天空の翼 Chapter 1 [page 15] prevnext


15 銀青の夢


 視界はあかるく、世界ははるかな彼方へと、どこまでもひらけてゆくようだった。
 身体をつつみこむ、あざやかな青空。まばゆい太陽の光が、胸の鼓動を大きくさせた。
 規則正しく刻まれる生のリズム。
 風はやわらかく、陽光は慈悲深い。
 薫る風、身になじむ光のあたたかさ、それらを心地よくうけとりながら、こころがのびやかに微笑んだ。
 翼がほんの少しだけ傾けられた。大気の流れを捉えると、進路をわずかに下方へとさだめなおす。
 眼下には、真珠のように淡く輝く波をたたえた雲の海が、見渡すかぎりにひろがっていた。
 波間に落ちた翼の影が、光の加減で濃く薄く変化しながら、連れ立つようにおなじ速度で進んでゆく。
 地に足のつかないような浮遊感に、夢を見ているのだとフィアナは思った。
 自分が空を飛んでいるなんて。
 そんなことが、まさか現実にあるわけがないと思うから。
 もはや大地が遠すぎてみとめられないほどの高みにいるというのに、すこしの怖ろしさも感じていない事実。そして翼の行く先にまったく関与することのできない事実が、その思いにつよい真実味をあたえていた。
 そうだ。きっとこれは、今朝方失われた、あの夢のつづきなのだ。
 目覚めると同時に消えてしまうのも、無理はない。
 ――これは、幸福な夢の飛翔。


 どれほどの時が経っただろうか。
 フィアナは自分が白い翼の持ち主の、ちょうど肩のあたりに留まっているようなぐあいであたりを見ていることを、感覚として呑み込みかけていた。もちろん、この猛禽がどんな存在なのかはわからない。でも、わからなくてもかまわないではないか、とフィアナは思う。
 これは、夢なのだから。
 翼のあるじは、どうやらフィアナのことには気づかずに、いや、あるいは気づいているのかもしれないが、それをまったくこちらに悟らせずに、ひたすらにどこかをめざして飛びつづけている。
 しばらくして、白い雪の数ひらが風に乗ってすぎてゆくのが見えた。
 それはにわかに数を増して、しだいに吹雪のようにふりそそぐようになる。
 けれど、その雪に触れても冷たくはない。そもそも、まわりは澄みきった青空なのだ。
 風にもてあそばれて、遠ざかってゆくのは花吹雪だった。
 その、白くかるく舞いあがるものの出所をたどってゆくと、群れるように咲き誇る花の下、蒼天を仰ぎみる人の影がふいにあらわれた。
 すらりとして気品にみちあふれたその人物は、あたりに同化してしまいそうにあざやかな空色のマントをまとっていた。風にはためくその下にみえるのは、どこか見覚えのある紋様のほどこされた、優美な銀の甲冑だ。
 男は、ひとりきりだった。
 旋回し、ゆるやかに降下してゆく翼の行く手に、その到着を歓迎するように籠手をつけた長い腕がさしだされた。
 翼は激しく大気を叩き伏せ、一瞬空中に停止したかと思うと、脚をのばしてその腕にふわりと着地した。
 男は、飛び込んできた生き物の勢いと重みをなんなく受けとめて、鉤爪をくい込ませた腕ごと眼前へとさしあげた。
 吹きつける風にさらさらと流れる髪のあいだから、あらゆる光を透過して世界のすべてを映しこんでみせるかのような、澄んだ銀青の瞳が垣間見えた。
 フィアナは、間近にしたそのまなざしに胸を衝かれた。
 けして柔和とはいえない、つよさと厳しさとをあわせもった武人のまなざしにたたえられていたのは、永久に融けることなくなお硬く凍りついてゆく、霜の大地のような孤独だったのだ。
 白い猛禽に向かってひきむすんでいた口をほころばせ、ゆっくりと話しかけてくる男の姿を、フィアナはぼんやりと見あげていた。
 なぜだろう。
 いままで心を満たしていた幸福感が、とたんにせつなく、哀しい色をおびてゆくことに、フィアナはとまどった。
 はずむようだった鼓動にとってかわって、なにかが胸の奥でうずきはじめていた。
