天空の翼 Chapter 1 [page 11] prevnext


11 黒髪の巫女と後見の騎士


 夕陽に染められた狭い道を、おだやかな蹄の響きが近づいてくる。
 日のあたらない寒々とした持ち場で退屈をもてあましていた遅番の門衛は、帰還者の姿を視認するとあわてて槍をまっすぐに立て、踵を合わせて姿勢を正した。
 山肌からしみ出る水を含んで黒ずみ、ところどころ苔がむしている城壁の脇に穿たれた、通用門の前である。
 身体がだぶつきぎみで守備隊のお仕着せが合わなくなってきている男は、頸周りの窮屈さに閉口しながらもひそかに分厚いまぶたをおしあげ、目前を通りすぎようとする高貴な一行を盗み見た。
 額に神の宝玉をいただく黒髪の少女は、凛々しくととのった面をまっすぐにあげ、視線を前へと向けたまま、くつろいだ風情で愛馬の背に揺られている。頭頂部でひとつに括られた長い黒髪が、夕方のつめたい風にやわらかになびいていた。
 その後にすこし遅れて、深緑のマントで身をつつんだ後見の騎士がつづく。巫女の愛馬とよく似た葦毛を神経質にうながしながら、浮かべているのは見なれた憂いの表情だ。
 乗馬を好む三の巫女は、ときおり騎士をともなってはこうして遠乗りに出かけていた。夕陽を浴びての帰還もそれほど稀なことではなく、守備隊のものならば、だれでも一度は馬を連ねて外出する主従の姿を目にしたことがあった。
 だが。
 エリディルの守備隊に籍を置いて二十数年の門衛は、心の中で今日もため息をつかずにおれなかった。
 黒髪の巫女には、その姿を見なれた者にさえ、目にするたびにあらたな賛嘆の念を抱かせるような、きわだった存在感がある。そして、つねに背後にしたがう騎士にひそむ、いかなる危険からも少女を守るという強い意志の力は、周囲に興ざめ寸前の畏敬の念を起こさせていた。
 結果的に、ふたりの周囲には見えない障壁が築かれている。
 貴すぎて、まばゆすぎて、厳しすぎて、近づくことができない。
 石畳に響く蹄の音を背景に、すこし赤みがかった光と黒く沈んだ影の間にむすばれるのは、慕わしいけれど手の届かない、はるかな幻影だ。
 貴い生まれの巫女と後見の騎士は、エリディルに来て数年が経過した今でもまだ、そんなふうに受けとめられていた。
 素直に物事を受けとめて表現する人々は、かれらにあからさまな憧憬の視線を送ってやまなかった。
 理性ではいまどきそんな馬鹿馬鹿しいことと切り捨てる人々も、こんな光景を目のあたりにすると、心が惑う。
 この美しさ、特別さは、酒の肴になどできはしない。心の奥にしまっておくのが一番だろう。
 美しい少女と騎士とにむかって、ひそやかな感動に身をゆだねつつ、門衛はおごそかに敬礼をする。
「お帰りなさいませ、クレアデールさま、ビリング卿」
 つぶやく声は、もちろん馬上までは届かない。
 二頭の葦毛は、高いアーチを誇らしげにくぐりぬけていった。


「だいたい。鐘を鳴らせっていったのは、おまえだったじゃないか」
 赤褐色の髪を苛々とかきあげつつ文句を言う、若者の口は尖っていた。
 おし殺した声音に拗ねたような響きがあるのを聞き逃さず、よく似た色の髪をした娘はふん、と鼻で笑う。
「そうよ、エリディルに聖騎士さまがいらっしゃるなんて、十何年に、ううん、何十年に一度の出来事よ。これを鐘で報せずになにを報せるの。でもだからって、あんなに乱暴に鳴らしてしてほしいなんて、ひとことも言ってないんですからね」
 厩舎には、飼い葉と干し草と馬の体臭が混じり合った独特のにおいが満ちていた。
 ここには神殿が所有している乗馬用、使役用の馬のほかにロバ、犬が収容されている。そして神殿は所有しているつもりはないが、すでに十数世代も我が物顔で歩きまわっている猫が数匹、猫とのスリリングな生活を楽しんでいる齧歯類がかぞえきれぬほど生息していた。
 厚い壁と低い天井で覆われた空間は、たくさんの生き物たちの呼気と体温にぬくめられているが、それでも吐いた息は白くひろがって見える。
 冬の寒気を防ぐため高い位置にもうけた通気口兼用の窓以外、外光を取り込む場所のない屋内は、日中も薄暗い。日没間近とあってランプには火が入れられているが、防火上の理由でそれも数多くはなく、作業に支障がない程度の明るさを確保するのが精一杯である。残飯狙いのネズミが足下を駆け抜けたとしても、捕らえることは難しいだろう。
