天空の翼 Chapter 1 [page 9] prevnext


9 厨房の災難


 巫女たちの起居する一画から離れるにつれて、年若い侍女の足どりは次第に速くなっていった。
 どれだけ女官長が耳ざとくても、ここまで来れば足音が響いたりすることはないだろう。そう思われるところまでやってくると、早歩きは枷が外れたように小走りに変化した。服の裾を半ば蹴り飛ばすようにして階段を駆け降りると、いったん屋外へ飛びだし、青みをおびた夕刻の回廊を走りぬける。
 編んでまとめた赤褐色の髪は、あちこちほつれかけて跳ねまわっていた。息づかいはつとめに懸命な若い娘の緊張したそれではなく、胸に秘めた心浮き立つなにかをしのばせてはずんでいた。高まる気持ちに、自然に口元がほころんでいくのがわかる。
 そうして侍女は、黒ずんだ分厚い石壁によって屋外と隔てられた、ある一画へとたどりついた。半地下にある戸口まで数段の石段を駆け下りて、勢いのまま、大きな重い扉に体当たりするように中に飛び込んでゆく。
 とつぜん、目の前が真っ白になった。
 一方方向に屋根が傾斜した薄暗い空間は、豊饒な食物の香りを含んだかすかに煙たい蒸気によって満たされて、外と比べるとかなり温かかった。暑い、といってもよいくらいかもしれない。だが、ミアが驚いたのは、乾いた穴蔵のように居心地のよい場所のいつもの温かさにではなく、予想を遙かに超えたけたたましさにだった。
 厨房は――そう、そこは厨房だった。エリディル神殿で生を営む聖なるものたち、俗なるものたち、すべての食をまかなうためにしつらえられた、炎の精の多大なる恩寵に預かる竈と炉の場所だ――さながら、戦場の様相を呈していた。
 存在するすべての炉に火が入れられ、炎が盛んに煽りたてられており、その上には大小いくつもの鍋が重複してかけられていた。火の加減を見張るように言いつかったらしい下働きの少年が、どこから出してきたものか普段の三倍はありそうな数の鍋の間をうろうろとめぐりつづける横で、賄い人が調理台と炉のあいだをめまぐるしく行き来して、火の通り具合を杓子や串で確かめている。
 火のごうごう燃えさかる音、鍋と杓子のぶつかる音、慌ただしく行き交う足音、そして指示を怒鳴り合う複数の声。さまざまな音が混じり合って、軽快ではあり明るくもあるものの、かなり慌ただしい喧噪が生みだされていた。
 厨房は、これまでミアが見た、どのときよりも大わらわな状態にあった。
 いくつかのランプと炉の炎によって照らしだされた空間にあって、調理というつとめに果たすべき役割を与えられたすべての人間は、おのれの仕事をこなすので精一杯、といった風情である。
 部外者の侵入にかまっている暇などなく、もし気づいたとしても、いや、何度かミアにぶつかりそうになっているから気づいているには違いないのだが、顔すらあげてこないのだから、無視されているのと同じことだ。
 ミアはすこしばかりがっかりした。この慌ただしさには覚えがある。実家の酒場がもっとも賑わったときには、そんなときは滅多にやってこないのだが、とにかくこんな状態になるのだ。せっかく六の巫女の具合も快方に向かい、心おきなく聖騎士の噂話を披露することができると期待していたのに、相手がいないのでは話にならない。
 しかたないので方針を変更して、賄い頭をつとめる年輩の神官を探して首を伸ばした。と、吹きこぼれる寸前の鍋をめがけて突進する賄い人とぶつかって、吠えるような声で威嚇された。
「そこにいると邪魔だよ」
 慌てて飛びのいた背中に声がかかった。ミアは壁際に退きながら声のした方向を探した。
「みんな殺気だってるから」
 中央に据えられた大きな作業台の片隅から、頭を白い布でつつみこんだ娘が、ミアの視線を捉えた。かすかにまなじりの切れあがった眼にものういような笑みを浮かべて、こっちに来いとうながしている。
「女官長から賄い頭に伝言があるんだけど」
 ミアは血相を変えて走りまわっている賄い人たちに気圧されながら、ビニーという名の賄い見習いのいる作業台の向こう側に、できるかぎりの遠回りをしながら近づいた。
