天空の翼 Chapter 1 [page 10] prevnext


10 夕暮れの鐘楼


 昼の時間は、太陽の輝きとともに峻厳な山並みのむこうへと遠ざかる。
 ぬけるようだった空には、いつのまにかうすく白い雲が流れだしていた。宵を迎えるまでには時間があり、周囲もまだ充分に明るかったものの、空の蒼はしだいに夜の気配の濃いものと変化しつつある。
 頬をかすめた風は耳元で冷たくうなり、不揃いな髪を吹きはらっては、過ぎてゆく。
 ルークは、光を吸いこむ闇の色をした静かな眼を、わずかにほそめた。
 吹きさらしの窓辺にかれはいた。そこから見おろすエリディルは、喧噪を風がぬぐい去るのだろうか、人の子の住まうところとは思えぬような冷えた何かをまとっていた。
 石造りの基礎に積みあげられた石の壁。立ち並ぶ石造りの柱、そして石で葺かれた屋根。エリディルの外観は、むきだしの岩がつづく峻厳な山肌と色合いをおなじくしていた。ともすれば陰鬱なだけとも受け取られかねない、色味のすくない光景に、時にしたがい角度を変えてふりそそぐ陽射しが、深く厳かな陰影をあたえている。
 そして、そうだ――ここには鐘楼があった。
 それはエリディルまでの道中、つねに目印として仰いできた建造物だった。ルークは今、その上階の戸板も柵もない、壁と柱だけで外とくぎられた床の上にいる。
 エリディル神殿に居並ぶ石造りの中でも最も古いこの建物は、築かれたのが西の辺地であるせいなのか、はたまた同時代の遺物であると推定される城壁と一緒くたにされて取り扱われてきたせいなのか、なぜか無骨で殺伐とした建築物だと思われている節があった。
 しかし、実際に鐘楼を目にした者であれば、漠然と抱いていた印象が過った先入観の産物であることがわかるだろう。
 古き鐘楼には、戦用の警鐘を据えつけるために建てられたものとは思えぬほど、精緻で巧みな装飾が施されていた。その装飾のおもな主題は天空へと去った神であり、失われたいにしえ人の美意識によって飾られた優美な浮き彫りは、過去にこの地を訪れた帝国の人々の心を魅了してやまなかったと伝えられている。
 惜しむべきは現在、その装飾の大半が、神殿をねぐらとする鳥たちの排泄物によって余計な化粧をほどこされ、かつての面影をほとんど残していないことである。
 思えば、神殿が信仰の象徴として掲げている紋章には、対の翼がくっきりと刻まれている。もしかすると、エリディルの真のあるじは、鳩たちなのかもしれない、とルークは思う。
 その証拠に、かれが現在見おろしている景色の中の、どの敷石にもどの屋根にも、かれらの足跡をあらわす徴がふんだんに残されている。
 翼あるものには、人にとっての障害など意味はない。
 いまも、ルークの鼻先をかすめて、鈍色の一羽が上空を撫で切るように滑空していった。
 鐘楼が鳩たちの王国の中心であることは、そこかしこに残された羽根や糞のおびただしい痕跡を見れば、疑いようもなかった。
 足を踏み入れた当初こそ、侵入者を警戒してしずまりかえったものの、鳩たちはすぐに日常を取り戻して、眺める視線をものともせずに普段通りにふるまい始めた。くぐもった鳴き声やはばたきの音が、風通しのよいがらんとした空間のあちこちから世間話のざわめきめてた騒々しさで聞こえてき、ときにはすぐ足下まで悠々と近づいてきて、長靴の先をつつくものまでいる。
 ルークが柱石の上にのせていた手を見ると、黒革に乾燥した糞が白く付着していた。指の腹をこすりあわせたものの、完全には落としきれない。跡がうっすらと残ってしまったのに少し息をつく。
 鐘楼の尖った屋根の下、横渡にしてある頑丈そうな梁に組みつけられた大鐘には、大人が両腕を伸ばしてようやく抱えられるかと思われるほどの大きさがあった。これほどのものをどうやってこの高みまで運んだものだろう。見るからに重量感のある、古い鐘だった。
 滑車に結びつけられた太い紐を引くことによって本体を揺らし、内部の舌に衝突させて音が鳴る。都によくある、いくつかの大きさの異なる小さな鐘を組みあわせて旋律を奏でるようなものではなく、大音響によって周囲に警戒を呼びかけるための、まさに実用本位の鐘である。
