天空の翼 Chapter 1 [page 7] prevnext


7 鳴りひびく鐘の音


 エリディル神殿の鐘楼は、かつてここが砦として機能していたことを物語る名残のひとつで、もともとはおもに戦線の異状を報せる警鐘として敷設されたものである。
 城壁とおなじ石材で隙間なく組みあげられた背の高い建造物は、物見としての機能も兼ね備えていた。砦でもっとも高い視点を得ようとするものは、ここにきて、眼下にひろがる壮大な景色に息を呑んだことだろう。
 砦はのちに神殿となったが鐘楼と鐘は残された。現在は一日に一度、当番の修練生が太陽の沈む時を告げるために長い石段をのぼっている。グローズデリア帝国の末期には、攻め寄せてくるかもしれぬ兵の存在を案じて、守備兵が塔の上で不寝番をつとめたこともあったようだが、戦の気配の絶えたここ数十年の間、鐘は神殿の祭祀以外の目的で鳴らされたことは一度もない。
 その鐘が、飛びたつ数十羽の鳩の影とはばたきを前触れとしていきなりうち震えはじめたとき、人々は裁きの雷にうたれたように硬直して、そのあといっせいに顔をあげた。
 一瞬にして神殿中が騒然とした空気につつまれた。
 斜面をえぐって築かれた神殿の石造りの建造物のなかでは、それからしばらく悪夢がつづいた。天蓋にひびを入れよとばかりの勢いで鳴りつづける金属製の音源が頭上にあったうえに、むきだしの硬い岩盤と周囲の堅牢な建物に音が跳ね返り、二重三重に響きわたることになったためである。
 人々は驚きととまどいに顔を見合わせた。そばにいたもの同志で確認をとろうにも、相手の声すらろくに聞こえない。
 守備隊の兵舎のかび臭い一室にて、指揮棒よろしく長柄のほうきをふりまわしていたモード・シェルダイン女官長と、数名の女官長の“下僕”たち、そしてそのようすを遠巻きに見物していた神殿の守護フェルグス・ディアノードも例外ではなかった。
 最初の硬直がとけたのち、かれらは石造りの建物の穿たれた穴のような数少ない窓を奪い合った。
 鐘の音は半狂乱に連続しつづけ、大気をぶるぶると震わせて山嶺の彼方、街道のむこうへとひろがっていく。音は神殿内のありとあらゆるものに衝突して反響していた。奏でられているのは気持ちの悪い不協和音だ。
 女官長はほうきをつかんだまま不快を堪えるようにして眉間にしわを寄せ、いんいんと金属音の響く兵舎の薄暗い廊下を、そびえたつ鐘楼のてっぺんが見える場所を探し求めた。もっとも見通しが効くと思われる窓をとりついていた下働きに譲らせたものの、もとより外郭寄りにあるそこからでは逆光を浴びた鐘楼の影以外を拝むことはできない。
 上空には、あわて飛び去る鳥影以外のものは見あたらなかった。火事の兆候を示すような不審な煙が立ちのぼっているようすもない。
 女官長は、顎をあげた苦しい体勢からほうきに身を預けつつ、あらためて鐘楼に視線を移した。柱の影に複数の人影が慌てているようなのが見えた気がしたが、かれらが何者なのか、鐘を鳴らしながらなにを叫んでいるのかまでは特定することはできなかった。
 うるさすぎて、神経を集中できないのだ。
 眼下の閲兵場にはかなりの人数が集まり始めて、埃がもうもうとたちこめるなかを右往左往している迷い人のようだった。驚きにこわばった顔をあげるもの、鐘を指さしているもの。いちように何事かを叫びあっているようなのは、おたがいの声が聞こえないからだろう。
 この鐘の鳴らし方はやかましすぎる。女官長はそう思った。
 澄んだ響きと秩序法則を重んじるはずの神殿の聖なる鐘は、いまや完全に無意味な騒音をつくりだす忌まわしきものに堕していた。
 滞るばかりの日課のため、このときすでに業を煮やしかけていた女官長は、鐘の音によってひきおこされた強い感情をもてあましかけ、苛立たしい一日の責任をなすりつけるためのより根本的な原因を求めはじめていた。


