天空の翼 Chapter 1 [page 12] prevnext


12 伝説のあわい うつつの影


「申し訳ないが、もう一度あなたのお名前をうかがわせていただけますかな」
 その人物は、口にしている申し訳なさなど一片たりとも感じていないようすで、カーティス・レングラードに問うてきた。
 必要以上に名を問いただすこと。それは、相手を軽んじ、あるいは貶めていると誤解されても申し開きのできない行為である。この世の理によって生まれ、そのうえで育まれてきた礼儀を、当然心得ているはずの聖職者のすることではない。
 しかし、だからこそ、その行為をあえておこなうことによってほのめかすことのできる、なにかがある。
 長身の聖騎士は、ゆがんだ硝子窓を通して射しこむ夕刻の光を宵闇色のマントの上にまといつつ、逆光にうかびあがる神官長の姿を目を細めたままで観察した。
 このひんやりとして湿った、静かな空間に足を踏み入れる以前、部屋のあるじには使者の到着とその氏名、階級が告げられたが、その一部始終をかれははっきりと耳にしていた。それは、大きく扉をあけ放った上でなされたやりとりだった。
 その上、まず初めに聖騎士本人が、神官長の前に進み出ながら礼儀正しく名乗りをあげている。それは、大神官の意を受けた使者としては、当然踏むべき手順のひとつに過ぎなかったのではあるが、それでもカーティスは自分から相手に向かって、自身の本質を差しだしたことになっているわけである。
 この状況で、なおも相手に名を問う行為が何を示すかは、おのずと明らかだ。
 いまにもわなわなと震えだしそうな両手を懸命に押さえ込み、必死に平静を保とうとしているやせぎすの男の宣戦布告を、金髪の聖騎士は内心面白がりながら受けて立つことにする。
 名を名乗ることなど、かれにとってはどうということもない行為だ。それでもわざと、すくなからぬ譲歩をしてやっているかのように、とりたてて派手でも変わっているわけでもない自分の名を淡々と告げてみせた。
 挑発には乗らない。
 しかし、売られた喧嘩を突き返すような無粋なまねを、するつもりもない。
 さて、追いつめられた神官長は、なにを持ってこちらに対する武器とするつもりなのだろう。
 期待をこめて待ち受けるカーティス・レングラードを、かつて聖騎士として男の教育にあたった過去を持つ老騎士は、懸念のまなざしで見守っていた。


 白い花びらの舞い散る、春の午後遅く。
 大神官の親書を懐にして、長旅の末に目的地へとたどりついた聖騎士は、旧知の人である神殿守護にいざなわれ、辺境の古びた神殿施設の中へと足を踏み入れていた。
 太陽の輝き陰りゆく城壁の中で、石造りの建物は昼間蓄えたはずの熱をすっかり手放していた。等間隔に並んだ石の柱のつくる影の隙間を縫うように進んでゆくあいだにも、春にしては冷たい風が吹きぬけてゆく。どれほど都から離れた場所までやってきたのか。そのことにいまさらのように気づかされて、聖騎士は、精悍な顔にふと笑顔をうかべた。
 西の果てにある、宝玉の神殿。
 そこにいたるまでの道のりは、旅慣れた聖騎士が想像していたよりもいくらか遠く、しかし道連れのおかげで思いがけなく退屈知らずのものとはなったが、それもいまは過ぎ去ったこと。すでに男の興味は新たな対象に移りつつあった。
 たどりついた東向きのその部屋は、暖炉に火が入れられ、薪がさかんに燃えているのにも関わらず、底冷えのするような寒さでかれらを迎えた。
 部屋の四分の一ほどを占めるどっしりとした大机の上に所狭しと積みあげられているのは、たくさんの書物である。四方の壁のうち、窓と暖炉のある壁をのぞいた二方に作りつけの頑丈な書架があり、そこにもさまざまな姿形をした書物が詰め込まれていた。金属製の鋲を打たれ、錠の取りつけられた、ひとりでは抱えられないほどの大きさの重厚な革装丁の本から、日常使いと思われる連祷を記した本。写し取ったばかりの羊皮紙を細い紐で簡単に束ねたもの、都で流行りはじめた版木を使用して印刷された刊本まである。
 奥行きのある空間に窓が取り込むぼんやりとした夕刻の外光、そして炎の入ったひとつのランプによって照らしだされる、静かで陰鬱な神官長の執務室。そこには、閉じこめられた記憶と秘密と埃のにおいがしっとりと冷たく漂っていた。
 その、独特な趣をそなえた静かな場所に、帯剣したまま旅装もとかず、申し訳程度に泥を落とした長靴で歩み入ってきた聖騎士は、机に残されたわずかな隙間にねじ込むように置かれたランプの光に顔をむけ、浮かびあがる書物の表題をいくつか目に留めると、青い瞳にかすかにうなずくような微笑を浮かべた。