 そして、鳩の領域にあるものの当然の成りゆきとして、鐘にはあるじたちによる手厚い恩寵が施されていた。こそげ落とそうとした人間の努力の後は見受けられるものの、実を結んでいるとは言いがたい。
 夕刻を迎え、鐘楼の中はかなり暗くなっていた。柱や鐘の落とす影に、鐘の輪郭は半ば沈みかけている。
 視界の効かない空間の中をじっとみつめていると、相手が突然こちらに顔をむけた。
 骨太な身体つきをした年若い男は、鐘の周囲をぐるりとめぐりつつ話しかけてきた。
「ここからの眺めはすごいだろう」
 相手の反応には関係なく、そう言いきると、厚みのある身体を隣にすべり込ませてきた。
 ルークは風にはためく埃だらけのマントを片手でたぐり寄せ、わずかに身をひいて、窮屈な窓際に空間をつくった。
 そのことに感謝する気配もなく、若者は悠然と反対側の柱にもたれた。まだらにこびりつく鳩の糞にはおかまいなし。低い角度で射し込んでくる西日に顔をゆがませ、赤っぽい髪が燃えあがるようだ。大きく腕をふりあげると、日没間近の山陰と街道をぞんざいに指さしてみせる。
「ほら、あっちが神さまのいるところ。こっちが人間の世界」
 それは、人の気配のうすい、不思議に神秘的な雰囲気をたたえた光景だった。
 神々の世界と呼びならわされる白き峰をのぞむ山あいに、へばりつくように築かれた古き聖なる場。
 敷地の広さと建物の大きさそのものには目を見張るものがあり、あるいは規模だけならば都の大神殿とも肩を並べるかと思われる、壮大な景観である。
 かれがこれまでの人生で慣れ親しんできた神殿の、ただびとの眼を眩ませるための豪奢で威圧的な装飾のたぐいは、ここにはまったく見あたらない。最初に目にとまるのは、石造りの建物そのものの放つ無骨で圧倒的な存在感と、異様な重々しさだ。
 青い闇の中に沈むそれはまるで、堆積した時間の中に置き去りにされた、巨大な廃墟のようでもある。
 物々しい石の壁と、痕跡だけとはいえ今でも充分に役割を果たしつづけている累壁とに守られた、その威容。
 荒涼としたその輪郭は、祈りの場というよりも、敵対する勢力との国境沿いに築かれる、堅固な防御用の城塞を連想させた。
 背の高い城壁は、敵の侵攻を阻むためのもの。穿たれた矢狭間は、敵をその場に縫いとめるためのもの。城の反り返った分厚い胸壁。天守の狭い窓は、人々の命と、王国の尊い宝を守るためのもの。
 そう詠ったのは、どこの吟遊詩人だったろう。
「この頑丈な城壁で守られているのが、エリディルの神殿だ」
 誇らしげな声の説明に応えて、ルークは高い石積みの壁へと視線を移動させた。
「どうだい、聖騎士の従者さん。エリディルの城壁は、ちょっとしたものだろう」
 ルークは、自分をここまでひっぱってきた人物の、ずんぐりとした鼻にそばかすの浮いた、人のよさと頑迷さが同居しているような顔を見返した。
 荒削りな骨格にはめ込まれたくすんだ緑の瞳が、好奇心と侮蔑をないまぜにした複雑な感情をあらわして、こちらをうかがっている。
 ルークはかすかにうなずくと、風に押されるように石柱に身を預けた。


 短く刈った髪を夕陽に燃えたたせている若者は、ジョシュと名のった。エリディルの守護をつとめるフェルグス卿の従者の、そのまた見習いだという話である。
 ルークが初めて赤褐色の頭の存在に気がついたのは、聖騎士到着の報に寄り集まってきた人々の垣根を突き崩して、フェルグス卿が現れたときのことである。
 若者は老騎士にがっちりと捕らえられたうえで、ひきずられるようにして目の前にやってきた。そのときすでに若者の緑の瞳は、眼前にたたずむ聖騎士に釘付けになっていた。
 宵闇色のマントをまとった大柄な肉体の存在感は、はかりしれないほど大きい。腰に佩かれた重々しくも立派な長剣と一見して明るく快活な笑顔とを、若者は頸が痛くなるのではないかと思われるほどひたすらに、憧れをこめて見あげつづけていた。ひとりの侍女が小走りに駆け寄って話しかけたのにも、怒ったように長柄のほうきを手に押しつけたのにも上の空で、そのまなざしは宙に浮いたまま焦点定まらず、足下もどうやら指一本分くらいは大地から離れて浮いているようだった。
