バシャバシャと水滴をはね散らかしながら、大ざっぱに顔を洗った若者は、桶に張った水を使い切ると上体を起こして、ぶるぶると頭をふった。
となりでやはり洗顔をしていた守備隊の同僚が「なにすんだよ」と抗議してきたのは、飛び散った水滴を横から大量に食らってしまったからだ。
「冷てえじゃねえか」
「あ、悪りい」
少しも感情のこもらない詫びとともに、手ぬぐいで顔を力任せにこすって傷の痛みに顔をしかめる。
ジョシュ・ハーネスは湿った自分の赤褐色の髪を無造作にかきあげると、やおら井戸端を離れた。
身体のあちこちに重い違和感があるのが不快だ。
晴れた空をとびかって朝の挨拶をする小鳥たちの声を遠く耳にしつつ、ジョシュはだらだらと石畳を歩いて兵舎の裏口へと向かう。
あたりには若い兵士ばかりが、定められた朝の仕事をこなすためにのろのろと行き交っていた。
どの顔もすこし腫れぼったくて長靴の足どりが重そうなのは、昨夜の予定外の運動と、その罰として酒宴の後かたづけを遅くまでさせられたためだった。
冷たい水で目が覚めたはずなのに、またしてもあくびが出た。にじむ涙でぼやける視界を、白い花びらが風に巻かれるようにして飛び去っていくが、意識の隅にもかからない。
そのまま食堂へ足を踏み入れると、そこここにたむろしている男たちの顔もいちように深酒の名残にむくんでいた。
「よう、おさぼりハーネス。今朝はずいぶんとお早いお食事じゃねえか」
きのう、隊を巻き込んでの大乱闘の発端となった殴り合いの相手が、結膜炎を患っているかのような赤い目をして、陽気にだみ声をかけてきた。
ジョシュは男を無視して通りすぎようとしたが、
「お得意の朝練も、さすがにおやすみかい」
意地悪いからかいの言葉にむっとして立ち止まる。
ふりかえった若者のくすんだ緑の瞳が怒りに染まっているのをみとめ、男はにやにやと品のない笑みを浮かべた。
「俺がつけてやった痣は、大切にとっとけよ。しばらく眺めて楽しみたいんでな」
一発食らわせてやろうと片足を踏み出したところで、ジョシュは後からやってきた何者かに肩をつかまれた。行動を疎外されたことへの抗議の声をあげる間もなく、ものすごい力でその場からひき離される。
男の馬鹿笑いを背中に浴び、ジョシュは怒りの声をあげた。
「なにすんだよ!」
「いい加減に騒ぎを起こすのはやめろ」
べつの卓へと強引につれてゆかれ、長椅子に座らされたジョシュは、自分を止めた男をふくれっつらで見あげた。
「俺は騒ぎを起こしたいわけじゃない」
「だが、結果としてそうなってる。こんなことじゃ、従者見習いの地位も危なくなるぞ」
見おろされるのは嫌いだ。
だが、相手は守備隊副官の従者をつとめる十以上は年上の男で、ということは、もっとも下っ端の自称従者見習いからすればまぎれもない上官だった。
地味で平凡な見てくれで、文句なく尊敬している守護や切れ者の副官に比べれば順位は相当落ちるものの、体格はかれ自身と張るし剣の腕も悪くない。いや、あるいは剣技だけなら副官よりも上かもしれない。というわけで、いちおうの敬意を払うべき人物として、ジョシュの容量の少ない脳にも刻まれている人物だ。
しかし、剣術の鍛錬に熱心なのはいいが、守備隊の仕事はそれだけじゃないとか、おまえは協調性がないとか、もっと周囲に気を配れとか、そういった類のお説教はいい加減聞き飽きている。うんざりだった。
もともと、昨日の出来事には、べつに元凶がいたのだ。自分は悪くない、とジョシュは思っている。
それが顔にも出てしまっているのだろう、男はため息をついて、
「もういい」
と早々に匙を投げた。
「花占が中断されてからというもの、どいつもこいつも血の気が有りあまってて困る。特におまえみたいなのは、体力を持てあますとろくな事をせんな。まあいい。さっさと食べて、武具の手入れに行け。今日はカーティス卿と手合わせをされるかもしれないから、念入りにな」
そこで、ジョシュはふてくされていた顔をあげた。
「えっ、聖騎士とフェルグス卿が。ホントですか」
「昨夜、晩餐の席でそんな話が出ていたからな。話半分としても、準備をしておくのは下々のつとめだ」
