金属製の大きなジョッキに満たされた液体が、派手な音を立てて男の喉へと消えていく。
酒場のあるじは、自分より頭ふたつ分は背の高い人物の、それ自身が生き物のようにうごめく喉をぼうぜんとして見あげていた。
ふだんは換気のためにしか使われない小さな窓から、薄暗い空間をわけるように陽光が射しこんでいた。宵闇色のマントをまとった男は、横からその光を受けて、奥の漆喰壁にひときわ大きな影を落としている。
あるじは、慣れ親しんだ自分の空間を占領されてしまったような、途方に暮れた気分に陥って、最近とみに皺のふえてきた手を組みあわせた。
酒場のつねとして、店は太陽の沈む少し前に商いを始めることになっているが、いまはまだ、昼餉の時刻を過ぎたばかりである。
神殿のお膝元であるとはいえ、エリディルは辺境の地。一年を通して、訪れるものはそれほど多くはない。とくにまだ冬の寒さを残した今の季節は、よほどのことがないかぎり参拝者もやっては来ないものだ。
ひなびた辺地である故に、客は近所の村の連中ばかりである。このあたりは気候が気候であるから、とくに困窮しているわけではなくとも、都でいう豊かな暮らしなどというものは存在しない。毎晩酒場に寄り集まり安酒をくらって騒いではいても、根は実直な土地ものたちのこと、太陽の出ている間はそれぞれの仕事に精を出す。
そういうわけで、夜の遅い酒場のあるじとしては、そのあいだにたっぷりと休みをとることになる。しごく当然のなりゆきだった。
今日も、牧場ならば二仕事が終わるほどの時刻にめざめたあるじは、ゆっくりと身支度をしたのち、店の準備をする前に、出入り口の脇にしつらえたベンチでのんびりと春の陽射しを楽しむことにした。足下には、けむくじゃらの老犬がうずくまり、あるじより先にくつろいでいる。
夕刻までには、まだかなりの余裕がある。すこしばかり早起きをしすぎたかもしれない、とかれは思い、風に運ばれてきたシャンシーラの花びらを見て〈見晴らしの壁〉に意識をうつし、今年も花占はないのだなと憂うついでに、先の秋から神殿づとめを始めた末娘のことをほんの少し考えたりもした。
快晴の下、翳ることのない陽光につつまれてちょうどいいぐあいに体があたたまり、うとうとと気持ちよくまどろみかけたときだった。
夢の中で馬の蹄の音が近づいてきて、犬が緊張してたちあがる気配がし、ひくいうなり声をあげた。まぶた越しにぼんやりと明るんでいた世界がいきなり暗くなったかと思うと、頭上から男のちからづよく朗々とした声が降りかかってきた。
「おい」
おだやかな眠りからひといきに現実に連れもどされて、驚きとともに不快を覚えたあるじは、すぐさま声の持ちぬしを怒鳴りつけようとし、しかし、そのひびきに聞き覚えのないことに思いいたってふと我にかえった。
相手を見た瞬間に、放つべき言葉は失われていた。
あるじの視界を完璧に遮って眼前に立ちはだかっていたのは、その硬い蹄で一蹴りされれば確実に命が奪われるものと思わされる、そびえる小山のような鹿毛の馬。そして、その上にまたがる、どうみても平民とはいいがたいいでたちをした、背の高い金髪の男だった。
あるじのしょぼつく視線は、鞍からゆったりと降りたった男の、がっしりとした革の長靴の踵の拍車から、腰に佩かれた鈍い光をはなつ柄を持つ長剣へと、のろのろと這いすすんだ。
鍛えあげられた厚みのある体つきが、それら騎士のまとう小物に言いしれない迫力をあたえている。
近づいてくる男の大きな口はゆがんでおり、はねあがった眉の下で青い眼が陽射しをうけて硬質な輝きをおびた。
あるじは一瞬、山の清水で顔を洗ったときのようにきっぱりと目が覚めていく自分を感じた。それから、どきどきと脈打つ心臓の音を全身で聞きながら、迫りくる危機に対して身がまえた。
少しだけ冷静をとり戻したあるじが、どうやら相手は微笑んでいるのらしい、と気づいたときに、男が口をひらいた。
「飲み物を出してくれないか。水ではないほうが望ましいな」
意外にも、親しみあふれる快活な声だった、とあるじは思う。