 というのも、作業台の反対側では、賄い頭がもうひとりの賄い神官と共に大きな皿に特別な料理を盛りつける作業に没頭していたからだ。力のこもるあまり、いましも顔の筋肉が痙攣しはじめるのではないかと心配になってくるような形相をした賄い頭の額には、流れる汗がてらてらとランプの炎に反射していた。鼻息は荒く、白目がむきだしになり、血走っているようにも見える。
 何事にも物怖じしないと評判のミアだったが、さすがにこれには腰がひけた。
 そしてミアを呼びよせたたビニーはといえば、こちらも無言で忙しなく手を動かすばかりだった。いつもなら、夕食に出す予定の料理をつまみ食いしたりしながら、他愛もない無駄話に興じているところなのだが、そんな暇はないらしい。
 そういえば、とミアは気づいた。この時刻になるとつまみ食いにやってくる噂仲間の下働きの姿も、今日は見えない。
「いったい、どうしたの」
 おそるおそる尋ねると、ビニーはこちらも見ずに淡々と教えてくれた。
「神官長がさ、いきなり晩餐の支度をしろって、言ってきたんだよ。もともと今日は朝からみんなして調子が悪くて、ほら、こんなものを大量につくっちゃったりしたもので、余分な作業が増えていたってところにさ」
 見ると、ビニーの手元には、手のひら大のロールパンが大量に山積みされていた。そのどれもが、黒く炭化した皮で覆われている。ビニーがしているのは、焦げたパンの外側をできるかぎり薄く剥ぎとること、そしてミルクが半分ほど満たされた盆の中に焦げを剥ぎとったパンを浸していくことだった。当初は消し炭の部分こそげ取ったら、そのまま夕食の一品として供される予定だったらしいのだが、突然の晩餐準備命令に方針が変更されたのだという。
 作業台のむこうには、こそげとったパンの焦げが山積みになっていた。これはおそらく、鳩舎に運ばれて鳩の餌になるのだろう。
 ビニーがいうには、厨房の騒ぎは、もとはといえば今日の朝から始まったということだった。火加減を過ってか、もしくは焼く時間を計り忘れたかで、二日分のパンを焦げパンにしてしまったのが、まず初めの災難であったが、悲劇はそれで終わりではなかった。鐘楼の鐘が前触れもなく大騒音をまき散らしたときに、仰天した見習いのひとりが運んでいた鍋のひとつを取り落として、中身をひっくり返したのがふたつめ。それから、土間にまき散らされた制作途中のシチューを青ざめて見守っていた厨房の人々の耳に、あの報せが飛び込んできた。
 あの報せ。つまり、聖騎士来訪の報せである。
 ビニーは、焦点をどこに定めているのかよくわからない、不思議なまなざしでこうつづける。
「いったい何が起きたんだろう、って厨房中でぼんやりしていたら、誰かが聖騎士が来たって叫んでいるのが聞こえてさ……もともと、今日の落ちつかないのは鳩のしらせのせいだったんだから、考えてみれば仕方ないんだけど。もう、みんな我先に飛びだしてって、ここはガラガラ。親方まで消えちまったから、残った鍋の番をする奴もいなくなっちゃったんだよね」
 とり残されてシチューの後かたづけをするはめに陥るのも嫌だったのだろうしと、ビニーはつけ加えた。そういうビニーも、いつもの態度を見ているとにわかには信じがたいのだが、聖騎士見物のために厨房を出たらしい。
 しかしである。
 その後、一段落ついて戻ってみると、すでに火にかけ始めていた鍋の中身の少なからずが焦げつくという、あらたな災難が厨房の人々を待ち受けていた。予想できたはずの失態に賄い神官たちは逆上寸前。それからしばらくして、神官長の伝言をたずさえた見習いが訪れたときには、厨房では怒号が飛び交っていたという。
「まったく、とんだ〈目覚めの鐘〉だったよ」
 パンをちぎる自分の指に視線を落としながら、ビニーは淡々と事実をぼやいてみせた。
「それじゃ、みんな見たのね――聖騎士さまを」
 ミアはかなりがっかりしてそう言った。
 じつは彼女は、夢見ていたのだ。聖騎士来訪をもっとも間近で目撃した者として、衆目の視線を集めることを。
 しかし、そういうことならば、とミアは気を取り直す。あの鐘はちゃんと役に立ったということだ。ちょうど行き会った従者見習いを叱咤して、鐘楼に無理矢理のぼらせたのは無駄ではなかった。