 男の孤独な姿に痛ましさと罪悪感を覚えつつ、この存在を目にすることが叶っただけでも幸せだと、どこかでわけもなく感じている。
 胸が熱い。
 フィアナはふりそそぐ光のなかであふれる思いにいたたまれず、まぶたを閉じた。――いや、今のフィアナにはまぶたと呼べるものはないはずなのだが、とにかく視界を遮断したのだ。すると、光のあたたかさだけが眼裏に残った。
 男の声は年齢のわからない不思議な張りと深みを持ち、わずかにかすれ気味に、しかし思いがけずにやわらかく耳をうった。
 声が紡ぐのは、古めかしいひびきの音律の言葉だった。ひどく複雑で難解な音のちりばめられた、けれど流れる旋律のように心地のよいひびきである。
 いったい、なんと言っているのだろう。
 ときどき鮮明に音がうきあがって、意味がとれそうだとうっすらと期待を抱かせるところもあったのだが、フィアナのそれでなくともぼんやりと浮遊する意識には荷の勝ちすぎる作業だったらしい。
 そうそうに意味の解釈を放棄した耳に、男の言葉は穏やかな音の連なりへと転じてゆく。
 まるで歌のようだとフィアナは思い、響きの中に身をゆだねることにする。


 ――白き翼よ。
 ――わが神の忠実なるしもべよ。
 ――わが誠実なるともがらよ。
 ――こたびはいかなる報せをわが元にもたらしにきた?



「フィアナさま!」
 呼びかける声は、その名の持ち主をすみやかに現実の神殿へとひきもどした。
 突然高みからひきずり落とされたような衝撃と混乱に襲われて、フィアナはびくりと身体をこわばらせた。
 あふれるばかりに身体を満たしていた感情を瞬時に駆逐して、現実という名の世界がよみがえってくる。
 いま、彼女の前にひらけているのは、ひんやりとした手触りを予想させる、静けさに満ちた祈りの空間だった。
 フィアナは、その薄暗い片隅にひとりでいた。
 爽やかな風も温かい陽光も、ここにはない。
 鼻腔をかすめるのは湿り気をおびた空気に焚きしめた香の残り香であり、蜜鑞の蝋燭の溶けかけた匂いであり、耳にひびくのは乾いた空を飛び交う明るい鳥の声だった。石造りの建物の隙間をぬってゆく風は、結いあげたうなじに冷たいひと触れを残して通りすぎる。足元には硬く冷たい石の床の感触があった。
 ここは聖堂の本堂かたわらにある一室で、奥にしつらえられた一枚の扉をひらくことにより、祭壇下のとある場所へと通じている。だが、その扉にはいつも錠が下りており、その鍵は神官長が保管して滅多なことではひらかれることもなかった。
 この部屋には、ふだんほとんど人が寄りつくことはない。
 人気のない周囲は薄暗く、早朝の静けさに寒さがよけいに浸みてくる。
 フィアナは驚きと焦りをおさえつつ、胸の動悸が静まるのを待った。自然に、手が首にかけた金鎖を服の上からさぐろうとしている。
 この動悸は――フィアナはとくとくと脈打つ心臓の音を吟味しながら考える――宝玉と関係があるのだろうか。それとも、まったく無関係なのだろうか。
 息をついて肩の力をぬいたところで、閉ざした扉の向こう側から侍女が幾度も自分の名を呼んでいることに気がついた。
「フィアナさま、そろそろ時間です。準備はよろしいですか、フィアナさま」
 ぼんやりして返事を返さずにいたので、ミアの声は不安の混じった苛立ちに尖りはじめていた。扉に手をかけてわめいているのか、声が扉板に直接ぶつかってふるえている。
 いつものことだが、あの娘の声は本当に大きく響く。心臓に悪い、とフィアナは思い、そんなに騒がないでとたしなめようとして喉がつかえることに気づいた。
 咳払いをして違和感をとりのぞこうと手間取っていると、ミアがさらに声をうわずらせて叫んだ。
「フィアナさま、大丈夫ですか」
 フィアナは、あわてて答えようとした。
 すると今度はにわかにくしゃみをしたいという衝動がこみあげてきて、必死で口と鼻を両手でふさがなければならなくなった。声が出せないなりに全身を使って懸命に返答したつもりだったが、その姿は当然厚みのある木の扉越しに見えたりはしないので、ミアにはフィアナの主張が伝わらない。
