天空の翼 Chapter 1 [page 8] prevnext


8 聖騎士来訪


 差しだされた大きな手につかまって馬から下り、地面に足が触れたとたん、フィアナはその場にへなへなと崩れ落ちた。
 体中の力が消え失せてしまったような空白感とともに、さきほど目覚めてからずっとつづいている二重写しの感覚が周囲の現実味を奪って、いまだに夢の中にいるような気がしている。
 いや、夢を見ていたわけではなかった。
 フィアナ自身の感覚では、彼女はつい先ほどまでシャンシーラの花見物のために〈見晴らしの壁〉の頂上をめざしていたはずだった。先にいってしまった侍女を追って、狭く長い石段を息を切らしながらのぼっていたはずだったのだ。
 たしかに、その途中で、身体の平衡を失ったことは覚えていた――硬く冷たい石段を背景にして、白い花びらの風に舞う光景が、いつもならそんなふうに見えるはずのない、不自然な角度で脳裏に残っていた。
 しかし、そこで記憶はふつりと途切れている。
 気がつくと、周囲の景色は、目を閉じる前にいたはずの古びた城壁のつらなりとは異なったものになっていた。
 見覚えがないわけではない。むしろ、〈見晴らしの壁〉よりもよく知っている場所である。しかし、ここはさきほど通りすぎたはずではなかったか。いつのまに、出てきたばかりの通用門の前に、また戻ってしまったのだろう。
 しかも、フィアナの視点は不自然に高い位置にあって、激しく揺れうごいていた。縦方向にも横方向にもだ。視点だけではない。身体全体がなにかと一緒に大きくゆすぶられている。
 同時に、金属から生みだされる不機嫌な音の波が、大気の自然な流れを複雑に狂わせながら、幾度も通りすぎていくのを全身に感じた。波は神殿の建物ばかりか、四方の山麓にもうち寄せて、あたりにかすかではあるが奇妙な渦を生みだしている。
 これは神殿の鐘楼の鐘の音だと、フィアナは気づく――これまで聞いたこともないくらい、たくさんの雑音が悲鳴のように混じっているけれど、たしかに覚えのある音がある。
 鐘の音には、フィアナ自身が身のうちに持っている音の感覚に干渉し、逆撫でる不協和音が大量に混じっており、それを耳にしているだけで全身にふるえが走るような心地がした。
 しかし、実際に身体がゆれているのは、跳ねる馬の背につけられた鞍の上に座って、一緒になって飛び跳ねているせいだ。
 記憶よりもわずかに弱まった気のする陽光が、木立の合間からまだらにふりそそぐ薄暗い空間で、大音響に怯えた馬は、いななきをくり返して暴れていた。
 不快な金属音のために気づくのが遅れたが、懸命に馬をなだめる力強い声が、さきほどからすぐ近くで聞こえていた。フィアナの身体を抱きささえているのは、声の持ち主のたくましい左腕だった。鈍色のマントにくるまれて、フィアナは馬上で男に横抱きにされていた。これ以上ありえないほどゆさぶられているのに、落下の不安を感じていないのが自分でも不思議だ。
 際限なくつづくかとおもわれた鐘の狂乱が次第に止んで、静けさがゆっくりと影のように周囲に降りてくると、馬は跳ねるのを止め、足踏みをはじめた。憤慨したように首をふり、鼻息を荒げてはいるものの、徐々に落ち着きを取り戻しているようだ。
 フィアナは、肩をそっと叩かれる感触に気がついて、はじめて自分の状況を正確に把握した。手が握りしめているのは、自分のではない宵闇色のマントだった。彼女はこの人物の懐に抱きかかえられていただけではない。必死になってしがみついていたのだ。
