家どころか、その先をゆるやかな河の流れのように迂回してゆく街道さえも、視界におさめることができるだろう。
「フィアナさま、私、先に行ってますね」
 ミアは元気よく石段をのぼりはじめた。足どりは軽快で、とてもふたり分の昼食をかかえているとは思えない。三の巫女の姿を捉えるのを、まだあきらめていないのだ。
 フィアナはその後を、すこしばかり足下を気にしながら追いかけた。
 のぼりはじめると頂上にたどり着くまで足を休められるような場所はない。ひとつひとつの段差が大きいため、数段あがったところですぐに息があがりはじめ、するうちに両脚の筋肉は苦痛を訴えはじめた。冬の間、城壁から一歩も外へ出ずに過ごしたせいで、すっかり身体がなまってしまっている。
 やがて額にはうっすらと汗が滲みはじめ、そこに風にふかれて髪が覆いかぶさってきた。うっとおしさに何度も払いのけるが、そのせいでほつれかけた三つ編みがゆるゆるとほどけてひろがっていく。
 視界を白い花びらがかすめてゆくが、それを気にとめるような余裕はなくなっていた。
 胸の動悸が激しくなるにつれ、石段に手すりのないことが恨めしくなる。
 編みあげの革靴で踏みしめる中央部のすり減った石段には、白い花びらとともに黒々とした影が落ち、ふりそそぐ陽射しのなかにみえる先の段とのコントラストの違いに、めまいがする。だからといって、目を逸らしてはいけない。ふとしたはずみにはるか下方に遠ざかった大地をみつけてしまえば、ほんとうに気を失ってしまいそうだからだ。
 落ちたくないと、思いはじめたのはいつの頃だったろうか。
 本当に幼いころ、フィアナはこの石段をなんの躊躇もせずに駆けあがることができた。
 悲鳴をあげる年上の少女を突きとばすようなまねをして、女官長に散々叱られたこともあったくらいなのだ。
 自分の重心と視界との調和がくずれて、平衡感覚がうしなわれる。
 焦点の合わないような非日常の浮遊の感覚に、むしろ歓びを感じていたような気さえする。
 大地の呪縛から解き放たれて、自由に大空をかけめぐる翼あるものたちのように、あの高みから飛びおりてみたいと、望んでいたことさえあったのに。
 そういえば、とフィアナは気づいた。
 あの地から足の離れたような感じは、毎朝の祈祷の際にときおり訪れる感覚に似ている。もしかするとそれが、フィアナがおのれのいだく宝玉の存在を知覚することのできる、ほんのわずかな瞬間なのかもしれない。そう感じたとたん、胸の中でひさしく凝っていたなにかか、ふいにほどけたような気がした。
 そうだったのだ。
 なにがそうなのかは自分でも具体的にはよくわからなかった。あとできちんと道筋をたどりなおすことができるとも思えない。今朝訪れた奇妙な目覚めを思い出して、少しの不安が胸をよぎる。それでも、フィアナは妙にすっきりとした気分になっていた。
「フィアナさま」
 呼びかける声にまなざしをあげると、ミアがこちらにむかって手をふっている。つらなる幾百の段の先、青空の中でうかびあがる小さくなった姿にため息をもらしかけ、ふと、視界の隅をよぎる影に気がついた。
 おもわず眼を凝らしたフィアナは、それが空を舞う、翼持つものの姿であることをみとめ、息を呑んだ。
 鳩、ではない。あれは、もっと体の大きな、鋭い鉤爪を持つ肉食の鳥類だ。
 人の気配を嫌ってか神殿周辺にはあまり近づいてこない猛鳥の、翼をひろげて悠々と旋回してゆくその姿に、フィアナは足下が不確かになるのも忘れて見入っていた。なぜかといって、その鳥はあまりにも似ていたのだ。聖堂の壁面に描かれている白い翼に。天より降りきたった若い神のかたわらで、しずかに羽をやすめている、あの姿に。埃をかぶり色褪せてはいるものの、それは祈祷の際、もっとも大切な瞬間にかならず眼に飛びこんでくる南側の壁の絵だった。
 くいいるような視線に気づいたかのように、影は空を遮ってどんどん大きくなった。
 こっちにくる。
 フィアナは近づいてくる翼の大きさに、我をうしなった。
 むこうも、彼女をみている。
 しとめる獲物をけして見逃さない、狩るものの強いまなざしで。
 琥珀色の眼が、凝視めている。
 羽根が、空気をはらみながらも叩きふせる大きな音がする。
 フィアナは、まるで自分が猛禽になってしまったかのように、とつぜんに得た鋭い視力で眼下の光景を感知していた。
 ざらつく黒い石段のうえに、凍りついたように立ちつくす、貧弱な少女の姿があった。
 顔は血の気を失い、かたちのよいくちびるが驚いたようにゆるんでいる。
 みひらかれた大きな瞳は、かすかに夕暮れを思わせる空の色だった。背後から陽光をうけて、躍りあがるようにひろがる翼の影が映りこんでいる。
 吹きつける風にあおられて、服ははためき、やわらかな長い髪が細い金糸のようにうきあがり、ひろがりなびいていた。そのさまを、まるで光のようだと、別の意識が感じている。
 舞いよぎる、シャンシーラの花吹雪。
「フィアナさま?!」
 かんだかい悲鳴は、はるか彼方より届いた過去からの残響のようだ。ゆるみたわんで、消えてゆく。
 そのときフィアナは自分の意識が急速に重みをなくして離れてゆくのを感じ、自分の肉体が立ちつづける意志を失ってくずおれるのを感じていた。ボーヴィル師の袋が肩からずり落ちて、硬い石段の縁がむこうずねにあたり、手のひらがざらついた冷たいものにふれる感触があり、左肩がつよく打ちつけられ、腕が身体の下敷きになっていく。
 それらのすべてが、当然感じているはずの痛みさえもが、急激に遠ざかる。
 鮮明なのは、ただ、頬にあたる風の冷たさばかりだ。
 ぐるりと視界がめぐった。そこには触れるべきものは何ひとつ見あたらない。ひろがっているのは、青。そして白。
 やわらかな春の青空に、白い花びらが踊っていた。



Prev Next

天空の翼 [HOME]


HOME BBS

Copyright © 2003- Yumenominato. All Rights Reserved.
無断複製・無断転載を禁止します。