 なるほど。
 部屋のあるじが都でも聞こえた碩学であったことは、旅立つ前に与えられた情報の中に含まれていた。
 目の前にいるのは、大神殿の文書庫で人生の貴重な時間を惜しげもなく費やしてきた、一般人からみれば奇特と思える種類の人物なのだ。
 そう思いあたってみると、この暗くこぢんまりとした私的な空間には、どこかあの広大な地下の穴蔵、もしくは人知れず拓かれた叡知の王国と共通するにおい――それは黴臭さが主だったかもしれない――が感じられた。
「突然の訪問にお応えいただき、光栄です、ダーネイ神官長。アーダナ大神官猊下より派遣されて参りました、カーティス・レングラードです」
 古きも新しきも取りそろえられた知識の堆積、書籍の山のむこうに呼びかけると、小柄で貧相な体を正神官の青い長衣につつんだ男が、それはしぶしぶともったいつけるようにしてふり返った。
「こちらこそ、遠路はるばるようこそおいでくださった」
 ハル・ダーネイ神官長。一位神官をあらわす金糸の縁飾りのついた肩掛けをさばくと、ゆっくりと小ぶりな口の端を持ちあげて、親しみやすそうな微笑をつくった。口と目のまわりに深々としわが刻まれる。
 エリディルの宝玉神殿を統べる壮年の男性神官は、先ほどまでフェルグス卿がさんざん誹っていたような欠点を持っている人物のようには見えなかった。
 落ちつきはらったそぶりで来訪者を迎えると、ここは寒いでしょうとさらに奥へと招き入れる。その声音はすこしばかり細く金属的ではあったものの充分に威厳を保ち、内心覚えているかもしれない動揺などはいささかも現れてはいなかった。
「カーティス卿と言われましたな、アーダナからいらした御方。わがエリディルの守護どのと懇意でいらっしゃるとか」
 そう言ってかたわらに顔をむけると、押しとどめようとする神官たちを有無を言わさぬ迫力でふりきった後、壁際に退いて高みの見物を決め込もうとしていた老騎士をじっと見つめた。
 フェルグス卿は分厚い胸の前で腕を組んだまま、厳つい顔にふさわしい嗄れ声で面倒くさそうに応じる。
「そうだ、ダーネイ。わしがこやつの人物を保証する」
「あなたの言葉を疑っているわけではありません、守護どの。ただ私は、かような辺境までご足労いただいた聖騎士どのに、満足な歓迎もできないことを憂いているだけです。エリディルは豊かとはいえない土地ですから」
 うすい唇に浮かんだ笑みは、かすかに皮肉を含んでいるようにも見えたが、口調はきわめて穏やかなままだった。
 それならばと、カーティスもにっこりと微笑む。
「歓迎ならばとうに充分にしていただきました。あれほどの大音響で鳴らされる鐘の音で迎えられた聖騎士は、大陸広しといえども私ひとりだけだろうと思いますよ、ダーネイ神官長」
 押しの強い笑みを高所から浴びせかけられて、細面の男の顔がかすかにひくついた。
「これは恐縮です。あれはちょっとした余興でございまして……と言いたいところなのだが、どうやらしつけの悪いどこぞの若造が、いたずら気を起こして暴走したもののようです。お客人の耳に支障がなければよろしいのだが」
 ふたたび横目で見られたフェルグス卿は、つと視線を逸らした。
「いや、大鐘の響きには、神の御声を直接この身に受けるような厳粛さがある。騎士団の進軍楽隊の奏でる音を日々耳にしている身であれば、どんな楽器であろうと神の賜りたもうたもの。天上の音色となんら変わるところはありません」
 大まじめに語る聖騎士の言葉にフェルグス卿がおもわず吹き出しかけたのを、神官長は不審そうに見やった。カーティスはつづけた。
「それに、あの鐘は、伝説の巫女の目覚めを告げた鐘だ」
「……と、いうと?」
「ダーネイ神官長はご存じありませんか」
 含みをもって空色の瞳が見おろすと、神官長はかすかに視線を逃がした。
「それが土地のものにつたわる昔話のことであるのなら、むろん存じてはおりますが」
 わざとらしい咳払いをして、神官長は思いのほかくっきりとした面差しをランプの光にむけた。すこしばかり口が小さすぎ、鼻もいくらか大きいが、若いときにはそれなりにもてはやされたのではないだろうか。いまは頬が削られたようにこけており、色褪せた少ない髪に縁取られた顔色は、あたりの暗さを差し引いてもかなり悪くみえた。おそらく、神官長は自分の人生をあまり幸せと感じてはいないのだろう。
 聖騎士は、深い響きをもつ声で、朗々と語った。