 その日、辺境の神殿は目覚めたときから奇妙に浮き足だっていた。落ちつきなく注意力散漫で信用のおけない雰囲気が、静穏であるべき神殿の空気を不穏当にかき乱し、人々の神経を高ぶらせていた。
 春のもたらす昂揚感のためと思いたがるむきもあったが、すべての雪が溶け消えてからでもゆうに二週間が経つ現在、モード女官長は昨日届いた伝書鳩による報せが原因と冷静に判断を下した。
 翼のもたらすしらせに日常的なやりとりがふくまれることはない。これほどまでに大仰な届き方をした書簡が人々の好奇心を刺激しないはずがなかった。
 憶測と妄想だらけの噂話は俗人に留まらず、神官にまで蔓延していた。これではつとめに専念できるわけもない。早朝の祈祷での神経質な一幕にはじまり、あちこちで失態が多発していた。あがってくる報告によると、それは些細なものからあやうく大惨事に発展しそうなものまで多岐に渡っており、女官長のため息は深くなった。管轄外であるはずの兵舎の大掃除を、女官長みずから監督することにしたのも、事故を未然に防ごうという意識が働いたためだったのである。
 守護の協力を仰いでかき集めた非番の守備兵と、有無を言わさず頭数のなかに含められた手すきの下働きたちは、柔和ではあるが妥協しないことで知られる女官長のきびしいまなざしの光るなか、神妙な顔をして掃除をはじめた。しかしそれも時ならぬ大掃除の理由をだれかが嗅ぎつけてくるまでだった。
 目前を入れ替わり立ち替わりする女官長の“下僕”たちは、次第にこそこそと目くばせをしあうようになり、私語が増え、手元がおろそかになり、そのことに気づいて女官長は顔には出さなかったがひそかに歯がみをしていたのだ。
 アーダナ大神殿。それは、旧グローズデリアの領域に蜘蛛の巣のように張りめぐらされた巨大な神殿組織の総元締めである。
 古色蒼然とした埃っぽい権威につつまれた大組織と、それをうごかす傍目には高潔ぶった権力者たちの思惑など、一介の女官長の斟酌するところではないが、ふりまわされるばかりの神官長のふがいなさにはため息が出た。大神殿からの使者とはいえ、たかだかひとりの若造を迎えるために、一週間も前から兵舎全体の掃除を命じるのは卑屈としかいいようがないし、肝心の問題をすり替える行為でもある。
 とはいえ、モードはそんなことをわざわざ指摘してみせるほど若くはなかった。いずれにしろ兵舎の掃除はいつかはしなければならなかったのだ。とりあえずそう考えることでモードは気を取り直した。
 しかし、我慢の限界というものはだれにでも存在する。
 聖騎士来訪の報がいつのまにか洩れ、六の巫女に心の準備をさせる間もなく神殿中に広まっていたことはいうまでもなく。
 長年放置されてきた兵舎にようやく足を踏み入れてみると、そこは掃除のし甲斐があるという以上の惨状であったうえに。
 あげく、“下僕”たちは使い物にならず、掃除ははかどるどころではなくなり。
 そこに、この惑乱めいて鳴らされる鐘である。
 天に対する後ろめたさを共有するものたちが最初の一撃で凍りついたのも無理はない。しかし、それはそれとして、神殿の秩序を完璧に無視する行為を前に、女官長の苛々は頂点に達しかけていた。表情が怒りにこわばりはじめているのが彼女自身にもわかる。
 誰のしわざかはまだわからないが、犯人を突きとめたら焦げて消し炭になった焼き鳥のように後悔させてやる。
 女官長はかたい決意とともに窓から離れて、鐘楼へと至る薄暗い道の第一歩を踏み出そうとした。そのとき初めて、いまだにつづく金属音の合間に複数の男のわめく声が混じっていることに気がついたのだ。
「……だ! アーダナの……だ! ……がやってきたぞう!」