 その薄暗がりの片隅でおこなわれている人間のやりとりを、馬たちは鼻を鳴らして興味深げに、あるいはたてがみをふり払いつつ胡散くさそうに眺めていた。
 ミアとジョシュは聖騎士の持ち物である鹿毛と黒、二頭の戦馬にあてがわれた房の前で、こそこそと会話をつづけている。
 一見すると仲むつまじい若い男女の語らいに見えなくもないが、実際のやりとりはというと、子供の口喧嘩に毛の生えた程度のものでしかなかった。
「べつに、あんなふうにするつもりだったわけじゃない」
 馬鹿にされたあげくに非難されて傷ついたらしいジョシュは、騒音をまき散らした一件について顔をしかめながら言いつのる。
 あの鐘は、紐をひっぱったらひとり勝手に鳴りだしたのだ。自分はそれを止めようと精一杯の努力をしたのだ。あの鐘はどこかおかしいのだ。
 ジョシュの懸命の抗弁は、だが、何を言っているのだか、というミアの冷たい一瞥によって切り捨てられた。娘が若者の言葉を一言たりと信じていないことは一目瞭然だった。
「兵舎じゃみんな怒っていたわよ。ジョシュ・ハーネスが掃除に戻ってこない、ほうきも一本足りないって。あんた、ほうきをあの人に押しつけたでしょ」
 押しつけられた当の聖騎士の従者は、ついさきほどまで長柄のそれを騎士の命の長剣よろしく律儀にたずさえつづけていた。厩舎にたどりつくと同時に丁重に返却してきたので、いまは、背後の柵に立てかけられている。
 うやむやにするつもりだった狼藉をずばり指摘されたジョシュは、一瞬だけ言葉に詰まったがすぐにひらきなおった。
「あれはあいつが持ちたそうにしていたから、いいんだよ。なんだよおまえ、そんなことを言いにきたのか。あんなに大声出したりして、恥ずかしくないのかよ」
 自分よりもずっと大柄な若者が顔をあかく染めて言い返すのを、ミアはひらひらと片手をふって、うるさいわねとはねのける。
「あたしはもちろん、侍女としてのおつとめをしてるのよ。フィアナさまの昼食を入れた籠を探してたんだから。だいたい、あんたがまた鐘楼に戻ったりしてるのがいけないんじゃない。さっさと聖騎士さまの従者を連れて兵舎に直行してれば、あたしだってあんなところまで行かずにすんだのに。兵舎じゃ、あたしまで文句を言われちゃったわよ。ハーネスの者としては、かなり情けなかったわ。ジョシュ、守備隊のみなさんにはちゃんとごめんなさいって言うのよ、わかった?」
「ごめんなさいだあ」
 ミアは人さし指をジョシュの鼻先に突きつけて、まるで母親が小さな子供にするように言い聞かせてみせる。されたほうは当然、面白かろうはずがない。
 そこに山と飼い葉を積んだ車を押して通りかかった馬丁のひとりが、呆れたようなため息と同時に邪魔だよと文句をつけた。
「いつまでそこで遊んでるんだね。いい加減につとめに戻ったらどうなんだい。守備隊もここと変わらんくらい、忙しいと思うがな」
 余計なお世話だ、とジョシュは顔をそむけた。
 ミアは慌てて手押し車の進路を妨げている足下の籠をどける。籠を見るまなざしがなぜか残念そうだった。
「おまえだって、その籠あいつに持たせてただろうが。人のこと言えるか」
「言えるわよ。私は丁重にご助力を願いましたからね。どうせあんたは、これ持ってろって投げつけたのに決まってるけど。あのひとは一応お客さんなのよ?」
 客、という言葉にジョシュは心底不満だったが、反論はできなかった。もちろん、聖騎士の従者は客に違いなかった。客のおまけ、と言いたいところだが、それも我慢する。ふり返った馬丁が、胡乱そうに眺めているのに気がついたからだ。
 その代わり、若者はつんけんと娘に当たった。
「籠は見つかったんだから、おまえはさっさと戻れよ。六の巫女が腹を空かしてるんだろ」
「まだだめ。心配なんだもの。あんたがまたお客によけいな仕事をさせるんじゃないかって気がどうしてもするのよね。あのひともなんだか頼りないから。鐘楼じゃ、神官見習いにとっつかまってるしさ……あれも、あんたが填めたようなものだけど。いいから、さっさと兵舎に帰りなさいよ。そしたら、私も安心してつとめに戻れるわ。ディアベインさまが心配して待ってらっしゃるわよ」
