天空の翼 Chapter 1 [page 20] prevnext


20 風の予感


 あの小柄な巫女の脚が自分より速いはずはない。
 ということは、どこかで道を違えたのだろうか。
 ルークは、エリディルの石造りの建物のあいだにはりめぐらされた路の途中で立ち止まり、いくつかの薄暗い石壁に仕切られた通りを見くらべた。
 聖騎士はかれに、六の巫女を安全にしかるべき場所へと連れて行くように命じた。しかし、ルークは一度石柱の合間に見失った金髪の巫女の姿を、いまだにとらえることができずにいる。
 つめたい風は狭い路地を窮屈そうに流れてくるが、そこに存在を嗅ぎとることが可能なほど、かれはまだ六の巫女という人物を知ってはいない。
 仕方がないので次善の策をとることにする。
 ルークは最近このあたりを通った人間の気配をつかまえ、その軌跡をたぐるように歩き出した。
 同時に、昨日鐘楼から見下ろした城壁内部の位置関係を、脳裏に再現してみる。
 どうやら、いまつかんでいる気配は、城壁内にいくつかある生活動線をはずれた、ひとけのない方向へとむかっているようである。
 しばらくそのまま薄暗い路地を進むうちに、とぎれた建物の間から、陽光の射しこむ空間に出た。
 日溜まりの中には、石壁の上に葺かれた急傾斜のさしかけ屋根と、地面を掘って半地下にしつらえられた幅のある大きな出入り口があった。開け放たれた木製の戸からかすかに漂ってくるのは、滋養のあるものを煮立てるときにたちのぼる、あの空腹をくすぐる匂いだ。日向と日影とにくっきりと分かれた石畳にはところどころに野菜くずが落ちていて、それをめあてに群れていた数羽の鳩が、侵入者の気配に気づくとめんどくさそうに移動していった。
 そのかたわらに、木箱に腰をかけて、いっしんに根野菜の皮むきをしている女がいた。
 頭を白い布で覆った女は、鳩の羽ばたく音におもむろに顔をあげてルークを見た。
「すまないが、六の巫女を見なかったか」
 問いかけるルークを足先から顔まで冷静に検分したのち、女はとぼけたような声音でこう答えた。
「半欠け巫女なら、たしかにここを通ったな」
 そして、耳慣れない呼び方に戸惑うルークにはかまわず、
「あっちだ」
 と、右手のナイフを無造作にふりかざした。
 手入れのゆきとどいた刃物の切っ先は、きらりと陽光を反射して、おそらく右側の道をさし示している。
 ルークが礼を言うと、女はさっさと行けとばかりに手を払った。
 釈然としないまま、それでも教わった通りをしばらく行くと、敷石が欠け、でこぼこと浮きあがった石畳の上に、箱がひとつ落ちていた。
 その小さな細工物の宝石箱は、ルークが長い旅の間ずっと鞍袋の中にひそませ、慎重に運んできたものに違いなかった。聖騎士がうやうやしげに六の巫女に手渡したのを、ついさきほどたしかに確認したはずだったのだが、なぜここにあるのだろう。
 箱をひろいあげると、懐にしまい込んで、周囲を見渡した。
 あいかわらず、黒ずんだ石壁が両側から迫る窮屈な場所である。青空は見えるが、井戸の底から仰いでいるようで、それはいつも見ている空よりもはるかに遠いものに感じられた。
 見通しの悪さに思いあまったあげく、ルークは崩れかけた石塀を足がかりにしてつたいのぼり、背の高い建物の屋根に這いあがってみた。
 瓦屋根の上を足場に注意しつつ移動して、周囲を見通せる場所を探すと、もういちどあたりを仔細に眺めてみる。
 視点が高くなっただけで、世界は一変した。
 かれを阻んでいた石の迷宮は足下に沈み、かわりに瓦の葺かれた屋根屋根が、小さな丘の連なりのようにひろがっていた。惜しみなく降りそそぐ陽光。いまでは見渡すかぎりのすべてが、光によってふちどられていた。高い空を鳥の影がよこぎり、遠ざかってゆく。
