天空の翼 Chapter 1 [page 13] prevnext


13 夕闇にまぎれて


 音もなく、女は石畳の上を通りすぎてゆく。
 頭に白い布をかぶった賄い女は、料理をならべた盆をささげ持っている。日が翳り、月もまだ顔を見せぬこの時刻には、足元ばかりか周囲も闇に沈んでよくは見えない。両手がふさがっているので、当然、灯りを持つ余裕はないのだが、にもかかわらず、黒い石畳をゆく足どりは、まるで流れるようになめらかで滞ることがなかった。
 女は音もなく動いていく。
 ときおり風をはらんでひろがる服の裾すら、無音の帳をはばかるかのようにひそやかだ。頭を覆う布からこぼれ落ちた長い髪が、ゆるやかな波にのって背後へと運ばれる。
 女は回廊をくぐりぬけて、ふるい石造りの建物の中に足を踏み入れた。
 大気をつたい、ともにここまでやってきたなにかが、遠慮がちに女をとりまいたかと思うと、ふわりと遠のいていった。
 代わりに静寂が、冷たく硬い石の壁によって護られた深い眠りの気配が、細い身体をしずかに受けとめ、つつみ込む。
 女は手にした盆に視線を落とした。
 小さな花びらが数枚、冷えかけた食べ物の上に落ちているのを目に留めて、女はくちもとをゆるめ、上から何事かを囁きかけた。
 夕闇にもそうとわかるほど朱い唇の、かすかに動くのに呼応するように、空気に微量の振動が生まれ、吐息とともにちいさな波紋のようにひろがってゆく。
 花びらの縁が小刻みにふるえるのを眺めたのち、女はふたたび姿勢を正して暗い廊下を歩みはじめた。
 しばらく進むと、前方からほのかな灯りが近づいてくるのに行き会った。
 厳かに歩を進めるまろやかな輪郭の影の持ち主は、エリディルの女官長だ。
 普段、奥向きの場所には立ち入ることのない賄いの姿に怪訝な顔をみせたものの、盆の上に並んだ食べ物を見て得心がいったようだった。
 まなざしに感謝をあらわし、もの柔らかな声で話しかけてきた。
「賄い頭が気を利かせてくれたのですね、よかった」
 そして、燭台を女の前方を照らすようにさしあげて、
「このまま一緒に行ってやりたいけれど」
 と、いくらか申し訳なさそうに言う。
 不案内な場所を荷物を抱えてひとり行く姿を気の毒に思ったのだろうが、山積する仕事に身動きがとれないといったようすである。
 無理もない。現在のエリディル神殿の運営実務は、女官長がそのほとんど取り仕切っている。遣いに出したまま戻ってくる気配のないという侍女を、疲れの滲む顔でぼやく女官長に、女は、自分は夜目がきくから大丈夫だと請け負った。
 女官長はそれでもまだ気がかりなようすで逡巡していたのだが、外からなにやら大きな音が聞こえてきたのにはっとすると、顔をひきしめて即座に決断を下した。ならばよろしく頼みますときっぱりと告げたのち、
「六の巫女の部屋は、二階のつきあたりですからね」
 と念を押すことも忘れない。
 足を速めて去ってゆく貫禄の後ろ姿をしばし見送った後、しめされた方向にほそい顎をわずかにあげて、女はものうい視線をのばした。
 先触れは、すでに部屋まで到達しているはずだ。
 浮かんだ思考に応えるかのように、前方で羽ばたく音が空気を乱すのが見えた。白い翼のつくりだす大気の渦が、さざなみのようにひろがって、こちらにむかってくる。
 女は輝く闇をあつめたような瞳をまたたかせたのち、悠然と静寂の暗闇を歩みはじめた。


 それはあまりにも単純で、無邪気な問いに思われた。
 いままで見ていた興味深い見せ物が、そんなあっさりとした一言でしめくくられてしまうとは、なんとつまらなく理不尽なことなのだろう。
 そんなふうに感じてしまうくらいの、簡単な問いに。
「最後に、名を、教えて欲しいのだが」
 だが、三の巫女クレアデールは確かにそう訊ね、少女の発音は聞き間違いようのない明瞭さで厩舎のおだやかな暗がりに響いて、観衆達に見せ物の終わりを納得させた。
 これで若者が答を返せば、巫女の気まぐれによって変則的にもうけられたこの場も、ひとまず解散となるだろう。
 すでに馬丁たちの仕事は遅れに遅れていた。
