天空の翼 Chapter 1 [page 16] prevnext


16 朝食へのいざない


 宝玉神殿の聖堂は他の神殿とは異なり、内部を銀の神樹の意匠で飾られていて、そのせいか深い森の中のような静謐と心やすらぐ闇をたたえていた。
 そうして、ルークが梢の間から空を仰ぎ見ているようなふしぎな心地でいるうちに、儀式は終わりを告げていた。
 エリディル神殿の一日は、おおむね穏やかに幕を開けた。
 聖なる儀式の余韻にひたるまもなく――真実ひたりたいと思っている者がどれほどいるのかは疑問だが――、人々は秘めた暗がりから日常へと散ってゆく。
 そのゆるゆるとつづく波のかたわらで、楽しげな声が場違いに響いた。
「六の巫女は、今朝も見事に外しおったなあ」
 声の持ち主は、痩身を青鈍色の衣でつつんだれっきとした正神官である。
 分別ざかりもとうにすぎた、癖だらけの枯れ葉色の髪をした壮年の男は、両腕を組んでその場にふんぞり返るようにして立っていた。骨太で重心が安定しており、肉体労働に従事しているものの雰囲気がある。長い袖をからげて腕をあらわにする、くずれた神官服の身につけかたからしても、学問に邁進する生真面目な神官たちとは異なった種類の人物であることが見てとれた。
 人々の、眉をひそめてふり返る視線はやむことがない。
 しかし、エリディルの施療室と薬草園の責任者であるボーヴィル師は、そんなことにはいっこうかまいつけず、ややゆがんだ口元から笑いの息をもらしつづける。
 それはどうやら、自分のかたわらにいた数人の見習いとおぼしき若者達が、恨めしげなまなざしを投げて去っていくのを見送る笑いでもあったようなのだが、いずれにしろ、心根清きものとはいいがたい、なにかを含んだ笑いであることに違いはなかった。
 聖職者としてはやや不謹慎とも思えるやり方で喜びをあらわしている年かさの神官を、まわりは奇異なものでも見るようにしてやんわりと避けていく。
 その流れにあえて逆らってみせたのは、聖騎士の象徴である宵闇色のマントをまとった長身の男だった。
 薄笑い神官とはまた別の意味で、素朴な信仰の徒からはっきりと区別される存在感を発揮していたその人物は、昨日到着したばかりのアーダナの聖騎士団員である。
 今朝のいでたちに剣は含まれていない。マントからは、旅の埃が綺麗に払いおとされていた。しかし、荒事とは無縁の列席者の多い早朝祈祷にあって、立派な体格の騎士はべつの世界の生き物であるかのように際だっていた。
 しかし、人目に立つことに慣れきっている金髪の聖騎士は、町中で天気の話をするような、気さくな調子で年上の聖職者に声をかけた。
「今朝も、ということはこういったことはよくあるものなんですか」
 ボーヴィル師はほとんど頭上から降ってきた問いかけに驚きもせず、片頬に苦笑の皺をにじませるという器用な芸当を披露して、正面を向いたまま答えた。
「そうさなあ……六の巫女がそつなくつとめを果たしおおせる確率は、それほど高いとはいえまいな」
 瞼の半分たれたまなざしは、口にする言葉の辛辣なわりには優しげだ。
 聖堂のほぼ真ん中で、うっすら射し込む陽光にふちどられ、ひと組の影となった神官と聖騎士は、おたがいになんとはなしにウマの合うものを感じたらしい。そのまま世間話をはじめた。
 それぞれに祭壇を向いたままのふたりの身長差は、頭ひとつと半分ほどである。
 話題はひきつづき、六の巫女についてだった。
「不安定というか、波があるんだよ。あの巫女のやることにはな」
 ボーヴィル師がにやにやと言う。
 それは巫女としてはあきらかに欠点でしかないのだが、神官の口調は、それがおもしろいところなのだ、と主張しているようにも聞こえる。
「それは、まるで博打のようですね」
 カーティスは、青空の瞳に興味深そうな光を瞬かせた。そういえば、この男は賭事が嫌いではない。
「そうだな。はずれは多いが、たまには当たる。当たるとでかいというやつかな」
「というと?」
「さっきの〈声〉を聴いただろう」
 それは、最前の祈祷の際に六の巫女のおこなった〈呼びかけ〉のことだろうか。