 つめたい風を頬に受け、かすかに眼をほそめながらルークは考える。
 エリディルが、かくれんぼに最適な場所であることは、よくわかったと。
 聖堂のある中心の区画をでると、そこには入り組んだ街路の迷路がある。侵入者の混乱を誘うために、計画的に建てられたものなのなのかもしれない。ルークはその罠にはまってしまっていたのだ。しかし、上から見おろすことができれば、この罠は無効となる。
 城壁内のすべてを探索の範囲とするために、ルークは目の焦点を固定するのをやめた。視覚によって枷をはめられていた意識が急激に拡散する。すると、ひろがった意識の隅を、金髪の陽光に反射したような輝きがかすめてゆくのに気がついた。
 すぐさまその位置を分析し、移動を開始する。
 六の巫女は、北の城壁沿いの路地をかれに背を向けるようにして歩いていた。
 ある程度距離を詰めたところで屋根の上に足を止め、まだ遠い小さな後ろ姿を観察する。
 じつはルークは、初めて六の巫女と遭遇したときの出来事に(頬をいきなり叩かれたことも含めて)、いまだに納得いくような解釈をほどこせずにいた。
 どうやら、六の巫女があのときのことをまるで覚えていないらしい、というのも釈然としない事実のひとつであったが、疑問というならばもうひとつ存在する。
 あのとき襲われた、肌のあわ立つような感覚はなんだったのか、という疑問だ。
 あれから六の巫女とは幾度か接触する機会があった。しかし、聖騎士ならともかく、従者であるルークが個人的な疑問を問いただせるような状況になるはずもなく、どうかするとそこでまたかれの困惑を深めるような出来事が起きた。
 そんなことが積み重なったせいだろうか。六の巫女はルークにとって、あまり近寄りたくない存在へと変化している。
 無論、かれだって任務はきちんと果たさねばならないと考えてはいる。
 しかし同時に、かれの内の本能に近い部分は、あの巫女に必要以上にかかわってはいけないと警告していた。
 とくに、六の巫女の〈声〉の響きがひどく油断のならないものであることは、すでにうごかすことのできぬ事実だった。
 あの声を耳にすると、なにかが狂うのだ。
 居心地のよい暗闇からひきずりだされて、白日の下に自分のすべてがさらけだされてしまう。そんな根拠のない予感に、身体がすくんで硬くなるのがわかる。
 ――泣いてる女の子を、放っておくのか。
 カーティス・レングラードの言葉を思い出して、ルークはかすかに眉根を寄せた。
 六の巫女はほんとうに、泣いているのだろうか。
 泣いているとしたら、かれはそこでいったい、なにをすればいいのだろう。
 具体的な指示を仰ぐことを忘れた自分も悪いが、成果を期待するならばもうすこし説明が必要ではないのか。
 さらに聖騎士は“泣いている”という言葉をことさらに強調したが、その理由がよくわからない。
 聖騎士にとっての自明の論理が、ルークの理解可能な範囲を超えていると感じるのはこういう時である。
 屋根の上で逡巡している間に、六の巫女は城壁沿いに歩くのを止め、そこに付設された階段を上りはじめていた。
 足取りは速くない。速くないというより、はっきりいって鈍足である。
 ふいに吹きつけた風にあおられてよろめき、手すりにすがりつく姿を見て、ルークは最初の出会いを思い出し、腰をあげかけた。
 巫女はそこでなぜだか、ぱたりとうごきを止めた。
 すでに三分の二以上のぼっていた階段のさらに上を見あげ、足元を見おろし、それからさらに鉄の手すりから乗り出すようにして、段の下方をのぞき込む。
(いったい、なにをしているんだ?)