 聖騎士は、事実を知らない、あるいは知っていてもあえて無視したがる人々によって、なぜか英雄的な存在だとみなされがちな職業である。
 長身で見映えのする金髪碧眼のカーティス・レングラードは、そんな人々の夢見る聖騎士の姿をほぼ期待どおりにそなえた人物として、聖騎士団内部でも重宝されていたらしい。旅の間もその容姿は行く先々で賞賛と憧れ、そして嫉妬の的となってきた。ときにはかれをめぐって、ひと騒動がもちあがることすらあったのである。
 ルークがこれまでに遭遇してきた感激屋のなかにあって、若者の反応はとりたてていうほど派手なものとはいえなかった。たとえ興奮のあまり眼をうるませていようと、口の端からよだれを垂らしていようと、黒髪の若者はそれほど奇異なものを目撃したとは感じなかっただろう(それほど聖騎士は方々で激烈な反応をひき起こしていたのである)。
 それでも、聖騎士の従者としてひきあわされたとたん、あからさまに若者の表情が変化したのには、少しばかり意表をつかれた。
 その表情からうかがうに、どうやら相手は、醜態を見られたことへの反発だけではなく、偉大な聖騎士の側に侍るものとしてのルーク自身へ、かなりの不満を覚えたようだった。
 全身埃まみれなうえ、顔にはおそらく空腹の透けて見えるだろう疲労が浮かんでいる。普段のみすぼらしさに輪をかけたようなこの状況では、無理もないこととは思えたが。
「聖騎士は輝く太陽みたいだけど、あんたはまるで、地面に這いつくばってる影だな」
 くすんだ緑色の瞳が、ちかりと光った。
 両腕を組んだままかすかに顎をあげ、丸腰のルークに若者がむけるのは、棘のある笑顔だ。
「従者というより、下男だよな。手に持っているのは、なんだ?」
 馬鹿にしたように唇を片方だけゆがませて、視線はルークの両手にむかっている。ルークの右手には手綱、左手にはひと抱えほどもある蓋つきの籠が下がっていた。手綱に繋がっている二頭の戦馬はともかく、籠はあきらかに騎士の持ち物ではない。どちらかといえば、農夫や羊飼いなどが昼食を詰めて持ち運ぶような、素朴な雰囲気の入れ物だ。
「預かってくれといわれた」
 淡々と答えたルークに、ジョシュは、ふん、と鼻を鳴らしてみせると、
「それじゃあ、これも預かってくれよ」
 さきほどのほうきを、投げ寄こしてきた。
 両手がふさがっているにもかかわらず、器用に受けとめたルークを見て、若者はまた笑った。
 従者見習いはフェルグス卿から、聖騎士の従者を案内する役目を仰せつかった。
 六の巫女が女官長に支えられて部屋へと連れてゆかれ、守護と聖騎士がともに聖堂へと去ってしまうと、後ろ姿を名残惜しげに見送っていた若者はやおらルークに向きなおり、攻撃の先陣を切るように言葉のつぶてを投げつけてきた。
「案内してやる」
 具合良くやってきた馬丁に馬二頭の手綱を預けて、ルークは案内人と定められた人物の後をおとなしくついていった。
 若者はルークとほぼおなじ歳の頃と見受けられた。体つきはこの地方に住む人々の民族的な特徴をあらわしており、がっしりとして骨太だ。ルークと比べると背がわずかに高く肩幅はひとまわり広く、おそらく胸板も厚い。ジョシュはそのことを意識して見せつけるように、肩で風を切って大股に石畳を進みつづけた。
 そうして最初にたどりついたのが、この風の吹きぬける高所だ。
 案内するという言葉に偽りはないのだろうが、どうも親切心から鐘楼にやってきたのではないらしい。なにか思惑でもあるのかと思ったが、ルークはそれをとりあえず無視することにした。神殿内の施設の位置関係を把握するのに、鐘楼は絶好の場所だと気がついたからだ。
 いま、若者は赤褐色の頭をいらいらとかきながら、暮れなずむ神殿のむこうにかすんで見え、ときおり花びらを飛ばしてくる白い花の群について、いい加減な講釈を垂れているところだった。
「シャンシーラが巫女の守護木だって話は知ってるよな」
 ルークは、その花の下で思いもかけない出会いが自分を待ち受けていたことを思い出して、かすかに眉根を寄せた。