 内心の葛藤を隠そうともせずひとりで動揺している侍女に、フィアナはなんとか落ち着きを取り戻し、閂をあけて扉をほんの少しだけ開いた。
「あわてないで、大丈夫。私はちゃんと起きてます。心配しなくてもいいわ」
 あるじの元気な顔を確かめて、ミアはとりあえず安堵したようだった。しかし、その後にわかに表情が訝しげなものに変化したのはなぜだろう。
「……そろそろ時間なんですけど、よろしいでしょうか」
「わかりました。すぐ行きます」
 フィアナはふたたび咳払いをしたい欲求を抑えつけながら厳かに答えてみせると、もう一度、明け方の半刻を過ごした薄暗い空間に視線を戻した。
 天井の高い、しかし、床の面積はそれほど広くはない部屋である。光沢のある黒い石が敷きつめられた床は、これほど寒くなければ、その冷たい美しさを愛でることもできるのだろう。
 窓のない部屋には、天井近くの小さな明かり取りからわずかな陽光が射し込むようになっていた。白い光の帯に照らされて、奥の壁とそこにはめ込まれた木製の扉に施されている大きな神樹の浮き彫りが、繊細な陰影をもってうかびあがっている。
 広がる枝の紋様が、眼裏に陽光を透かして舞う、白い花びらの幻想をよみがえらせた。
 ふりそそぐ花吹雪。
 けれどもう、あの昂揚はよみがえってこない。
 フィアナは先ほどの〈夢〉が、またしても自分を置き去りにして遠くへと去ってしまったことに気がついた。
「なにか……変わったことがありました?」
 不思議そうなミアの問いに、フィアナはかぶりを振って「なんでもないわ」と答えた。


 ミアの表情が変化した理由は、そのあとすぐに本人から知らされることになった。
「いい加減にしてくださいね。昨夜もあれだけ眠ったのに、まだ眠いんですか、もう」
 〈祈りの間〉から本堂へとつづく回廊で、風の冷たさに身をすくめていると、出し抜けにそう咎められてびっくりした。
 ミアは、あきれた、と言いたげに口を尖らせている。
 自分では気づかなかったが、扉から顔を見せたときにフィアナは眼に涙をあふれさせていたらしい。その涙をミアは、あくびに誘発されたものと解釈した。つまり、あるじが〈祈りの間〉で居眠りをしていたと判断して、気分を損ねているのである。
 眠い。
 そうなのだろうか。
 フィアナは、いまは眠いという意識をまったくもっていないし、つい先ほどのことだって眠っていたという感覚はない。それでも、また寝ていたといわれればそうなのかもしれないとも思ってしまう。ようするに、絶対に違うと断言できるほどの自信はなかった。
 いっそ開き直っていつものように、眠いものは眠いのだから仕方ないではないかと、そう主張してみたい気持ちもあるのだが、そう言いきってしまうこと自体、いまの自分の感覚とはすこし違うと思ったりもする。
 こんなふうになったのは、昨日、シャンシーラ見物に出かけたあとからだ。
 ふと気がつくと、先ほどのように意識が飛んでいる。飛んだときには、夢らしきものを見ているような気がするのだが、目覚めてしまうと残っているのは居心地の悪い動悸ばかりで途中の記憶がない。だから、フィアナの記憶はときどきひどくつじつまの合わない、中途半端なものになっていた。記憶があいまいだと、自分に対する自信がゆらぐ。
 その上、まわり中から冷ややかな視線を浴びせかけられれば、言い張る意欲も薄れるというものだった。
 もともと、フィアナが眠気をもよおすことそのものは、それほどめずらしいことではなかった。どうやら彼女は体質的に人よりも多く睡眠を欲しているらしく、朝寝坊による祈祷の遅刻は日常の出来事の範囲内にすぎないし、大きな声では言えないが、昼食後の昼寝は幼いころから途切れなく、いまなお日課でありつづけている。だから、フィアナが就寝時間でもないのに寝息を立てていることはよくあることで、エリディルの住人にとってはとるに足りない茶飯事でしかなかったはずだ。