 ミアの忠告にジョシュは反抗的な態度を崩さない。柱に背を預けて腕を組み、ふんぞり返って自分の正当性を主張した。
「俺は案内係だからな。あいつが戻ってくるのを待ってるんだよ」
 そういえば、ふたりは聖騎士の従者のために厩舎に寄り道をしていたのだった。
 言い争いに無理矢理一区切りつけようとしたついでに、ジョシュはようやく本来の用事を思い出した。
 不機嫌そうに唸りながら肩越しにあたりをぞんざいに見渡すが、それらしき人の姿がみつからない。
 ふたり分の荷物を引き取るだけのことに、いったいどれだけ時間がかかるというのだろう。
 厩舎の中はかなり慌ただしかった。たくさんの生き物の気配でとくに昼間は落ちつくことのない場所だが、今日は特別にそれがひどい。どうやら聖騎士の到着によって、馬丁達のいつもの手順に大幅な狂いが生じているようだ。
 それを言うならば、現在落ち着きはらって日課をこなしている場所は、神殿中、どこを探しても見つかりそうもないのだが、それはこのふたりのあずかり知らぬことである。
 そんなことよりも、ジョシュの心は、カーティス・レングラードという名の男を目にして受けた強い衝撃に、いまだ平静とは言いがたい状況にあった。
 アーダナの聖騎士がやってくる。
 その報せを聞いたとき、ジョシュは、自分の心が翼をひろげて舞いあがっていくような気持ちがした。
 騎士といってもその中身は十人十色、千差万別。フェルグス卿を尊敬してはいるが、すでに高齢である。そのほかにエリディルにはふたりの騎士がいるが、どちらもフェルグス卿にはおよびもつかない人物だった。幼いころにあこがれた強く高貴な存在は、世間知らずなほほえましい夢の中にしかいないのだ。守備隊に籍を置いて三年のうちに、ジョシュにも現実の厳しさはわかりはじめている。
 だから、かれは自分に言い聞かせていた。あまり期待してはいけないと。失望するのは嫌だった。
 それなのに、膨らむ気持ちは手に負えない。いてもたってもいられないのだ。懸命に自重しようとして、掃除中の女官長の鼻先から姿をくらました。ひとりになって頭を冷やそうと思ってのことだった。
 だが、現実にあらわれたカーティス・レングラードはどうだったろう。
 期待以上だった。
 聖騎士の象徴たる宵闇色のマントに品よくおさまった快活な笑顔の男。人当たりよく、なめらかな語り口をあやつる大神官の使者。皆が口をそろえて賞賛した。なんと見事な騎士ぶりだろうと。
 そんなものには騙されない。懐疑的な思いはすぐに感嘆にとってかわった。これでもジョシュは鍛錬を欠かさない身である。マントの下に隠された躰を見ればわかる。まったく隙のない身のこなし、表面に現れるしなやかさ穏やかさを裏打ちしているのは、厳しい鍛錬の末に培われた強靱な肉体と精神なのだと、たくましくもりあがった筋肉が無言のうちに語っている。
 カーティス卿は、相当に強いだろう。
 もしかすると、かれらの守護よりも強いのかもしれない。
 こけおどしではなく、腰に佩かれた長剣が真に身に馴染んでいる人物を、ジョシュは初めて見たような気がしていた。
 そんな神々しいような戦士の背後に、なんというべきか、これ以上はないほど平凡な人物が控えていることが、ジョシュには気に障ってしかたがないのだった。
「あいつ、本当に従者なのか」
 思わず口をついて出るのは、自分と大して変わらぬ年頃の、さして有能とも強いとも思えぬ若者が聖騎士の従者であることに対する不満、それも嫉妬によるものだ。だが、それだけではない。
 実際、あの黒髪の若者には、やがて騎士となるべき者が必ずやもちあわせているべき――とジョシュが勝手に考えている――人を従わせるにたる存在感、というものが著しく欠けているように思われた。あまりに凡庸すぎて、周囲に埋没してしまう。まるで影だ。さきほどのこともそうだ。あんなに側にいながらすぐに居場所を見失われる騎士など、存在する価値もない、とジョシュは考える。
「従者以外のなんだっていうのよ」
 鹿毛の鼻面を撫でながら嬉しそうな顔をしていたミアが、やんわりと言った。
「あんたね。いい加減に夢みたいなことを考えるのは、やめなさいよ。騎士になろうなんて、土台からして無理なことなんだから。従者見習いなんていって遊んでないで、ちゃんと守備隊のおつとめを果たしなさいな」
