天空の翼 Chapter 1 [page 19] prevnext


19 聖騎士の思惑 女官長の懸念


 透明な日射しに照らされた食卓に、奇妙に間のあく沈黙がおりた。
 フィアナは、聖騎士のかけた問いがその声の力強い響きごと、ゆっくりと自分の身体にしみこんでいくのを感じていた。
 それは不思議な静寂だった。
 どこかはりつめて、息をころしたくなるような。
「どうした、六の巫女」
 聖騎士に促されて、フィアナは自分がぼんやりとしていることにようやく気がついた。
 返事を、しなくては。
 そう自分を叱咤したところで、フィアナの脳裏に一瞬まったく反対の思いがかすめたのは、なぜだったろう。
 この場でかるがるしく回答を出してしまったら、後悔しないだろうか。もっとじっくり考えて、それから返事をしても遅くはないのでは。
 相手はミアではない、聖騎士なのだから、口に出してしまった言葉は、撤回することができないのだ。
 だけど、この場で言わなかったとしたら、もう、伝える勇気は持てないかもしれない。
 フィアナは決意を固めて口をひらいた。
「私は――」
「フィアナさま、その先は、まだ言ってはなりません」
 するどい制止の声に、フィアナの思考は一瞬停止した。
 声のぬしはモード・シェルダイン女官長。ふくよかな、全体的にまるみをおびた身体を臙脂色の女官服で覆った女官長は、椅子の上でまっすぐに背筋を伸ばし、呆然とただ眼をまるくすることしかできないフィアナを見すえて言った。
「わかっております。しかし、ここは私におまかせくださいませ」
 なにがわかっているのか、そのこと自体には触れる気配もなく、かたわらからなだめるようにしてやさしく肩に触れてくる。
 ここにいたって、フィアナは、ようやくなにが起きつつあるのかを悟りはじめた。
 年かさの女官のあたたかな手の感触は、彼女のまとうお仕着せのスカートのざらついた手ざわりとともに、幼いフィアナのこころの拠り所だった。物心つくかつかないかのうちに母親と別れて生活することになったフィアナにとって、モード・シェルダインというひとは心にあいた大きな穴を埋めてくれ、ちいさな身体をつつみこんでくれる、かけがえのない存在だったのだ。
 しかし、いまのフィアナには、幼い頃には見えなかった女官長という人物の性格がわかりはじめている。女官長が自分の立場を超えることはない。フィアナの巫女という立場にそぐわぬ望みを肯んじることはないだろう。女官長は、不出来な巫女がものの弾みからとりかえしのつかない言質をあたえてしまうことを恐れていて、そして、それをできうるかぎり阻止しようと決意しているのにちがいないのだった。
 このままモードにこの場をとり仕切られたら、すべてがふり出しに戻ってしまうかもしれない。
「モード、私は――」
 神殿を出たいかと問われたら、否と答える気はないのだと、フィアナはそれだけは主張したかった。けれどすぐに聖騎士への回答を出しておかなかったためか、手のぬくもりに気持ちが萎えてしまったためなのか。フィアナにさきほどの勢いが戻ってくることはもうなかった。
「いいから、あなたはしばらく黙っていてください」
 理不尽な命令にフィアナは硬直した。
 幼い頃からの積み重ねがそうさせているのだろうか。女官長の存在感に圧倒されて、なにも言えなくなる。
 まなざしと言葉で厳重にフィアナを縛りつけてしまうと、女官長は聖騎士へと矛先を変えた。
「カーティス卿。お話はそれでおしまいでしょうか」
 女官長は一見穏やかでありながら鋼の意思をかいまみせるいつもの物腰で、少し低めのやわらかな声を響かせた。フィアナにはその口調が、ちょうど〈下僕〉たちに作業の手順を指図するときとおなじにように聞こえている。
「言われたことはよくわかりました。たしかに、黙って聞くだけの価値のあるお話でしたわ。たいそう重大なご用件ですから、こちらからの返事もよくよく慎重にいたすべきかと考えます。おそらく、ダーネイ神官長もそう申し上げたのだと推測いたしますが……」