 聖騎士の到着に浮かれて油を売りすぎたのが原因だが、ビリング卿の非協力的な物言いに、かなり翻弄されたのも事実だった。
 だから、本当はこうしていつまでも巫女の気まぐれにつきあっている暇はないはずだった。出来事の中心が三の巫女でなかったら、そして相手が聖騎士の従者でなかったならば、仕事場の真ん中でののんびりとしたやりとりなど、つづけさせてはおかなかったろう。
 もちろん、馬丁たちにも、もう少しこのやりとりを見物していたい気持ちはあった。なにしろ、かれらに三の巫女をこれほど間近に見るような機会はほとんどないのだし、聖騎士の従者だという黒髪の若者には、得体のしれなさという点で大いに好奇心をかき立てられていた。しかし、本人達が止めるというのを無理してつづけさせる道理はないわけで、これも潮時というものだろう。
 そんなわけで、厩舎の人々は、黒髪の若者がケリをつける一言を口にするのを待ちうけた。
 それまで、薄汚れた地味ないでたちとは裏腹の、目上に対する尊敬をいっさい欠いた不遜な態度で、何の気負いもなしに淡々と三の巫女に対していた若者である。こんな簡単な問いには、すぐさま答えを返してくるのだろうと誰もが思っていた。
 ところが、なにに窮したものだろう。
 若者は、最後の問いにかぎって答えをためらい、わずかな間を飲み込んだ。
 それが、ことの始まるほんのすこしばかり前に起きた出来事だった。
 まだだれも後の騒ぎなど予想してはいない。ただ、突然訪れた不可解な間にとまどい、若者の沈黙を訝しんだ。
 せっかちに焦れ始めた周囲を代弁するように、監督者面をして若者にへばりついていた侍女が、マントの裾をひっぱりながらつよい口調でなにかを忠告する。
 若者は娘の言葉に神妙に耳を傾け、あらためて返答を待ちうけている黒髪の少女に向かいあおうとし、周囲はふたたび結論を待ち受ける。
 だが、そこで若者の視線が、クレアデールから宙へと浮いた。
 黒馬がぶるりと鼻を鳴らして、首をふった。
 一瞬の静寂がおり、かとおもうと、それを横ざまに引き裂くようないななきが響きわたった。
 あわてて身構える視界に飛び込んできたのは、厩舎の外でおとなしく待機していたはずの三の巫女の葦毛である。それが脚をふりあげて突き進んでくる、迫力満点の不吉な姿だった。
 それからの出来事は、それぞれの記憶に脈絡のない断片として刻まれることになった。
 たとえば、従者見習いを自称するジョシュの脳裏に最初に焼きつけられたのは、薄暗い通路を手綱に絡まったままひきずられ、埃まみれでなにごとかを叫んでいる馬丁の姿だった。
 ジョシュはそれまで、三の巫女と若者のやりとりに食い入るように見入っていた。食い入るというより、食いつかんばかりにといった方が近いかもしれない。
 かれは出会ったときから聖騎士の従者によい感情を抱いていなかったのだが、三の巫女に対する無礼きわまりない態度を目の当たりにするうち、その感情はさらに強くなっていた。ジョシュは、若者がぶっきらぼうにひとこと返すたび、どうしてこいつがあのカーティス卿の従者なんだと、心の中で毒づいていた。かれ以上に苛々を募らせているビリング卿を間近にしていなければ、その乱れた呼吸にあらわれる深く強く激しい憤りに畏怖を感じていなければ、とっくに飛びだしてはり倒して足蹴にしていただろう。
 そんなふうにひどく感情を高ぶらせていたので、突然の出来事に反応するのが遅れてしまったらしい。
 気がつくと、ジョシュは逃げる馬丁に巻き込まれて、通路の隅にあった飼い葉桶に倒れ込んでいた。
 脇腹に走る鈍い痛みをこらえながら起きあがると、そこには完璧な混乱状態ができあがっていた。
 不穏な空気に反応した馬たちの神経質ないななきが、蹄を壁に叩きつける音が、あちこちからあがって、厩舎の中で反響する。
 もともと暗かった視界は、舞いあがる埃でさらに悪くなっていた。
 そのなかでも葦毛は前進をやめようとはしなかった。
 まるでなにかに取り憑かれたかのような切羽詰まったその姿が、ジョシュには、時間が溶けて伸びているかのようにゆっくりと見えていた。