 しかし、ビニーは首をぶんぶんと横に振った。
 厨房から通用門までは距離がある。賄い人たちがたどりついたときには人垣ができあがってしまった後で、馬はおろか、聖騎士の姿などほとんどなにも目にすることができなかったというのだ。
「ものすごく毛並みのいい上等な馬に乗ってて、ものすごく男前だっていう噂を聞いたけど、ほんとうかどうかはわからないよね」
 これが別の人間ならひがんでいるのだと思うところだが、ビニーの口調はあくまでのんびりとして醒めており、まったく好奇心の感じられないものだった。
 ミアは勇んで答える。
「あら、それはほんとうよ。あんなに大柄なのに、あんなにしなやかに速く走る馬は初めて見たわ。鹿毛も黒も、どちらもエウレニーの一番高い馬の百倍の価値があるわよ。馬爺さんがみたら、しがみついて離れなくなるから!」
 エウレニーはエリディル近郊で最も成功している馬の生産農家の一族で、その最も上等な一頭を手に入れるためには近隣の小貴族でもほぼ三年分の収入が必要だと目されていた。その、いってみれば地域の誉れであるエウレニーを例えに出して、なおその百倍の価値といいきるミアに、ビニーは初めて驚いたような顔をした。
「おい、そりゃ嘘だろ?」
 さきほどミアに吠えた賄い人が、たまりかねたように横から口を出してきた。馬好きで、よく三の巫女の葦毛の噂をしていると仲間に入ってくる人物だ。
「嘘じゃないわよ」
 むっとして、しかしビニー以外から返ってきた初めての反応に、ミアはふと気づいた。いつのまにか、彼女を見ている視線が増えているような気がする。もしかすると、厨房中がこの会話に聞き耳をたてているのかもしれない。
「乗ったらわかるわ。あたし、あの馬に乗せてもらったのよ」
 思わず胸を張って自慢すると、べつの賄い人が揶揄するように口を挟む。
「それこそ、嘘だ。騎士が自分の馬に侍女なんか乗せるもんか」
「嘘じゃないってば!」
 嬉々として反論すると半信半疑の声が複数あがって、ミアはすっかり調子づいた。
「それにそう、カーティス卿が男前なのもほんとうなんだから! 鹿毛に乗ってさっそうとやってきたときの勇姿ったら、なかったわ。豪快で、爽やかで、頼りがいがあって。騎士っていうのは、ああいう方のことをいうのよね――」
 そのまま突っ走ろうとしたミアだったが、何かをきっかけに周囲が伏し目がちにそそくさと仕事に戻りはじめたのに気がついて、顔をめぐらせると、そこには賄い頭が立っていた。
 壮年の賄い神官は散ってゆく部下たちに半眼で無言の鞭をくれたのち、残されたミアにむかって問いかけた。
「六の巫女の侍女。今頃、ここになにしに来た」
 毎日無駄話をしにやってくる侍女の習慣を知らないはずのない賄い頭にそう言われ、心臓がでんぐり返る。さきほどの緊張を残した汗まみれの笑顔が、とても怖い。それでもなんとか本来の用向きを告げることに成功した。
「え、ええと。女官長の伝言を……六の巫女に、なにか柔らかい食べ物を用意していただけませんか、ということですけど……」
「なんだ、六の巫女は具合でもお悪いのか。昼の弁当はどうした。ちゃんと召しあがったんだろうな?」
 あきらかに不審の滲んだ低い声音に、ミアはどきりとした。フィアナは籠の中身をまったく口にしていない。しかし、それを告げたら賄い頭はなおさら機嫌を損ねることだろう。一週間も前からさんざんせっついて、特別にこしらえてもらった、特別豪華版のお弁当だったのだから。
「シャンシーラのパイは、そりゃあもう、美味しかったです!」
 苦しまぎれに力説する侍女に、満足そうにうなずいた賄い頭は、奥からの呼びかけに応えた拍子に意識を持っていかれ、ミアに対する興味を一気に失ったようだった。かたわらにいた賄い見習いに適当に見繕ってお届けしろ、と言い渡すと、ふたたび自分の仕事に戻っていった。ミアは胸をなで下ろした。
「あいかわらず、食い意地だけは人一倍だなあ」
 あの弁当を食べて、夕食前にまだ何かを食べたがるなんて、どういう胃袋をしてるんだ?