そして男は、おまえの見習うべき姿はあれだと顎をしゃくった。
示された先をみると、フェルグス卿の年季の入った生涯一従者が少し離れた場所で席に着き、ぴんと背筋を伸ばして厳かに朝食を取っているところだった。すでにあるじの食事は運び終えたものらしい。あるいは、われらが守護も今朝は床から離れがたい状況なのだろうか。
ともあれ、かのベインじいさんに後れをとらぬよう、さっさと支度を終えねばならない、ということだけは理解できた。
ジョシュはそのまま、副官の従者とともに朝食を配給する当番兵の列に並び、湯気のたつ椀一杯のスープと、パンとチーズそれぞれひとかたまりを手に入れてテーブルに戻った。
「ところで、今日は聖騎士は――カーティス卿は」
尋ねながら、スープの椀にパンのかたまりをつっこんで、かぶりつく。ミルク仕立てのスープは、油断をすると舌が焼かれそうなほど熱々だった。中身は豆というふれこみだが、浮いているのはそればかりではない。香りたつスープの匂いが空きっ腹を刺激するけれど、味はというと熱さのせいであまりよくわからなかった。しかも、筆舌につくしがたいほどにパンが硬い。スープで湿らせても噛みきるのに一苦労だ。
「ああ、あの方は早朝祈祷に参列されたそうだ。聖騎士ともなると、神官めいたこともしなければならないらしいな」
「じゃあ、食事はまだなんだ」
もしかすると、ここで聖騎士に会えるかもしれない。
昨夜は乱闘の罰として晩餐の相伴にも預かれなかったジョシュは、淡い期待を抱いた。
しかし、
「うん、多分な。だが、女官長から伝言があって、巫女の朝食に招待されたそうだ。ここには来ないだろう」
そして、女官長が厨房から一隊従えて出ていったのを見たと言う。いい匂いがしていたなと羨ましそうな男の話を聞きながら、一週間前に焼かれたものとしか思えないガチガチのパンに歯をたてて、ジョシュはうなった。
宝玉の巫女の招待による朝食会なら、きっともう少しマシな食べ物が出てくるのだろう。
兵舎の朝食は、いつも量の多さと沸騰寸前の熱さでごまかされている、とふたりの意見はこの点では一致した。
「そういえば、昨日おまえが喧嘩を売った、カーティス卿の従者な」
なんとかして口に入る大きさにパンをひきちぎろうと格闘していたジョシュは、思わぬ人物が話題にのぼってきたことにぴたりと動きをとめ、眉間に盛大なしわを寄せた。
「夜明け前から起きて、調練場で剣を振り回していたらしいぞ。居合わせた奴によると、聖騎士から一日一回は素振りをしろと命令されているんだそうだ。疲れてるだろうに、昨日の今日でだぜ。聖騎士の従者ってのも大変だよなあ」
おまえより練習熱心な奴がいたとはな、と横をふりかえったところで、男はジョシュの形相に身をひいた。
「この土地のシャンシーラには、ある言い伝えがあることをご存じかな」
「初めの巫女にまつわる話なら、すこしだけ。親切な酒場の主人が教えてくれたので」
「一生を宝玉を抱いて眠る乙女をあわれんで、牢のまわりに若木を植えたという話だな」
うなずく聖騎士に、枯れ葉色の髪をぼさつかせた壮年の神官は、手にした小さな木の実をはじいて口にほうりこんだ。
「その話はここらに住んでいるものたちの、いってみればささやかなる誇りであり、心の礎だ。それゆえに、かどうかは知らないが、またいつの頃からかもわからんが、シャンシーラは巫女の守護木と認識されるようになった。というわけで、巫女としてここにやってきた娘たちが最初にさせられることがなんだか、わかるかね。シャンシーラの若木を〈見晴らしの壁〉に植えることなんだよ。巫女たちはそれぞれに自分のために一本ずつ木を育てるんじゃな」
そこでボーヴィル師は、その若木を実際に育てているのはじつは自分なんだがと、わざとらしくつけ加える。
「すると、あの見事な花盛りの一画は、あなたの作品といっても過言ではないわけですね」
聖騎士が賛嘆まじりの口調で誉めた。
ボーヴィル師は満足そうにうなずいた。
「まあ、それもわしらが神にたまわった、大切な仕事のうちではあるがな」