「――その昔、初めの巫女がまだ存在する前のこと、エリディルは宝玉をいだく乙女の永遠の眠りを守る土地だった――」
「よく、ご存じですね、カーティス卿」
 ため息をつき、うずたかく積まれた本の隙間に手をついて、かすかに瞑目するようにしたダーネイ神官長の声は、心なしか揺れはじめていた。
「だが、それはただの言い伝えにすぎない。それも、この西の地だけに、ほそぼそと伝えられているものです。ここから馬で二、三日も離れれば、そんな話を知っているものはもうだれもいない。エリディル周辺ばかりに残った、ごくごく局所的な言い伝えなのです。もともと土地にあったいくつかの話が、巫女の伝説と脈絡もなく混じり合ったすえに生まれたのでしょう。たわいもない昔語りです。辻褄もまったくあっていない。そもそも、神殿の公式な文書のどこにも、あなたのいうような物語はありはしない」
 一息で言い終えた後、自分の長広舌に決まり悪さを覚えたものか、少々照れくさそうにつけ加えた。
「こんなことを、聖騎士のあなたに説く必要はありませんでしたな――だが」
「ハル・ダーネイ正神官」
 カーティスは意識してのことか、神官長の呼び名を階級に変更した。神殿の階級で言うならば、聖騎士団の正騎士の資格は正神官とほぼ同等だ。
「もちろん、おっしゃるとおりです。あなたがこの土地の伝説に特に精通した御方だということは、よく知られたことだ」
 フェルグス卿が、そうなのか、と眼で尋ねる。
「旅の途中に聞きかじってきたばかりの私とは、知識の質も量も違う。そのことは大神官猊下もよく心得ておいでです。その上で」
 聖騎士カーティス・レングラードは、マントの奥懐から細長く丸めた筒のようなものを、うやうやしげに取り出した。
「猊下はあなたに、この書簡をお渡しするようにとお命じになったのです」
 差しだされたものを勢いのままに受け取ってしまった後で、ダーネイ神官長はぎょっとしたように手の中の書簡に視線を落とした。
 それはごく薄く仕上げられた羊皮紙だった。大神官のためにつくられている日用品らしく、正規の書類に用いられる、凝った物々しい神殿の意匠はみられなかった。型で押しだされた精緻な紋様が縁にうきあがり、青い封蝋には大神官の紋章をかたどった印がきっかりと押されている。
 肉のこそげ落とされたような手が、ふるえをこらえて書簡を押し頂いた。
「謹んで受け取らせていただきます。じきに夕餉となりましょう。先ほど申しあげましたように大したもてなしはできませんが、料理人が心をつくして用意をしております。どうぞ長旅の疲れを癒していただきたい」
 そのまま、さりげなく書簡を懐にしまい込もうとした神官長を、聖騎士がやんわりと咎めた。
「申し訳ないが、ダーネイ神官長。書簡にはこの場で目を通していただきたい」
「いえ、猊下からの大事な書簡ですから、のちほどゆっくりと」
 あきらかにひきつった笑顔で逃れようとするが、カーティスはそれを許そうとしない。
「確かに受け取りましたから、どうぞお部屋にお引き取り願います」
 懇願の笑顔を悲痛にゆがめる神官長に、フェルグス卿が逃すものかと巨体で威圧するようにのしかかる。
「この場で読め。読んだら、わしがおぬしを保証してやる」
 神官長は立ちはだかるふたりの武人を見比べた後、相手が悪いと抵抗をあきらめて封を切った。力がうまく入らないのか、丸まった紙片を不器用にひきつらせながらのばしてゆくと、流麗な筆跡で記された文章を無言のうちに読み下す。
 みるみるうちに顔色が変化した。
 すうっと、力がぬけ去るように、ダーネイ神官長はその場にくずおれていた。
「おい」
 フェルグス卿が腕をわしづかんでひきあげると、血の気を失った顔にはまだ意識があった。まなこが異常なほど見ひらかれ、頬の筋肉は限界までひきつっている。
「こ、こ、こ」
「落ちつけ」
 乱暴にどやしつけるフェルグス卿。
 神官長はふらつきながらも机にしがみつくと、手にした書簡を非難をこめて握りしめようとした。だが、押しつぶされる羊皮紙の乾いた音に、はっとして手を離す。
 書簡は、冷たい床の上に落ちた。
「かまわないのですがね、握りつぶしたって」
 ゆったりとした物腰で拾いあげた書簡を前にかざし、カーティス・レングラードはかかり落ちた金髪のむこうでふっと笑った。
「紙に皺がつくだけだ。大したことじゃない」
「……その紙は、サイラスの極上品です。滅多なことでは手に入らない」
「しかし、猊下にはただの消耗品だ。それにこの上あなたが使用することもできない。すでに隅まで字が記されているからね」
 なのになぜ、そんなにもったいなさそうな顔を?