 上等だが丈夫そうな布でできた装束につつまれた、分厚い身体をたどって視線をあげると、そこにはがっしりとした骨格をもつ年上の男の顔があった。
「やあ、気がついたな」
 この角度で、この距離で、こんなふうに相手を見あげたことがある。
 そんなおかしな記憶が胸によみがえるのを他人事のように否定しつつ、フィアナはぼんやりと男の顔を眺めた。
 見たことのない顔だ。意志の強そうな眉。目尻や大きな口元にはかすかな笑い皺がある。見おろしてくる瞳は好奇心と親しみにあふれた、あざやかな夏の空の色だ。
 ――ちがう。
 頭のどこかで、なにかが否定した。その根拠がどこからやってきたものかわらずに、フィアナは困惑する。
 穏やかな声音でなにかを話しかけてくる男の声。
 陽光の落ちる角度と、いつのまにか風にふくまれてきた、わずかな湿り気の匂い。
 湿った地面に落ちては吹き寄せられている、白い花びら。
 足下と背後から振動にあわせて響く、リズミカルな蹄の音が二頭分。
 さまざまなことが、いつもより少しだけ遠くで起きているように感じる。とてもへんな気分だ。


 通用門を通りぬけ、人々の待ち受ける裏庭にたどりついてみても、フィアナにまといついた違和感は去らなかった。まわりからあがる声が、現実よりも一拍遅れで耳をうつような心地がする。期待と好奇心と緊張にあふれたいくつもの顔に、フィアナは漠然と視線をめぐらせていた。
 顔ぶれの中には、青鈍色と白の装束をまとった神官たちが、何人も含まれていた。つとめを放りだしてまで集まるなら、もっと居心地のよい場所がありそうなものなのに。
「おおっと」
 頭の上から深みのある男の声がふってきて、身体を支えられた。
 自分が馬から下りている途中だということを、フィアナはすっかり失念していた。汚れた石畳に触れる寸前、落下が止まる。泥と鳩の糞だらけの地面に座りこまないよう、がっしりと彼女を受けとめた男の顔に、苦笑の前触れが浮かんだ。
「まだすっきりお目覚めとはいかないようだね、フィアナ?」
 男の口調に理由のわからない違和感を感じるのは、いまだにさきほどの鐘の音の残響が、頭蓋の中で消えずにあるせいなのかもしれない。
 腕をひいてそっと立ちあがらせようとする騎士に逆らうことも思いつかずに、フィアナはとりとめもなく考えた。
「フィアナさま」
「フィアナさま!」
 聞き覚えのある声に呼ばれてゆっくりとふりかえると、なぜかほうきを手にして泣き笑いのような表情のミアと、怒っているように見える女官長の姿があった。そのまま駆け寄ってきてしがみつき、盛んによかったとくり返すミアの横で、女官長はだらりと下がっていたフィアナの手をとりあげて、肉づきのよいあたたかな両手でつよくおしつつんだ。
「石段から落ちたそうですね。怪我は?」
 鳶色の瞳につよく問われて、フィアナは首を横にふった。
 となりでミアが、落ちたんじゃありません、と否定したが、どちらでもおなじことだった。身体のあちこちに違和感があるような気がするのだが、ここだとはっきり名指すことができない。そうですか、とうなずく女官長の手のぬくもりまでもが遠かった。
 反応の鈍さに眉をひそめた女官長は、フィアナの顔にかかり落ちていた髪をざっとかきあげると、そこから何かを摘みとった。
「宝玉の巫女へのご助力を感謝いたします」
 女官長がおもてをあげ、かしこまった硬い表情で、いまだにフィアナを背後から支えている男に話しかけた。
「どういたしまして。名高いエリディルの巫女のお役に立てて光栄です」
 名高い巫女。
 それはいったい誰のことだ?