「そのとおりです。さきほども言いましたが、回答は今日の午後ということに」
 カーティス・レングラードが、これまでよりはあきらかに慎重な面持ちで同意するのに、女官長はおもおもしくうなずいた。
「それではこれから巫女とも相談をして、私どもの考えは神官長にお伝えしようかと存じます。とはいえ、カーティス卿。私にはまだ、判断の材料とするべきすべてが出そろったようには思えないのです。あなたはまだ、言うべき何事かを、そのふところの内に残されているような気がいたしますわ」
 いかがです、としずかに視線をむけられて、聖騎士は一瞬沈黙した。
 さらに、聖騎士が口をひらこうとするまえに、まるで、事情はわかっているといわんばかりの微苦笑を口元に佩いて、女官長は言った。
「おそらく、あなたはその事柄を、あまりお話しになりたくはないのでしょうね」
「いや、そういうわけではないのだが」
 聖騎士は、やや居心地悪そうに髪をかきあげながら、肩を揺すった。そのしぶしぶといったようすが、女官長の言葉を肯定したのとほぼ等しい印象をあたえることは言うまでもなかった。
「それでは、私から質問したらその事柄に関してお答えいただけますでしょうか」
「それはむろん。可能な範囲で誠心誠意、つとめますよ」
「可能な範囲で、なのですね。知りうる範囲ではなく」
 聖騎士はただ笑ってみせた。
 女官長も笑みをかえす。
 フィアナは、ふたりのやりとりを身を縮めて見まもるばかりになってしまった。口を挟もうにも、このふたりを相手に渡り合うにはすでに気力が萎えすぎている。少し落ち着かなくては。そう思うと、急に喉が渇いた気がした。フィアナはそろそろと茶碗に手をかけた。
 おたがいに微笑んだまま、相手の出方を待つだけの時がしばし過ぎた。
 聖騎士の余裕があるのかないのか判別しがたい笑顔と対峙しつづけた女官長は、このままではらちがあかないと判断したらしい。
 それでは、と、一転して核心を突いてきた。
「私がお聞きしたいのは、猊下の要請に応じて神殿を出ることを承諾した場合、その後フィアナさまがどのようなことを要求されるのか……つまり、お言葉にならえば、巫女を降りるための試練とやらの内容ですわね。そのことについては、ぜひ、詳しくお教えいただきたいと思います。カーティス卿。あなたは、フィアナさまをどちらへ連れてゆかれるおつもりなのですか?」


 女官長の言葉は、フィアナの盲点を突いた。
 たしかに、実家の状況や大神官の言葉は重要だが、申し出を受けたとして、それから自分はなにを求められることになるのか、ということをフィアナはまったく考えのうちに入れていなかった。これまで知らなかった事柄をずいぶんいろいろと聞かされたものだから、頭が飽和状態に達していたのだろう。
 ところが、聖騎士はあきらかにこの問いを予想していたものらしかった。
 驚いたようすもなく広い肩をすくめると、やれやれと言いたげにため息をついてみせる。
「……そんなことを知っても、何の得にもならないんだが」
「それはこちらで判断いたします」
 女官長の声にかすかな刺が混じったのに、
「いや、いや。じつのところ私も女官長どのの意見には賛成です。巫女にはもちろん、自分になにが求められるのかを知る権利がある。しかし……」
 とりつくろうように自分の言葉をうち消したのち、聖騎士は顎に手を当てていったん視線を落とすと、ふむとうなずいた。
「まあ、いい。お答えしましょう。ただし、現時点において私にゆるされる範囲で、ということになりますが」
 それでよろしいか、と問われた女官長はあきらかに不満そうだったが、とりあえずようすをみることにしたらしい。同意した。
 ではと、聖騎士は両手を前で組み合わせた。
「六の巫女がこの件を諾ったら、われわれはまず、まっすぐにアーダナをめざすことになります」
「まず、ですか」