「大神官の書簡は、後世の人々のために残す価値がある」
 ふるえる声で、しかしきっぱりと言いきったダーネイ神官長に、聖騎士はなるほど、と髪をかきあげて納得する。それでは大切に保管されるといいでしょう。書簡をひとふりしてみせ、そしてつづけた。
「現在における大神官のお言葉については、いかがなものだろうか」
「これは……越権行為だ」
「大神殿の司にむかって越権行為とは、穏やかではありませんね」
「しかし、大神官といえど、〈沈黙の巫女〉をエリディルの褥からうごかす権限はないはず。宝玉の巫女は宝玉神殿の管轄下にある。そもそも――神殿組織と宝玉神殿とは別個のものだ」
 ぼそぼそと反論を試みる相手に、カーティス・レングラードは人の悪い笑みを浮かべて切り返す。
「だがその根拠となっている昔話を、あなたは先ほど否定したばかりだ」
 ぐっと言葉に詰まった神官長は、それでもなんとか冷静さを取り戻そうと必死だ。
「昔話ではない……いや、昔話だ。しかし昔話には、一抹の真実が隠されていることもある」
「おい、いったい何の話をしておる」
 道筋の見えない話に不満を訴えたフェルグス卿へ、カーティスは件の書簡を放り渡した。
 こんなに暗い場所で小さな字を読むのは億劫だ、この書体は一文字の区切りがわからない、大神官ってやつはいつももったい付けた文章を書きおる、とぶつぶつ文句を言っていた神殿守護だったが、書簡を持ったまましばらくすると沈黙してしまった。
 部屋は、いつのまにかとっぷりと闇に沈んでいた。
 ランプの炎がじりじりとかすかな音を立て、暖炉では小枝がはじけ、炭化した薪がくずれてゆく音がする。
「――考えさせてもらいたい」
 神官長は顔をうつむけたまま、机に力なくもたれたままでそう言った。
「すこしだけ、であれば。実のところ、時間はそれほどさしあげられない」
 聖騎士がいたわるように優しげな声で、その実、冷たく追いつめる言葉を切っ先のように突きつけると、神官長は予期せぬ勢いで顔をあげた。自棄を起こしたのだろうか。突然のまなざしの強さに驚いていると、男は意外な言葉で切り返してきた。
 それが、聖騎士の名を問う一言だったのだ。


 カーティス・レングラード。
 聖騎士の名は、とりたてて高貴な家柄を示すものではない。知名度もほとんどない。そういった点からいえば六の巫女の実家であるディアネイアのほうがよほど家格が高かった。
 だが、その響きのどこかに、神官長はかすかなひっかかりを覚えたらしい。
「レングラード、という名にはどこか聞き覚えがありますね」
 そう言われたカーティスは、不意打ちを食らったようにわずかに目を見ひらいた。
 たしか、グローズデリア開闢のころに記された古文書の中だった、と口のなかでつぶやいた神官長は、さまよわせた視線の先にひどく興味深そうな顔をした聖騎士を認めた瞬間、ここは自分の学術的な好奇心を追求している場合ではないとようやく気がついたらしく、いや、そうではなくて、と語気を強めた。
「カーティス卿。あなたはディアネイア侯爵と姻戚関係がおありだそうですね。そのような立場でこの件に関わろうとすることは、はたして賢明なことと言えるだろうか。ディアネイアの事情は私も理解しているつもりだが、いってしまえば些末な家庭の問題。古くさい血族のしがらみに囚われることを厭い、この世界の人々すべてに奉仕するべく神に身を捧げたものとして、我々には高い視点からものを見る義務があるのではありませんか」
 語るうちに次第に冷静さを取り戻してきた神官長は、聖騎士に対し、世俗のつながりに固執して感情的な肩入れをしているのではという疑いを投げかけた。
「猊下も猊下だ。利害関係をもった当事者にこのような重大な役割を負わせては、物事はたやすくねじれてしまう」
 憤慨の口調。神官長はようやく反撃の糸口をみつけたようだ。
「たしかに、私は六の巫女の叔父という立場にありますが――」
 先ほどの表情の変化などなかったかのように、聖騎士はそこでうすく浮かべた笑みを消して、口調をそれまでの砕けたものからあらためた。