 じつのところ、葦毛は興奮して手に負えなくなってはいたものの、それほど必死になって駆けていたわけではなかったらしい。そうであればもっと多くの怪我人が出ていたはずだと、あとになってあたりを検分した馬丁頭は結論づけた。
 しかし、このとき厩舎にそんな冷静な判断をくだせるほどの余裕ある人物は存在しなかった。馬だけではなく、厩舎中の生き物たちがこの騒ぎになんらかの形で参加し始めていたからだ。
 ひときわ耳を聾するいななきの他に、犬の吠え声、猫の威嚇する声、果ては鶏の鬨の声までがあちらこちらで無秩序に響きわたる。
 体勢を立てなおそうと必死で号令する馬丁頭の声は、まき散らされる騒音にまぎれて、意味不明なまま虚しくかき消されてしまう。
 ビリング卿は棹立ちをくり返す自分の葦毛をおさえるのに手一杯で、三の巫女に駆け寄ることすらままならない。
 茫然とめぐらせた視界に黒髪の従者が入ってきて、ジョシュはハッとなった。
 黒髪の若者は、走り込んでくる葦毛に真向かって、その進路に立ちふさがるようにたたずんでいた。背後にいる少女達の盾になろうとしているのかと思ったが、実際はどうやらちがう。棒立ちだ。結果としてもたらされるだろう苛酷な運命への想像力を欠いて、硬い蹄に踏みつぶされるのを、ただぼんやりと待ちうけているようにしか見えない。
 ジョシュは気づいた。もしかすると若者は、恐怖のあまり、凍りついているのかもしれないと。
 世話の焼ける。ジョシュは立ちあがって、若者に警告しようとした。そのとき、このまま若者が馬と衝突した場合のことがふと思い浮かんだ。馬がなにかにぶつかれば、足が止まるだろう。馬ももっと硬いところにぶつかるよりは、危険が少ないかもしれない。
 そんな物騒な考えがかすめたとき、黒い影は目の前からかき消えた。
 どこにも見えなくなった。
 しかし、そのことに気がついたものは、他にはいなかった。
「クレアデールさま! 姫!」
 後見の騎士の警告の声が、ジョシュのしびれた頭を鞭のように打ちすえた。
 クレアデールは黒馬の頸にしがみつくようにしていた。反対側からはミアがクレアデールにすがりついている。不安そうに鼻を鳴らしている鹿毛の隣で、黒馬は頭を下げてやってくる相手を威嚇し、白い歯を歯茎までむき出しにしていた。
 三の巫女のそれまでみなぎっていた自信は、あとかたもなく消え失せてしまったようだった。そしてミアの血の気を失った顔。大きくみひらかれた瞳に恐怖を読みとったジョシュは、考える間もなく身を投げだしていた。腕を出して、やわらかな身体を葦毛の進路から突きとばす。
 小さな悲鳴を前方に聞きながら身体を地面に強く叩きつけられた後、ジョシュは続く衝撃と痛みを予測して身を硬くした。
 が、覚悟に反して、空白の時間がつづいた。
 しばらくして我にかえってみると、さきほどの騒然とした空気が嘘のように、あたりの気配は凪いでいた。
 目をあけて視線を地べたから上へと移動させると、長い四本の脚がジョシュの頭上をよぎった。肝が冷えたが、よく見ればそのうごきももう神経質なものではなくなっている。
 ようやくかけつけた馬丁たちに両側からとりおさえられたとき、葦毛は荒い鼻息を幾度か吹き出しただけだった。
 その後、転んだクレアデールの上にのしかかり、鼻面をよせてはしきりと何事かを訴えつづける葦毛に、周囲からは気の抜けたようなぼやきとため息が聞こえてきた。ときおり振りかぶっては黒馬に敵意みなぎる態度を示していたが、おおむね大人しく、クレアデールが叱責するのにはきまり悪そうに応じていた。
 葦毛の興奮がおさまるにつれ、他の馬たちも静かになってゆき、厩舎はもとの平静を取り戻しつつあった。
 だが、事はそこで終わりではなかった。
 騒ぎを聞きつけてやってきた守備隊の兵たちが状況を確認していく横で、ジョシュはつめたい地面から身をひき剥がすべく、不自然な姿勢のまま手をついて起きあがろうとしていた。
 そこに、ひとつの手がさしのべられた。