「そう。まず、です。アーダナ大神殿では、大神官猊下が巫女を迎え入れてくださるでしょう。猊下はこの件に最大級の関心を持っておいでですから、巫女にはじきじきに詳しい指図がくだされることになると思われます」
「それから?」
 聖騎士の青い眼がゆっくりとまばたいた。
「私に話せるのは、そこまでです」
 女官長は笑ったが、それはもちろん、承諾を意味するものではない。
「それではなんにも言っていないのと同じではありませんか。もっと具体的に、わかりやすく説明していただきたいものですわ」
 やわらかな物言いとは裏腹に、女官長は鋭い視線を文字通り突き刺さんばかりに抗議をする。しかし、相手が泣いて逃げ出したことがあるとも噂される女官長の一瞥も、今回ばかりは相手になんの痛痒もあたえなかった。
「すまないが」
 聖騎士は、それ以上の説明をきっぱり断った。
 フィアナは、なぜ自分のゆびは震えているのかと不思議に思いながら、かたかたと音をさせて茶碗を手にとる。ふたたび香草茶を口に含んだ。
「その言われようはあまりにもこちらをかろんじておいでのようで不快です。これではまるで脅しではありませんか。フィアナさまに、巫女をやめさせてやるから、そのかわりに何でもいうことを聞けというのですか」
 女官長の表情は、いまやはっきりと苛立ちのくみとれるものへと変化していた。
「そういうつもりはないのですが。このあとのことは、巫女がわれわれに同行することが事実として確認されたのちにお話しするようにと命じられているのです」
 聖騎士は、余裕を持って茶を一口飲み下した。
 口調がほんのわずかにあらたまる。
「考えてもみてください。この試みに必要とされるのは、並大抵の医術やまじないなどのちからではありません。知りうる限りの方法は、もちろんエリディルの方々も試してごらんになったことでしょう。そして、不可能という結論に達した。ということはだ――おわかりにならないだろうか。猊下は方法はあるといわれたが、それはとりもなおさず、いまは不可能とみなされる事柄を実現する、ある奇跡的な力を手にしている、あるいは利用することが可能だと、公言したようなものなのですよ」
 並はずれた力というものがどれほどそれを持たざるものの羨望と嫉妬をかきたてるか、そして欲望にかられた持たざるものがその結果として深刻な状況をひきおこす可能性をどれほどはらんでいるかを想像することは、神殿に籍を置き、すこしでも歴史を学んだものであれば難しいことではない。
 いにしえびとはすでに地上には存在しない――かすかに残る遺跡と土地の言い伝え以外の痕跡はほぼ絶えた。しかしかれらは、人間よりもすぐれた力を身にそなえた、神々の末裔ではなかっただろうか。
「たしかに猊下はその、いってみれば奇跡ともいえる力をあてにすることのできる立場に、現在おいでになる。そしてそれを六の巫女のために行使される意思をしめされた。だが、この力に何かをゆだねるのは一度きりのことにしたいというのが、賢明なる猊下のお考えだ。ゆえに、ことはできるかぎり表沙汰を避けて、極秘のうちに運びたいのです。女官長もご存知とは思うが、哀しいかな、猊下には敵が多い」
 予想を超えて大げさになってゆく話にフィアナはこんどこそ言葉を失ったが、聖騎士の表情はこれまでにもまして朗らかで、むしろ冗談めかしているといってもよいほどだった。とてもそんな重大事項について話しているような雰囲気ではない。
 しかしフィアナには、どうしてか、聖騎士が真剣に話をしていることがつたわってくるのだった。カーティス・レングラードはふざけているわけではなかった。ただ、この状況を度を超しておもしろがっているのではないと、言い切ることはできなかったが。
「それとこれとは……問題が違います」
 たまりかねて女官長がはさみかけた異議申し立ても、なんの役にも立たない。
 口調はかわらず楽しげですらあったが、カーティス・レングラードの青い瞳は、いまや侮ることのできない意思の輝きを宿していた。