 ひそかに浮かんだ疑問は、フィアナを覆う夢見心地の場を突破して表に出ることはなかった。
「ちょうど通りかかったのが幸いでした。〈見晴らしの壁〉といいましたか、あれは見事な遺跡だが、少々危険な場所でもありますね」
 男は穏やかに女官長の言葉を受けながしつつ、使っていないほうの手で後を手招いた。すると、いつのまにかやってきた黒い影が男の手から手綱を受け取り、すばやく離れていった。まるで、一瞬にして風が駆けぬけていったかのようだった。
 間近でつづいていた馬の鼻息が遠くなる。
「失礼ですが、あなた方がアーダナからおいでになったというのは、真実でございましょうか」
 女官長のいくらかためらいをおびた問いを、男はあっさりと肯定する。
「ああ、そうです。名乗るのが遅れて申し訳ない。さよう、我々はアーダナの都より参った者です。それにしても、この度の出迎えはまた、すばらしく派手で勇ましいものだったな。エリディルではいつもこんなふうに客を歓迎するのですか」
 とびきりの笑顔でいわれたものの、女官長は、そして周囲のものたちも、このいいぐさになんと反応してよいものやら戸惑っているようすだった。
 先ほどの大騒音を皮肉っているにしては、騎士の笑顔は楽しげだった。しかし、あれを歓待とうけとることのできる人物の神経はというと、大いに疑わしいと考えざるを得ない。
 困惑と苦笑のざわめきがあたりで起こる。
 そのとき、
「カーティス。カーティス・レングラードか!」
 人だかりを突き破って飛びだしてきた人影が、耳慣れぬ名を叫んだ。
 あの、太い管に裂け目が幾つかできたようなしわがれた声の主は、フェルグス卿だ。姿を見る前にフィアナにはそれがわかった。
 フィアナは、どっしりとした守護のかたわらに、ほとんどひきずられるようにしてやってきた赤褐色の髪の若者の姿を同時にみとめた。その若者も、年長者同様、こちらを向いて驚きに目をまるくしている。
「……フェルグス卿か」
 エリディルの守護に名を呼ばれた男は、すぐそばにいた者にしか聞こえないほどの小さな息をついた後に、女官長の腕にフィアナをそっとゆだねた。まっすぐに背を伸ばし、年降りた巌のような存在感を放つ老騎士のもとへと、大股に歩みよる。
 うやうやしい、正規の騎士の礼。ゆとりをもった優雅とさえいえる所作の途中で、ふたりの騎士の鋭い視線がまっすぐにかち合う。
 両者はふいに物騒な微笑を浮かべたかと思うと、唐突にたがいの距離を詰め、同胞の無事を確かめあうように強く肩をいだきあい、手のひらで背中を盛大に叩きあった。
 周囲は、大男同士の豪快な旧交のあたためあいに度肝を抜かれた。
「久しいな、カーティス」
 興奮して息をはずませながら、フェルグス卿は若い後輩と相手を握りつぶしたいのかと思われるような握手をし、相好を崩した。太陽にさらされた皺ぶかい顔に、なお深い溝が刻まれる。
「お元気そうですね、フェルグス卿」
「こちらに来る予定があるとは知らなかった。事前に報せてくれれば……」
 そこでフェルグス卿は、はたとなにかに気づいたようだった。色素のぬけおちた長い眉があからさまにひそめられ、そのようすにカーティスと呼ばれた男は、ようやく放してもらった手をふりながら、すこしだけ残念そうな笑みをうかべた。
 いっぽう、支えを失ったフィアナは、今度は完全に地面にへたり込んでいた。
 あわてて抱きかかえてくれた女官長に、もう一度大丈夫かと尋ねられたが、フィアナはやっぱり首をふることしかできなかった。女官長が服についた汚れをふりはらい、周囲にそれぞれの持ち場に戻るように命じ、てきぱきとフィアナを部屋へ連れていくための指図をするのをぼんやりと見守る間も、現実に薄い布一枚を隔てたような感覚がどうしても去ってゆかない。すべての物事に焦点が合わず、はっきりとした輪郭がつかめないのだった。
 そんなふうになにもかもが遠く感じる中で、ひとつだけ存在をしつこく主張しつづけているものがあった。身体の違和感だ。よわよわしく脈打つような感覚が、あちこちにかすかな滞りを生んでいる。
 とりわけ意識されるのは、手だった。右のてのひら。フィアナは自分の手に何が起きたのだろうと不思議に思う。腕の感覚が半ば消えているのに、どうして手ばかりが気になるのだろう。
 それと、胸の奥でなにかがふるえているような奇妙な気持ち。
 これは不安だろうか。それとも別のなにか?