 顔をあげると、ミアのくすんだ緑の瞳がすこし怒ったような照れくさいようなようすで見おろしていた。
「ありがと、助けようとしてくれて」
 ジョシュはミアの手を一応つかんだが、それに頼ることはせず、なんとか自力で立ちあがった。そして、やわらかな手を放り出すようにして離すと、ぐい、と首をめぐらせて、周囲を見渡した。
「おい」
 事後処理に行き交う人の間をぬって、隅にかがみ込んでいる黒髪の若者を見つけだし、鋭く声をかけた。
「おまえ、なんで逃げるんだよ」
 若者は鞍袋にかけていた手を止め、おもむろに顔をあげた。不揃いな前髪の落とす影の奥から、黒い瞳が見返してくる。
「それが聖騎士に仕えるもののすることか」
 ジョシュは若者の胸ぐらをつかみ、強引にひきおこした。
 若者は抵抗することもなく、されるがままに立ちあがる。自分の赤褐色の前髪が相手にふれるほどの距離まで顔を近づけて強く睨みすえたのち、握る手に力をこめて突き放すと、若者は反動で後に二、三歩たたらを踏んで後じさった。ふたりの間の距離が離れた。
「なんとか言えよ」
 押し殺した声で突き刺すようになじっているのに、返ってくるのは無言のまなざしだけだった。そこに否定されたことに反発するような、強い感情は含まれてはいない。むしろ当惑とともに理由を求めるように見つめられ、若者がなにも理解してはいないことが示される。
 そこでジョシュの中にたぎりつつあった熱いなにかが、ぶつりと弾けた。
「おい、なにしてる」
 不穏な気配に気づいた守備隊のひとりが、牽制するように近づいてきたが、頭に血ののぼっているジョシュの意識に入りこめようはずもない。かれは怒りにくらみそうになる眼をなんとか相手に据えたまま、右手を強く握り込み、振りかぶった。
「ちょっと、なにするの!」
 ミアの驚きとがめる声とほぼ同時に、ジョシュは、左足で踏み込みながら上体をねじり、拳を思い切り前へと叩き込んだ。
「うおっ」
 拳から腕へ、そして全身へと重い手応えが走る。
 耳元で弾ける困惑の悲鳴。
 押さえつけてきたものが解き放たれる快感に、全身が歓喜する。
 やった。
 それは、頭の隅に残っていた、聖騎士の従者をのしたらまずいのではないかという不安が、一瞬きれいに消し飛ぶくらいの爽快感だった。
 ジョシュは満足そうに一息つくと、痺れる手を意識しつつ、渾身の一撃の成果を確かめるために身を起こした。
 だが、
「……痛えんだよなあ、おい」
 噛みつくようなだみ声に、ジョシュは異変を悟る。
 あらためて前を見ると、叩きのめしたはずのヤツがいなかった。
 かわりに痛みに顔をゆがめて苦しげにこちらを睨んでいるのは、直前に止めに入ろうとする姿を見た、守備隊仲間の年上の男である。
 しかめたぼうぼうの眉の下、太い鼻梁から左目にかけてが次第に赤く染まってゆくのをみれば、かれの拳が捕らえたのがこの人物の顔面であることはほぼ間違いがなかった。
「あれ」
 ジョシュは慌てて元の目標人物を捜し求めた。黒髪の若者は、目線よりもずっとひくい場所にいた。地面の上でひっくりかえった身体を起こそうとしているところだった。
 また逃げられた、という事実に再度怒りが燃えあがり、ふたたび影のような身体につかみかかろうとしたそのときに、ジョシュは毛だらけのごつい手で腕をつかまれ、動きを封じられた。
「あれ、じゃねえんだよ、サボり屋ハーネス。おれたちに掃除を押しつけて何をしてるかと思いきや」
 凄みを効かせて脅しをかけてくる男に羽交い締めにされて、ジョシュはなんとか身をもぎ離そうと躍起になった。
「離せよ、あいつが逃げるじゃないか」
「おまえが逃げたい、の間違いじゃねえのか」
「うるさいな、離せったら!」
「うわッ、何すんだ!」
 ジョシュは自分を捕らえていた太い腕に爪を立て、無理矢理ふりほどいた。すでに若者は立ち上がり、背中を向けて歩きはじめたところだ。
 その向こう側からぼんやりとやってきた別の同僚にむかって、ジョシュは叫んだ。
「おい、そいつ! そいつを捕まえといてくれ!」
 叫ぶと同時に飛びだしたジョシュを追いかけて、もうひとつの声が矢のように飛びかかる。