 呆れたようではあったが、なにがなし気遣いのようなものが聞き取れなくもない。そんな物言いにかえって刺激されたジョシュが乱暴な反論を試みようとしたとき、屋外がにわかに騒がしくなった。馬丁を呼ばわる声が冷たい空気にのって聞こえてくる。
 耳をぴんと立てた鹿毛が首をめぐらせるのにあわせて、ミアは正面の出入り口をふり返った。
 同時に、馬丁頭の声が、厩舎全体に響きわたった。
「おい、急げ! ビリング卿と三の巫女のお帰りだぞ!」
 警報めいた一声に不吉に静まり返った厩舎は、事態を把握したとたんに騒然となった。
 目を丸くしている若者と娘を突きとばさんばかりの勢いで、馬丁達があわてふためき走りまわる。
 だがそれも、一時のことだった。
 馬丁頭の懸命になだめる声とともに、神経質な男性の声が、語気を強く不服げな言葉をつらねて近づいてきた。
「申し訳ありません。もう少しです、もう少しだけお待ちください、ビリング卿」
「なぜだ。帰還のおりには馬の世話を迅速に頼むと、今朝方はっきりと申し渡しておいたはず」
 マントの裾にすがりつかんばかりに懇願する馬丁頭を、やんわりとだが確実に押しのけて、すらりと背の高い姿が暗い出入り口に現れた。ランプの明かりに身体をつつむ深緑のマントが陰影をおびて浮かびあがる。
 そこに見えるのは、武器を扱うことを生業とする男のものにしては端正にすぎる面立ちに、長年の気苦労によって生じた幾多の深い皺を刻み込んだ、齢三十ほどの男の憤懣やるかたない表情だった。
「ビリング卿だわ……!」
 遠目に後見の騎士を認めたミアは、感嘆符をつけてつぶやきながらもこそこそと若者の大きな背の後にまわりこんだ。ジョシュが首をひねって咎めるのにうんうんと顎で出入り口方向を示しつつ、「もっと近くに寄ってよ!」と勝手な命令をささやきかけてくる。
「……不測の事態がございました。急に準備のできた房がふたつ、どうしても入り用になったんでこざいます。そこでちょうど空いていたフェリーンとブライの枠をお貸しいただいたので……」
 大股に通路に歩み入ってきたビリング卿は片手に愛馬の手綱をつかんだままで、だからその背後には葦毛がやはり不満そうにくっついてきていたのだが、背中に娘を背負った若者が妙な体勢で眼前から移動しようと頑張っているのを認めて、片眉を大きく跳ねあげた。
「し、失礼します」
 鋭いまなざしに圧倒されて、ジョシュは冷や汗をかきながらそろそろと後退した。ビリング卿からは死角になっている葦毛の影に隠れて、ようやく安堵の息を吐きだす。こんなところからでは何も見えない、と文句を言うミアは無視された。
「不測の事態というのは、これか」
 ビリング卿はさきほどまでジョシュが立ちすくんでいた場所を通り越して、つねならばかれの愛馬がそこで飼い葉を食んでいるはずの房を凝視していた。
「そうそう、そうなんでございます。お出かけになられたあとで聖騎士さまのご一行が到着なさいまして……こちらはそのご一行のお連れになった馬でございます。どうかお許しを、ビリング卿」
 説明に詫びをつづける馬丁の頭越しに、ビリング卿の葦毛が自分の居場所に我が物顔で居座っている新参者をうかがっていた。あるじの表情をそのままうつしとったかのような、剣呑なようすである。
 聖騎士の馬二頭は不穏な気配を感じとったに違いなかった。一見興味がなさそうにふるまってはいたが、耳が神経質にうごいて警戒心をさらけだしている。だが、そのたたずまいには全体的に余裕があった。自分たちの優位な立場をきちんと理解しているのだろう。二頭と比べると乗馬用でしかない葦毛の体格はほっそりとしすぎていた。まともに争っても勝負にはならないだろう。
 黒馬は葦毛の前で尊大に首をめぐらせ、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
 葦毛が反射的に首を下へとさげる。
 だが、ビリング卿が轡をがっしりと保持していたため、葦毛は前脚を虚しく掻いただけでその場に踏みとどまらざるを得なかった。
 鼻を鳴らして不満を訴える愛馬におざなりな愛撫をほどこすと、ビリング卿は眉間の皺をさらに深くした。