 視界の先では、フェルグス卿が、乱暴に来訪者をどやしつけながら、女官長に紹介している。
「モード、こいつは確かにアーダナ聖騎士団の一員だ。わしが保証する。ちょっとばかり、まっとうな道から外れたヤツだが、悪いヤツじゃない。……と、いうことはやっぱり大神官のお遣いってことなんだろう。卵の殻にかけて、本当のことを言え、カーティス」
 アーダナの聖騎士。フィアナは自分でも驚くほど冷静にその言葉をうけとめていた。もしかしたら、これからの自分の運命を大きく変えてしまうかもしれない、本当にやってきたら逃げだしてしまうかもしれないとさえ思っていたはずの、あのアーダナ聖騎士団の騎士と、こんなに間近で対面しているというのに、不思議なほどに心がうごかない。あまりにも予想を超えた状況で出会ってしまったせいだろうか。驚く暇すらなかったという方が正しいかもしれない。
 だが、これで皆にとりかこまれて、大げさに騒がれなければならなかった理由がわかった。神殿の人々は、この男を迎えるためにここに集まってきたのだ。さきほどの鐘は、騎士来訪を告げるために鳴らされていたのに違いない。
 神殿守護の直截な言葉に、騎士は苦い笑いを隠せない。
「いやいや、御使いのしろき翼に誓いますよ……そのとおりです。猊下の書簡を預かって参りました。エリディルの神官長あての親書です」
 カーティス卿の声は、おどろくほどによく通った。すでに野次馬の姿はまばらになっていたが、まだ遠巻きに様子をうかがっているものもいる。女官長が神経質にそれとなくあたりをうかがい、それにつられたようにフェルグス卿が、特定個人の姿を求めてぐるりと首をめぐらせた。
「ダーネイは……」
「あの方がここにおいでになるとは思えません」
 女官長の皮肉混じりの指摘に、老騎士は薄くなりかけた頭頂部を太い指でがしがしと掻いた。
「そりゃ、そうだな。きっと自分が部屋を出る前にすべてが終わっているように、寝台の影で祈っているに違いない」
 エリディルの神官長に対する辛辣な放言は、その場にいたものたちに黙殺された。
「わかった。わしがカーティスをダーネイのところへつれてゆこう。大丈夫、逃げも隠れもさせはせん」
 フェルグス卿は断固として宣言したのち、ふいに視線を落として、座りこんだままのフィアナの顔をのぞき込んだ。
「六の巫女はいったいどうされたのだ」
「〈見晴らしの壁〉から落ちたとか」
「だが、怪我はなさそうだな。顔色が少し悪いが」
 フェルグス卿は大きな身体を折り曲げて、フィアナのもつれた金髪の上に大きな肉厚の手をのせた。
「大丈夫、案ずることはない。わしらが悪いようにはせんからな」
 皺のなかの色褪せた灰色の瞳にみつめられ、頭をよしよしと叩かれて、ほんのりと心が温められるような気がした。フィアナはなんとか首を縦にふってみせる。
 反応が返ってきたことに満足して、フェルグス卿はさっと身を起こした。
「準備がととのったようです。お部屋に参りましょう」
 女官長に支えられて、フィアナはぎくしゃくと立ちあがった。重心は定まらず、視界はくらくらとゆれるが、めまいの自覚はなかった。めまいと感じるほどに、身体と意識が同調していないのだ。
 その場を離れる寸前に、アーダナの聖騎士はフィアナにあらためて声をかけてきた。
「ではフィアナ。ディアネイアのお父上の話は、またあとで」
 その言葉の意味を理解する余裕は、今のフィアナにはまだなかった。


「大丈夫、どこも折れとらんよ」
 ボーヴィル師は、フィアナのむきだしにされた細い腕や足をとりながら、関節を曲げたり伸ばしたりして手際よくようすを確かめたのち、自分の腰をさすりつつ身を起こした。
 角部屋であるフィアナの私室には、ゆがみが渦のような紋様を描いているガラス窓からまだ陽が射し込んで、太い柱や梁を浮かびあがらせ、壁を覆う綴れ織りや擦りきれた敷物の上にやわらかな影を落としていた。暖炉にも火が入れられて、ここはかなり温かい。
 年代物の色褪せた綴れ織りの中に閉じこめられた、翼といにしえびとの黄ばんだ姿を眺めながら、フィアナは頸に掛かった金鎖にぼんやりと指を這わせていた。
 フィアナは編みあげ靴を脱がされ、服をゆるめられ、背に枕を当てられて寝台に寝かされていた。そのすべてを行った女官長は、襟元をくつろがせようとしているときに服の下におさめてあった金鎖を指にかけて、ひっぱりだしてしまった。