 きれぎれの音をようやくのことで言葉として聞きとった女官長は、我にかえって周囲を見渡し、少し離れたところで窓から身を乗り出している大柄な男の姿をみつけた。
 聖騎士団に所属する高位の騎士であり、現在はエリディル神殿の守護職を拝命しているフェルグス卿は、自分の領域で進行していた不穏な気配を案じ、わざわざ仕事を中座して“下僕”たちに睨みを利かせていたのだが、鐘が鳴りはじめたときには殺到する部下たちをさしおいてすばやく自分用の窓を確保していたらしい。
 ちょうど右の肩越しにこちらをふりかえった壮年の騎士の顔には、驚きの表情が浮んでいるのがわかった。半ば影に沈むような薄暗さにもかかわらず、である。
 かれもあれを聞いたのだ、とモードは理解した。そして、フェルグス卿のごつごつとした骨太の顔から衝撃が薄れ、困難に対処するときによく見せる重々しい表情にとってかわるのを見守るうちに、彼女は自分自身思いもよらない非難めいた言葉を口走ってしまっていた。
「昨日の今日ではありませんか」
 声は、幸いなことにふたたびの鐘の音にかき消された。フェルグス卿の耳にはおそらく届かなかっただろう。
 はやすぎる。女官長が最初に感じたのは、不安と表裏一体となった不審だった。
 鳩がたどり着いたのは昨日だ。到着まであと一週間とみた計算の、どこに誤りがあったのだろう。まだなにもしていないという焦りが胃を重苦しくつきあげてきた。掃除ははじめたばかりだし、六の巫女にも、まだなにも告げてはいないのに。
 いっぽう、彼女の視線を切って窓に顔を戻した男は、唸るように渋面をつくった後、べつの事実をいまいましげに放って寄こした。
「鐘楼にいるのは、うちの若いのだ」
 ということは、先ほどから老騎士の従者の姿が見えないと感じていたのは、あながち気のせいではなかったのだ。
 同時に、この見にくい角度からよくも人影の見当をつけたものだとモードは感心した。遠目が効くのは、老視のせいだろうか。フェルグス卿の人生はすでに老境にさしかかっている。若いころに鍛えた体型をほぼ維持しつづけ、姿勢が素晴らしくよいせいで、普段は年齢を感じさせるようなことはなかったが。
「とにかく、確かめねばなるまいな」
 フェルグス卿はしわがれた低い声でそう言うと、率先して陣頭に立ってきた騎士らしく、年に似合わぬ俊敏さでその場を後にした。向かうのは鐘楼か、あるいは正門か。女官長は遠ざかる大きな背中をただ見守るようなことはしなかった。あわてて後を追いかける。途中でまだほうきを持っていることに気づいたが、放り捨てる場所も余裕もなかった。
 胸騒ぎがした。
 去年の秋にディアネイアから神妙な顔をした使者がやってきたときから、モード・シェルダイン女官長はこんな日の訪れを予感していたような気がしてならなかった。
 使者が携えてきたディアネイア侯爵の書簡は、私事ばかりを優先させて状況をわきまえない無思慮なものと思われた。神殿側はその書簡を受け取らなかったことにした。真面目に相手をしただけ落とし穴にはまりそうな気がするほどに馬鹿げた内容だったのだ。
 侯爵の書簡の末尾にはおなじ内容をアーダナ大神殿に請願として送ったと記されていたが、それが聞き届けられることもあるまいというのが、エリディルの神殿幹部の、いや正確にいえば事なかれ主義の神官長の出した結論だった。
 ディアネイアは六の巫女の生家である。もちろん、一族の長が血を分けた娘の将来を考えるのは自然なことだ。年頃になった巫女が宝玉を返上して還俗するのは当然だとディアネイアが主張していることも、一般論としてならば神殿も否定しない。否定する理由もない。
 だが、フィアナ・ディアネイアが普通の巫女だったことがあるだろうか。