 そうこうするうちに巫女はあわてて石段を駆け下りはじめた。足元をろくに確かめもせずに飛び降りているようだったが、そのようすは危なっかしいの一言につきた。
 いまにも足を滑らせて転がり落ちそうな気配に、ルークは今度こそ腰をあげる。
 周囲に見ているものがいないことを確かめたのち、用心のために上体を低くして、屋根づたいにするすると移動を開始する。
 屋根は石畳以上に手入れがいい加減で、ところどころで瓦が剥がれたりずれたりしていた。鳩の御徴も地上の倍ほどみとめられたが、どこへたどり着くかわからない路地を行くよりはずっと効率がいいはずである。
 たいした支障もなく六の巫女がいるはずの区画にたどりつくと、ルークは石畳の上に危なげなく着地した。
 めざす階段は斜め前方だ。
 そのまま立ちあがり、走り出そうとしたところで、接近する足音に気づいて静止する。
 すばやく建物の角に身を隠し、路地をのぞきこんだルークが発見したのは、長い服の裾をたくしあげてやってくる六の巫女だった。
 すでに盛大にくずれている金の髪をふりなびかせ、落ち着きのないようすであちこちの路地をのぞき込んでいる。
 なにかを探しているのだろうか。その視線は懸命に石畳の路面を這いつづけており、うかがうルークの存在にはまったく気がつかない。
 ときおり、「ああもう」とか「なんでよ」とかいった、苛立ちに満ちた言葉を呪詛のようにつぶやきながら、腰の曲がった老人のような姿勢でルークの目の前までやってきた六の巫女は、そこで踵をかえそうとしたあげく、なぜだか勢いよくバランスを崩した。
 あっ。
 声にならない悲鳴とともに、冷たい石畳に向かって倒れ伏す。
 どさりと、穀物袋でも落としたようなにぶい音がした。
 息を殺して見まもるルークの視線の先で、それきり巫女はうごかなくなった。
 好奇心をおこした鳩がやってきて、髪をつつくのにもぴくりともしない。
 しばしの後に、ルークは慎重に歩き出した。状況を確かめねばならないと考えたのである。
 鳩は、ルークの接近に羽ばたいて去っていった。
 石畳の上でわざと砂を踏みしめてたてた靴音に、六の巫女がわずかに身じろぎをする。
 頭部がうごいて――ルークの存在を確認したのだろうか。
 しかし、その後、巫女はまた完全にうごきを止めた。
 長い長い、息のつまるような沈黙の後、
「――六の巫女、大丈夫か」
 呼びかけてみる。
 すると、六の巫女はむくり、と顔をあげた。
 目のまわりにぬれた痕跡がないことを確認して、安堵したのはつかの間だった。
 紗のように覆いかぶさる金の髪の隙間から、空色の瞳が睨んでいるのを見て、ルークは状況が好転しているわけではないことを覚ったのだった。


 石畳に叩きつけられてからしばらくの間、フィアナは痛みと衝撃とでしびれたようになっていた。
 無意識にではあるが、人通りの少ない方向を選んでやってきたのは、他人にそばにいて欲しくなかったからだろう。それはべつに、いまの状態を予想したからというわけではなく、〈見晴らしの壁〉まで行けないのなら、城壁の上にのぼってみようか、そうしたら少しは気が晴れるかもしれないと考えついただけのことだった。
 そのため彼女は、朝夕に巡回する守備兵と鳩以外のものは滅多にやってこないと思われる裏寂しい路地でころぶことになった。
 誰もいない。誰かがやって来るおそれもほとんどない。
 遠くにおなじみの鳩のはばたきが感じられるものの、うごく気配はそれだけだった。すくなくともフィアナをとりまく薄暗い空間は、ひっそりと静まりかえっている。
 できそこないの宝玉の巫女が、ひとりで投げやりな気分に浸るには、まさにおあつらえむきの環境ではないだろうか。
 閉じたまなうらに、聖騎士の言葉と、女官長とのやりとりと、無様に転んだことへの悔しさや恥ずかしさがまじりあう。息が苦しいのは、うつぶせで倒れているからばかりではない。
 哀しいのだろうか。それとも悔しいのだろうか。
 もう、自分の感情をなんと名づければいいのかもわからない。宝玉の巫女として、どんな顔をして神殿を歩けばいいのかもわからなくなっていた。とくに、女官長とはまだ顔を合わせたくない。
 そんなわけで、フィアナはしばらくの間、ここに隠れていようと思った――つめたい石畳の上にねころんだままで、なくした箱の中には何が入っていたのだろうと考えながら、ぼんやりすねていようと思ったのである。
 それなのに、なんなのだ、この男は。