「許すも許さぬもなかろう。すでに実行してしまったのだ――これからこの馬を追い出すというのなら話は別だが、それは無理であろうしな。むろん、わが姫に迷惑をかけたことについてはそれなりの償いを考えてもらう。――が、いまの問題はクレアデールさまの愛馬とわがブライの現在の処遇についてだ」
「申し訳ございません、いま急いで代わりの房の用意をしているところでございますんで……」
 命にかかわる大事を前にしているかと錯覚させられるような、そんな深刻なまなざしをひたと据えられて、視線を逸らすこともできず、慇懃な言葉でねちねちと咎められる。ぞっとするような居心地の悪さに、馬丁頭は冷や汗かきかき頭を下げつづけた。
 作業が一段落したのだろうか。ひとりまたひとりと周囲に馬丁たちが集まりはじめていたが、そのだれもが頭に同情を覚えつつも、ビリング卿の真摯すぎる黒い瞳の前に我が身をさらし、代わりに串刺しになってやろうなどと思うものはいなかった。下っ端でよかった。それがかれらの感じていることで、馬丁頭がこのときほど自分の地位を恨めしく思ったことはなかっただろう。
 そこに、高く澄んだ声が一陣の風のように走りぬけた。
「いつまでもなにを話しているのだ、ビリング」
 清々しい響きは、厩舎に澱のようによどみはじめていた重たい空気を一瞬にして吹きはらってゆくようだった。
 その場のものたちは反射的に背筋を伸ばし、いっせいに声のした方をふりかえった。
 入り口付近に据えられたランプの光の中にくっきりと、華奢な人影が浮かびあがっている。
「またぞろご託を並べて、皆に迷惑をかけているのではなかろうな」
 伸びざかりの肢体を上等の乗馬服につつんだ少女が、背筋をまっすぐに伸ばして胸を張り、何者をも怖れぬ風情で歩を進めてくる。
 ゆれる黒髪の下に見え隠れする額の細い金属の環。その中央にはめこまれた神の宝玉が、非日常的な光沢をおびて見えるのはいつものこと。それでも人々は、少女のきわだって美しく、威厳に満ちたようすに目を奪われた。
 クレアデール・エリアデア・エンクローズ。西の公爵の愛娘にして、現在はエリディルの三位の宝玉の巫女である。
「申し訳ございません、わが姫。馬丁が無断でフェリーンとブライの枠を来訪者に貸しあたえたと申すゆえ、理由を問いただしておりました」
 さすがにいちはやく気を取り直して堅苦しく説明をはじめたビリング卿に、少女は冷ややかな一瞥をくれた。
「聖騎士が参られたというのだろう、仕方ないではないか。大神官の遣いに礼を尽くすのは当然のこと」
 馬丁頭が恐縮して頭を下げる。後見の騎士は憮然としてやはり頭を下げる。
「わたくしは、わたくしの馬の面倒をきちんと見てもらえれば、それでよい」
 クレアデールは、はっきりとした口調で自分の意志を表明する。けして押しつけるような物言いではなかったが、美しく正確な発音と言葉づかいが眩しいような自己の強さをしのばせた。そこに、ゆらぎと呼べそうなものはどこにもなかった。
 周囲はあらためて、クレアデールという少女の持つ、つよい存在感に圧倒される。
 十五という歳にしては大人びたつよい物言いも、かの少女のものとなるとふしぎと違和感を覚えない。クレアデールには、つねに人々を敬服させてしまうような、品のよい威厳が生まれながらにして備わっていた。
 そのうえ、クレアデールは美しかった。つややかな黒髪はまっすぐに肩に滑り落ち、黒い瞳は意志の力を宿していきいきとし、目鼻立ちはととのいすぎるほどにととのい、横顔までもが完璧な線を描いている。その美しさに額の宝玉がさらなる光をあたえているのは言うまでもなかった。
 いまだ成熟しきらぬ少女のこと、たたずまいにはまだ硬いつぼみのような蒼さがかいま見え、強いまなざしが彼女を少年のようにみせることもままあったが、それでもなお、いやそれだからこそ、その美しさが性別を超えてのものであることが、つよく人々の胸に刻まれるのである。
 これほどまでに巫女と呼ばれるにふさわしい人物が、かつてエリディルに身を置いたことがあったろうか。
 ふと、ひき結んでいたくちびるをゆるめて笑みを浮かべる少女に、ジョシュは思わず吐息をついていた。
「むしろ、フェリーンとブライの房を使ってもらってよかったと思う。他の房では大神殿への失礼ともとられかねぬから。どうだビリング、素晴らしい馬たちではないか――このような存在にフェリーンの房を明け渡したとして、なんの不服があるだろう」