満足感に裏うちされた盛大なため息と、黒ずんだ傷だらけのカウンターの上に勢いよく戻された空の容器の立てる音に、あるじはふたたび現実へとひき戻された。
さきほど、かれを死ぬほど驚かせてくれた騎士は、いまもって脅威の源の座を降りはしなかったが、よくよくみるとそれほど恐ろしげな人物ではなさそうだった。
大きな身体と、それにみあった造りの大きな顔はたしかに迫力充分だが、肉体的な優位をもってこちらを見下すようなそぶりをみせる気配はない。言葉づかいや声音は、身分の違いを考慮に入れれば愛想がいいといってもよいくらいの親しみやすさだ。かすかに癖のある金髪をかきあげるしぐさや、都風の抑揚で発されるひびきには、なにやら品のようなものすら感じられる。
犬はカウンターと出入り口の中間にある定位置でじっと客のようすをうかがっているが、さきほどの敵意はすでに消えていた。
辺境であるとはいえ、神殿のお膝元に長年店を構えつづけてきたあるじである。たしかに、滅多に見ない人種であることは間違いないが、騎士という名の存在を今日初めて見たというわけでもなかった。
そしておそらく、この男性は、いままでにこの酒場を訪れたもののなかでも、かなり印象深い人物であるといえそうだった。
「よし、もう一杯もらおう」
獰猛なくせにあけひろげな笑顔をむけられて、あわててジョッキを手にとったあるじは、そこで肩越しにふりかえる男の視線を追いかけ、出入り口付近に影のように控えていた人物に気がついた。
いつからそこにいたのだろう。
男とくらべると背は低く、線も幾分細く見えるが、おそらくこちらが標準的な体格というものであろう。癖のない黒髪がみだれて顔にかかったままの、まだ成長の余地有りと見受けられる年頃の若者である。騎士のものと似てはいるものの全体的に質の落ちる地味な身なりは、かれが騎士見習いの従者であることを示していた。
「そちらさんは」
獲物を求めて山を忍びあるく大型の猛獣と真向かっているような圧力を、共有し、共感し、同情してくれる相手を求めようとしたあるじは、そこで期待を裏切られることとなった。
ざんばらな髪の奥の濃い色の瞳は、いっさいの反応をあらわさず、静かにあるじを見返してきたのだ。
別の意味で、あるじは奇妙な落ちつかなさを感じた。
返答は、目の前に陣取った騎士のほうから返ってきた。
「ああ、そいつはまだいいんだ。それより、ここにほんのしばらく馬を二頭置いておけるようなところがあれば教えてくれないか」
「裏にはいちおう厩らしきものもありますがね。ご自分で連れていってもらえるなら、使ってもらってかまいませんよ」
騎士と従者を見比べながら樽の麦酒を容器にそそぐという芸当を果たし終えたると、あるじはカウンター越しにみたされたジョッキを差し出して、うかがいを立てるように相手を見あげた。
「もうすこししたら馬丁もでてくるんだがねえ」
それはかまわないと腕をふった騎士は、からかいの表情をまなざしに浮かべながら、後へ向かってそっけなく言い放つ。
「と、いうことだ、従者ルーク。喉の渇きを癒したければ、つとめに励めよ」
若者は、無言のままに半開きの出入り口へと戻っていった。
その後ろ姿をちらりと眺めつつ、カウンターに肘をついた騎士はあきれたようにつぶやいた。
「だから、返事をしろと言ってるだろうが」
薄暗かった酒場から屋外へ出ると、黒髪の若者はかすかに眼をすがめて上方を眺めた。
遠く霞がかった山の輪郭からせりだしてくるような存在感のある険しい山腹へと、白と濃紺の間の濃淡による神秘的な風景は、中天をとおりすぎた太陽を反射してまばゆく輝いていた。
旅の後半、望みつづけた西方の山嶺は、いま、おどろくほど間近に、そしてまだおどろくほど遠くに存在していた。
河のように曲線をえがく街道に沿って、かれらは徐々に神の見下ろす地へと入りこんできた。いま、聖域の入り口に立ちつつ見あげる稜線の果ては、すでにはるか彼方の天上そのものである。
今朝、かれらはいつもよりはやめに馬上の人となった。最後の宿のあった村で主街道から分岐したほそい田舎道は、蹄鉄に一枚の羽根をあしらった紋章の掲げられた小さな門に通じていた。