 その事実を神殿は公表することを避けてきた。六の巫女本人も知らない事柄である。だが、ディアネイアだけはすべて承知しているはずの事実でもあった。フィアナが巫女となったときのいきさつからして、知らない方がおかしい。
 ディアネイア候の「深刻な事情」を説明する書簡は表向き一笑に付され、神官長がとりあえず報告と確認を兼ねた書簡をアーダナに送ってこの件は終わったかに見えた。
 しかし、この些末なはずの出来事は、神殿の平穏に複雑な影響を及ぼしていたのだ。
 仕事柄巫女たちと間近で接する機会の多いモードは、フィアナをとりまく空気が変化しつつあることを感じずにはいられなかった。
 ディアネイアの使者が帰ったのち、フィアナがもうじき巫女を降りるのではないかという憶測が、罪のない噂話に混じってささやかれだした。神殿の人々はそれまで何気なく受け入れていた六の巫女が、驚くほど長い期間エリディルにいることに気がついて、今後もいっこうに去る気配がないことに、あらためて不審を感じはじめていたのだ。期待はずれの巫女には遅すぎる引退だと揶揄するものもでた。もちろん、いやしくも宝玉の巫女であるフィアナに面と向かってそんなことを言うものはいはしなかったが、早朝の聖堂で六の巫女のようすに興味をいだくものが増えたのはたしかだ。
 そんなおりに、鳩のしらせが届いた。
 ――アーダナ大神殿から派遣された聖騎士が、エリディルに向かっている。
 ブレントルからの書簡に記されていたのはただそれだけだったが、青ざめた神官長の血管の浮き出た手から渡された折り目だらけの書簡をみて、女官長はかすかに息を止めた。
 その小さな紙切れが、ディアネイア侯爵の請願から始まった居心地の悪い事柄の、深刻な余波であることはあきらかだった。
 問題を処理するにあたってアーダナは、通り一遍の返事を定期の早駆けに託すこともできたはずだ。わざわざ正規の使者を派遣するということは、高い次元で相応の判断を示す必要があるとみなしたことを意味している。
 それは、エリディルにとっては重大な困難がふりかかってきた、というのとおなじことだった。
 このときだけは女官長にも神官長が哀れに思えた。正気の聖職者が平穏な信仰生活を送りたいと願うなら、アーダナという名に象徴される権威権力との関わりはできるだけ避けようとするだろう。俗人にとっては徳の高い聖職者たちの集まりに見えるのかもしれない。しかし、組織内部の人間にとっての中央は、なかを透かし見ることなど不可能な暗黒の底なし沼のごとく、我欲に満ちた有象無象のひしめき合いから生まれる得体のしれない巨大な力なのだ。
 ディアネイアの駝鳥め。
 守護の大きな背中を追いかけて、うっすらとした細い光によってかろうじて見分けられる階段を、ときおり踏み外しそうになりつつ駆け下りながら、女官長は心の中で毒ついた。
 長年抱きつづけてきた東の小国への同情心は、ここ暫くのあいだにすっかりぬぐい去られていた。
 まだ鐘は鳴っている。


 湿っぽく薄暗い建物から出ると、埃まじりのかわいた風が穏やかに吹きぬけていった。ようやく間遠になり始めた鐘を背景にして、うろうろとようすをうかがう姿があちこちに見える。神殿守護と女官長の姿に気づいて寄ってくるものもいたが、フェルグス卿はそれには取りあおうとせず、ずんずんとそびえる石の塔にむかって進み、進みつつ腕をふり上げてなにかを怒鳴っていた。
 大きな男についていくのは大変だと、モードは思った。息が切れてくる。そして、やたらに人とぶつかる。ぶつかった顔のほとんどは識別することができたが、どの顔も、ことの真相について説明できるほど状況を心得ているようには見えなかった。モードはほうきで人を払い進路を確保しようとしたがあまり効果はなかった。