 出だしのきっかけをとらえそこない、すっかり緊張感の薄れた儀式は、その時点ではっきりと失敗の部類に入る出来だった。
 だが、抜けた間のあとで六の巫女が申し訳なさそうに口から押し出した神の名は、予想に反して意気阻喪するような響きでもって聖堂を満たし、そののち、もの哀しく尾をひいた。そしてさざ波のようにいつまでも耳に残った。
 最後のくしゃみさえなければ。
 あのとき、いったいどれほどあきらめのため息を耳にしたことか。あれさえなければ、心はまだ天空にのぼったままで、現実は遠ざかったままだったかもしれない。
「声質と発音は完璧なんだ。ときにあの巫女の声は、目に金色にみえることがあるんだよ」
 そんな時には、本当に神の眠りを醒ましてしまうのではないかと、そら怖ろしく感じることもあるくらいなのだ――といったことを、どこまで本気なのかわからない顔でボーヴィル師は言う。
 しかし、タイミングや発声といったほかの要素は気まぐれにしか揃わない、らしい。
 規則性や安定、持続を尊ぶ神殿の儀式の一端を担う者としては、致命的な欠陥だ。
「ときどき、儀式の途中で眠ってるんじゃないかと、思うことがあるのう……おまけにくしゃみときた」
「それほどまでにぼんやりものですか、フィアナ・ディアネイアは」
 苦笑するふたりの視線の先には、蒼い長衣を身にまとった小柄な巫女の、なんとも憮然としたようすで祭壇脇にたたずむ姿があった。
 うつむいてなにをしているのかと眼を凝らしてみると、編んでたらした金のおさげの先をむしっているらしい。
 そのかたわらを、何ごとかを言いつのってイライラと行ったり来たりしているのは、さきほど祭司をつとめていた厳めしげな顔をした年輩の神官だった。
「あれがあそこまで不機嫌なのは、自分の当番に派手な失敗がたてつづいたからだが――」
 ふふんと鼻で嗤って言葉を止めると、ボーヴィル師は意味ありげに大きく視線をうごかした。
 まなざしの先には、一位神官の正装を身にまとったエリディルの長の、眉間にしわを寄せたまま、金糸の肩掛けを必要以上に大げさに捌いている姿があった。着ている本人の中身はどうであれ、服装は権威と威厳に満ちており、なかなか堂々として見える。
「われらがダーネイ神官長の御心痛の理由は、どうやらそればかりではなさそうだのう。
「――ところで、朝の祈祷にはあまり慣れておいでではないのかな。無理して出席なさる必要もないと思うが、アーダナの御仁?」
 遅刻を指摘されたカーティス・レングラードは、少しばかり気まずそうだった。
「気づいておいででしたか」
「気づかぬものがいるとすれば、六の巫女くらいのものだろうよ」
 これまた、ひどい言いぐさであるが、その言い方には少しだけあたたかみが感じられた。
「昨夜は、早く起こしてくれるように、神官に頼んで就寝したはずだったんですが」
 目的地に着いた安堵か、昨夜の盛大な酒盛りのおかげか、たぶん後者だろうと推測されるが、聖騎士はめずらしく寝過ごしたのだった。他の用事を言い含めていた従者に文句をつけるつもりはないようなので、とりあえずルークは咎めないことにしたのだが。
 行き違いでもあったのだろうかと、髪をかきあげてぼやくカーティスに、それは不幸なことだったとボーヴィル師は応え、そのあと幾分気の毒そうにつけ加えた。
「昨夜、ダーネイが神殿中に厳命したからだろう――聖騎士にはできるだけ関わるなとね。必要以外に口をきいちゃいかんとかなんとか、それはもういちいちこまかく注意をくれてな。気がつかなかったかね」
 あの男は神経質だからと断じつつ、ボーヴィル師はそこで初めて聖騎士の顔を眺めやった。そのいたずらっぽい笑顔は、アーダナの聖騎士はいったいなにをやらかして神官長を怒らせたのか、できることなら知りたいものだと雄弁に語っていた。
 カーティス・レングラードは、この事実を初めて知らされたもののようだった。
 そういえば、昨日はどこへ行ってもわらわらと、まるで餌にたかる小雀のように聖騎士に寄り集まってきた人々が、今朝になってからは遠巻きに笑顔を見せるだけで、自分からは近づいてこようとしなかった。