舗装された痕跡はかすかに残されてはいるものの、両側を草に浸食されつづけているらしいその道は、こぢんまりとした集落をつらぬいた後、さらに傾斜を増して折れまがりつつ山腹を這いのぼっていく。くずれた石積みやくずれかけの石積みに遮られて見通しはきかないが、行きつく先は、かろうじて見える鐘楼のあるところ、宝玉の巫女の住まうエリディルの神殿である。
前日にたっぷりと休んだこともあり、頑強な戦馬たちは傾斜をものともせず、かろやかな足どりで進みつづけていた。
一行を先導していたカーティスが自分の鹿毛の足を止めたのは、村の門をくぐりぬけたのち、いくつかの住居を眼にしたあとで共用井戸のある小さな広場らしき空間にさしかかったところである。
酒場とその横のベンチでうたたねする男のようすを騎士が興味深げに眺める間、従者であるルークは、空と大地とを分かつ稜線と風の運んでくる白い花びらに、しばし意識をうつしていた。
浮かぶ雲すらほとんど見あたらない青い空に、翼の影がいくつかよぎる。
あとすこしでたどりつく。
そう思って、すこしばかり先を急ぎたくなった従者の気配を察知したのだろうか。カーティスが突然笑顔でふりかえったとき、ルークはかすかに身がまえた。
「のどが渇いたと思わないか。私は渇いた」
やぶから棒に主張した騎士は制止する間もあらばこそ、朗々たる声でもって気の毒な酒場のあるじをたたき起こしていた。
ルークは、騎士の行動の意図をまったくつかむことができずに、ただそのようすを見守った。
あきらかに準備のととのっていない酒場を真っ昼間から無理矢理ひらかせて、首尾よく麦酒をせしめた勇姿に感心するそぶりを見せなかったからだろうか。カーティスは当面、麦酒を自分だけのものにすることに決めたらしい。
外に残された二頭の馬は並んで人間たちの帰りを待っていたが、玄関からひとりで現れた従者の姿には正反対の反応を示した。鹿毛は愛想良く尻尾をふってみせ、黒毛はあからさまに首を反対へとめぐらせる。
ルークは店に入る前に杭にひっかけておいた手綱を取ると、さて、と二頭の馬に向かいあった。
鹿毛は興味深げに若者のすることをみつめているが、黒毛はそっぽをむいている。
いつものことだが、黒馬はルークの存在をいちいち無視するのをやめようとしなかった。相手との力関係を徹底させるためには手段を選ばない、傲慢な態度も悩みの種だ。尊大な戦馬は、はっきりとルークより自分の地位のほうが高いと認識していた。ここまでなんとかその背にまたがりつづけてこられたのは、つねに相手の出方をうかがい、観察を欠かさなかったからである。
いま、黒馬の耳がくるりとうごき、首が横へとねじられた。原因を求めるルークの暗い色の瞳が、前髪の奥でかすかにうごく。
一瞬遅れて、傾斜している道の上の方から蹄が地面を蹴るかろやかな音が響いてきた。
少女を鞍上に乗せた一頭の葦毛が、山道を飛ぶように駆けくだってくるところだった。
手入れのゆきとどいた美しい馬と、そのしなやかな背にまたがるくっきりとした顔立ちの少女。どちらも高貴で印象的な雰囲気を持つ、似合いの一対だった。少女の頭頂部で結ばれた長い黒髪が、もうひとつの尾のようにゆれなびいている。
酒場の前にやってきたところで、少女は新来者になにげない一瞥をくれていった。葦毛は好奇心をあらわしもせず、澄ましたようすで通りすぎた。テンポの速いリズミカルな蹄の音がほこらかにつづいていく。
かれらはルークたちがたどってた道を逆に進んでいった。このままゆけば、すぐにも村の入り口へたどりつくだろう。
遠ざかる馬影をしばし見送っていると、ふたたび蹄の音がやってきた。
さきほどの葦毛によく似ているが、わずかに体の大きな馬である。鞍上で背筋をまっすぐに伸ばした黒髪の男が、眉間にしわを寄せて前方を睨んでいた。眺める視線に気がついて、こちらに突っ込んでくるのではないかと思わせるような表情を一瞬だけ浮かべたが、内なる葛藤を口元に皺としてあらわしたあげく、決然として視線を前へと向かわせた。