「ディアネイアの事情をとるに足りぬ家庭的なものと片づけてしまう意見には、個人的にも聖騎士としても賛成しかねます。ディアネイア候は、東の小国間の微妙な均衡を保つべく長らく尽力してこられた御方だ。その人物をして、神殿に助けを求めさせるほどに今の状況は深刻なのだと、そう考えた方が現実的だと私は思う。それに、これまで十四年も神殿に拘束されてきたひとりの女性にとっては、もう、外の世界に触れてもよい頃合いだとは思われませんか」
 豊かな声で丁寧に説く聖騎士の言葉を、だが、と神官長は遮る。
「あまりにも手前勝手かつ、馬鹿げた要求ではありませんか。どんなお題目を唱えたところで、要するに、侯爵が望んでいるのは、娘をひとり取り戻すことで使える手駒を増やすことでしょう。それは現在、巫女の重責を担っているものでなくとも、つとまることのはずだ。六の巫女はああ見えても〈沈黙の巫女〉としてつとめは十二分に果たしている。世の中の平穏のために、彼女はエリディルに留まるべきなのです」
「本人は、自覚していないようですがね」
 揶揄するような言い方に、真面目な神官長は眉をひそめる。
「それはたしかに。表面的には、六の巫女は発育不全の少女にしか見えない。だからといって、宝玉を無防備に世間に持ちだすことには断固反対だ。六の巫女が抱いているもの、あれは、ただの宝玉ではないのですよ、あれは――」
 カーティスは、神官長がためらい息をついだ隙に、そっとひとつの言葉をすべり込ませた。
「――〈神の心臓〉、でしたね」
 その言葉は、暗がりの中で炎のように一瞬燃えあがった。
 瞠目した神官長は、探るようなまなざしで聖騎士の落ちつきはらった精悍な顔をじっくりと眺め、そこに不謹慎な感情がふくまれていないことを確認した上で、猊下がそこまで明かされたのであれば、と前置きし、そしてつづけた。
「そのことをご存じであれば、無理は言わずにいただきたい。次代の巫女は巫女自身が見いだすべきだ。しかし、六の巫女にそれを期待するのは無理というもの。しかも、いまの彼女からは宝玉を切り離すすべがない――ディアネイアの方々にはとうの昔に説明申しあげたことですが。宝玉は、主座のできるだけ近くに置いたほうが安定するというのが、先人達が多大なる犠牲を払って得た結論だ。だからこそ、我々は彼女の存在を公にせず、ここまで静かに守り通してきた。このことを知らされているものはごく数人しか存在しない――」
 神の宝玉に関する事柄には、大神官といえど、直接に関与することはできない。エリディルの神官長職が名目上神殿組織から切り離されたところにあるのは、宝玉の過った取り扱いによる危険を避けるためなのだ――。
 あらためてくり返す神官長に、聖騎士はまさにそのとおり、と重々しく同意する。そして、
「ですからそれは」
 と、守護の手にある書簡を顎でさし示した。
「命令書ではありません……エリディル神官長に対する、猊下の個人的な依頼の書簡です」
 ゆえに、たとえ神官長がこれを拒絶しても、正式な意味で責任を問われるようなことにはならないのだと、カーティスは示唆する。
 張りつめた空気がゆっくりとゆるみ、ほっと一息つこうとする神官長とは反対に、聖騎士の目元にじんわりと、人の悪い笑みが浮かんだ。
「ところでじつは、書簡はもうひとつ、あるのですが」
 明るい調子でそう宣言すると懐をくつろげて別の筒の存在をほのめかすと、そのまま取り出してみせようともせずに、背中を向けて歩き出す。長身の男は壁際で足を止め、大量の書物が詰め込まれたどっしりとした書架の枠に手をついて、斜に構えるように向きなおった。
 暗がりの中で、ランプの光を映した眼が一瞬の輝きをみせる。
「たしかに、ダーネイ神官長のおっしゃることは正論だ。だが、世の中が正論ばかりで動いているわけではないことを、あなたも大神殿でお暮らしになった歳月で身をもって感じられたはず」
 警戒もあらわに見守るハル・ダーネイを尻目に、カーティス・レングラードはしばし並んだ本の背に視線をさまよわせ、ついで、たまたま眼についたものに、というようすで腕を伸ばした。
「もしかしたら、このまま主張をつづければ私が感心して引き下がる、とお考えになっているかもしれませんが、そんなことをすればあなた自身を窮地に追い込むだけだと、忠告さしあげておきましょうか。ほら」
 窮屈な並びからよどみなく一冊をぬき出した聖騎士は、ずしりと重いそれを片手で支えながら、黒ずんだ緑色の革表紙をひらいた。黄ばんだ標題紙に大仰な書体で記された題名を、さらりと読みあげる。