 不意をつかれたように硬直して動きをとめた女官長の姿に、フィアナは、普段は忘れている、自分にあたえられた金鎖の意味をぼんやりと思い出した。
 金鎖の先につけられている石の台座は、空白だった。緻密な装飾の中央におさまって、金鎖ごと代々の巫女に受け継がれてきた宝玉の姿は、現在はそこにない。
 うすい胸の上をころがる細い金属の感触は、持ち主の体温によってぬくもった、多少くすぐったいだけのものであり、それはフィアナにとって、宝玉とは無関係に、幼いころから親しんできた馴染みの感触でしかなかった。
「かすり傷と打ち身だな」
 痩身の薬草園と施療室の主は、ふん、と鼻を鳴らした。引きずられるようにしてここまで連れてこられたのが、よほど面白くなかったようだ。ことあるごとに痛めていると主張する腰を大げさにさすってみせ、恩着せがましいことこのうえない。
 とはいえ、たしかにフィアナの負った傷は、これまでの大騒ぎに見合ったものとは言いがたかった。
 腕や足にいくらかの擦り傷と青あざが確認されたほかは、ボーヴィル師が傷を求めて後頭部に差し入れた荒れた手の感触に、かすかに鈍く痛みが兆しただけだ。
 ボーヴィル師はそれを見て、女官長に頭を支えさせ、その部分を詳細に調べた結果、
「こぶができとる」
 と言った。
 違和感のもっとも強く感じられる右手には、なんの傷もあざもなかった。
「〈見晴らしの壁〉から落ちたとな。ずいぶんと大きな幸運に恵まれたらしいなあ。六の巫女、あんた、そのほそっこい身体のどこかに、羽根でも隠してるんじゃなかろうな」
 つづいた言葉は、感心したようなあきれたような、疑うようなようすで口にされた。
「さっきから言ってますけど」
 傷を洗うための水を用意するため、ひとり離れてテーブルのそばにいるミアが、水差しを持ったまま口を挟んだ。
「落ちたんじゃないんです、前に転んだんですよ。石段を踏みはずしたんです。見てたんですから、私」
「前に転んでこんなところを打つか?」
 フィアナの後頭部をぞんざいにつつくボーヴィル師に、ミアはうっと口をつぐむ。なにか言いにくいことでもあるのだろうか。そこに女官長が追い打ちをかけた。
「ミア・ハーネス、あなたはきちんと心得て巫女のお供をしなければならなかったのですよ。注意をしておいたはずです。巫女ご自身がぼんやりされている分、あなたが補う必要があると。これからは気をつけなさい」
「……はい」
 しおたれたミアが手桶に水をそそぐ作業に戻るのを見て、フィアナはすこしかわいそうになった。
 いま、女官長はあきらかに機嫌が悪い。普段なら、相手を咎めるにしてももっとやわらかくくるむように締めつけてくるはずなのに、口調のはしばしに鋭いトゲを感じる。
「ボーヴィル師、私には、巫女のようすがすこしおかしいように思えるのですが」
 女官長はボーヴィル師の反対側に腰を下ろしていた。フィアナの髪をさぐっては、髪の間に入り込んだ白い花びらをいまいましげに摘みとっている。その作業はなかなか終わらなかった。
 いつのまにこんなにたくさんのシャンシーラの花びらを被ることになったのか、フィアナにはまったく覚えがない。
「なんだか、いつもよりぼうっとして。ここにいないような顔をしています。フィアナさま?」
 呼ばれたフィアナは眼だけを女官長のほうにむけた――むけようとした。しかし、どうしても反応が遅れてしまう。
「ほら」
 勝ち誇ったようにふりかえる女官長に、ボーヴィル師はおざなりに相づちをうつ。
「いずれにしろ、打ったのが頭というのが心配です」
 ボーヴィル師は肩をすくめて、ミアから水に浸した布を受け取った。冷たい布がフィアナの後頭部に触れる。ついた埃をぬぐい、再度傷を調べるが、やはり大したことはないようだった。ふうむ、と唸って、巫女の現実に焦点を結んでいないような眼をのぞき込む。
 ボーヴィル師の瞳は、眠たげなまぶたの下で意外にも鋭く光っていた。
「傷とは関係ないと思うが。心配なら三の巫女に診たててもらうといいよ」
 三の巫女の保持する宝玉は〈神の眼〉だ。クレアデールは人の目には映らないものを多く見いだすことができた。しかし、黒髪の年下の巫女は、期待はずれの同僚の傷を見る必要など感じないだろう、とフィアナは思う。
「ボーヴィル師」
 女官長の険悪なまなざしに薬草園のぬしはひるんだようすもなく、ぬけぬけと断定する。