 今回のフィアナにとっての最大の不幸は、寝ている彼女を発見したミアが感情にまかせてとった行動によって、この件が宝玉の巫女に起きた事件として公式に扱わねばならないように決定づけられてしまったことだった。巫女付きの侍女の悲鳴が神殿中のすみからすみまで響きわたってしまった後では、いかに事なかれ主義の神官長であっても、すべてに目をふさいでなかったことにはできなかったのである。
 昨夜のことでフィアナが覚えているのは、懸案だった空腹が満たされた後、ただ、ひたすらに、猛烈に眠かったこと。感じていたのはほんとうにただの眠気で、いつもと違うところなどなにもなかったはずだ。
 だからフィアナは、ちょっとつついてくれればきちんと目覚めた、そんなに騒いでくれなくてもよかったのにとうらめしく思うのだが、動転したミアの眼に、床に転がった彼女の寝姿はそんなお気楽な状態とは映らなかったらしい。
 死んでいるのかと思った、と血の気のない真顔で言われては、文句もいえない。
 その後、〈見晴らしの壁〉の石段で頭を打ったという経緯をふまえて、心配した女官長が三の巫女に看立てを依頼していた矢先であったことも災いし、床に寝ていたフィアナはすぐさま寝台に移されて、畏れ多くも三の巫女クレアデールと彼女の保持する高名な〈神の眼〉の手により、直々に容態を検分されることになった。
 つまりフィアナは、あのクレアデール・エリアデア・エンクローズ、西の公爵の愛娘にして現在のエリディルの宝玉の巫女の代名詞ともいえる少女に、あろうことか寝ほうけた顔を見られることになってしまったのである。寝ていたので記憶はないが、想像するだけできまりの悪い成りゆきではないかと思う。
 神官長、守護、女官長といったエリディル神殿のお歴々が六の巫女の私室に緊急に集い、神妙に居並び見守るそのなかで、周囲の事情など気にすることもなく、規則正しい寝息を立てるフィアナに厳かなまなざしを落とし、クレアデールはこう告げたという。
「風邪を召されているかもしれない。温かくした方がよいと思う」
 黒髪の美少女の冷静な言葉に皆は感じ入ったようだが、フィアナとしては大きなため息を禁じ得ない。
 まさにご明察。
 たしかに、フィアナは風邪を召していた。目覚めたときには喉がいがらっぽく、それは時間が経つうちに次第に穏やかになっていきはしたものの、なにかの拍子でみっともないくしゃみを連発しているありさまである。
 とはいえ、盛夏であっても朝夕は冷え込み、分厚い毛布の手放せないエリディルで、どこのだれが春の今時分に窓をあけたまま眠るというのか。
 あげくに風邪をひいたとして、そんな成りゆきはごたいそうな神の視力などもちいずとも、そう、フィアナにだって推測できることである。
 その至極もっともなことを、冷ややかに注意してくれたのが女官長だった。フィアナは自分はそんなことはしていないと主張した。しかし、まったく信用してはもらえなかった。床で眠りこけるような巫女ならば、そんな馬鹿げたこともするだろうと思われていることはあきらかだった。
 いつもならかなりの部分であるじの味方になってくれるミアですら、自分の起こした大騒ぎの末のやくたいもない顛末に恐縮するあまり、原因となったフィアナに八つ当たり気味なのだった。
 ふたたびくしゃみをこらえようとしている気配に気づいたのか、ミアはすこし冷たい口調で問いかけてきた。
「もう一杯、薬湯をお飲みになりますか?」
「……お願い」
 なんとか我慢して答えると、ミアは先に行って用意しておきますと言いおいて、ぱたぱたと走り去ってしまった。
 突き上げてくるくしゃみをひとしきり解き放ち、ようやく人心地ついたフィアナは、そこで初めて周囲を意識した。
 ここは聖堂の脇に設置されている側廊。祭壇のある本堂から外側へはりだした位置にある翼棟から控えの間へと至る、柱と屋根だけであとは吹きさらしの廊下である。