 それは、この少し癖のある治療師のせいとばかり思っていたのだが、どうやら真相は別であったらしい。
 聖騎士は当惑気味に瞼をしばたたいた後、ちょうど中央の通路を側仕えの少年を従えて歩みゆく神官長の姿に眼をくれた。
 小柄で痩身の神官長はなにかを感じたように一瞬足を止めたが、確認することを怖じるようにかたくなに顔を正面に向けたまま、そそくさと足を速めた。
「なるほど……」
 大きな手で金髪をかきあげる男の目元に獰猛な笑みがのぼったのに、ボーヴィル師は他人の喧嘩を面白がるもの特有の無責任な期待の表情をにじませる。
 顔をひきつらせて立ち去りかけた神官長一行が、そのとき唐突に足を止めた。
 それは、聖騎士のまなざしに反応したからではなく、背後から呼ぶものがあったからだ。
 ふりかえった神官長が自分の方へと大股に歩み寄ってくる長身の男に怪訝な顔を見せ、ついでその背後に驚きの視線を走らせるのに、ボーヴィル師が、おやとつぶやく。
「三の巫女か。ハルに何の用事だろう」
 後見の騎士の取り次ぎの後、三の巫女と直接二言、三言言葉を交わした神官長は、どうしたわけか突然機嫌がよくなったようにみえた。こちらに背中を向けている三の巫女はどうだかわからないが、ともかくも神官長はその顔に、滅多に見せることのなさそうな心からの笑みを浮かべている。
 しばしの後、聖堂はみずから先導するようにして意気揚々と去ってゆく神官長と、そのあとにつづく、平常となんら変わることなく美しい三の巫女、そして不機嫌そうな後見の騎士の姿を見送った。
 この出来事は、それほど人々の注意をひいたわけではなかったが、一部のものたちにとっては充分に訝しく感じられる光景だったらしい。
 めずらしい取り合わせだ、といったような噂話がまたあちこちで囁かれはじめた。
「なにかよい報せでもあったのか……?」
 カーティスが不思議そうにごちる隣で、ボーヴィル師はふうむとうなってつぶやく。
「――これはまた、新たな賭けができそうだの」
 聖騎士に、なにか言われましたかと尋ねられたボーヴィル師は、かぶりを振ると、ただにんまりと笑ってみせた。
「ほら、カーティス卿。お待ちかねの六の巫女だ。ようやくのおでましだぞ」


 注意を逸らそうという意図がみえみえだったが、聖騎士は素直に言葉に従ってまなざしを転じた。
 そもそも、カーティスが早朝の儀式に出ることにしたのは、昨日はどうしても面会のかなわなかった六の巫女とすこしでも言葉を交わそうと考えてのことに他ならない。一見して他愛のない無駄話をして時間を潰していたのも、儀式の終わった後もフィアナがなかなか下界に――祭壇の下に――降りてこないせいだったのである。
 高く細い窓からおりてくる光が明るさを増した聖堂の中央を、女官長と侍女に挟まれるようにして歩んでくる小柄な少女は、きのう少しだけ顔を合わせたときの彼女とは若干印象が変化していた。
 祭儀用の色鮮やかな服を身につけているためだろうか。それとも、光をはじくあわあわとした金髪がきちんとまとめられ、ほつれなく結ってあるからだろうか。
 いや、そうではない。
 違うのは表情だ。
 昨日の茫洋として焦点の定まらない瞳はそこにはなく、うすい空の色をしたまなざしは、重大な挑戦を前にしたもののようなつよい決意に満ちていた。
 眉にはすこしばかり力が入りすぎていて、眉間にかすかなしわが寄っていた。
 肌はあいかわらず白かったが、頬は薔薇色に紅潮している。
 くちもとは、ぎりぎりと噛みしめられて、あたかも血がにじんでいるかのように赤かった。
 まるで、なにかに腹を立てているようだったが、その姿からは昨日とはまったく違う、つよい生命力が感じられた。
 見守る聖騎士と治療師の姿に気がついて、女達はいったん足をゆるめた。
 年かさの臙脂色の服を着た女が、もったいぶった顔つきでなにごとかを少女達に言い含めている。あのふくよかな体型は、たしか巫女達の世話を任されている女官長だった。それを六の巫女が一方的に遮って、かと思うと思案するような顔でふいにこちらを見た。