ボーヴィル師が手に深底の椀をとると、しばらくつづいていた会話がいったん途切れ、部屋にはひととき静寂が戻ってきた。
六の巫女が主宰しているはずの朝食会は、いつのまにか薬草園のあるじの独演会の様相を呈していた。
もとはといえば、エリディルの印象について尋ねられた聖騎士が、鳩のつぎに印象深いものとして満開の時期を迎えている白い花について語ったのがはじまりである。例年この時期に催されていた花占の祀りが見られないのは残念だという話が、どういう経過をたどったものか、懇談の内容はボーヴィル師によるシャンシーラの樹そのものについての解説へと変質していった。
とくに植物に関心をもつような人物とも思えなかった聖騎士が、客としての礼儀をはるかに超えた興味を示したことが、壮年神官の、自分でも忘れかけていた植物学者としての魂に火をつけてしまったらしいのである。
結果、同席者たちは、自分たちが日々目にしているシャンシーラの常識同然の基本知識から、それまで知らずにいた樹木としての特徴などをさまざまに聞かされつつ、それぞれに朝食をとることになった。
ボーヴィル師は、聖騎士を案内したのちはすみやかに立ち去ってくれることを周囲が自分に期待していたことなど知る由もなく、当然至極という顔をして上座の隣に自分の席を定めた。いまは好き勝手に話をしているが、好き勝手に飲み食いもしている。とくに乾燥したカピの実は皿ひとつ自分の腕でかこい込んで、独占状態に入っていた。
そのボーヴィル師の話に、上座のカーティス・レングラードはまったく退屈したようすも見せず、ときには笑顔すら浮かべて興味津々で耳を傾け、同時に体格に見合った旺盛な食欲をいかんなく発揮していた。用意された朝食の三分の二くらいはひとりで食べ尽くしてしまいそうな勢いである。
侍女のミアは、さすがに食卓への同席は許されなかったものの、部屋に控えていることは認められ、健啖家の聖騎士の皿が空にならないように、卓と卓の間をしまりのない笑顔で行ったり来たりしていた。
女官長は、ボーヴィル師が自分勝手な思いこみで専門外のことを断定したりしないように、ときおり訂正の言葉を差し挟みながら、来客に対する気配りを忘れなかった。特定人物にばかり偏って給仕をしたがる侍女にそれとなく注意を促しながらつまみ食いのようすを頭に刻み、そのかたわら、文句のつけようのない上品な所作で食べ物を自分の口に運ぶことも忘れない。
いっぽう、聖騎士の背後に付き添うかたちでやってきた黒髪の従者は、引率者以外の誰にもその存在を気づかれることなく、白壁の際に用意された控えの席に陣取っていた。とりたててすることもないらしく、中央の食卓とそれをかこむひとびとをぼんやりと眺めている。話がシャンシーラの果実の利用法に移ったときには、黒い瞳がとなりのパン籠と赤みがかった透明なジャムの詰まった硝子瓶を交互に移動していたが、それに気づいたものも誰もいない。
そして、肝心のフィアナであるが、聖騎士の向かい側に席をとった彼女は、悲壮な決意でのぞんだのが嘘のように、この時間をしあわせに満喫していた。
ガラス窓を通して燦々と射し込んでくる朝日が、白壁ぬりの応接室にひろがって、室内はふんわりとあたたかな雰囲気につつまれている。
そこにととのえられた朝食の席は、ふだん神官用の大食堂で食事をとっているものの目には、非日常的に豪勢なものとして映った。
どっしりとした天板の上に落ちついた濃い色合いの覆いをかけた食卓は、レースの縁飾りを施した純白のクロスで飾られている。中央には淡い紅色と空色の花を活けた、素焼きの花瓶。等間隔に置かれた生成の敷布の上にそれぞれに載せられた食器は、客用として滅多に使用されることなく大切に保管されている、金の翼の紋様入りの白い陶器だった。
部屋そのものが現在の三の巫女の就任に合わせて今風に改装されたものであり、古びた石造りの建物の内部とは思えないほど開放感にあふれたたたずまいを持っているのだが、それは壁に大きく取られた硝子張りの窓によるところが大きかった。白漆喰で塗りかためられた壁も、射し込んでくる陽光をやわらかく反射させている。まるで、部屋全体があわく輝いているように明るいのだ。