「ここに来る前に聞いた」
 ぽつりと答えると、
「あんたのご主人は博識そうだもんな」
 眩しそうに口にした後で、ルークを見る顔がほんのすこしの皮肉にゆがんだ。ルークは、情報源は聖騎士ではないと胸のうちで訂正したものの、結局表には出さない。
 かわりに、先ほど感じたエリディルの印象をぼそりと言ってみる。
「ここは、まるで城塞だ」
 ジョシュはふん、と鼻で笑った。
「神殿らしくないってことか。おれは他の所に行ったことはないけど、そうらしいよな。たぶんそれは昔、いにしえ人の砦だったせいなんじゃないのか。見ての通り、ここには城壁もあるし、物見の塔もある」
 それからしばらく、若者はかなり大ざっぱでなげやりな説明をつづけた。
 城壁を区切る、物見の櫓。正門付近をとりまく守備隊関係の建物に、奥に護られた神殿関係の建築物。
 いいかげんに名指されるそれらの位置関係を、ルークは注意深く確かめながら記憶し、ひとつひとつを結ぶ最短の経路をおおまかに頭に叩き込んでいく。
 情報を繋げてゆくと、エリディルが要塞であったときの姿がうっすらと想像できるような気がした。
 もっとも敵の攻撃が集中すると思われる城門は、ほぼ北側を向いて開くように築かれており、守備側はつねに太陽を背にするようになっている。城壁内はさらに小さな門や建物によっていくつかの区域に分けられており、それぞれに防御のための戸や柵が設置されている。
 それら戦時用の設備は、大きな城門が閉ざされていたようにいまはほとんど手入れをされず、小さな門はすべて解放されたままのようだったが、狭い路地が交差して視界の効かない石畳の道は、予備知識なしに踏み込んだら迷子になりそうなほど入り組んでいた。
 城壁の外側に近い鐘楼から、聖堂や巫女の住まいのあると思われる心臓部まで、鳩たちはかるがると行き来している距離だったが、地べたを這わねばならない人間にとって、往来にはそれなりの馴れとコツが必要とされそうだ。
 そんなことを考えつつ、ふと我にかえると、いつのまにか案内人の言葉が途切れがちになっていた。
 もともと熱意があっての行為とは思っていなかった。べつに思惑があることも察していた。だが、これは想定外の事態といえた。長い沈黙がつづくと、さすがに気にもなってくる。
 あるじの、そのまたあるじの命令とはいえ、見知らぬ人物と接する機会など滅多にやってこない辺境で、少しばかり期待する気持ちもあったはずが、とんだ貧乏くじをひかされた。
 そんな不満を身体全体でまき散らしていたはずが、この静けさはどうしたことだろう。
 そういえば、若者には初めから落ちつかないしぐさが絶えなかった。
 くすんだ緑の瞳には、気に入らない人物を必要以上に牽制するようでいて、どこか別のなにかに気を取られているような、奇妙な苛立ちが浮かんでは消えていたと思う。
 だがいま、ジョシュのまなざしは他者をまったく意識せず、呼吸も間隔の大きな、ゆるんだものになっている。
 たとえば、このままルークが立ち去ってしまったとしても、若者はしばらくそのことに気づかないのではなかろうか。
 あるいは、ここで声をかけたとしたら。
 ルークは旅を始める直前、初めて出会った聖騎士カーティス・レングラードに深く刺された釘を思い出した。
 指摘されたときに理解はしたつもりで、聖騎士にもそう答えた。
 だが、カーティスからはその後、事あるごとにさまざまな注文をつけられることになったうえ、呪ってやりたいくらい高慢な馬の世話に忙殺されたせいもあって、そんなことがあったことさえ、いままでほとんど忘れていた。
 気配を消しすぎるな、というのが、その釘の内容だった。
 カーティスいわく、
「普通の人間は、馬より鈍感」
なのらしい。
 ルークはいま、意図して自分を隠そうとしていたわけではない。だが、染みついた習慣は自然に気配をおしころし、身体に以前のふるまいをなぞらせる。
 これまでは、つねにそうすることを期待されていた。それがかれのつとめの一部だったからだ。
 心臓が鼓動をくり返し、呼吸が途切れることのないように、それはルークという存在に付随する属性の一部となっている。