どうやら先行する一対に追いすがることの方が不審人物への警戒より重要と判断したらしい。
見逃されたルークと馬たちは、蹄の音が遠ざかると、仕切りなおすようにふたたび向かいあった。
「……おまえが先だな」
ルークは黒馬の手綱を杭に戻すと、鹿毛の轡をひきながら言われた厩を求めて酒場の裏手へと移動した。
見覚えのある石材と木造の骨組みをもった建造物の裏には、やはり基礎を石で組んだ小屋が見えた。どうやら、厩というのはそこのことらしいが、人の気配はおろか、馬の一頭も見あたらない。すみっこのちいさな影は驢馬のものだった。端から黒目がちの瞳でこちらをのぞいているそのみすぼらしい姿のせいで、薄暗い小屋のなかはよけいにがらんとして見える。
とりあえず、ルークは鹿毛を小屋のそばまでつれていった。中は意外に清潔で、驢馬もそれほど貧相ではなかった。空いている房のひとつに入ってみる。汲みおかれた桶の水を舐めてみて、温度と質を確かめると、手綱をそばの柱に結わえつけて馬に桶をあてがった。
鹿毛はかるく鼻を鳴らした後、おとなしく水を飲み始めた。
鹿毛の頸をやさしくさすった後、ルークは建物の正面に戻った。
黒馬は、進路の途中で居丈高にたちはだかっていた。
鼻の先を横切って手綱をとろうとしたルークは、突然半歩すざって、身を沈ませた。
突きだされた鼻面をすばやく避けると、さきほどまで頭があったところで、ガチッと歯の噛みあわさる音がする。
黒馬は風に乱れたたてがみの影からじろりとこちらを見下ろしていた。めくれあがった口から、白く頑丈な歯が顔を覗かせている。黒い瞳の炯々とした輝きをうかがうに、ご機嫌はことのほか麗しそうだった。
ルークと黒馬のつきあいは、この旅を始める一週間ほど前、かれが馬丁見習いを始めたときに始められたものだった。
その後、先のあるじの思惑によって、若者の地位は馬丁見習いから騎士見習いへと変更された。しかし、当然といえば当然なのだが、馬扱いの腕は肩書きに見合うほど簡単に上達はしなかった。
かててくわえて、黒馬の自尊心はデインの峰もかくやと思われるほどに高かった。おだやかな性質の鹿毛にくらべ、底意地も悪いのではないかと推察される出来事が、些細なものから危うく大怪我に発展しそうな大きなものまで、日々つみかさねられていった。
長旅をともにするうちに気心が知れて、そのうちうまくやれるようになるのではないか。もしかすると双方が抱いたかもしれないそんな期待はすっかり裏切られて、むしろ、黒馬の方はこの数週間ですっかり若者を見下すようになってしまっていた。
いまもようやく手綱を手にしたルークが方向を変えようと奮闘しているのに、協力するそぶりを見せもしない。自尊心が高いためだだっ子のようにあからさまに反抗することはないものの、知らんふりは日常となり、隙をうかがう不穏な気配をひしひしと感じるルークである。
もちろん、かれとて背後からの噛みつきや足蹴りなどを簡単に食らってやるつもりは、さらさらなかった。馬の世話は素人だが、身のこなしまで鈍くさいと思われるのは不本意である。
黒馬とルークは一触即発の風情で対峙した。双方、相手の出方をうかがいつつ、じりじりと円を描きだしそうな勢いである。
両者を隔てるのは伸ばされた手綱の長さばかり。ルークは手綱を手首にひと巻きし、なんとかして黒馬を厩の方向にむかわせようと少しずつたぐりよせる。黒馬は前足で地面を掻き、頭を低くして黒目がちの瞳を剣呑に輝かせ、若者の歩が進むのとは反対方向へと、すこしずついざる。
視線と気迫のぶつかり合いは、水のしたたる音すら聞こえそうなほどの緊張を両者の間にもたらした。
冷たい風が、若者の黒髪と馬のたてがみをひと撫でして通りすぎた。
黒馬が不敵に鼻を鳴らす。ルークは無言で手綱を握りなおす。
視線は逸らさない。隙を見せたら負けだ。
そのとき、バサバサというなにかを空中でさばくような空気の波があたり一面でおこったと思うと、鋭くかん高い音が上空に響きわたった。
黒馬のまなざしが宙に浮いた。
空か?