 すでに神官たちは朝の祈祷の準備でいそがしく、聖堂付近には静かな活気が感じられた。が、まだ早朝の厳かさは色濃く、空気は夜の冷たさを残して生まれたてのように澄んでいた。
 今日も天気がよさそうだ。雲は昨日よりも増えているけれど、空は次第にあざやかさを増している。
 けれどもう、あの白い花のために外出する時間はとれないだろう、とフィアナは半ばあきらめの吐息をついた。花の盛りはもう過ぎかけていると思うと残念でならない。
 そういえば、昨日やってきたはずの聖騎士は、あれからどうしたのだろう。
 通用門前の一部始終のあと、けっきょく、一度も会うことなく過ごしてしまった。晩餐の前に一度機嫌うかがいに姿を見せたということだったが――もしかして、あの騒ぎは聖騎士にもつたわっているのだろうか。冷や汗がでそうだ。
 鳩たちはいつものように元気に飛びまわっていた。舞いおりる羽音に驚いて飛びすさると、すぐ後に鈍色の一羽が着地して、そしらぬ顔で地面をつつきはじめたところだった。
 なんでこんなに近くにやってくるのよと、心の中で悪態をついていると、視界の隅でなにかが動いた。
 足を止めて、だれかそばにいるのかと顔をあげるが、見える範囲では鳩がもう一羽おりてきたほかに動くものはない。そのとき、
「……?」
 一瞬、影が石の柱の間を駆け抜けていったような気がした。
 しかし、気配はすぐにくるくると鳴き交わす鳩の声にまぎれてしまった。おまけに、前方では先にたどりついたミアが両腕をふり回してわめきたてている。
「フィアナさま、急いで。なにをぼんやりなさってるんです!」
 わかってると返事をしながら、フィアナはもう一度視線を巡らせる。
 風だったのだろうか。
 それにしては、なんだか……そう、なんだか奇妙に覚えのある気配だったような気がするのだが。
 だが、フィアナにそれ以上その場にとどまってこのふしぎな感触を追求している余裕はなかった。
 控えの間の入り口に女官長が姿を現したのを見つけ、自分のおかれている現状を嫌でも思い出さざるを得なかったからである。


 フィアナの、長年の間に書き損じを幾度も削った羊皮紙のように薄くなりつつあった宝玉の巫女としての信用は、昨夜の騒ぎによって最後の繊維を断ち切られ、どうやらついに穴が空いてしまったらしい。
「フィアナさま、お急ぎください」
 女官長の言葉に、フィアナは頬をひきつらせながら口をむすんだ。
 夜の冷気をいまだたたえた薄暗い本堂の、中央をつらぬいて祭壇へといたる通路を静かに前進する。その間にも青鈍色の神官服や褐色の普段着の俗人達の間から、なじみの単語がぽろぽろと洩れ聞こえてきた。聞くまいと懸命にがんばる意識とは裏腹に、訓練されて鋭敏になった耳が音の端々を捉えて補い、即座に言葉へと変換してしまうのだ。
 聖騎士来訪に塗りつぶされるかと思われた祈祷前の噂話だったが、意外にも六の巫女居眠り事件が健闘しているようである。
 フィアナはかたわらを歩くミアの困惑したようにこちらをうかがう表情や、背後につづく女官長のいつになく神経質な物腰に気を取られぬようにつとめながら、一心に祭殿の奥だけを意識して歩きつづけた。まるで水の中を泳ぎ歩いているように足が重い。長い時を経てようやく祭壇横の段をのぼりきり、堂内を見渡せる所定の場所にたどりつくと、おもわずため息が出た。
 本堂中といえば大げさだろう。しかしほぼそれに近いくらいの人々の視線が自分に寄せられたことに、ある程度の予想はしていたとはいえフィアナはげっそりとした。
 昨晩の出来事は、六の巫女が私室で夕食をとっている途中で居眠りをし、寝ているうちにいつのまにか椅子から転げ落ち、それでもまだしつこく眠りつづけていたものと冷徹に分析されて、当番の神官によって神殿の日誌に公式に書き込まれたらしい。もし、発見したのがミアでなかったとしても、いずれこの件は、フィアナの羞恥心を強く刺激する噂を、さまざまに生みだしていくことだろうと思われた。
 だが、フィアナにとっての出来事は、神殿中に笑われて終わるいつものそれとは、すこしばかり異なる様相を呈しはじめていた。