フィアナは、光につつまれたような食卓、そこに盛りつけられた朝食とは思えない料理を陶然と眺め、気の張る一仕事が待っていることも忘れてため息をついた。
その後、女官長の咳払いにあわてて我にかえり、歓迎の挨拶を述べた後、聖騎士とあたりさわりのない会話を二、三交わしたが、快晴の空のような瞳がどれだけ彼女に好意的な笑みを浮かべていても、見知らぬ人物との対話をそつなくすすめるような技術はやはりフィアナにはない。
花占の話が奇妙な経緯でボーヴィル師の懐に流れていってしまったあと、話の中心をひき戻そうと試みてはみたが、あまり熱心にではなかった。そのつたなさ加減にあきれ果てて、ボーヴィル師は助け船を出してくれたつもりなのかもしれない。
そのうち会話に加わることもほとんどなくなってしまったが、フィアナはかえってほっとしていた。
なんといっても、女官長に見守られながら不穏な会話を始めるよりも、食べることに専念できたほうが、ずっと気楽で心楽しいのだ。
ボーヴィル師がシャンシーラの枝の剪定から夏の害虫駆除について講釈を垂れている間、フィアナは肉と内臓をよせたプディングの濃厚な味を少しずつ堪能し、薄味仕立ての豆のスープの香りを楽しみながらスプーンにすくい、酢漬けの野菜をつまみながら、小ぶりのパンに黄色いバターの欠片をのばして、口一杯にほおばった。
なんという幸せ。
思えば、昨日あたふたと朝食をとってから、まともな食事をまったくしていなかったのだ、と気づく。
たしかに昨夜、パンがゆを一皿たいらげた記憶はいちおうある。しかし、あれはフィアナにとっては半分夢の中のできごとだった。
心の中で感涙にむせびながら、フィアナは奥の籠からもうひとつパンを手にとった。ふたつにちぎって、かぶりつく。
何気なくあげた視線が、部屋のむこうに静かにたたずむ黒い影をとらえたのは、たぶん偶然だ。
それまでだれもいないと思っていた場所に見知らぬ人物を発見して、フィアナは心底びっくりし、さらにその若者の黒い瞳が注視しているのが自分だという事実に気がつくまで、たっぷり一呼吸の間、パンをくわえたままで固まっていた。
腹から胸へ、そして顔へと、にわかに羞恥心がこみあげてくる。
すると、相手は何ごともなかったかのようにすっと視線を逸らした。
「フィアナさま、もうすこしきれいにお食べください」
たしなめる女官長の声音が耳元で響き、フィアナはそこでびくりとして自分を顧みた。
乱暴にちぎったパンのこまかな名残が服の上、食卓を問わず、あたり一面に散乱している。一心不乱に食べつづけていたために、作法がお留守になっていたらしい。
なにやら落ちつかない雰囲気にさりげなく周囲をうかがうと、ボーヴィル師が額に手を当てて背もたれにそっくりかえり、聖騎士は楽しげに湯気のたつ茶椀をかたむけているところだった。すでにふたりの前の皿はきれいさっぱりと空である。
「それでは、わしはそろそろおいとまするよ。弟子どもがサボらんように監督せねば」
腰をさすりながら立ち上がったボーヴィル師は、まずは女官長に礼を言うと、聖騎士には話ができて楽しかった、日が暮れてからならいつでも空いているから寄ってくれとのたまい、さらにふりかえると、懸命にパンくずを集めているフィアナにむかってつけ加えた。
「おまえさん、この間貸した、わしの大事な薬草収集用の袋をどうしたんだ。今すぐとは言わないが、ちゃんと返してくれよ。あれは実にいい案配にくたびれてきてるところなんだ。あそこまでするのにはけっこう時間がかかってるんだからな。それから」
と、今度はすまし顔でポットをかかえている侍女のほうをみると、
「おまえさんは巫女の風邪薬をとりにおいで。くしゃみで祈祷をしめくくられるのは、かなわん」
それじゃあ、久しぶりにうまい朝食をありがとうと片手をふって、ボーヴィル師はひょこひょこと部屋を去っていく。
その後ろ姿が扉の向こうに消えるか消えないかのうちに、女官長がかさねて侍女を呼んだ。
「ミア、お願いね」