 いまやクレアデールの魅力的なまなざしはビリング卿を素通りし、二頭の戦馬にのみそそがれていた。
 少女の接近を警戒気味に待ち受けていた鹿毛は、鼻先にのばされた手のにおいと感触を慎重に確かめるうちにしだいにうち解けて、ほどなくその手に愛撫を許した。クレアデールはおそるおそる鹿毛のつややかな膚を撫でさすると、ため息のように言った。
「天鵞絨のようだ」
 ランプの光を反射した黒い瞳が、きらきらと輝いて馬を眺めあげている。
 そこに、となりの黒馬が存在を主張するように鼻を震わせた。
「ああ、すまない、ぬばたまの主よ。そなたを忘れていたわけではない」
 黒馬は礼儀正しくクレアデールの手をあらため、挨拶をすませると、おとなしく首をかたむけて少女の手に身をゆだねた。
 黒馬に示された親愛の態度に、三の巫女は頬を紅潮させて満面の笑みをうかべた。
 そのようすに、周囲はなにがなしぼんやりと見入ってしまった。いつのまにやら厩舎全体におだやかな静けさが満ちている。なんと平和で心あたたまる、少女と馬のふれあいの一場面であることだろう。皆、言葉を失っていた。なにも言う必要を感じなかったのだ。
「かれらのあるじは、もうここにはいないだろうな。すこし話を聞いてみたいのだが」
 黒馬のたてがみを梳いてやりながらクレアデールが尋ねるのに、馬丁頭がえっと飛びあがって尋ね返した。
「はあ、馬のご主人さまですか。するってえと、聖騎士さまというわけで……」
 馬丁頭はあたりを見まわして助けを求めたが、馬丁達は小刻みに首をふって否定するだけ。もちろん、いまごろ聖騎士がこんなところをうろうろしているわけがなかった。
「あいすみません、こちらにはもう……」
 到底不可能なこととわかっていても、三の巫女じきじきの要望を叶えられないとなると無念な気持ちになるものだ。馬丁頭は本日何度めかの裏切りを働いているような後ろめたさと、仕方がないことを理解してもらいたいというせつなる願いをこめて、詫びの言葉を口にしようとした。そのとき、
「俺だ」
 首筋に息がかかったのではないかと感じるほどすぐ後で、淡々と主張する若い声がした。
 突然のいらえに、馬丁頭はもちろん、その場にいたものたちはみな驚いてふり返る。
 声のぬしは、人々の背後、馬の落とす影の中に、得体のしれぬ雰囲気を漂わせて立っていた。


「馬をつれてきたのは俺だが」
 馬丁頭はまじまじと相手を眺めた。
 もちろん、聖騎士などではない。全体的に薄汚れた身なりの上に、これまた埃まみれのマントをひっかけている。ざんばらの黒髪の影に隠れて表情もよく見えないが、その声と体格から若いことだけはかろうじて確認できた。見かけない顔だ。だが、片手には馬丁七つ道具のひとつ、寝藁用の長柄のフォークを馴染みの道具のようにたずさえ、あまつさえずいぶんと気楽に地面に突き立てている――。
「……おまえ、なにしてたんだよ!」
 聖騎士の従者をおもわぬところで見いだしたジョシュは、自分が誰の眼前にいるのかも忘れて、大声で叫んでいた。ビリング卿が咳払いをする。
「見てのとおりだ」
 つっかかってくる若者に動じもせず、黒髪の従者は淡々と答える。
「そんなもの持って、馬丁の手伝いでもしてたっていうのか」
 広角泡を飛ばすジョシュに、よくわかったなとルークは返した。よくよくみれば、暗い色のマントには干し草と思われるクズがたくさんひっかかっている。
「馬丁仕事にはすこしばかり心得がある」
 そんなことを聞いているのではないと、ジョシュは力んだ。自分たちを長々と待たせたことをどう思っているのかを尋ねているのだ。だが、
「頼まれたので」
 すこし困惑したようすで答えるルークに、複数の馬丁が口添えする。
「俺たちがちょっと頼んだんだ。忙しかったんで。こいつは悪くないよ」
「頼まれたらなんでもするのかよ。おまえ従者だろうが、聖騎士の」
 脱力したようにしゃがみ込むジョシュの背後で、ビリング卿がもう一度、大きな咳払いをして尋ねた。
「そのほう、聖騎士と関わりのあるものか。たしかに見かけぬ顔をしているが――」
 そうは言いつつも、なにか気にかかることがあるようすで目を細めるビリング卿だったが、