「たしかにあなた方にとっては大陸の平和は遠いことなのかもしれない。たしかにここは都とは時間の流れ方が異なっているような気がするし、神々の残された息吹をいまだに享受しているようにも見える。しかし、だからといって中央の情勢に無関係というわけではない。現に、神殿の上層部はみなアーダナから派遣されてきた人物だ。女官長、あなたもたしか都のご出身だったはずですね」
 この指摘に、女官長は眼をみはり、ついで身構えるようにして沈黙で答えた。
「しかし、おっしゃる通り、これらはすべてこちらの都合だ。巫女にとっては不公平なとりひきだということを認めるにやぶさかではありません。それに神殿はなによりも宝玉の安定を願っているが、六の巫女の場合は通常の譲渡とはことなる方法をとるわけだから、不確定要素が多いのは確かです。巫女や宝玉がどんな影響を受けるかはだれにもわからない。つまり、六の巫女にも宝玉にとってもこれは賭けだ。得られるのは自由。代償は、たんなる時間と体力で終わるのかもしれないし、もしかすると支払い不能なまでに巨大なものになるかもしれない。それは誰にもわからないことだ」
 聞きようによっては無責任ともとれる言葉をあっさりと口にして、ついににやりと笑った聖騎士は、押し黙ったまま事態を見まもっていたフィアナへと、唐突にまなざしをうつしてきた。
 青い瞳が朗らかに笑いかけてくる。
「というわけだから、六の巫女。あなたにいますぐに回答をしろとは言わない。たしかに、われわれには立場というものがある。大神官の意向を実現するという立場がね。だが、あなたの考えを無視してまでとは思っていない。だから、このことをよく考えて、納得のいくようにして欲しい。答えは必ずしも私につたえる必要はない。もしもあなたが変化を望まず、巫女としてのつとめを最後までまっとうするつもりであるのなら。だが、別の道に賭けてみる気があるのであれば――われわれは、あなたの味方になれるかもしれない」
「味方……」
 思わずつぶやいたフィアナにうなずくと、聖騎士は、ようやくおまえの出番だと背後に控えていた人物を手招きして呼び寄せた。
 音もなく歩み寄ってきた黒髪の若者は、カーティスの隣ですっと立ち止まり、フィアナに無言の視線をむける。
 聖騎士は言った。
「私と、この私の従者とが、いかなる困難からもフィアナ・ディアネイアの意思と健康を護る。それがわれわれが大神官より命じられた、もっとも重要なつとめである。できるなら、われわれに任務を果たす機会をあたえてほしい」


 大柄でたくましい金髪の聖騎士と、ひとまわり小柄なその従者を前にして、フィアナは思わずすがるように手を伸ばした。
 小刻みにふるえるゆびに触れたのは、茶碗だった。中身は空だったが、それは彼女がしばらく茶ばかり飲みつづけていたからだった。
 無意識にしていたこととはいえ、フィアナはすっかり茶腹になっていた。すくなくとも胃の三分の二まで、下手をすると喉元まで、たぷたぷと音を立てて香草茶がたゆたっているような心地がする。
 というわけだから、聖騎士とその連れが応接室を去ったのち、女官長から、
「お飲みになりますか」
 と尋ねられたときには、おもわず喉から奇妙な音を発してしまった。
「――かんべんして」
 腕を投げ出して食卓に突っ伏すと、女官長はかるく咎めるように鼻を鳴らした。それならば自分が飲むからいいと言う。
 女官長はとくに念入りに手順を踏んだあとで、ポットから緑がかった透明な液体を陶器の碗に注いだ。
 過剰なまでの丁寧さは、女官長が苛立っているときのしるしである。
 部屋には湯気とともに香草茶の香りがひろがったが、それも女官長の発するささくれた空気を和らげるまでには至らない。
「フィアナさま」
 これからはじまるのが愉快な話し合いではないことを暗示する、重々しくも硬い声に呼びかけられて、しぶしぶとフィアナは顔をあげた。
「あなたは、カーティス卿の言われたことを、真に受けてはいらっしゃらないでしょうね」
 そんなことを聞かれても困る、とフィアナは思った。
 あれが本当に本当の真実の話なのかと、問いただしたいのはこちらのほうなのだ。