 居眠りをして叱られたという出来事の本質にはなんら変わりはないはずなのに、自分をとりまくまわりの反応がなにやら予想外の方向に流れてゆきつつあるのを、フィアナはうっすらと感じている。
 たとえば、今朝、起きたときに顔を見せた女官長は、それからずっとかたわらに付き添いつづけたままで、いっこうに離れてくれる気配がない。
「本日は、カーティス卿からきちんとお話をうかがわねばならないのですからね」
 そんな理由にもならないようなことを口にして、まるで巫女になったばかりの子供のときのように、着替えから食事までいちいち世話を焼きはじめたモード・シェルダイン女官長に、フィアナはいささか当惑していた。
 とびとびになる意識に、いつもと違うなにかを感じたことも理由のひとつではある。しかし、祈祷の前にふだんは遠ざかっている〈祈りの間〉に行きたいと言いだした裏には、女官長のこの態度に奇妙な不穏を感じたせいもあったのだ。
 さいわい、フィアナが〈祈りの間〉へ赴くことに対しては、誰も反対を唱えようがなかった。それはいつも彼女が時間が足りないことを理由に省いていた、本来ならば巫女としての義務であるはずの行為だったからだ。
 女官長の目を逃れてひといきつきながら、久しぶりに当然するべきつとめをおこなって、いまさらのようにしみじみと感じるのは、やはり自分はクレアデールのようにはなれない、ということだった。
 当代最高の権威と力をそなえた三位の宝玉の巫女の果たしている役割は、下っ端のフィアナとは比べものにならないほど大きく重たいものだ。かかわる祭儀のなかには旧帝国の西の領域広くに影響を及ぼすような、大がかりで重要な行事も含まれている。そんな祭儀のとりおこなわれる前には、クレアデールは必ず、半日ほどの時を〈祈りの間〉で過ごしている。神殿ばかりか地方の権力者の威信をもかけて厳粛にとりおこなわれるそれらの祭儀に、ないがしろにしてもいい段取りなど、ひとつたりとて存在しない。クレアデールが自分から〈祈りの間〉でのひとときを省きたがることなどありえないだろうが、もし時間の節約を理由に誰かがそんなことをほのめかしたとしたとしたら、祭儀担当の神官たちだけではなく、祭儀に希望や祈りを託した人々からの猛反対を受けるだろうことは想像に難くない。
 時報代わりの日課の、申し訳ないほどささやかなつとめに存在意義をかけているフィアナは、クレアデールのように長い間〈祈りの間〉で過ごさねばならぬ必要に迫られたことがない。だから、その間の孤独な時間がどういうふうに流れてゆき、どんな体験をクレアデールにもたらしているのかを、想像することもできなかった。おなじように神の宝玉を保持しているとされる巫女として、この事実を思うたびせつなくなる。
 それは、自分が宝玉の保持者であることを疑うことにもつながってゆく。
 他の巫女達のように手順を踏んで地位を得たわけではないフィアナにとって、宝玉は巫女となって十四年経たいまとなってもいまだ目にしたことのない不思議な、さらにいってしまえばひどく手応えのない、遠くて苛立たしいだけの存在だった。
 巫女であるが故に、幼いころからずっと大方の少女達よりもはるかに恵まれた生活をあたえられ、大切に扱われてきた。それがどれほど幸福なことであるかは、頭では理解しているつもりだ。
 そして、どれだけ彼女自身が疑おうと、フィアナがまぎれもなく神の宝玉を有していることは、代々の巫女達が証してきた。最近では、まるでそれが巫女としての試金石であるかのように、着任したばかりの少女達は、まずはじめにフィアナのうちに宝玉の所在を探ろうとする。そういえば、クレアデールは歴代の巫女達の中でもことに詳しくその場所について解説してくれた。フィアナの胸の奥、おそらくは心の臓のすぐそばに、宝玉のかけらは眠っているらしい。
 ――だが、それがなんだというのか。