 その視線の鋭さに、ルークは一瞬腰がひけた。
 巫女はそのまま、髪を後へなびかせて、決然とこちらにむかって歩み寄ってきた。
 あわててとどめようとする女官長に先んじて、あかるく澄んだ声が聖堂中に響く。
「おはようございます、カーティス卿」
 声の美しさ、通りのよさは先ほどの〈呼びかけ〉からある程度予想していたものの、近くで聞かされるとより身に堪えた。
 さらに驚かされたのは、突然うかんだ満面の笑みである。
 それは、気弱な少女の笑顔には見えなかった。少なくとも、見知らぬ人物に下手に出て、ようすを探ろうとするようなひかえめな笑顔ではない。
 巫女のまなざしは、笑っているというにはあまりにも意気込みに満ちていた。切羽詰まっているといった方がふさわしいほどに。
 まるで、目の前でだしぬけに強烈な芳香を放つ花がひらいたかのようだ。
 巫女は、こちらの反応を待とうともせず、そのまま言葉をつづけた。
「昨日は助けていただいてありがとうございました。ろくにお礼も言えずに申し訳ありません」
「いやいや、六の巫女。私は騎士として当然のことをしたまでですよ」
 思わぬ高調子に面食らい気味だったカーティスだが、もともとが面白がりやの男である。すぐに相手に調子を合わせ始めた。
「お目通りをいただくために何度かそちらへうかがったんだが、時機が悪かったらしい。昨夜もいろいろとあったようだが、もう、具合はよろしいのかな?」
 にこり、と笑う六の巫女。
「すこし風邪気味ですけど、平気です。ね、ミア?」
 とつぜん話をふられた侍女が、あわてて応える。
「え? ええ、そうなんですよ。フィアナさまったら、ほんとうに人騒がせで困ります」
「あら、なんてことを言うのよ。まるで私がいつも失敗ばかりしているみたいじゃないの」
「そうじゃないとでもおっしゃるつもりですか」
 当惑気味だった侍女は、無理にひきずりこまれて会話をつづけているうちに、生来のものと思われる好奇心のつよさとずうずうしさを発揮して、すぐに場になじんでしまった。
 取り残されて苦虫をかみつぶしたようにしているのは、女官長だった。おそらく彼女は、六の巫女をこれほどはやくよそ者に近づけるつもりはなかったのだろう。
 しかし、昨日危ないところを救ってもらったのは事実、どさくさに紛れて礼をきちんとしていないのも事実。しかも、ここまで話が弾んでは、横槍を入れる方がかえって非礼である。
「ちょうどよかった。あなたにはやいうちにお話ししたいことがあるのですよ。ディアネイアのお父上からお言葉を預かってきたので――」
 聖騎士がまじめな顔をして話題を転じるのに、淡い空色の瞳がかすかに瞠目した。
「ええと。カーティス卿はアーダナ聖騎士団の聖騎士なのですよね。私の父とお知り合いなんですの?」
「もちろん。私の姉はディアネイア候の妃だから。この度のおつとめは、猊下がそのことを汲んでおあたえくださったものなんですよ。つまり、私はあなたの叔父というわけだ。よろしく、フィアナ」
「……うそ」
「それ、本当ですか?」
 六の巫女と侍女、ふたりの少女は、目を丸くして聖騎士を見あげた。
 どうやら、巫女は聖騎士の任務と父親ディアネイア候との関係をいまだに知らされていないらしい。
「――カーティス卿」
 巫女の反応を楽しむようににこにこと笑っている聖騎士に向かって、咳払いをしながら女官長が口を挟んだ。一瞬ゆるんだ空気を見逃さず、六の巫女と聖騎士の間の空間に、遮るように身を割り込ませてくる。
「フィアナさまへのお話は、まず私が承ります。いらぬ混乱をまねくようなお言葉は、慎んでいただきたいのですが」
「しかし、女官長。できるだけはやくお話をと言ったのは私ではなかったはずですね」
 カーティスの一見朗らかな反論に、女官長は鼻白んだように表情を険しくした。どうやらカーティスは、すでにこの女性となんらかの言葉を交わしていたものらしい。
「今日の午後、私は神官長から話をうかがうことになっています。そのまえに、フィアナには知っておいてもらいたいことがいくつかある。もちろん、あなたにも聞いていただくつもりですが――女官長」