 押し出しのよい外見と爽やかな笑顔と、よく響く声とよどみのない言葉によって目の前にさし出されたのは、夢かと思うほど聞き心地のよい、ひどくうさんくさげでなおかつ意味不明に壮大な話だった。
 カーティス・レングラードがアーダナの聖騎士であり、大神官からの使者であるという事実がなければ、眉唾物の騙りとして切って捨てるのになんの未練も感じたりしないのだが。
 フィアナは手の中の小さな箱をもてあそびながら、気のない返事をした。
「受けるも受けないも……」
 たぶん、五年前の彼女でも、あれだけはぐらかされれば相手に対する疑いを抱いたにちがいない。
「あの方の話は信用なりません。まったく、お話にならないわ」
 大神官の使者だというから礼節をもって応対しているというのに、あの態度はなんなのだと、普段の抑制された物腰からすると考えられないほど、女官長は憤りをあらわにしていた。聖騎士にあしらわれてしまったのが、よほどしゃくに障っているのだろう。
 フィアナは、女官長が愚痴を鳩のえさのようにその場にまき散らしてゆくのを、ぼんやりと聞き流していた。
 精緻な浮き彫り文様のほどこされた木製の小箱には、なにかが入っているようなのだが、ふってみても音はしない。詰め物でもされているのだろうか。
「いったい、猊下はどういうお考えでカーティス卿をお選びになったのでしょう。あの方は使者の役割を担うにはまだ若すぎます。まさか、使者という事実そのものが騙りだなんてことはないでしょうね」
「それはないんじゃないの。フェルグス卿が保証しているんだし」
「正規の書簡も、持参していなかったという話ですよ」
「でも、聖騎士なのは確かだわ。それに……」
 あのひとは、母親と血がつながっているのだと、フィアナは思いかえした。残念ながら、母の記憶といえるものはなにひとつないので、比較することはできないが。
 箱に刻まれた首長の水鳥は、ディアネイアの紋章だ。
 聖騎士が箱を差し出してきたとき、フィアナはしばらく迷った。姉からの言づけだといわれなかったら、受けとる気持ちにならなかったかもしれない。
 聖騎士の手の上ではほんとうにちいさく思えた箱だったのに、こうして自分の手にあるとそれほどでもないのが、なんとなくおかしい気がする。
「――フィアナさま」
 女官長の気配がさらに尖り出したのに気づいて、フィアナは意識を箱からとなりの人物へと戻した。
「あのお話、私からお断りしておきましょうね。フィアナさまはもう、カーティス卿とじかにお話はなさらない方がよろしいでしょう。あの方も、返事は期待していないようなことを言っておいででしたけれど、ほったらかしというわけにもいかないでしょうから」
 やっぱり、とフィアナは手元に視線を落としてつかれた気分で考えた。
 女官長は、聖騎士への怒りにまぎれて最初の懸念を忘れ去ったわけではなかったのだ。
 気分は重かったが、それにもまして、さきまわりをするように自分の行動を規定されてしまうことへのいらだちがつよかった。さっきの命令に傷つけられたと感じているフィアナは、ためらいながらも抗議を口にする。
「ねえ、モード。私はもう子供じゃないのよ。代弁者はいらないわ。それにもう、何も言うななんて命令しないでほしいの」
 遠慮しながら言ったはずなのに、出てきた声は思った以上につっけんどんに響いてしまった。こんな気分で口にするのはまずかったかもしれないと後悔したが、もう遅い。
 女官長の顔がこわばっていくのに、フィアナは内心うろたえた。
 雰囲気をやわらげなければと微笑んでみせようとしたものの、フィアナの顔の筋肉ときたらすっかり硬直して役に立たない。
「フィアナさま、いま、なんとおっしゃいましたか」
 驚いて訊ね返してくる女官長に、フィアナは弁解する。
「ごめんなさい。でも、モードがいけないのよ。カーティス卿の前で、話すななんて言うんだもの。わたし、びっくりして――」
 今度こそ、むりやり笑ってみせた。
 だが、努力は報われたとはいえなかった。