 しかし、状況は今、かれに正反対のことを要求しはじめているらしい。
 ――そこに存在しつづけろ、ルーク。まわりのやつらとおなじ場所に。
 ルークは柱の影の中からわざと靴音をたてて歩み出て、日の射し込む側へと位置を変えた。故意に身体で陽光を遮り、鐘楼の奥へと影を落とす。視界がいきなり暗くなり、若者は顔をあげてこちらをふり返った。
 とまどいに泳ぐ緑色の瞳がルークの手にあるほうきをみて、霧が晴れたように見ひらかれた。
「あ、そうか。カーティス卿の従者だったよな」
 滅多にやってこない客の存在を、なぜ忘れてしまったのだろう。
 呼吸を乱して焦っている相手を見て、ルークは自分の過ちを悟り、意識して身体の緊張をといた。空気が張りつめていた。これでは相手に警戒心を抱かせてしまう。
 案の定、ジョシュはルークに訝しげな視線をくれて、不機嫌そうに顔をしかめた。
 しかし、それ以上の追求を、ジョシュはしてはこない。
 従者見習いにとっては、ほったらかした客が突然存在を主張し始めたことよりも、自分が命令をすっかり忘れ、うわのそらでぼんやりとしている姿を見られた事実のほうが、ずっと大きな問題であるらしい。
 しかも、見られた相手は聖騎士の従者だ――どれだけ存在感がなく、うすっぺらな小者にみえるにせよ、重要な客であることには違いない。
 だいたい、こいつの反応が鈍いからいけないんじゃないか。
 ジョシュが口のなかでひとりごちるのが、とぎすまされたままのルークの感覚に飛び込んでくる。
 そんなことにはもちろん気づきもしないジョシュは、忘れようとしているのに頭にこびりついて離れない出来事を、無理矢理むしりとるように、ことさらに攻撃的な声で話題を変えて、その場をごまかそうとした。


「そういえば知ってるか。兵舎の下には、立派な地下牢もあるって話だぜ」
「地下牢?」
 雰囲気の変化に安堵しつつ、話の脈絡のなさにルークはかすかに眉をひそめた。訝しげな問いに、ジョシュはにやりとする。
「ああ、そうだよ。言い伝えにあるだろ、最初の巫女が囚われていた地下牢だよ。手足に枷をつけられてさ」
 ジョシュの言うのが、つい最近耳にしたばかりの昔話のひとつに似ていることに、ルークはすぐに気がついた。
 話好きの旅籠のあるじが、おもしろがる聖騎士にうながされて次々に披露していった、エリディルの伝説のうちのひとつにそんな話があったはずだ。
 ルークは薄れかかった記憶の断片を、霞のかかった夢のあいまからひきずりだそうとした。
 初めの巫女が現れるより昔のこと。エリディルの山肌にしつらえられた美しい牢に、大いなる宝玉はひとりの乙女とともに秘め隠されていたという。
 選ばれし乙女は神の宝玉を胸にいだいたまま、けして外の世界に触れることのないように、この世の終わりまでつづく眠りの中にすまうことを定められていた。
 この話の、どこからどこまでが真実なのかはわからない。
 ルークが理解しているのは、それが神殿の公認している巫女の伝説とは似ても似つかぬ話である、ということだけだ。
 ともあれ、宝玉と乙女の眠りを守るため、人々が築きあげたのがエリディルの砦なのだと、土地の話はつづいてゆく。騎士の登場は、まだ先のことだったはずだ。
 しかし、その伝説の牢と砦の地下牢に関係があるとは思えなかった。だいたい、砦に地下牢があること自体には、なんの不自然もないのである。砦を築いたいにしえ人も、ここで戦をしていたのだ。
「邪悪なやつらが、巫女と宝玉を狙って血で血を洗う戦いをつづけたんだよな。それで巫女が敵のものになったら困るって事で、地下牢の中に閉じこめたんだよ」
 負けた方の首を刺した槍が、そこらじゅうに飾られていた時代だ。首だけじゃなくて、腕も足もばんばん飛ばされるんだ。
 ジョシュの語る話は、血気盛んな若者の好みなのか、ずいぶんと血と暴力によって潤色されていた。ルークはそんな話を聞いたことがあったかどうかと、さらに記憶をあさっているうちに、生乾きの小枝がまきちらす煙と、そのせいでひどく眼が沁みた旅籠での体験を一緒にひきずりだしてしまった。