「そうはおっしゃいますが、聖騎士どの。あなたはまだ、朝食も召しあがってはいらっしゃいませんね。食堂へいって、腹ごしらえを先にお済ませになった方がよろしいのではございませんこと? フィアナさまもまだ祈祷の直後で、すぐにお話をうかがえるような状況にはありません」
「モード、ちょっとやめてよ。私のどこが話のうかがえない状況なのよ」
 背後から服をひっぱり、小声で文句を言う六の巫女を無視して、女官長はつづける。
「とにかく、巫女との会見は、お世話を任されている私を通されないことにはお許しするわけには参りません。朝食の後に私からうかがいますから、まず私に言いたいことをおっしゃってくださいな」
「時間の無駄ではありませんか。神官長がどういった決定を下すのかはわからないが、あまりだらだらと時を費やしていては、あなたにとっても、真相をうやむやにされてしまうことになりかねませんよ」
 物腰はやわらかではあるものの、かたくなにゆずらない女官長と、あきらめることなく笑顔で説得を試みる聖騎士の応酬。
 そこに、話の中心から外されそうになったことに気づいた六の巫女が、断固とした口調で釘をさした。
「話を聞きたいのは、私よ!」
 叫んだ後で、集まった視線に一瞬怯んだ六の巫女は、しまったとでもいうようにあわてて頬に手をあて、口元をひっぱるようにして笑顔をとりつくろうと、おもむろにひとつの提案をした。
「その……朝食のことですけど、よろしければご一緒しませんこと、カーティス卿?」
 歓声をあげたのはひとり、侍女だけだった。
 残りは唐突な提案にあっけにとられている。
 巫女はつづけた。
「食堂とは別に、お客様をおもてなしするための居間があるんです。そちらに席を設けさせます。そうすればゆっくりとお話をうかがうことができると思う――いえ、思います。ね、モード?」
 今度はかなりなめらかに微笑みながら周囲を見まわし、同意を求める。無意識に小首を傾げるそのしぐさは、小鳥のようだ。だが、ちらりとのぞいたまなざしは、ちっとも笑ってなどいない。
 モード・シェルダイン女官長は、ひとつ息をつくと、見事なまでに落ちついた、ゆったりとした調子で応えた。
「――そうでございますね。神官長のお話がある前に、いちどじっくりとそちらのご用件をうかがうのも有意義なことかもしれません……わかりました。ご用意いたしましょう」
 それだけを、女官長はやわらかな笑顔のうちに言ってのけた。
 しかし、やはり内心は穏やかとはいかないのだろう。女官長は聖騎士の返事も待たず、薬草園のあるじに客人の案内を頼むと、「ではのちほど」と、身をひるがえして突撃するように聖堂から去っていってしまった。巫女と侍女、娘ふたりの腕を強引にひっつかんで、である。
 しばしの沈黙に、屋根の上から鳥のさえずりが遠く響いた。
「――こりゃこりゃ、すっかり自棄になっとるぞ」
 一歩離れた場所でひとり傍観者を決め込んでいたボーヴィル師のつぶやきは、どこか面白がっているようだ。
「どちらがですか。巫女、それとも女官長どの?」
「モード・シェルダインはおいそれとは根をあげないさ。巫女だよ。あれは自棄笑いだ。なにかとんでもないことをしでかす前触れかもしれんぞ」
 フフフ、と不気味に笑うボーヴィル師。
「いやはや。あの子が姉上の娘だってことをまざまざと思い知らされたよ」
 感慨深げに、見るともなく聖堂の天井を見あげたカーティス・レングラードは、そこではっと思い出したようにこちらをふりかえり、なにが楽しいのだろう、笑顔で声をかけてきた。
「おい、従者ルーク。ぼんやりしてる場合じゃないぞ。我らの巫女姫は、存外手強そうだ」


 ふりかえってみた薄暗い聖堂の中では、大柄な騎士が片手を上げて微笑んでいた。
 そのすぐうしろに黒っぽい影が見えた。光線の具合と影の落ちかたの食い違いに、ふとした違和感を覚える。
 そこでぐいと腕をひっぱられ、フィアナは我にかえった。
 あまりに容赦のない力の入れ方に、これ以上痛い思いをしないため、おとなしく前を向いて歩くことにする。