「ただの、こぶだよ。一晩眠れば、治る」
 しばしの沈黙。
 ほんとうにそうなのだろうかと、フィアナはぼんやり思案しはじめた。こうなった原因は、どこにあるのだろう。
 ああ、それにしても。思い返すとにわかに失望がこみあげてきた。フィアナは、自分が目的を果たすことなく神殿に戻ってきたことに、遅まきながら気がついた。あれほど見たいと願っていたシャンシーラのすぐそばまで行きながら、その樹を遠く仰ぎ見ることしかできずに帰ってきてしまったのだ。
 あとすこし石段をのぼることができれば、咲き乱れる花を誇らしげにかかえる、創始(はじめ)の巫女の大樹のところまでたどりつけたのに。そして、フィアナの守護木がちゃんと花をつけたかどうか、確かめることができたのに。
 フィアナは、悔しさにふたたび拡散しそうになる感覚を取り戻すために、意識を集中しようとした。
 女官長はしずかに息を吐きながらもう一度尋ねる。
「そうですか。命に別状はないのですね」
「ないよ」
 かるくいなすような返答に、女官長は声をあらためた。
「わかりました。それではもうひとつお尋ねします。なにゆえ、あなたは巫女と行動をともにされていなかったのですか。私は、今回の薬草摘みには、あなたのご同行があると聞いた上で、許可を出したのですよ」
 ボーヴィル師は、大げさにそういえばという顔をして視線を逸らし、枯れ葉色をした伸び放題の雑草のような頭を照れたようにかきあげた。
「そうだったかな」
「たしかにそうです」
「思い違いだという可能性も」
「ありません」
 ボーヴィル師は苦しげな笑顔を浮かべたまま、腰を浮かせた。すでに身体の半分は逃げはじめている。
「ま、とにかく、しばらく寝かせておれ。誰かが呼びに来たから、わしはここで失礼するよ。なにかあったらまた呼んでくれ」
 骨張った大きな手で、わざとらしさに満ちた親密さで女官長の肩をつかむと、ボーヴィル師はくるりと身をひるがえした。腰痛をかかえる壮年神官にしては、驚くほどにすばやいうごきである。
「ボーヴィル師、巫女たちの悪さの片棒を担ぐのはおやめください」
「その話はまた今度だ!」
 ボーヴィル師は、あっというまに逃げていってしまった。
 怒った女官長はとぼけた治療師を追いかけて部屋を出てゆこうとした。その背中に、かすれた声がかけられた。
「……」
 女官長がふりかえり、フィアナを見る。
 そこに、つんのめるようにしてミアが飛び込んできて、息もつかせず、矢継ぎ早に問いを浴びせかけた。
「フィアナさま、どうされたんですか、痛いところはありませんか、気持ち悪くはないですか。ああもう、なにか言ってください、フィアナさまったら!」
 身を乗り出してくる侍女に噛みつかれそうな気分に陥りながら、フィアナは言葉を継ごうとしていた。
「フィアナさま!」
「ミア・ハーネス、おやめなさい」
 女官長が制止したのと、フィアナの感覚をせき止めていたなにかが外れたのは、ほぼ同時だった。
 フィアナの喉からはじかれたように飛びだした大きな力は、ほとばしる声となって、部屋中に解放された。
 フィアナは、空気の震えを皮膚を通して感じ、それを生みだしている自分の肉体を、震えを通して感じた。喉や手だけではなく、指も腕も腹も足も、身体を覆う皮膚も、すべてが自分とつながっている。
 現実が、薪の燃えるにおいが、いくつかの鈍い痛みが、べつのなつかしい感覚が、寝台に横たわる体の中に戻ってきた。まるで、調音をした楽器のように、フィアナの意識はしっくりと身体に馴染んだ。嬉しさに、思わずフィアナの表情はゆるんだ。
 かたわらで、ミアがあっけにとられていた。みひらかれた目から、緑の瞳が落っこちてきそうだ。
「フィアナさま、どうなさったのです」
 不安と緊張のせいで詰問するよう響く女官長の問いに、フィアナは、戻った感覚の中でもっとも強く、切羽つまって感じられることを、考える間もなく口にしていた。
「……お腹が空いて、うごけない」
 言ってしまった後で、フィアナは見おろす視線の変化に気がついた。
 感覚に少し遅れて戻ってきた羞恥という感情に、全身がかっと熱くなる。
 そのとき、フィアナのお腹が熱意をこめて同意する音が、その場にいた誰の耳にも、まちがいなく聞こえた。



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