 六の巫女用にお膳を仕立てはじめたビニーがつぶやくのに、ミアはすくなからず反論の必要を感じた。
 たしかに、フィアナには、華奢な身体つきに反してずいぶんな大食らいだという評判が定着している。それはミアも否定はしない。彼女の目から見ても、六の巫女はほんとうによく食べるのだ。だから賄い頭もなんとも思わずにビニーに適当なことを言ったのに違いないのだが、今日だけは事情が違うのである。
「フィアナさまはお昼を召しあがってないのよ。お腹くらい空くわ」
「いまさっき、パイがどうとかいってたじゃないか」
「嘘はいってないわ。あたしは食べたもん」
 実際、ミアはシャンシーラのパイを食べた。甘酸っぱいシャンスの砂糖漬けをつつんだ皮はふっくらと焼きあがってさくさくと香ばしく、ひとくち食べるごとに頬がゆるむような、しあわせなひとときを味わった。それだけではない。彼女は籠に入っていた料理をひととおり味見していた。〈見晴らしの壁〉の足下で、助けを連れてくるといってどこかへ行ってしまった若者を待っている間のことである。まさか、あの地味な若者のいう助けが聖騎士とは思わなかったので、ミアは少しばかり退屈になったのだ。
 気を失ったままの六の巫女が、心配でなかったというわけではない。
 じつのところ、足をすべらせて気を失ったフィアナが、石段から墜落寸前のところまで落ちてしまったのは、ミアがひとりであるじを救おうと無謀な試みをしたために他ならなかった。フィアナがまとっていたマントをつかんで上に運び上げようとしたのだが、うまくゆかず、マントだけがずりあがって、巫女は払いおとされる格好になった。そしてそのまま、石段をさらに四、五段転げ落ちてしまったのである。後頭部のこぶは、たぶんそのときにできたものだろう。ミアは意識して忘れようとしていたが、ひとつ間違えればフィアナは転落死していたかもしれなかった。
 けれど、そのときにはフィアナはとりあえず無事な状態にあり、お昼の時間はとうにすぎていたし、助けを求めて〈壁〉の上を走りまわったりしたおかげで、腹の虫は不平を訴えつづけていた。
 自分に言い訳をしつつ、石段に腰をかけて籠をあけたとき、ミアはため息をついた。賄い頭の弁当は、見た目だけではなく、間違いなく大変な力作であった。
 若者の残していった――というか、自主的に〈壁〉に居残ったような気もする黒馬は、籠に鼻を寄せてシャンシーラの砂糖漬けをみつめると、ひどくせつなそうに鼻を鳴らした。ミアはひとつのパイをふたつに分けて、半分を黒馬に差し出した。黒馬は感謝のしるしにミアの手を舐め、頬に接吻をしてくれた。姿形が美しいだけでなく、作法も心得た上品な馬である。あれはなかなか楽しいひとときだったと、ミアは思う。
「え、あれ全部、あんたが食べたの」
 三人分だぞ、とビニーの眼が言っている。
「まさか。そんなことはしないわよ」
 いくら空腹でも、ミアだって巫女の弁当を食べつくす勇気までは持ち合わせていない。もちろん、どうしようもなくお腹が空いたとき、他に手段がなければ、また違うことを考えていただろうが。
 だから、籠の中にはまだ、昼食の残りがあるはずだ。
「それじゃあ、中身は始末して、籠はそのうち返しておくれよ。三の巫女からも弁当の要請がくるかもしれないし。籠はひとつしかないんだからね、ミア」
 ビニーの口にする自分の名の、不思議な抑揚に誘われるように、ミアは錯綜する記憶を慎重に思い返した。
 あの籠を自分はどこへやったのだろうか。
 盆に皿と椀をひととおり並べて、つくりかけの鍋から消化のよさそうなものはと思案していたビニーは、準備がととのうのも待たずに厨房から出てゆこうとする侍女に気づいて、あわてて呼び止めた。
「ちょっと、どこへ行くのよ」
「籠をもってくるの忘れた。あんたはそのままやってて。すぐに戻ってくる!」
 ミアはふり返りもせずにそう叫ぶと、あっという間に厨房から飛びだしていった。




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