 一心不乱に突き進んでいるようだったが、じつは女官長は、兵舎の掃除に取りかかる前にこちらを済ませておいてよかった、などとひとりつぶやいていた。
 フィアナが聖騎士に提案した部屋は、巫女達の居室のある建物内の一画にある。女官長は、その建物と厨房の分岐点である石畳の回廊にたどりつくと急に足を止め、張りだした腰に気合いを入れるように手をあてると、
「さて」
 と、勢いよくふりかえった。
 フィアナはびくりと緊張して身構えたが、切り出されたのは聖騎士との朝食に関する一連の申し渡しだった。
 非常事態を認識した女官長は、どうやら一時的に侍女と巫女を区別することをやめたらしく、自分が厨房で準備をする間に、ふたりの少女にしてほしいことを数えあげた。
 まず、フィアナには、祭儀用の衣装をあらためて、身支度を完了すること。ミアにはフィアナの着替えを手伝うこと。それからふたりで件の部屋におもむき、聖騎士を迎え入れても恥ずかしくないように部屋と食卓まわりをととのえること。
 事細かな指示はミアとフィアナ、ふたりに分け隔てなく与えられた。もちろん、ふたりの技量の差は考慮して、それぞれにできることをできるだけしておくようにと言っているのだが、ミアの経験不足とフィアナの巫女にあるまじき日常のせいで、とりたててどちらかの作業量が多いということはない。
「やり方はわかりますね」
 神妙にうなずく少女達におごそかに確認をとってしめくくると、モード・シェルダインは鳶色の瞳でフィアナに意味ありげな一瞥をくれ、そのまま足早に厨房へと去っていった。
 ボーヴィル師の推測は、的を射ていた。
 女官長は腹を据え、目標をさだめた。まなざしは、完璧に冷静で落ち着きはらっていた。
 一方、臙脂色の女官服が目の前から消えると同時に方向を転換し、侍女とともに私室へとなだれ込んだフィアナは、慣れ親しんだ空間に身をゆだねると同時に大げさなため息をついて卓子に身を突っ伏した。
 こんなに頑張ってなにかをしようとしたのは、いったい何年ぶりのことだろう。まだ胸がどきどきしている。
「フィアナさまったら、いったいどうなさったっていうんですか」
 うわずった声でたまらず話しはじめたミアには、フィアナの疲れきった姿は目に入っていないらしい。つづく興奮気味の言葉は、いまのフィアナに対してではなく、聖堂での行為に対してのものだった。
「もう、びっくりしましたよう。急にカーティス卿のところへ走っていっちゃうし、笑いながらカーティス卿に話しかけてるし、笑いながらカーティス卿にお礼をおっしゃるし、笑いながら――」
 言いつのる侍女に、フィアナはうつむいたまま「やぶれかぶれだからよ」とつぶやいた。
「え。なんておっしゃったんです?」
「――笑いながら笑いながらって、私が笑ってるのがそんなに不思議なの?」
 身をよじって不満そうに顔をあげたフィアナに、ミアは力強くうなずいてみせる。
「フィアナさまがお愛想に笑うなんて、ものすごく、ものすごく、めずらしいと思います」
「……」
 自分はそんなふうに見られているのか、とフィアナは力なく息をつきながら身を起こした。顔にかかり落ちてきた髪を無造作に払いのけようとすると、指にからむのが苛立たしい。
 たしかに、フィアナは社交辞令というものが苦手だ。苦手というより、そんなものが必要とされる世界に暮らしたことがない、といったほうが近いのかもしれないが。
 クレアデールのように重大なつとめを果たすだけの信頼を得ていれば、また違っていたのだろう。だが、現実にフィアナの生活には公というものがほとんど存在しないのだから、仕方がない。
 それに、自分をとりつくろうことなど考えつく前から神殿で暮らしているフィアナは、すでにさんざん自分をさらけ出してしまった後なのだから、いまさら巫女らしい人格を取り繕ったところで何の意味もないのも確かだ。
 やりつけないことをすると疲れるものだと、フィアナはしみじみと感じていた。
 聖騎士は、祭壇から遠目で見ていたときよりも、はるかに大きな存在感の持ち主だった。