 〈祈りの間〉は、少女たちが崇め、そのからだの一部を預かり保持している、名を失いし神にもっとも近づくことのかなうところ、祭壇のしつらえられた本堂よりもさらに神聖な場所とされている。
 神樹の扉の向こうの閉ざされた空間には、神の玉体、宝玉の主座が秘めおかれているからだ。
 もしかすると、クレアデールはあの場所で、みずからの宝玉ばかりでない、永久の眠りについていると伝えられる神そのものから発せられるなにか貴重で大切なことを、その身に感じ取っているのかもしれない。
 けれどフィアナは、今朝もどうやらその理想の境地に達することはできなかった。
 巫女が〈祈りの間〉から戻ってくるのを待ち受けていた女官長は、顔を見るなり、いつものようになんとも言いがたい表情を浮かべた。
 モード・シェルダインの、もしかすると安堵とでも呼べそうなかすかな表情のゆるみは、昔からフィアナの心にすこしのひっかかりを覚えさせるものだった。
 心身を圧迫するようにおしつつんでいたざわめきが、水をうったように鎮まりひいてゆくのに気がついて、フィアナはぶるりと身震いをした。
 理由を求めて視線をめぐらせた先には、威厳という名の薄衣を優美にまとった黒髪の少女がいた。心のうちで賛嘆と羨みのまじった吐息がついてでる。
 後見の騎士をともなってさだめられた場所へと移動してゆくクレアデールの凛とした姿は、すみやかに見るものの居ずまいを正させてゆく。
 フィアナは、目が覚めたような心地がした。
 そうだ。こんなことをいくら考えても仕方がない。
 いまは目の前の事に神経を集中するべきなのだ。巫女としてのフィアナが、唯一まともにまっとうすることのできるつとめが、このあと控えているのだから。
 天窓からおりてくる幾本もの光。その残滓をまとわりつかせて進む少女と男の影を見守りながら、フィアナはできるだけまっすぐに背筋を伸ばし、ついで力みを解いた。視覚に頼った感覚をわずかに低め、代わりに全身の感覚を研ぎ澄ませようとする。
 焦点を失った視界の中で、すべては光と影の陰影に還元される。
 聖堂の幾本もの大きな柱によって支えられた天井の高い空間は、いつのまにか祈りの前のはりつめた静寂にみちていた。
 祭司をつとめる神官が声をはり、儀式の始まりを厳かに告げる。
 四隅で焚かれる香の拡散してゆくとともに、目の前の空間に霧のようにひそやかに樹の幻がむすばれてくる。
 床石までようやくとどいたわずかな陽光に、葉脈のごとき繊細な紋様が黒々と浮かびあがる。それはまるで、神樹の森の奥深くにあるという、地の民の叡知をやどした神秘の沼のようにきらめいた。
 いまやフィアナの周囲には、まっすぐな銀の幹を持つ、丈高い幻の神樹の森が出現していた。
 射し込む光の源を求めてみあげると、そこには豊かに葉を茂らせた枝枝が天蓋をかたちづくっている。
 梢のあいだからこぼれてくる朝の光。顔をのぞかせる遠い空。しずけさにみちた葉陰の蒼い闇。
 幻はまぼろしではあったが、現実の聖堂とともに存在している。
 フィアナはしらず自分の胸に手をあてて、金鎖の感触を探っていた。
 なぜだろう。いつもより幻想の訪れがはやい。
 いまは始源の神による音と言葉のはじまりから、神々のたどいたまいし刻の流れを讃える言葉が、韻を踏んだ音律の言語で紡がれているところだ。
 男性ばかりの不揃いな声でくり返されてきた、聞き飽きたとさえいえる言葉の連なりが、すべてに清澄な森の中では妙なる調べのように響き、響きはさらなる陶酔をつれてくる。
 フィアナは、あとすこしでやってくるはずの自分の出番を、心のかたすみで意識した。
 同時に空の色に彩られた現実の内壁に視線をうつすと、思考は無意識のうちに壁画にしるされた神話をたどってゆく。
 音が生みだされ、言葉がつくられ、時が流れるようになったこと。
 天地が創造され、そこに始源の力の一端を宿した、のちに神々と呼ばれるふたつのものたちがさらに創造されしこと。
 天の神々と地の神々が分かたれて、人間が生まれ、魂が翼をもち、肉体が大地へと還るようにとさだめられしとき。