 フィアナは腹這いになったまま、目の前にとつぜんあらわれて、彼女がしんみりと孤独にひたる機会を邪魔した人物を恨みをこめて確認した。
 髪は黒。顔立ちは、長めの前髪が覆いかぶさってよくはわからない。が、肌にはしわもシミもないようだし、声の響きからしても、たぶん若いのだろうと見当をつけた。
 あたりの薄暗さのせいだろうか。ぼやけたような曖昧な印象の若者だった。まるで影のようだが、本人の影はまるで薄かった。
 ただひとつだけ、かれがまったくの影というわけではない証拠に、不揃いな前髪の奥からのぞく瞳はつよい意志を秘めて、じっと彼女を見おろしている。
 それは光を反射せず、吸いこんでしまうような気のする、闇色の瞳だ。
 へんな若者だと、フィアナは思った。
 あまり見た記憶がないから、きっと最近エリディルに来たのだろう。守備隊の兵士だろうか。
 そういえば、大丈夫かと尋ねられたのだったか。
 あらためて自分の陥っている状況を認識したところで、フィアナは心の中で不機嫌にため息をついた。
 たぶん、この若者に悪気はないのだろう。
 きっと、“なにもない”石畳のうえで無様に転んだ六の巫女を、“つい、うっかりと”見てしまい、仕方なしに声をかけてきただけなのだ。なにしろ、相手はおちこぼれとはいえ一応宝玉の巫女である。とくに新参者にしてみれば、見て見ぬふりをするのは罪となるのだ。
 だが、フィアナにとってはまったく、それが一番の問題なのだった。
(なんだって、いまごろ、こんなところを歩いてるのよ)
 誰もいないと安心してすねていたところに突然現れて、忘れてしまいたい現実を思い出させてくれたうえ、無視を決め込むこちらの意図をまったく解さず、いまなお目の前に居続けて、立ち去る気配もない。
 鼻先に陣取る長靴に、噛みついてやりたい気分だった。まったくもって、いまいましい。頑丈な造りで手入れも行き届いてそうなのが、なおさらしゃくに障る。
 おそらく、感情のたがが外れかけているのだろう。そのことはうっすらと自覚していたが、もうどうとでもなれという境地に達しつつあるのも事実である。
 どうせ、自分は期待はずれの六の巫女だ。
 呼びかけに顔はあげてみせはしたが、問われたことに返答をするつもりはまったくなかった。
 気分だけは強気で、「なにか用なの」と突っぱねているつもりである。
 だが、若者はフィアナの威嚇をきれいに無視した。
「ひとりで立てるか」
 フィアナは、自分の鼻の頭と頬が石畳の埃をうつしとって黒ずんでいることには気づかず、眉をひそめてまなざしをさらに険しくした。
 鼻の頭にしわを寄せ、むっと下唇に力を込めて、断固として答えを拒む。
 しばしの沈黙の後、若者は少しためらうように、黒革の手袋につつまれた手を差し出してきた。
 無言を、立てないという意味に解釈したのだろう。
 目の前に突き出された手を見て、フィアナはさらに顔をしかめた。
 正直、見あげる姿勢をつづけるのが苦しくなっていた。
 しかし、ここまで意地を張ってしまうと、もう素直になるのにも多大な努力が必要となってくる。
 もともと、他人を相手にしたくなくてこんなことになったというのに、どうしていつまでも知らない他人にふりまわされねばならないのだ。
 フィアナはふと思った。
 いままでのことはすべてなかったことにして、ふたたび死んだふりを始めたらどうなるだろうか。完膚無きまでに無視をすれば、相手もあきれて、あきらめてくれたりはしないだろうか。あきれられるのを期待するのもどうかと思うが、この状況から脱出できるならかまわないような気さえする。
 ところが、若者はフィアナの考えを見抜いたものか、あるいはただ思いついただけかもしれないが、とにかく予想外の台詞をぼそりとつぶやいた。
「ここに長くよこたわっていると、服が汚れるのではないかと思うが」
「えっ」
 鳩の落とし物があちこちにあるからという説明に、フィアナは思わず視線を石畳に落とした。すると、たしかに鳩の賜物とおぼしきシミが、ついた肘のかたわらの石畳に白くまだらに散っているではないか。
 脳裏を水で溶いた石灰のような鳩の排泄物に塗りつぶされ、フィアナはそこから逃れようとして反射的に跳ね起きた。
 とたんに苦痛のうめきが口からもれる。転んだときにうちつけた脚に、鈍い痛みが走り抜けたのだ。
 膝から力が抜けて、バランスが崩れる。踏みとどまろうとする努力もむなしく、身体がふたたび石畳にくずおれそうになる。