「ああ、ビリング卿。こいつはたしかに聖騎士の連れです。本人は従者だって言ってます。けど、そんなに大した奴じゃありません。それに俺、はやくこいつを兵舎につれてかなきゃならないんです。なっ」
 やけくそ気味に言い立てて、ジョシュはルークの肩をつかみ、この場から遠ざかろうとした。
 冗談ではない。こんなこきたなくも無愛想な奴に麗しの三の巫女とじかに話をさせるなんて、そんなことを許せるはずがないではないか。
 渾身の力をこめてひっぱり込んだはずだったが、従者は、足が地面に根を張っているのではと疑いたくなるほど、微動だにしなかった。
 しかも、ジョシュの肩越しにビリング卿にむかって、
「聖騎士カーティス・レングラードは、俺の先導者だ」
 などと、ぶっきらぼうに宣言してみせたものである。
「おい……」
 ジョシュは焦った。
 なんだってこいつはこんなに堂々としているのだ。
 従者と騎士の間の身分差はほんの一段階かもしれないが、実際その一段にとほうもなく大きな落差があるのはたしかなのである。しかも相手は、身分に厳格なビリング卿ときている。
 おそるおそる盗み見ると、予想通り、ビリング卿はますます険をおびた表情になっていた。額に血管が浮き出しはじめている。危険の兆候だ。
 だが、ビリング卿がなにかを口にする前に、黒髪の少女が機先を制した。
「ならばおあつらえ向きの人材というわけだ。申し訳ないが、こちらへ来て、すこしばかり答えてはもらえぬか」
 ルークは無言でクレアデールを見返した。その態度と微妙な間合いが、ひどく不作法で緊迫したものに感じられたのは、ジョシュにとってだけだったろうか。
 従者はフォークを側にいた馬丁に預けると、三の巫女の立つ場所へとおもむろに歩き出した。その姿からは、だが、エリディルの三の巫女にじきじきに声をかけられた感動も、その姿を間近にしての恐縮も、美しい少女を目のあたりにした若者がごく自然にさらけだす無意識のよろこびすら、見つけだすことはできなかった。
 若者は、依然としてつかみどころのない表情を浮かべたまま、いつのまにか黒馬の前にたどりつき、クレアデールとまっすぐにむかい合った。
 と、
「もう少し下がりなさいってば!」
 後からマントをひっぱられて、ルークは無様によろけた。
 ふりかえると、そこには憤然として立ちはだかる侍女の姿があった。どうやら、若者の不作法な態度に業を煮やしたらしい。
 言われるままに半歩下がったルークにミアは、それでいいのよ、と小声で叱りつけながらビリング卿の様子をうかがった。
 騎士は眉間の皺をさらに深く、口元は歯ぎしり寸前にゆがめていたが、なにを思うのか目を閉じて無言である。どうやら、堪忍袋の緒はかろうじてつながっているようだ。
 ついで三の巫女はというと、こちらは至極機嫌がよさそうだった。いままで認識されていたクレアデールの人となりを思うと幾分違和感を覚えるものの、黒い瞳が好奇心にきらめいているのも美しい。おなじようにものを食べ、排泄して生きている人間とは思えない少女の完璧な顔立ちを目の当たりにして、ミアはぼんやりと頬を赤らめ、すごすごとルークの背後に逃げこんだ。
「聖騎士の従者といったか。さきほどすれ違ったな、〈羽と蹄鉄〉亭の前で」
 うなずくルークに、クレアデールはかすかに顎をあげた。そのまま、単刀直入に質問をはじめる。
「この馬たちは、聖騎士団の所有だと思っていいのだろうか」
「いや、馬は個人の持ち物だ」
 答は、そっけないほど簡単な言葉で返ってきた。これにはクレアデールもかすかに瞠目した。まさか、自分を相手にしてまでおなじ口調で話をするとは、予想しなかったのだろう。
 ミアが馬鹿と罵らんばかりにマントをひっぱると同時に、ビリング卿がさらに大きな咳払いをした。
 気をとり直してクレアデールが尋ねる。
「個人のもの……というと、これは二頭とも聖騎士の私的財産か」
「いや。鹿毛はカーティスだが、黒は俺だ」
 声にならないどよめきが厩舎を覆った。クレアデールの若者を見るまなざしが、驚きのそれに変化している。
「私の目には、この戦馬はゾヘイルの産と見受けられるのだが」
「そのとおり。正解だ」
 黒髪の若者は、平然と問いを肯定した。次第に冷えてゆく周囲の空気を感じていないのだろうか。クレアデールが見当違いの質問をしたときには、なんの躊躇もなくばっさりと切り捨ててしまいそうな、おそろしく無遠慮な調子である。