 なにしろ、まっすぐに向かいあうと前には聖騎士しか見えないのだ。目に入るのは騎士の身につけている服、いや、正確にいうとひきしまった腹部だけだった。そんなところに眼を据えつづけるわけにもいかないので視線をあげても、まだ胸だ。うんと無理をして顎をあげたところで、ようやく相手の顔が視界に入ってくる。
 あの、肉食獣のごとき迫力に満ちた人物と、ごく間近に接しながらなにも感じなかったとは、やはり昨日の自分はずいぶんとおかしかったに違いない。
 話している間中、圧迫感で気が遠くなりかけていた。もっともそれは単に、のけぞったような無理な姿勢をつづけたためだったのかもしれないとも思いはするが。
 そんなわけで、いまのフィアナはさきほど自分が正確にはどんな言葉を口にしたのか、もうはっきりとは思い出せなくなっていた。出来事全体に霞がかかったようで、記憶そのものがぼんやりとしかよみがえってこないのだ。笑っていたと言われれば、むりやりつくった笑顔はちゃんと笑顔に見えていたのだなと思えるものの、実際に自分がどんな顔をしていたのかは、さっぱり想像がつかない。
 しかし、自分がなにをしようとしていて、なにをしてのけたのかということについては、はっきりとわかっているつもりだ。
 去っていった女官長の鳶色の瞳に、あらためてフィアナはそのことを思い知らされた。
 そして、いまになって、やらなければよかったのではないかと、すこしばかり後悔しはじめている。
 それは、相手があの聖騎士だったから、口にした言葉をどんなことをしてもなかったことにしてくれそうもない赤の他人だったから、余計に感じることなのかもしれないが。
 自分は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。そう思うそばから、いや、望んでやったことだったのだから、これでいいのだと思いなおして、けれど、それで本当にいいのかとまた不安になる。
 あんなふうに、自棄になって行動しなければよかったと、フィアナはため息をついた。
 そう。自棄だったと、自分でも認める。
 儀式でおかした滅多にないほど大きな失敗に、いまさらではあるが、フィアナはひどく衝撃を受けた。聖騎士という部外者の眼を意識していたとは思わない。けれど、今朝のそれは、自分でもどうかしていると感じるほど、強烈な感情を生みだしていた。フィアナは巫女としての自分に心底幻滅して、憤っていた。
 もう、こんなことをつづけたくない。どうせ自分には巫女としての資質がないのだ。巫女なんてやめたい。いや、やめてやる。
 じつのところ、これまでも幾度となくおなじような失敗をし、おなじようなことを思いつめたことがある。神殿育ちの世間知らずであるフィアナには、しかし、なにをどうしようという展望があるわけではなく、思いはそのうち退屈な日常のなかで埋没していった。
 今回だって、目の前に聖騎士がいなければおなじ経過をたどったはずだ。
 あのとき、闇の中に突如あらわれた灯のように、聖騎士の姿は燦然とかがやいて見えた。
 宵闇色のマントの背後に、城壁で区切られることのない広々とした世界がひらけているような気がした。
 長い間固く閉ざされたままの外界へといたる扉。その扉に厳重におろされた錠をこじあけるための、重大な鍵がそこにある。そう、感じた。
 そうしてフィアナは、衝動的に金髪の騎士に向かって走り出していたのだった。
 口にしたことはすべてその場の思いつきだった。客を朝食に招くなんてことを、女官長がよく許してくれたものだ。
 いまとなってみると、とても自分のしたこととは思えない。
 こんなに軽はずみに、いままでの生活をねこそぎ変化させる可能性のあるような行動をとるのではなかった。
 おなじことをするにしても、もうすこし心の準備をしてからすべきだったのだ。
 だいたい、自分は聖騎士の訪問をあまり歓迎していなかったはずではなかったか。巫女としての不適格を糾弾され、身分を剥奪されるのではないかと、ひそかに不安だったはずだったのに。
 それにしても、とフィアナはまだ信じられない気持ちで聖騎士の言葉を思い返していた。
 あのひとが、自分の叔父?