 いまにも膝がもう一度冷たい石に衝突すると思われた瞬間、つよく腕をつかまれて、フィアナは「えっ」と息を止めた。
 ぐいとひっぱりあげられた身体は、力のはたらく方向に従って若者のふところへと落ちていった。もう片方の腕にがっしりとだきとめられて、落下は止まった。
 その後、ゆっくりと石畳の上におろされたものの、驚愕のあまりなにが起きたのかもわからないまま、ぼうっと目の前を見あげた。
 すると、感情の見えない闇色の瞳が、ひどく冷静に問いかけてきた。
「六の巫女、痛むのはどこだ」
 答えられずに黙っていると、このままずっと触れたままなのかと思い始めていた若者の手が離れた。安堵した。と同時に、気が抜けたせいかふたたび膝が笑いはじめる。必死になってまっすぐに立とうと努力するうちに、なんの拍子にか左手首の自由がきかなくなった。
 びくりとしてふりあおぐと、若者が彼女の手をとって、注意深く検分していた。
 無意識に握りしめていた拳が、意外なほど無理なくひらかされる。手首をなぞる違和感があり、かとおもうと肘関節の上をぐっとつかまれて、今度は上へと持ちあげられる。
 汚れた袖が当然のようにまくりあげられて、真剣なまなざしがむきだしのほそい腕の上を移動していくのに、フィアナはようやく正気に返った。
「ちょっと、なに」
 あせってふりほどこうとするものの、有無を言わさずひき戻されてしまう。
「すこしじっとしていてくれ。怪我の具合を調べている。転んだだけにしては、重傷だ」
 ぎょっとなって、自由なほうの右手を自分で調べてみる。石畳にうちつけた肘の外側が広範囲に赤くなっていて、ひときわ強く衝撃を受けたのだろう手首のある部分の肌は、いわれた通り、かなりひどく擦り剥けていた。手はまだこわばっていた。ゆびがうまくうごかせない。傷口には砂に混じって血がにじみだしていた。
「六の巫女。脚はどうだ」
 問われると同時に、フィアナは思わず悲鳴をあげた。
 傷に触れられた痛みもさることながら、若者がいつのまにか下にひざまずいて、服の裾をまくり上げていることに気づいて仰天したのだ。
「ばっ、なにするのよ!」
 服地を下へと叩きおろして、裾は元通り貧弱な脚を隠してくれたが、フィアナの頭には完全に血が上りきっていた。
「なんてことするの、失礼じゃないの!」
 眉を吊りあげ、憤りのままに噛みついて、それでも足りずにつよくつよく睨みつけてやったのだが、あろうことか相手はフィアナの顔をすこしも見ていない。
 それどころか、服の上から膝をつかんでおり曲げて、まだフィアナの脚の具合を確かめている。
「折れてはいないな」
 しかし、こっちはだいぶ汚れてしまったと、服についた白いシミをはたこうとする。
「もういいから、離れてよ!」
 悲鳴のように命じると、まだ片方残っているのだがと、若者はすこしばかり不本意そうに身体を起こした。
「治りきらない打撲の上を、もう一度うちつけたようだ。内出血がひどくなっている。それに治りかけの傷がひらいて、えぐれている箇所がある」
 血の気のひくような解説を顔色も変えずにしてのけたのち、たいした傷ではないが、きちんと手当をした方がいい、と自分の膝の埃を払う。そして、どこまでも真面目な顔でまた訊ねてきた。
「歩けるか」
「歩けないといったら、どうするの」
 思い通りに事が運んでくれない不満と、次第に増してゆく傷の痛みにひねくれた質問で返したフィアナに、戻ってきたのはしばしの思案するような間と、それから、
「運ぶ」
 という、きわめて淡々とした答えだった。
 フィアナは、言葉を失った。
 相手が常識ではかれる人物であるのなら、その言葉は、小さな子供や貴婦人をやさしく抱えあげてはこんでゆく、あのすぐれて優雅で騎士的な行為を意味しているのにちがいないと考えるところだ。
 しかし、今回耳にしたいくつかの直接的な言葉遣いから導きだされるのは、そんな心温まるような、あるいは雅やかなものとはまったく無縁の殺伐とした光景でしかなく、現にフィアナの脳裏には、自分が肩に担ぎあげられるか、横にかかえられるかして、麻の穀物袋のように無造作に運ばれてゆくイメージが冷や汗とともに浮かんできただけだった。
 しかも、この若者には、口にした言葉通りのことを真っ正直にやりかねない、なにやら非常に不穏な雰囲気がある。
 直感的に自分の運命に不安を抱いたフィアナは、ふたたび差し出された手を、とんでもないとばかりになぎ払った。