 するうちに、いつのまにか守護の背中が見えなくなってしまった。どこをめざすべきかを自分で考えなければならない。
 フェルグス卿は狼藉の犯人を絞りあげにいったのに違いない。とすると、こちらは正門へ行くべきだろうか。しかし、本当に起きたことは、いまだに判然としていない。
 無駄足を踏むことを躊躇して、ふと足を止めたところで、やみくもに駆け込んできた何者かとまともに衝突した。驚きに怯みつつ、よろける身体をようやくたてなおす。ほうきがあってよかったとはじめて思う。杖の代わりにぴったりだ。
 くすんだ緑の瞳で不安そうにのぞきこんできた娘は、六の巫女付きの侍女ミア・ハーネスだった。ふもとの酒場の末娘でまだ経験が浅く、やることがちぐはぐだが元気と愛嬌はある。ぶつかったのが女官長だと気がついて、身ぶり手ぶりを交え懸命になにやら訴えはじめたが、言っていることがさっぱりわからない。不意打ちを食らわせ、こちらの胸にとんだ衝撃をもたらしたというのに挨拶もなしかと、幾分皮肉に思いながらも、赤っぽい髪をふりみだしてのひどく真剣なようすには心をうごかされた。
 この娘は、なにかを知っている。それがうるさい鐘の理由をあかすことなのか、聖騎士と関わることなのかは不明だが、六の巫女に――フィアナ・ディアネイアに関係した何かであろうことを、モード・シェルダインは直感する。
 女官長は、焦れて地団駄を踏まんばかりになっている侍女の腕をつかむと、耳元でするどく命じた。
「なにがあったのです!」
 ミアは一瞬ぽかんと彼女をみつめ、それから思いついたように腕をつかみ返してきた。また何事かを叫んだが、今度はなにを言いたいのかわかったような気がした。侍女が彼女の腕をつかんだまま、強引にもと来た方向へとひっぱりはじめたからだ。
 村育ちの丈夫な二本の腕によってひきずられかけた女官長は、痛みをやわらげるために逆らうのをやめ、逆に背中を押してはやく進めと叱咤した。不意をつかれた侍女はつんのめり、気分を害したようにふり返ったが、凄む彼女の顔を見て大きくうなずいた。そしてお持ちしますとばかりに、右手のほうきをすばやく奪い去った。
 ほうきをふりかざして、侍女は走りだした。
 女官長はその背中をふたたび追いかける。
 正直言って、走るのはあまり楽しいものではなかった。モードは自分がちょっとばかりふくよかすぎるのを自覚していた。足ももとから速い方ではない。だが、ぐすぐずしている場合ではなかった。若い侍女の身軽なうごきと、舞いあがる埃に悪態をつきながらも、懸命に駆けた。
 そのうちに息があがり、心臓が破裂するのではないかという不安が現実的になってきた。侍女はどこまで走りつづけるのだろう。
 じんわりと痺れた感覚の残る耳に、多くの人間の興奮した叫び声があちこちから飛び込んでくる。
「おーい、聖騎士だ。アーダナの聖騎士のご到着だぞう!」
 女官長の足が止まったことに気づいて、侍女がふりかえる。
「ミア・ハーネス。あなたは私をどこへ連れていこうというのです」
「フィアナさまのところです。フィアナさまが〈見晴らしの壁〉から落ちたんです」
 そのとき、自分は鐘楼から突き落とされたのではないかと、モードは思った。
 怖れていたことの正体が、とうとうあきらかになったらしい。
 悪しきものを呼び起こす、はじまりの声。
 エリディルの子供たちが炉辺の夜語りとして聞かされる物語の一節が、唐突に胸によみがえった。災いの誕生を予感したあるものの哄笑が、大地の上を不吉な風となって走りぬける――
「意識が戻らないんです。それで、ちょうど通りかかったアーダナの騎士さまが――」
 半泣きのミアの声が、ままだ遠くからのもののように聞こえる。