 いったい、聖騎士の任務とは、父親の手紙とどういうふうに結びついているというのだろう。
「とにかく、はやく支度をいたしましょう。カーティス卿と朝食をご一緒できるなんて、ああ、どうしましょう。夢みたいです!」
 声を弾ませて躍るように箪笥から服を取り出しているミアに、なんとなく腹立たしいものを感じて、フィアナは思いついたことをぽつりと口にした。
「……ミアも一緒でいいのかしら……」
 ふつう、客との食卓に召使いが同席することはないように思うのだが。
 しかし、
「えっ、ダメなんですか」
 驚愕とともにふりかえったミアの、悲嘆に寄せられた眉の下、くすんだ緑の瞳はひときわ大きく見ひらかれていた。
「私は、カーティス卿とご一緒させてはいただけないんですか、フィアナさま」
 両手を組みあわせて、ひたひたとにじり寄ってくる。衝撃にうちひしがれつつ懇願する侍女のうるんだまなざしに、フィアナは一瞬にして言葉の訂正を余儀なくされた。
「……カーティス卿にお許しをいただけば、大丈夫かもしれないわね」
 あの聖騎士は、格式張ったことにはこだわらない人物のような気がする。
 この言葉に、ミアの顔は絶望から喜びへと劇的に変化した。
「だけど、モードに頼むのはやめたほうがいいと思うわ」
「あ、そうですね。さすがフィアナさま。わかりました、カーティス卿にお尋ねしてみます。うふふ」
 いまさっきの深刻さはどこへやら、ミアは得心顔でにこにこと微笑んだかとおもうと、聖騎士の凛々しい姿についての感想を嬉しげにあれこれ並べ始めた。そのあげく、
「カーティス卿がフィアナさまの叔父さまだなんて、なんだかちょっと不思議です」
 全然似ていないじゃないですか、などと言われるにおよび、フィアナはまたもやため息をついて、蒼い長衣の袖から腕を抜く。
 そんなに聖騎士と一緒に食事をしたいのかと感心すると同時に、この侍女ならば、簡単に相手をまるめこめそうだとも思わずにいられない。
 着替えを済ませて応接室に向かいながらも、やはり、自分にこの戦術は向いていなかった、とるべき手段を誤ったと、そんな後悔があとからあとからわいてくる。
 このあと自分は聖騎士に会って、それからどういう態度をとればいいのだろうか。きっと女官長の助けはあてにできないだろうし。
 傍目にもうきうきとしているミアを横目に、食卓の支度をしながらフィアナはどんどん気が重くなってくるのを感じ、なんとかして自分を奮い立たせようとする。
「そういえば、さっき、カーティス卿のそばに誰かがいたような気がするんだけど。見なかった?」
「えー、そんな人いましたっけ? ああ、薬草園のおじさんじゃないですか。女官長がカーティス卿を案内してくれって頼んでましたよ。もしかして、あのおじさんも一緒に食べるんでしょうか。ちょっと邪魔ですよね。カーティス卿のお世話だけをしたいのに」
 薬草園の、とつくからには、おじさんというのはボーヴィル師のことだろうか。そういえば、そんな人影を見たような気もするけれど。
 そのやりとりのあとは会話をつづける気力もなくなって、ミアにも顧みられずに、フィアナは無言のまま食卓の準備をつづけた。
 そのうちに、女官長が厨房から一部隊を率いて到着した。
 なだれ込んできた者たちは、手に手に盆や鍋や食器をかかえ、いちようにどこか興奮したような表情を浮かべている。かれらは慣れた様子で客を迎える支度をととのえはじめた。
 どこから持ってきたのか食卓には花が飾られ、持ち込まれた客用の食器と食べ物が手際よく席に合わせて並べられてゆく。
 そのようすを、いつのまにかはじき出されて部屋の隅からぼんやりと眺めながら、フィアナはしぶしぶと決意を固めた。
 始めてしまったことは、なんとかしてやり通すしかないだろう。
 ここでひいたら、後悔する。そんな気がする。



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