「ひとりで歩けるわ」


 このまま、一直線に歩みさってしまおう。
 そして、こんなわけの分からない人物とはさっさと縁を切ってしまおう。
 そうすれば、守備隊の兵士とは、滅多に顔を合わせることもない。なにかの行事で運悪く出くわしたとしても、そのときには相手も忘れているだろうし、覚えていても、そんなことがあったかしらと笑ってごまかすこともできるだろう。
 決意とともに歩みだしたフィアナの目論見は、しかし、最初の一歩を踏み出したとたんにあっけなく潰えさった。
 脚の痛みが邪魔をして、どうしても素早く歩くことができないのだ。
 ふらつきながら前進を試みているうちに、ひときわ強い痛みが襲う。それをなんとかこらえてふたたび歩みだそうとする。
 そんなことをつづけているうちに、背後から声がかかった。
「六の巫女」
 呼びとめられたフィアナは、苛立ちとともに髪をふり乱して身をねじった。
「なによ!」
 思わず、祈祷のときに使う、もっとも声の響く方法で怒鳴ってしまった。
 これにはさすがに驚いたらしい若者は、両目をしばたたいたのち、なんだかすまなさそうな顔をして、
「これを落としただろう」
 と、殊勝になにかを差し出してきた。
 フィアナはうんざりしながらふたたび黒革の手袋に視線を移したが、その手の中に、さきほど必死になって探していた小箱をみとめて、目をまるくする。
「どうしたの、これ」
「拾った」
 思わず痛みも忘れて駆け寄ると、若者は腕だけを残して、わずかにうしろへ身をひいた。
 そのことには気づかずに、小箱をそっと手にとりながらフィアナは思った。
 首長の水鳥の意匠が刻まれている。たしかに、聖騎士から受けとった箱に間違いない。
「なんであなたがこれを持ってるの」
「拾ったからだ」
 ああ、そうですか、としか返しようのない、木で鼻をくくったような返答に目眩めいたなにかを感じ、いったい、この若者はどういう人物なのだろうと頭が痛くなってきた。
 いくら相手にしている宝玉の巫女がフィアナだとはいえ、あまりにも態度と言葉が不遜にすぎるのではないだろうか。
 ところが、顔をあげると、神妙にこちらをうかがっている闇色の瞳と目があってしまった。
「……」
 ありがとうと、言うべきなのだろうなとは思ったが、そのまま目の焦点を箱に戻す。
 半分以上相手に原因があるとはいえ、腹立ちまぎれにかんしゃくをぶつけまくったあと、こんなふうに思いもかけない厚意を受けた場合、いったいどうやって場をとりつくろえばいいのだろうか。
 眉間にしわを寄せたままもう一度若者を見あげ、とりあえずなにかを言わねばと口をひらきかけたが、あいにく口にするべき言葉はひとつも浮かんでこない。
 浮かんでこないので、そのままフィアナは若者から視線をそらすことができなくなった。
 おまけに、なぜか相手もじっとフィアナを見つめたままで、視線のはずれる気配がない。
 どうしよう。
 小箱を握りしめたまま、フィアナは焦った。
 これではまるで、道ばたで野良猫と目が合ってしまったときによく発生する、あの自尊心をかけた仁義なき戦い、“先にそらした方が負け”のようではないか。
 わけもなく睨みあったまま緊張状態をつづけているうちに、フィアナは妙な気分になってきた。
 妙というより、むしろ積極的に変である。
 もしかすると、さきほどの茶腹の後遺症かもしれない。胸がそこはかとなく重苦しかった。
 ときおり視界をよぎってゆく白い花びらと、鳩の声と、それから、胸の奥に生まれる違和感とが、ふいに存在を鮮明にしてはどこかへ消えてゆく。
 そのどこかへ、自分の意識までもが、なにかの拍子にすくわれて、連れ去られてしまいそうな予感めいた思いが胸をよぎる。足が地から離れてゆきそうだ。
 そして、かろやかな足音とともに背後に近づいてくる人の気配が――。
「なにをしてらっしゃるんですか、フィアナさまっ」
 とつぜん響きわたった明るい大声と、背中を盛大にはたかれた衝撃に、フィアナは心臓が口から飛び出るほどに驚いた。
「な、なに?」
 よろめきながら動悸とともにふりかえると、そこにはボーヴィル師にくっついて施療室へ行ったはずのミアが、にっこりと笑いながら立っている。
「フィアナさま、だれとお話しなさってるんですか――あら、こちらはカーティス卿の従者じゃないですか。どうしてこんなところに? というか、どうしてふたりで?」
 カーティス卿の従者?