「さて。これとほぼおなじ題名の本が、大神殿の出入り禁止の書庫から行方不明になっていることをご存じでしたか?」
 驚愕のまま凍りついている神官長を無視し、聖騎士は真面目くさった表情でフェルグス卿に本を手渡すと、またべつの場所からするりと一冊とり出してみせた。
「ふうん? この本はたしか、手にしたものに懲罰房行きを確約する異端文書だ。あなたはずいぶんこの手の書物にご執心なんですね、ダーネイ神官長」
 のどの奥から低く洩れるのは笑いだろうか。
 長い指が古びたページを繰ると、独特のにおいが周囲に散った。
「ああ、ここになにかが挟んでありますよ。覚え書きかな。なになに、『そのもののまとう衣は薄く、まろやかな肢体が透けて見えた。』……素晴らしく達筆な古書体だが、これはあたらしいものですね」
「……やめろ」
「『私はふるえる手を伸ばし、至高の存在への畏れに満たされて思わず吐息をついた。』――ふうむ。どこかで見た記憶があるような気がするな……そう、若い見習い達のあいだでこっそりとまわし読みされているあのいかがわしい本に、こんなくだりがありませんでしたかね、ダーネイ神官長?」
「それを返せ!」
 喉をひくつかせて人間離れした悲鳴を発すると同時に、神官長は自分よりも遙かに大きな男に襲いかかった。手にした紙片を奪い取ろうとしたのだ。
 しかし、一生の伴侶として書物を選んだ学究は、所詮剣を振るうことを日常とする者の相手ではなかった。
 聖騎士は突きだされた神官長の手首を簡単に捕らえると、優しげにといっていいほどの丁重さをもっていなした。
 バランスを崩して冷たい床に手と膝をついた神官長は、だが、あきらめきれずに何度も紙片をめがけて飛びかかった。それを聖騎士は髪の毛一本の差でよけつづける。
 宵闇色のマントがひるがえるたび、悲鳴ともうめきとも叫びともつかない奇妙な声がかび臭い書物の王国にいんいんと響きわたった。
「……いい加減にしろ」
 あきれてぼやくフェルグス卿。カーティスは笑いをかみ殺しつつ、半泣きの神官長に本に挟まっていた羊皮紙を差しだした。
「さあ、これはお返ししますよ。しかしこちらは、預からせていただきます。ところで、もうひとつの書簡の内容をお教えいたしましょうか、ダーネイ神官長。猊下はお望みとあらばあなたに別の任地を提供すると仰せでしたが」
 むしり取った羊皮紙をかき抱いて、大机の向こう側に逃げ込んだ神官長は、荒い息の合間から渾身の力をもって拒絶の言葉を叫んだ。
「もう……もう、けっこうだ。話は明日つける。出ていってくれ、いますぐに!」


 神官長に別れを告げ、扉の前で聞き耳をたてていた神官たちをふり払い、回廊を歩き出してしばしののち、老騎士がおもむろに口をひらいた。
「それで、わしはこれをどうすればいいんだ」
 フェルグス卿は、手渡された古書を持て余すようにかざしている。
「適当に預かっておいてください。神官長に返していただいてもかまいませんよ、ほとぼりが冷めたあとでなら。そのあたりは閣下のご判断でお願いします」
「ダーネイにこんなものを隠し持つ勇気があったとはなあ……それにしても」
「私に禁書の知識があるのは、すこし前まで、探索の手伝いをさせられていたからですよ――お知りになりたいのがそのことであれば」
「……このままダーネイに返しても、いいのか?」
 腑に落ちぬ風情で問いただす老騎士に、カーティスは軽口で返した。
「いまは、その任務とは無関係ですから。まあ、そのうち担当者に会うことでもあれば、耳打ちくらいはするかもしれませんがね。そう、禁断の財宝の在処をほのめかす、暗号文でもつけますか」
 なにかを思いだして笑う年下の男に、フェルグス卿は感心しないと言いたげに眉をひそめる。
「大神官の使者などという大役を仰せつかるようになったというから、すこしは大人になっているかと期待したが……わしは、阿呆だった」
 嘆息混じりの感想に、聖騎士は大まじめに詫びてみせる。
「ご期待にそえず申し訳ないです。だが、私は正規の使者ではありませんのでね。たまにはこんなこともしなければならない」
「たまにか?」
 カーティスはこれには苦笑でしか応えなかった。
 神官長との会見のあいだに、一日はすでに宵へと時を移していた。