全身があわだつような感覚に襲われながら、無意識に音源を求めて視線をそらした瞬間、耳を聾するいななきとともに手綱がぐいとひっぱられた。
驚くべき勢いですべり出てゆく革ひもを一拍遅れでつかんだが、すでに余りはほとんど手の内から消えていた。奪われた分をとり戻そうとこころみるよりもはやく、手首に衝撃が走る。ついで肩に強烈な荷重がかかった。その瞬間、足が地面から離れてゆくのをルークは感じていた。
大柄な騎士は、みたび満たされたジョッキをかたわらにして、いい具合にあぶった腸詰めにナイフの先を突き刺しているところだった。はじけた熱い膜から透明な汁があふれだし、焼けた肉のこうばしい香りがふわりとたちのぼる。
「旦那も神殿にゆかれるんでしょう」
カウンターの向こう側の酒場のあるじは、猛獣が自分の店を占拠していることにすこし慣れてきたようだった。
「どうしてわかる」
機嫌のよい笑みをうかべて問いかえす騎士に、あるじはひきつった笑いをむけた。
「どうしてって、ここには神殿しかありませんよ。やってくるのは神殿関係者ばかりなんですから。このあいだだって――」
「だれかがやってきたのか」
なし崩しにはじめることになった開店準備のために背を向けたあるじは、何気なくたずねる騎士の眼に好奇心の光がやどったことには気づかない。
「きましたよ。旦那みたいなご立派な騎士さまじゃありませんでしたがね。なんとかいう遠くの小さな国のご家来衆で、わざわざ一通の書簡を運ぶためだけに来たってんですからね。あれにはびっくりしましたな」
騎士はまなざしを静かに腸詰めの皿に戻し、ジョッキに手を伸ばして、ひとくち麦酒を飲みくだした。
「神殿の早駆けをつかえば楽なのにな」
「そうなんですよ。そうそう、帰る直前に初雪があって、国に戻れなくなるって大騒ぎになりました。そのなんとかいう東の国は、あの――」
あるじは言葉を終えることができなかった。
いつのまにかカウンターの足下に移動していた老犬がはね起きて、異変を告げるように吠えたてはじめたからだ。
外から雷鳴のような馬のいななきが聞こえてきたのと、ほぼ同時だった。
「なんだ。なにが起きたってんだ?」
食器をかかえたまま硬直したあるじが、やっとのことでそう口にしたときに、すでにカーティスは狭い店内をひとまたぎしていた。扉を乱暴に蹴りあけると、枠にぶつからないようにひょいと背をかがめて外へ出る。
蹄の音の聞こえる方向を見ると、いさましげに頭をふりあげた黒馬が、ものすごい勢いで遠ざかっていくところだった。手綱の先に大荷物をぶら下げているが、ほとんど気にとめてもいないようだ。足どりは力強く、どんどん加速している。
「とんでもない馬だな、あれは」
感心したようにひとりごちたカーティスは、荷物になりさがった従者にむかって大声で言った。
「半刻後には戻ってくるんだぞ。遅れたらおまえの分も私がいただくからな!」