 気まずい沈黙がつづいて、フィアナは胸元の金鎖に手をのばした。
「――そんなに、外へ出てゆかれたいのですか」
 女官長の声は、おそろしく静かにはりつめていた。
「それほどまでにここから……エリディルから出てゆきたいと思っておいでなのですか」
 フィアナは息をついた。嘘をつくこともできたが、意味がないような気がして肯定する。
「……そうよ。あのときの言葉が、私のいつわりのない気持ち。私はここにいても何の役にも立たないから」
「そんなことはございません。フィアナさまは立派に宝玉の巫女でいらっしゃいます」
 抗議の言葉は意外なほど真剣に響いた。まるで女官長自身が、そのことを心底信じているかと思うほどだ。
 だが、それこそ、フィアナにとっては真に受けることのできない冗談だった。
「いまさら、そんなに持ち上げてくれなくてもいいわよ。私には巫女らしいことはなんにもできない、ただの六の巫女以下だってことは、モードがいちばんよく知っていることじゃない。私はちゃんとした巫女になることはあきらめたの。だってぜんぜん向いてないみたいだから」
 自嘲の笑いが思わず浮かんでしまう。
「ねえ、宝玉は私にとってはここにあるだけのものよ。私にとっても宝玉にとっても、この十四年は何の意味もない時間だったのだと思う」
 女官長はさらに否定した。
「いいえ。私はそうは思いません。意味がないわけではない。意味はきちんと存在しています。神の宝玉はフィアナさまを選ばれたのです。そこにはかならず神のご意志があるはずです。それに、フィアナさまは、きちんとおつとめを果たされておいでです」
「どうやって?」
 フィアナは苛立たしげに聞き返した。
「私はなんにもできないのよ、宝玉に関しては。クレアデールどころか、ちょっと勘のいい村娘にも劣るのよ。みんな私が失敗するたびにがっかりしているじゃない。その私がいつまでも巫女である意味って、いったいなんなの」
 モード・シェルダインはフィアナの疑問には直接答えなかった。代わりに、村人たちに神の恩寵について教え諭す神官めいた口調になって、おごそかに宝玉の尊さについての話をしはじめる。
「フィアナさま、宝玉は神殿にあるべきものです。神殿の護りのもとに厳重に保護されるべきものなのです。あなたは外の世界のことを何一つご存じない。カーティス卿の言われる猊下の御力とやらがいかほどのものかは存じあげませんが、宝玉はこの世のすべてを凌ぐもの、神の力を秘めた唯一の聖なる禁忌です。確保すべきなのは、宝玉の平穏について、それを預かる巫女の身の安全についてであるべきで、ありもしない奇跡のちからを秘匿するために巫女の身を危険にさらそうなど、本末転倒としか申せません」
 モードの言葉はいつでも正しかった。だから、今度もきっと正しいのだろう。
 だが、正しいからといってそれがすべてに最善というものではない。そんなことはフィアナよりもよく知っているはずのモードが、なぜこのことに関してのみ正論に固執するのか、フィアナには理解できない。
 おもわず反論した。
「本当の巫女なら守る価値もあるし、いる意義もあると思うわよ。でも、私はちがう。なぜ、モードは私を神殿に閉じ込めたいと思うの。私はここでは役立たずの巫女以外の何者にもなれないのよ」
 自分の言葉のあまりにも痛々しく聞こえるのにフィアナは驚いた。胸の奥でわだかまっていた思いは、言葉にするとこんなに卑屈で醜く、あわれなものだったのか。それを自覚するとさらに抑制がきかなくなる感じがした。
 女官長の傷ついたように見返してくる鳶色の瞳に、責められているような気持ちになる。
 わかっているのだ。フィアナが巫女として不出来なのは、女官長の責任ではない。
「もういい。この話はもうやめましょう」
 いたたまれなくなったフィアナは、席を立とうとした。座り心地のよかったはずの椅子が、悲鳴のような音を立てる。