 冷たい風を頬に感じながらふたりは歩きつづけたが、しばしの沈黙の後に、フェルグス卿は話題を変えた。
「――大神官猊下はなにを急いでおいでなのだ。あれを読んだら、ダーネイでなくとも、卒倒するぞ」
 ふりかえらない神殿守護の横顔は、再会のよろこびを半減させたかれの任務に、いくらか腹を立てているようすだった。昔なじみの老騎士の姿を認めたときから覚悟してはいたものの、カーティス・レングラードは心の中でのため息を禁じ得ない。
 フェルグス・ディアノードは、道理に合わないことを嫌う男だ。独立職といえば聞こえはいいものの、実際には権力や出世とは無縁の閑職へと左遷され、それでもなおささやかな縄張り意識と自己保身のために反発していた神官長とはまったく別の文脈で、書簡の内容に対して不審を抱いている。それは至極当然のことだ。
 フェルグス卿が人生最後の仕事として選んだ宝玉神殿の守護職は、宝玉の砦の護り手である。神の前で、身をもって守り通すことを誓った宝玉とその巫女の行く末に、責任感の強い老騎士が無関心でいられるはずがないのである。
 しばしの間をおいた後、カーティスは声を落として話しはじめた。
「これはまだ、閣下のひとりのお心におさめておいていただきたいんですが――東の大公の周辺が不穏なのです。明らかに神殿に対してなにかを画策しているふしがある。ディアネイアの件がこじれていることにも、大公の意図が少なからず働いているらしい」
 東の大公。それは西の公爵と同様、グローズデリア帝国分裂の際に起きた戦乱をくぐり抜けて今も勢力を保ちつづける、数少ない帝国王家の血筋を伝える名家である。
 現在の当主はみずから育てた強大な軍事力を背景に、領土拡大に対する強い欲望を幾度も近隣の国々に示してきた。つまり、まわりにとってはずいぶんとはた迷惑な存在で、しかし、いなくなれば周辺の秩序が際限なく乱れるだろうことが簡単に予想される、厄介な存在でもあった。
 フェルグス卿は意外そうだった。
「あれは神殿の信仰にも宝玉にも、無関心で冷淡な家柄だと思っておったが」
「それが、一昨年くらいから妙な具合に風向きが変わりはじめましてね」
 カーティスはめずらしく歯切れの悪い口調でつづける。
「詳しいことを告げる権限は私にはないんですが――大公自身の領土欲につけこんで何者かが背後から働きかけている、という噂があるのです」
「それはいったい、どんなやつだ」
 勢い込んで尋ねるフェルグス卿に、いえ、それはまだと、カーティスは言葉を濁した。
「東の大公が絡んでいるとなると、ディアネイアが巻き込まれているのは単なる隣国との感情的な行き違いとは言いきれない。とすれば、あちらの意図の読めないこちらとしては、とりあえず時間を稼ぐために要求通りにしてもよいという意志を示すのもひとつの方法というわけです。むろん、猊下も六の巫女が重要な宝玉の保持者であることは承知しているが、三の巫女を駒にするわけにはいかない。西の公爵の勘気をこうむりたくはないでしょう」
 まあな、とフェルグス卿は唸った。
 西の公爵は、あのクレアデールの父親だ。
「だが、フィアナとて、たいせつな巫女だぞ」
 フェルグス卿は、六の巫女のいまだに子供っぽさのぬけない姿を思ってか憂鬱そうだ。
「だが、まだ宝玉を目覚めさせてはいない。いまもっともこちらに危険のないかたちでうごかせる巫女は、あの子だけだ」
 かつて自分の従者だった男の言葉に、老騎士は抗議の唸りとともに首をふった。宝玉神殿が存在する意義を忘れてはならない、フェルグス卿はそう言いたいのだ。
「いかなるときでも危険は存在するものだ。それに、目覚めを期待してもいけない。あれは、六の巫女が目覚めさせてはいけないものだぞ」
 落ちくぼんだ眼窩の影からまっすぐに見つめてくる、灰色の眼にうかんでいるのは、深い懸念の表情だった。カーティスは思わず視線を逸らした。
「……とにかく、東の大公の手中に落ちる前にフィアナに宝玉を移譲させれば、彼女に万が一のことがあっても宝玉だけは神殿の手元に残る」
 薄情だが、神官長の言う上からの視点は、そんなふうに物事を考えて、動かそうとするのだ。
 カーティスが、蹴り飛ばした小石の、石畳に硬い音を残して闇へと消えてゆくのを所在なげに追っていると、フェルグス卿が静かに聞いた。