 最後の天の神、空の息子、風と翼をともに従え蒼穹を翔ける、偉大な輝く神の地上への降臨。
 頭上からふりそそぐ光がにわかに強まったことを肌に感じて、フィアナは半眼にしていた目をみひらいた。
 森と聖堂とが二重写しになり、葉の落とす影のうちに、神妙な表情をしたひとびとの顔が過ぎ去った思い出のように色褪せて見える。
 白い柱はそれぞれに神樹の一本一本をなしていた。石に刻みつけられた蔦の紋様が生命を得て、銀の木肌にとぎれなくまとわり、這いのぼっている。
 そこに、どこからかひとすじの風が吹き込んできた。
 閉ざされた聖域であるはずの森に、いつのまにか外界へとつながるほそい道がひらかれている。
 それは同時に聖堂の正面の扉がひらかれた証であり、儀式の途中で何者かが入り込んできたことの徴でもあったが、それを見咎め、詮索するものは誰ひとりとして存在しなかった。
 侵入者は礼儀正しく、聖域に最大の敬意をはらってみせる。
 ――慈愛深き神は、あまねく人の子らを受け入れたもう。
 唱和する声が、ふたつの伽藍に同時にひびく。
 ひらかれし道を大股に歩んでくるのは、大柄な男だった。宵闇の色をしたマントと、輝く金の髪に見覚えがある。ゆったりとした所作でさりげなく祈りを捧げる人々の列に連なった聖騎士は、悠然とあたりを一瞥した後に祭壇に向かってかすかに頭を垂れた。
 フィアナは他人の視線を意識しない聖騎士のまじめくさった表情に、隠された信念を垣間見たような気がした。
 そして、その後につづいてもうひとり。
 輝く神の身におとずれた悲劇を悼み、なぐさめる言葉が聖堂中にひびくなかで、フィアナは光と影の狭間に身を沈ませるようにして進むひとまわり小さくほっそりとした人影を発見し、つよく心を吸い寄せられた。
 既視感があった。
 ――いにしえびと?
 頭髪の半ばをふりかかる陽光によって銀に染められた若者は、フィアナのいちばん大切に思っている壁画に描かれた、蒼天を背に立ついにしえ人の戦士の姿に酷似していた。
 すっきりとして端正な顔をふちどる銀の髪。光をはねかえす銀青の澄んだ瞳。
 それは、名を失いし神のしもべにして友であり、地に降りた神の身代わりに、空の大神により未来永劫ただひとりその身を天と地の狭間に置きつづけるさだめを下された、孤独な魂のしるしだった。
 せりあがってくる感情に、フィアナは思わず胸もとに手を合わせた。
 胸の奥が熱い。この感覚に、覚えがある。
 ――あなたは、だれ?
 そう問いかけたい思いにかられて、ふと自問する。
 自分はこの言葉を、どこかで一度、口にしたことがあったのではなかったか。
 そう気づいたとたん、森と光の幻想は見る間に薄れた。
 聖堂は現実のものそれだけとなり、光は埃まじりのものへ。石の柱は、手応えも確かに厳然としうごかぬものとして存在感をましてゆく。
 するうちに、目を逸らしたわけでもないのに、銀の髪をした若者は視界からその姿を消していた。
 ――え?
 響きわたり共鳴していた声はいつのまにかかき消えて、聖堂にはつかのま、真空が生まれていた。
 周囲の視線がうちそろって自分ひとりの上にそそがれている、ような気がした。
 なにが起きたのだろう。
 視線を動かすと、深刻な顔をした女官長がまるで睨むようにして見つめてくる姿が目に入り、ついでその隣でミアが馬鹿みたいに口をぱくぱくさせ、身ぶり手ぶりで懸命になにかを訴えていることに気がついた。
 とまどっていたのは一瞬だったはずだが、その場にいる者にとっては永劫とも思えるほどに長い一瞬だったのに違いない。
 沈黙が苛立ちに変化して、重くのしかかり始め、フィアナはようやく、待っていた出番が、自分がつとめをおこなわなければならないときが、とうに訪れていたことを悟った。
 だが、それをきちんと果たせるかどうかは、また別の問題というしかなかった。



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