 荒い息をつきながらビリング卿がゆっくりと握り拳をつくっているのに気がついて、ジョシュは悲鳴をあげそうになるのを堪えた。
「ゾヘイルの馬は、相当に手に入れがたいものだと聞いている。一介の聖騎士の持ち物としてもずいぶんと破格な代物だ。それをそなたは所有しているというのか。どうやって手に入れた」
「餞別だ」
「……え?」
「大神官の餞別だ。二頭とも。押しつけられた」
 迷惑だ、と言いたげなくちぶりで、ルークは淡々とつづけた。
 今度のどよめきはさきほどよりも大きく、実際の声をともなっていた。
 ジョシュは目眩がしそうな気分だった。エリディルの人間がこんな馬を自分のものにしてよいと言われたら、死んでもいいと思うものもいるだろう。いや、自分でもそう思うかもしれない。馬は大きな財産であり、その良し悪しは所有する人物の権威にも繋がっている。三の巫女の葦毛も素晴らしい馬だが、この二頭は次元が違う。しかも、それが大神官の下賜品となればなおさらである。
 目の前のみすぼらしい若者が大神官から馬を下賜された、その理由は皆目わからないものの、かれが分不相応な賜り物にまったく感謝の念を抱いていない、ということだけは誰にでもわかった。
 信じられない。
 黒髪の若者に対して、この場のものたちが一様に抱いた思いは、それ以外の言葉では表せそうになかった。
 そして、さすがのクレアデールも、この言いぐさにはなんと言葉をつづけたものか、しばし悩んでいたらしい。
 やりとりが中断して、微妙に弛緩した間がおとずれた、そのとき。
 横様から黒いなにかがものすごい勢いで襲いかかるのを見て、少女は顔色を変えた。
 それが狙っているのはあきらかに従者だった。目にもとまらぬ速さで獲物に飛びかかる。クレアデールは思わず身をすくめて目を閉じた。すぐそばで、硬い歯が重く鋭く噛みあわされる音がした。
 だが、目をひらいてみると、若者はなにも変わったことなどなかったかのように、平然とその場に立ちつづけていた。
 そのとき実際になにが起きていたのか。クレアデールばかりでなく、ほとんどのものが理解できずに当惑することになった。それは、葦毛の後に隠れていたジョシュにしてもおなじである。
 不意をつかれた一瞬の出来事は、確認することを思いつく間もなく、あっというまに過ぎ去ってしまった。記憶に残っているのは、突風が通りすぎたかのような、瞬間の圧力。そして、それまで柔和にすら見えた三の巫女の突然の変化。だが、その理由はというと――まったくの不明だった。
 ただひとり、後見の騎士だけが、ひそかに渋面を真顔に変化させていた。黒髪の若者の姿をとらえる視線が、いつになく冷たく尖っている。
 クレアデールは肩をやわらかく押してくる大きな黒い生き物に気づき、はっとして緊張をといた。
 なに食わぬ顔で愛嬌をふりまく黒馬を撫でてやりつつ横目で見ると、聖騎士の従者は慎重に馬の枠から遠ざかろうとしているところだった。
 従者のマントをひっぱっていたはずが、いつのまにか尻餅をついていたミアが、手から逃げてゆく汚れた布の端を茫然と見送っている。
 クレアデールは、くっと喉の奥を鳴らした。
「……なるほど」
 突然口元を押さえて顔をそむけた少女は、痙攣のように肩を小刻みに震わせはじめた。あわてて駆け寄ったビリング卿の、背中に触れた手を何気なくふりはらう。
 ようやく落ちついたらしいクレアデールが面をあげると、頬が薔薇色に紅潮していた。
 彼女は笑っていたのだ。それは楽しげな笑顔だった。
 目尻には、涙まで浮かんでいる。
「もしかすると、そなたが今朝の〈兆し〉なのか?」
 愉快そうに問われたルークは、なんとも微妙で形容しがたい、おそらくは困惑をあらわしているのだろうと思われる表情で少女を見おろした。
「――なんのことだ」
「そうだな、わからずともよい。真実であればそのうちに嫌でもわかる。最後にひとつだけ」
 あっけにとられている周囲を置き去りにしたまま、心得顔の黒馬の頸に手を添わせつつ三の巫女は尋ねる。
「名を、教えて欲しいのだが」



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