「そんなことが可能なのか――つまり、フィアナに宝玉を移譲させることだが」
「ま、やってみることはできますよ」
 自嘲気味に返す聖騎士に、フェルグス卿は息を吐きだすようにしてひとりごちた。
「モードが承知せんだろうな。彼女は六の巫女のことを、とても……気にかけている」
 幼いころからフィアナの世話をしてきた女官長は、少女を駆け引きの道具にするような企てを嫌悪するだろう。裏の事情は、教えないほうがいいかもしれない。
 いつのまにか、かれらは回廊の突き当たりまでやってきていた。あたりにはなにやらあたたかないい匂いが漂っている。石壁の隙間からはにぎやかな音が洩れ聞こえてくる。このむこうは厨房だろうか。
 窓から洩れるほのかな明かりの中、盆を掲げて立ち止まっている女に気づき、聖騎士は足を止めた。女の足元には、見覚えのある小石がころがっている。
 白い布で頭をつつんだ賄いの女は、剣を佩いた大男ふたりにむかって無言で会釈をしてみせた。しかし、それ以上の関心をあらわすことはなく、すぐ横を悠然とした足どりで通りすぎてゆく。
 女の、度を超えているとも思える落ち着き払った物腰に、詫びる時機を逸してしまったカーティスがふうむと感心する。
 その隣で、先ほどの話の中にまだ沈み込んでいたフェルグス卿がぽつりとつぶやいた。
「わしがもっと若ければなあ……」
 思わず出てしまった愚痴を、聖騎士は何を言ってるんです、と明るく笑いとばした。
「閣下はまだまだ充分にお若いですよ。しかし、今回は任せおきください。なんのために我々が派遣されたとお思いですか。もし危険な事態に陥ったとして、そのときは何をおいても、私はフィアナの安全を優先させます。フェイエルガードの血筋にかけて、それだけは信頼してください」
 言葉は頼もしいのだが、そこにはかるく茶化すような調子も混じっている。大昔の騎士の血族の絆なんぞを持ちだしてくるところも、大仰な物言いの好きなこの男らしい。すべては意図してのことかも知れないが――、老騎士はわざと大げさに顔をしかめてみせた。
「わしが最後に見たときの技量をおぬしがいまだに保っているのというのなら、まあ、信用してやってもいいんだが――ときに、今度のおぬしの連れはまた、えらく地味だな」
「あれでも猊下がじきじきに選んでくださった、精鋭なんですがね。困った癖がいろいろとあるので矯正するのが大変なんですよ」
 そうは言いつつ、目元に笑い皺を刻んでいる元従者の、かすかな風向きの変化に興味を覚えたフェルグス卿が、そういえばこいつの私事を尋ねるのを忘れていたぞと思いついた、その矢先。
 角から飛びだしてきた男がふたりを見つけるなり、「いた!」とすっとんきょうな叫び声をあげたため、話は突然の中断を余儀なくされた。
「閣下、申し訳ありませんがいますぐ兵舎まで来ていただけませんか。部屋割のことでもめ事が発生しておりまして」
「副官はどうしている」
「はあ……」
 笑っておいででしたが、と応えた兵士と応えられた守護は、こわばった笑みを浮かべた互いの顔を見合わせた。
「それから、厩舎の方でもなにかが起きたらしいです。そちらでも助けを呼んでいる声がしました」
「なにが起きているのか、確かめてはみなかったのか」
「はあ……」
 なにか口にしにくいことでも目撃したのだろうか。兵士はもごもごと口のなかでなにかを言いかけては、いや、ちがいます、きっと、とまるで要領を得ない。
 どうせ行く方向はおなじなのだから道草にもなるまい、と守護が結論づけたので、そのままふたりは兵士の先導で揃って厩舎へと走り出すことになった。
 後のふたりを気にするあまり、ともすると転んで他人を巻き添えにしそうになる兵士を叱咤し、急きたてつつ、入り組んだ通路を駆けぬける。
 明かりの灯る守備隊の区画へと近づくうちに、落ちつかなかった気配が、次第に肌へと直接響く不穏なざわめきへと変化していくのがわかる。
「ところで、私の従者はどうしてる?」
 なにげなく口にした問いが兵士の顔色を一瞬にして失わせたことに、カーティス・レングラードはまだ気づいてはいなかった。



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