 あきらかに呆然として我を失っているフィアナに、ミアは罪つくりなほど無邪気な笑顔でそういうと、不思議そうにこのとりあわせを見比べた。
 無言のフィアナに代わって、若者が何事もなかったかのように、きわめて冷静なようすで説明をする。
「六の巫女が転んだので、怪我の具合を調べていたのだ」
「なんですって。怪我をなさったんですか、フィアナさま」
「たいした傷ではないが、手当はした方がいい」
 驚いたミアの説明を求める視線に、だが、そのあるじはというと、とても応えられる状況にはなかった。
 思わず、といったていで後ろをふり返る。
 と、若者と目が合う前に身をひるがえすと、ミアに向かって駆けよった。
 乱れきった金髪の合間から訴えるように見るそのまなざしが、焦点の定まらぬうつろなものであることに、ミアは異変を察知する。
「フィアナさま、どうなさったんですか」
 心配そうにたずねる侍女に、フィアナは一瞬、つらそうに顔をゆがめた。
「ミア、私……」
 そのままミアの安定した身体に、がばりとしがみつく。
「えっ、フィアナさま?」
 華奢なからだをみっしりと肉のつまった両手で抱きかかえた侍女は、腕の中でふるえるあるじを驚いたようにみつめていたが、しばしののちに一転して冷ややかなまなざしをルークに向けた。
 突然の状況の変化にとまどう若者に、忠誠心に燃えた彼女は鋭くとがった言葉の槍を投げつけた。
「あなた、フィアナさまになにをしたのよ」


 くすんだ瓦屋根の上から一部始終を眺めていたその存在は、先に歩き出したふたりの少女に遅れて黒髪の若者が石の迷路の中へと消えてゆくのを見届けると、翼をひろげて上空へと舞いあがった。
 空からは、エリディルのすべてが視えた。
 施療室では薬草園とともにその場を束ねるあるじが、六の巫女をだしにした賭けに勝ち、見習いたちを思う存分こき使う権利を手に入れて、ご機嫌であらたな薬草畑の開墾を思いえがいていた。
 ボーヴィル師付きの見習い神官たちは、それを聞いてうんざりと肩をすくめ、たとえ聖騎士がやってきたとしても六の巫女を当てにしてはいけないのだとの認識を新たにし、農具を手に手に薬草畑に向かう途中で、やはり上司の命令にふりまわされている別の部署の見習いたちに出会って、不遇なおたがいの身に同情しあった。
 別の部署の見習いというのは、神殿のすべての記録を管理する文書室の見習いたちだったのだが、かれらは手に神殿の行事を計算するための暦をもち、数年前からしまいこまれたままだったある儀式の儀典書と、さらにはある時点から顧みられることなく埋もれたままだった守護騎士に関する文書を発見するために、朝から書庫で埃まみれになっていた。
 それというのも、エリディルの神官長がとつぜんなにかを思いついてそれらを探すように命じたからだったのだが、思いつきに至った理由を知るものは、まだ神官長以外には神官長付きの書記と、おそらくは神官長にその考えを吹き込んだ三位の宝玉の巫女だけであったろう。
 黒髪の三の巫女は、いつものように、自室でしずかに午前中の勉学にいそしんでいた。彼女につけられている女官たちのいくたりかは、西の公爵と呼ばれる父親によって雇われた教師なのである。
 まず、それぞれの分野に秀でていることを基準として選ばれた女教師たちは、聡明で賢明なうえにうつくしい教え子にいたく満足しており、その胸の内にはぐくまれているある思惑には、まったく気づいていない。
 教師たちは女官服をお仕着せとして身につけてはいるが、本質はけして神殿のものではないから、じつは宝玉そのものにもそれほど関心を持たなかった。彼女らにとって三の巫女は巫女であるより以前に、西の公爵のお気に入りの姫君なのだった。
 幼い頃から三の巫女を見守ってきた後見の騎士だけが、少女の目元にときおり浮かぶある表情に気づいていたが、かれはそれを口に出していえる立場にはなかった。
 とはいえ、かれは懸念を放置しておける性格でもなかったので、いまは真実を確かめるべく、昨日やってきたばかりの聖騎士をたずねる決心をしているところだった。
 三の巫女の後見の騎士が考えていることなど想像もしていない、大柄で快活な聖騎士は、恩師である神殿守護をその私室に訪ねていた。