 内心をぶちまけたところで、状況は変わらないのだから何の意味もない。意味がないどころか、女官長との間に修復不可能な感情的な溝が生まれてしまうかもしれない。それは嫌だった。フィアナは、女官長と仲違いしたいわけではない。
「フィアナさま」
 手首をとらえて見あげてくるモード・シェルダインの年月を刻んだ顔は、ほとんど悲痛なまでのなにかをたたえていた。知らないうちに冷たくなっていたフィアナの右手が、肉づきのよい両手でつよくつつみこまれる。
 あたたかかった。
「お願いです、信じてくださいませ。あなたは役に立たない巫女などではない。嘘ではありません。あなたにはここに――エリディルにいる意味があるし、権利もあります」
 その訴えには、巫女としての自分に心底愛想を尽かしているフィアナですら、心をうごかされるなにかがあった。
 女官長は、なにかをつたえたがっていた。
 だが、フィアナにはそのなにかが、わからない。
「――ごめんなさい。モードが真剣に言っていることはわかるけど……その話、私には信じられない」
 手をふりはらうと、フィアナはその場から逃げ出すように部屋を出た。


 朝食後の会談を終えて屋外へ出てみると、すでに太陽は中天へと達しつつあった。
 満腹になったら眠くなったという聖騎士は、中庭の中央に立って両腕を空へと突き上げると日射しを浴びながら、ああ、と大きく伸びをした。
 そして、花びらまじりの心地よい風に向かって胸を張ったまま、意味不明のなにごとかをあたかも歓喜の言葉であるかのように叫んでみせる。
 声に驚いて、石畳を徘徊していた数羽の鳩たちが飛び立っていくのにはおかまいなしだった。
「さあ、これで餌は撒き終えた。あとは野となれ、山となれ、だな」
 気持ち良さそうに全身を伸ばしおえたカーティスは、満ち足りた笑顔を浮かべてふりかえった。
 神殿の主要な三つの建築物を繋ぐ屋根のある渡り廊下、その石柱と手すりの影でひっそりとたたずんで、黒髪の従者は遠ざかる羽ばたきにつられたように空を仰いでいた。
「なんだ、従者ルーク。なにかいいものでも見えるのか」
「見えるものはない――だが、突然あわただしくなった」
 いまはたしかに空を見ているはずの闇の瞳の持ち主は、ときにこうしてひとがまったく気づかない周囲のことにさらりと言及する癖があった。
 その角度で、どうしてそれがわかるのだと思いつつ、いわれてみれば、聖堂付近に朝方の静けさはどこにもなかった。そればかりか鎧戸を開け放ったあちこちの窓からは青鈍色の長衣姿が頻繁に見え隠れしたり、切羽詰まったような叱責の声が飛び交ったりしている。
「神官たちか。ここではいつもこうなのか」
 朝一番に掃き清められたはずの聖堂のまわりには、すでに白い花びらが点々と散っている。腰に手を当てて周囲を見まわしていたカーティスは、向こう側の回廊にひとりの神官が両手で分厚い羊皮紙の束を抱えてかけてゆく姿を発見した。たしか、あの先にあるのは神官長の執務室だったはずだ。そして、おもに騒がしいのは、聖堂をはさんで反対側に位置する神官たちの領域であるらしい。とはいえ、守備隊や騎士団のような武人たちの領域では普段からもっとわさわさとしているのが普通なのであるが。
「……なにかあったのかもしれないな――それにしても」
 カーティスは、聖堂からさまざまな建物を経由し、守備隊の宿舎へと傾斜を下ってつづく、ごちゃごちゃとしてはいるが陽光に陰影あふれる石造りの城壁内の風景を眺めおろして、つくづくと思ったらしい。
 この神殿は、ほんとうに変わった建てられ方をしている。
「気づいたか、年代の違ういくつもの建物のなかでもっとも古いのが鐘楼と、それに付随する城郭部分だ。そして、もっとも新しい部類に入るのが聖堂。しかし、どうしてだろう。城郭部分が初めから聖堂を護るために建てられたように見えるんだよ」
 現在、聖堂のある場所には、もともと護るべき何かが存在していたのかもしれない。
 いきなりそんなことを言い出す聖騎士に、ルークはすこしばかり感心する。いや、感心するというより、呆れている。