 にじむ涙の記憶に思わずまぶたを押さえようとして、ルークは、視界の隅で建物の影から人が走り出てきたのに気がついた。
 水底に沈んだような薄闇の中、波うつ石畳の上を服の裾を蹴り飛ばすいきおいで駆けてゆく。その輪郭に、覚えがあった。
 漠然と敷地全体に拡散していた意識の一部を、動く人影に追随させると、ルークは目の前の現実に戻る。
「おい、人の話を聞いてるのかよ」
 夕陽と影のあわいで、ジョシュのまなざしと口調には苛立ちが棘となって滲みだしていた。さきほどの注意散漫への意趣返しかと勘ぐったのかもしれない。
 エリディルの従者見習いは、あきらかに客に対し、よい感情を抱いていなかった。にも関わらず、なぜだか神殿内の説明を止めようとしない。その理由は、どうやら守護に命じられたからではなく、使命感に燃えたからでもなかったらしい。
 それまでもときおり見受けられた、西の空を確認するようなしぐさをした後のことである。
「あっちのまだほんの少しだけ日があたってるあたりが、巫女さまたちの寝起きしているところ。あそこの窓からは、〈見晴らしの壁〉のシャンシーラがほんの少しだけど見えるらしい。あすこのシャンシーラは見事だよなあ」
 ほとんど感情のこもっていない、わざとらしい感嘆を口にした後で、
「――なあ、さっき、なにがあったのか、少しだけでいいから教えてくれないか」
 ジョシュは、殴りつけるようなぶっきらぼうな調子で、それまで押し隠していた自分の望みをつけ加えた。
「六の巫女が〈見晴らしの壁〉から落ちたのを、聖騎士はどうやって助けたんだ?」
「べつに。カーティスはなにもしていない」
 それはまったく、事実以外の何物でもなかった。
 しかし、これ以上ないと思えるほど無愛想な返答でもあり、ジョシュはむっとして唇を尖らせた。騎士の活躍を教えたくないのだと思われたらしい。
「なにもってことはないだろ。ミアは、六の巫女が石段から落っこちたけど、聖騎士さまが来てくださったから大丈夫、ってさんざんわめき散らしてたぞ。カーティス卿がなにをなさったのか、教えてくれよ」
 ルークは沈黙した。
 頼みごとには高飛車すぎる物言いだったかと、ジョシュはほんのすこしだけ後悔したようなそぶりを見せた。しかし、これは相手も悪いのだ。反応がなさ過ぎて、苛々する。
 だが、ルークは気分を害したわけではなかった。かれはただ、考えていたのだ。
 酒場まで呼びに行ったあと、カーティスはひとり馬に乗り、さっさと飛びだしていってしまった。ルークはふたたび自力で〈見晴らしの壁〉まで走ることになった。とうてい追いつけるはずがない。
 だから、万が一、カーティスが素晴らしい騎士の技を発揮するようなことがあったとしても、それはルークがたどりつく前のことだろう。
 見ていないことを、話すことはできない。
 ただ、ひとつだけ言えることはある。
「カーティスは、巫女を片腕で抱いたまま鞍の上に乗っていた」
 あの姿を見たときに、ルークは出会ってから初めて、カーティスに賞賛の念を覚えた。
 なにしろ、ルークはそれができなかったために延々と山道を走ることになったのだから。
 その拍子に左手に下げた籠の重みを思い出して、ルークはなんとなく疲れた気分になった。
 巫女を小脇に抱えたり、肩に担いだりしてはいけないと、罵りながら教えてくれた侍女の噛みついてきそうな真剣な顔が、なぜだか目の前の非友好的な騎士崇拝者のものと重なって見えたのだ。
「なんだよ、それだけ? もっとあるだろう? 気高くて勇気ある行為だよ。鋭い剣を持って敵を切り払ったとか、美しい姫君が目覚めて感謝の微笑みを浮かべたとか」
 ルークは、矢継ぎ早に投げつけられる、妙に力のこもった言葉に困惑した。
 剣を抜いて挑まなければならないような敵が、あの石壁のどこかにいただろうか。
 たしかに人間をひとり抱えて馬に乗るのは難しい。しかし、そんなことで気高いだの、勇気があるだのと誉められることがあるだろうか。
 それに、美しい姫君とやらはどこにいるのか。もし、それがあの、やたらにうっとおしい長い金髪の少女のことを言っているのだとしても、彼女がかれにもたらしたのは微笑みなどではなく。