え、なに、あたし? と突然の重複指名に驚いたミアは、命令にいつもとは違う雰囲気を察し、慌ててボーヴィル師の後を追いかけていった。
「さて、そろそろいいだろうか」
フィアナは、聖騎士の発した問いかけをぼんやりと聞き流しかけたところで、はたと、自分ひとりがいまだに食事をつづけていることに気がついた。
きまり悪くなって、慌てて手に残っていたパンを口のなかに押し込んでみる。女官長が警告する間もあらばこそ、である。
「カーティス卿、お話をどうぞ。とりあえずのお返事は私がさせていただきますから。フィアナさまは落ちついて」
真っ赤になって咳き込む巫女の背中をさすりながらの女官長の申し出に、聖騎士がうなずく気配があった。
深みのある声がいたわるように、すこしの苦笑をにじませて言葉をかけてくる。
「慌てなくていい。まず、必要なのは状況確認だから。去年の秋にお父上からの手紙は受け取っていると思うが、書かれていた話はきちんと理解していますね」
ようやくすこしだけ落ちついたフィアナは、横からあてがわれた椀を受け取って、口のなかに液体を流し込み、やっとのことでうなずいた。こうなってしまっては、笑顔で応対作戦はご破算にするしかないだろう。もともと成功しそうもないとは思っていたのだが。
「はい。去年の秋に、使者が運んできました。用件はあの……お兄さまの婚儀に参列するように、ということでした」
言いながら、フィアナは横目で女官長の様子をうかがった。
「――私にもそう読めました」
カーティス・レングラードはそうかとうなずくと、ひとつ呼吸を置いて、さらに慎重につづけた。
「そのことについて、エリディル側から何の返事も来ないとディアネイア候からうかがっているんだが、それについては?」
「知りません」
反射的に答えてしまったあとで、理由を求めて隣をふりかえる。
女官長は落ちつきはらっていた。
「その必要はないと神官長が判断されましたから。ええ、もちろん返事はしておりません」
「どうして」
「あまりにも非常識な内容だったからですよ。どんな理由があろうと在任中の巫女に神殿を離れることなど、望む方がおかしいのです」
宝玉の保持者である間、巫女は社会的には人間ではなくなる。俗世のつながりからは切り離され、たとえ身内の葬儀といえど、関わることはできなくなるのだ。事実、かつてディアネイアからフィアナの母親の死に際して出された帰還要請も、受け入れられることはなかった。そのときはまだ女官長となる以前のモード・シェルダインがなんとか帰郷させようと尽力してくれたのだが、それでも実現されなかったのだ。
なのに、今回の理由は兄の婚礼のためというのだから、神殿が馬鹿にされたと感じるのも無理はなかった。
しかし、
「返事くらい、出してくれてもいいじゃない」
それが、世間でいう礼儀というものではないのか。
女官長はかすかなため息とともに、その疑問に答える。
「書簡が真実ディアネイア候のものだと、確信できなかったのです」
書簡の内容に関する返信が、かえって相手を侮辱することになるのを危惧したということであるらしいが、ようするに、神殿側がディアネイア候の正気を疑ったということである。まともにむきあって、余計な言質を取られることを嫌ったのだと言い換えることもできる。
「けれど、それもディアネイア候にとっては、予想の範囲内のことだったのではありませんか。現に猊下から遣わされたという貴方が、ここにこうしていらっしゃる」
女官長が皮肉げに鳶色の眼をむけたのに、大神官の使者という役目をおびてやってきた聖騎士は重々しく同意してみせた。
「確かにそのようです」
「周囲の迷惑も考えていただきたいものですけれどね」
「なりふりかまってはいられないとき、というものは、あるものですよ」
フィアナは自分の頭越しにされる会話についてゆけない。
「あの、いったいなんの話をしているのか、ぜんぜんわからないんですけど」
上目づかいに見あげてくる空色の瞳の、不安と不満の入りまじったようすに、聖騎士は申し訳ないと笑いながら謝った。
「では、とりあえず、そのことは置いておいて。まずはディアネイアの事情をかいつまんで話しておくとしようか」