 ふたりは守備隊宿舎の裏手にやってきていた。開閉の面倒な正門にかわって普段使いとして用いられている通用門へとつづく、さほど広くはない空間は神殿中から集まってきた人々でごったがえしていた。
 すでに傾きはじめた陽光と石造りの建物とがつくりだす光と影のうち、そこはわずかながらも光の射し込む場所だった。かれらは分厚い城壁に穿たれた暗い通路に顔をむけ、ざわざわとなにかを待ちうけている。人垣を無理にかきわけて進むうちに、ほうきを持った侍女と女官長に視線が集まった。先ほどまでの混乱が嘘のように人並みが退いていく。
 あとすこしで門までたどり着くというところまでやってきたとき、槍を手にした当番兵が気後れしたように後ずさりする姿が見えた。そのかたわらを、昂然と頭をそびやかした二頭の馬が、蹄の音も高く光の空間へと歩み入ってきた。
 鹿毛と、黒毛。大柄で骨太。光沢のある毛並みに発達した筋肉のうねり。どちらも質素ながら手入れのゆきとどいた馬具をほどこされ、汗のにおいをさせて濃い色のたてがみをふり払い、鼻息荒く足踏みをくり返している。力感あふれる姿に、感嘆の声があちらこちらであがった。蹄が大地を蹴るごとに震えがつたわってくるような、まさしく、騎士を乗せるために育てられた戦馬だ。
 だが、人々の視線は、否応なしに鞍上の大柄な人物へと惹きつけられていた。
 宵闇色のマントをまとう長身の男は、自分を見あげる人々の顔にとうに気づいて、青い瞳に興味深げな笑みをうかべていた。
 背後につき従っているひとまわり小柄な若者は従者だろうか。黒馬の手綱をひき歩いてやってきた埃まみれの姿は、まるで騎士の影であるかのように地味だった。ひとびとの視線はとどまりもせず、すぐに騎士そのひとへと戻ってゆく。
 巌のようなフェルグス卿を間近に見ているものたちには、来訪者の姿は幾分細身に感じられた。しかし、馬上での力みのない身ごなしや瞳の炯々とした輝きは、のんびりとくつろいでいる大型の獣を思わせるものだった。わずかに波うつ長めの金髪が、美しいとはいえないものの野性味のある魅力的な顔をたてがみのように縁どっており、陽光の粒子を全身におびてたたずむ姿は、あかるく品のある力強さにあふれていた。乙女の憧れを絵に描いたような、みごとな聖騎士ぶりといえるだろう。
 大神殿のたてた使者にしては、ずいぶん若い。しかし、若造と誹られればかえって喜ぶのではないか。そんな印象を与える笑みが、周囲から自然にあがった歓声に応えて荒削りな顔にくっきりとあざやかになる。騎士は革の手袋につつまれた腕をあげ、挨拶をするように優雅にひとふりすると、かろやかな身のこなしで大地におりたった。
 その騎士の鞍の前に、見なれた金髪の少女が居心地悪げな顔をして横向きに腰をかけていた。
 ともあれ、意識は戻ったらしい。安堵する一方で、女官長は六の巫女の茫洋とした表情をみとめた。堂々たる美丈夫である騎士のすぐそばで、巫女は巣から落ちて迷子になった雛鳥のように見える。いかにもみすぼらしく頼りなげなようすに胸を衝かれて、モードは足を速めた。
 ディアネイアの使者は、エリディルにとってのはじまりの声だった。
 鳩は、避けられぬ災いの接近を告げる先触れとしてやってきた。
 聖騎士のさしのべた手にすがりつつ、よろめきながら馬を下りる姿を目の当たりにして、モード・シェルダインは悟りつつあった。
 いま、このとき、この場所で、現実の黒き鉤爪がついに予兆を捉えようとしている。
 女官長は覚悟を決めて大神殿の使者に歩み寄った。
 まず、あの頭をどうにかしてやらなければ、と女官長は思う。
 フィアナのあわい金髪は、侍女の苦労を嘲笑うかのように、空気をふくんだ羽毛さなざらくしゃくしゃと風に弄ばれていた。



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