 ――あなたは、だれ。
 まっすぐに凝視めてきた空色の瞳。無防備に受けとった衝撃の余韻は、まだ頬に残っていた。
 言葉を探しあぐねてルークは押し黙り、つづく沈黙に耐えかねたジョシュは、うんざりしたように肩をすくめ、お手上げをしてみせた。
「ああ、わかったよ。言いたくねえんなら、言わなくてもいいさ。そのかわり、ここでの案内は終わりだ」
 そろそろ掃除も終わってる頃だろうとつぶやいた案内人は、くるりと身体を返して窓から離れた。立ち去りがてら、中央につり下げられた巨大な鐘を見あげて、思い出したようにふと立ち止まる。
「今日は、この鐘にも散々な目にあわされたよな」
 ジョシュが、いまいましげに、だがなにか腑に落ちないことがあるというふうに、鐘に歩み寄って片手を置いた。
 鐘はすこし手をかけたくらいではびくともしなかったが、ルークの耳には、かすかな揺れに反応してなにかが走り抜けていったような感覚が残った。あるいは、ただの風だったのかもしれないが。
「その鐘にも、」
 ルークは、口からでる自分の声の響きに違和感を覚え、そういえば、自発的に口をひらいたのはこれが初めてだったかと気がついた。
「なにか謂われがあるのか」
 ふりかえったジョシュは、いったんひらきかけた口を閉じかけて、またひらいた。
「そりゃあ……あるに決まってるだろう。ここはエリディルだぞ。鐘といったら」
 そこで若者の顔色が突然変わった理由を、ルークが知ることはなかった。
 冷たい空間を切り裂いて飛んできた鋭い声が、ふたりの若者を矢のように射抜いたからである。
「ジョシュ! ジョシュ・ハーネス! そこにいるの!?」
 身を乗り出して声のした方向を見おろすと、暮れかけた石畳の上で小柄な人影が腰に手を当て、顎をあげ、眉間に力をこめてこちらを睨みあげている。
「返事をしなさい、ジョーシュ!!」
 あらんかぎりの声で呼びかけてくるのは、さきほど〈見晴らしの壁〉と呼ばれた累壁でルークに助けを求めてきた赤褐色の髪の娘だった。いまはルークの手にあるほうきを、ジョシュに押しつけたのも彼女だ。六の巫女付きの侍女だといったろうか。ルークが彼女の叫んでいる姿を見るのは、本日すでに二度目である。
「うわ、ミア。なんだって今、こんなところに」
 足下をすくわれたように床に座りこんだ後、ほんのすこしだけ窓から頭を出して下を確認したジョシュは、怯えたように一瞬にして影に退いた。
 しかし、娘のめざとさは、若者の期待をうわまわっていた。
「ほうら、やっぱりいるんじゃない。こんなところで何をしているの。下りてきなさい、いますぐに!」
 勝ち誇って、まわりじゅうに宣言するかのように声をはりあげる娘に、ジョシュは焦ったように言い返した。
「ばかやろう、こんなところで大声出すな。見つかっちまうじゃないか!」
 出すなというわりに、こちらもかなりの大声だ。しかも、悲鳴混じりのくせに叩きつけるような言い方だったので、
「ばかってなによ!」
 娘は、さらに声量を上げて怒鳴り返してきた。夕刻の静けさの中で、周囲の壁にはねかえったこともあり、声は実際以上に大きく響きわたった。
「だから……!」
 ジョシュは説明を喉からたぐりよせようとしたが、そのとき、なにかを叩きつけるような大きな音が階下で響いた。
 若者の身体がびくりと跳ねあがり、その場でくるりと半回転して窓に背を向けた。思いがけない俊敏な反応を見て、すこしばかり目をみひらいたルークに、逆光の人影はひきつったような声で囁いた。
「行くぞ」
 その言葉はどう考えても「逃げるぞ」と聞こえた。
 耳に届いた音との違いに意味をとりそこねて逡巡しているうちに、言葉の主は地上へとつづく暗い階段の穴へと、文字通り身を躍らせていた。
 取り残されたルークは、しばし無言のままちょんちょんと目の前を横切る鳩を眺める。
 いったい、自分はなにから逃げる必要ができたというのだろう。
 考えたところで答は出ない。ルークは仕方なく、ほうきと籠を両手に後を追って走り出した。



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