 ルークはさきほどから、この任務の行く末に、かすかな懸念を抱いていた。
 かれには、先ほどの六の巫女との会見が、けして上首尾に終わったものとは受け止められなかったのだ。
 あんなふうに理屈をこねて返答をごまかされれば、だれだって相手に不信感を抱かずにはいられないだろう。現に、六の巫女の繊細な眉はひそめられたまま、ついに最後までほとんど口をきくことがなかった。
 おそらく、六の巫女は、当初の気持ちをひるがえしてしまっていることだろう。
 たとえ変わらずに神殿を出る気でいるとしても、素直にカーティスの言うことを信じようという気持ちには、なってくれないのではないだろうか。
 たしかに交渉ごとはカーティスの管轄であって、ルークはそれを端から見ているだけの観察者に過ぎない。どれほど念入りに指南されたところで、女官長のような人物を相手にしてのあんな芸当は、馬とすら満足に意思疎通の図れないルークには逆立ちしても不可能だろう。
 だが、背後からずっと見ているうちに、ルークはカーティスに対していくつかの印象をいだくようになっていた。そのひとつが、カーティス・レングラードという男は相手を翻弄することを少し面白がりすぎているのではないか、という疑惑だ。
 さきほどの会見を、カーティス・レングラードは不謹慎なまでに楽しんでいた。しかし、相手もそうだと思うのは、どうだろう。
 だが、ルーク自身は、そんな思いを表立って口にするわけではない。自分の領域外にそれほど関心のあるわけではないかれは、聖騎士のくったくのないようすにこの懸念はささいな問題にすぎないのだろうと、推測するだけである。
 現実に聖騎士は、まあ、みていろと笑い、応接室から六の巫女が出てくるのを待つように言うだけだった。
 そして、よくわかりもしない神殿の由来について、ルークには意味不明のことを懲りもせずに語りかけてくる。
「ここの聖堂のあちこちに見受けられる意匠も、アーダナのものとはまったく異なっている。もしかすると、土地の言い伝えも馬鹿にしたものではないのかもしれないな」
 石柱の腹にきざまれた飾り文様のあとをゆびでたどって考え込んでいる聖騎士は、ときに時間を忘れて山中の遺跡を歩き回っていたかつてのあるじをルークに思い起こさせた。してみると、この主従、外見的には著しくかけ離れてはいるものの、案外似たところがあるのかもしれない。
 しばらくして、相手が話をまったく聞いていないことにようやく気づいたのか、カーティスは唐突に話題を変えた。
「そういえばおまえ、ちゃんと剣の練習はしたんだろうな。早く慣れてくれないと得物が渡せないぞ」
「やっているが」
「なんだ、その嫌々ながらの返事は」
 騎士がなんのために長剣を持つか、わかっているのか――カーティスがそういいかけたところで、背後で扉のひらく音がした。
 応接室の重厚な扉のわずかな隙間から、ただびとと変わらぬ地味な普段着をまとった、六の巫女の小柄な身体がすべり出てくる。前方の建物の落とす陰に入っていてわかりにくいが、どうやらあまり顔色がよくないようだ。
 後ろ手に扉を閉ざした巫女は、そのまま身を後ろに預けてかすかに顔をうつむけた。かと思うと気配に気づいたのだろうか、あわい金髪にふちどられた小さなしろい顔が、つとこちらをふりかえる。
 だが、それも一瞬だった。
 巫女は聖騎士の姿を確かにみとめたが、なにも言わず、会釈をよこすこともなく、ふいと顔をそむけてその場から離れていった。
 ルークは巫女が瞳に浮かべたつよい感情に気圧されたまま、呆然と後ろ姿を見送った。かるい足音は、石の廊下を次第に遠ざかってゆく。
 風になびく金の髪が石柱と建物の間に完全にきえてしまったところで、ルークは思い出したように隣の反応をうかがってみる。
 カーティス・レングラードの意見は、明確だった。
「なにをしてる。女の子が泣いてるのをほうっておくのか。追いかけろ」



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