「捕まえるのはハーネスだ。ちくしょう、十倍にして返す!」
 突然ふたつの異なる行動を要請された中年の兵士は、やってくる見なれぬ若者と怒りに赤くなった年下の同僚を交互に見比べ、とりあえず近くまで来ていた黒髪の若者を制止した。
 若者は大人しく足を止めた。
 そこに転がるようにしてかけつけてきたジョシュは、肩で息をしながら若者の首根っこを憎々しげにひっつかんだ。
 今度は絶対に逃さない。
 ふりかえった黒い瞳に、ジョシュは楔を打ち込むように言葉を叩きつけた。
「まだ、用事は、終わって、ねえ、んだよ!」
 つまりは、それが第二幕のはじまりだったのである。


「そなた、眼がいいのだな」
 声をかけられて、ルークはゆっくりと頭をめぐらせた。
 凛としてくっきりと夜風に通る声の持ち主は、腕組みをして少し離れた厩舎の入り口に立っていた。背後には深緑のマントを身にまとった後見の騎士が、角燈を下げて付き従っている。
「攻撃を避けるのがうまい。そういう人間は眼がいいのだと、父上が教えてくださったことがある」
 転んだせいですこし埃っぽくなってはいたが、黒髪の少女は相変わらず美しく、まなざしつよく、物怖じしない態度でかれを見あげてきた。額には、不思議な輝きの石が瞬いている。
「それに、気配を消すのがうまい」
 そう言った後で、クレアデールは横目で繰り広げられている男達の殴り合いを見やり、かたちのよい眉をひそめた。
 従者見習いが怒りにまかせてぶちこんだ一撃がひきおこした騒ぎの第二幕は、いまや守備隊兵士のかなりを巻き込んでいつ果てるともしれぬ大乱闘に発展していた。とうに厩舎からは迷惑顔で追い出されたというのに、ところを移してもまだ殴り合いは終わらないのだった。もともと守備隊の中にいざこざの種でもあったのだろうか。止めに入ってきた兵士がつぎからつぎへとミイラになるという、呆れた経過をたどっている。
 ルーク自身はどうやってか、かすり傷ひとつ負わずに、この半ば自棄気味の暴力の嵐から逃れることに成功していた。最初の拳をうけとるはずだったルークが、こうして、ひとり外れたところでぼんやりと見物していることを知れば、わけも分からぬままにとっくみあいに参加することになった大概のものはいい顔をしないだろう。しかも、誰ひとりとしてここに元凶がいることに気づかないのだから、始末に負えない。
「いつまでここでこうしているつもりだ」
「終わるまでだ」
 ルークの答えに、クレアデールはため息をつく。
 厩舎の外壁に荷物を寄せて、風に吹かれながらつくねんと立ちつづけているようにみえた黒髪の若者は、とくに苛立った気配も疲れたようすもあらわさずに、またぼんやりとまなざしを乱闘にむけた。
 怒鳴りあい、つかみ合う男達のまわりをぐるぐると巡りながら、制止とも非難とも歓声ともつかぬ声をあげつづけていた侍女が、夕闇の向こう側で疲れたように座りこむのが見えた。
「わたくしたちはもう行く。最後の問いに答えてもらえぬか」
「問い?」
「名前だ」
「……ああ」
 それが先ほど中断された問いであったことを思いだしたらしく、茫洋としていたルークのまなざしがにわかに生気をおびた。あのとき、答を一瞬飲み込んだ。そんな過去の躊躇を思い出させる暇もあたえず、若者は何事もなかったようにすらりと答を口にする。
「正式名はブラウフェルド。ふだんはブラドと呼んでいる」
 クレアデールがかすかに眼をみひらいた。
「〈黒き稲妻〉か。名は体を表す、だな。ちなみに鹿毛は?」
「レーゼンフェルド」
「なるほど、ありがとう」
 にっこり微笑むと、クレアデールはきびすを返した。
 ビリング卿が気むずかしげな一瞥を残して三の巫女の後を追い、ルークはふたたび取り残される。
 日没を告げる鐘が、暗さを増してゆく山の空にしずかに響きわたった。
 そこに、エリディルの守護と聖騎士が駆けつけてきたのは、しばらくしてからのことだった。



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