 はるか彼方からたずさえてきた大神官の命令を荷が重いと感じることがないわけではないのだが、聖騎士はそのことを顔に出すことはほとんどせず、代わりにいまは守護に久しぶりの手合わせを申し込んでいるところだ。このところ旅つづきだったので、あまり鍛錬の時間をとることができず、暇なうちに身体を動かしておこうという腹づもりのようである。
 聖騎士は、遠ざかっていた力比べへの期待からか、少年のような笑顔を見せていた。
 そんなかつての従者の姿に、守護は、すでに口癖になっている決まり文句(まだ身を固める気はないのか)を言うべきか言わざるべきかを悩み、悩んだ末にまだ結論を出さずにいた。
 守護は、聖騎士が六の巫女のために運んできた運命にも、いまだにそれが善きものであるかどうかを計りかねているのだが、それは六の巫女本人だけではなく、信頼する同僚の女官長の心痛を思うからでもある。かれはこの神殿でただひとり、彼女の赴任してきたいきさつを知る人物でもあった。
 守護が同情を寄せている女官長は、六の巫女の去った応接室をひとりで黙々とととのえていた。
 彼女は、感情をあらわにしてしまったことについては後悔していたが、自分の口にしたことが間違っていないことには確信を持っていた。
 女官長はいま、六の巫女には彼女の宝玉に関する隠された真実をあきらかにした方がいいのではないかと、考え始めている。そのためには守護と神官長からの同意を、神官長が聖騎士との会見を始める前に取りつけなければならない。
 女官長はするべきことの多さにためいきをつくと、窓に目をやり飛んでゆく鳩を眺めた。
 鳩たちは、ついばむための餌を求めて、神殿のあちこちをとびまわり、歩きまわっている。
 守備隊の兵士たちの剣先のぶつかり合う練兵場の横を、鍛冶屋の打ち鳴らす金床のひびきのとなりを、今朝搾ったばかりのミルクの入った缶を村から運んできた荷車の轍の横を、威圧的な黒馬の存在感にほかの馬たちが萎縮し、あるいは反発してしずかな緊張状態のつづいている厩の周辺を。
 そして、ようやくのことで目当てのものを見つけ出して走り出した、若い神官の頭の上を、得意げにはばたき、飛び越えてゆく。
 発掘された羊皮紙の束は、執務室で待ちかねている神官長のもとへとすみやかに運ばれていくだろう。神官長は喜びにふるえる手で、たしかにそれがかれの思い描いたとおりの文書であることを確かめるだろう。神官長はうなずき、ほくそ笑んで、困惑顔の側近たちにようやく思惑の内容をうちあけるだろう。
 そうして、すべてが動き出してゆくのだ。
 エリディルには、風が吹きはじめていた。
 いままでとは違う、変化の風が。
 それがなにに端を発したものであり、いかなる運命を導くものであるかを、確かに知るものはどこにもいない。
 翼は風をつかみ、陽光を鈍く反射する屋根屋根の上をひとめぐりし、鐘楼の周囲に集まる鳩たちをたわむれに蹴散らしたあとで、厨房の裏手へ悠然と舞い降りた。
 そこには、頭を白い布で覆った賄い姿の女性が、ひとの子に見せるものうい表情はそのままに、ただ、瞳だけに永久の命を持つもののあの、得も言われぬ輝きをたたえて、かの存在を待ち受けていた。
「ヴェルハーレン」
 白い猛禽の名を、こうして呼ぶのは今となっては彼女だけである。
 大地にひろがり満ちていったひとの子のうちに、かれの名を知るものはいない。
 かれはいにしえびとの朋輩として、名を失いしかの輝く神に仕えつづける下僕として、いまもかれらにその存在を知られていたが、神話と伝説という名の蒼い霧の彼方に住まうものとしての刻印を押されて、すでに久しかった。
 その点においては同類であるくせに人間に立ち混じることを好み、いまはビニーと呼ばれたいらしい〈大地の娘〉は、翼にひとふれしただけで、望みの情報を手に入れたらしい。
 輝く闇を集めたような瞳にみつめられて、かれは遠い過去に覚えた賛嘆の念をふたたびこのときに甦らせた。
 うやうやしげに翼を上下させて会釈をする猛禽に、ビニーはかすかに苦笑を返す。
「〈猛き風〉、おまえが目覚めたのはなんのためだ。私を賛美するためではなかろう」
 たしかに、と猛禽は同意した。
 はるか遠くの地で、あるじの半身がめざめた。そして、かれは永き眠りよりよみがえった。
 聖騎士に任務があるように、白鷹ヴェルハーレンにも使命がある。
 猛禽は翼をはばたかせ、大空へとふたたび駆けあがってゆく。
 その鋭い視線の先では、石の屋根の下、神官長の集めた神官たちが、与えられたつとめを果たすべく散ってゆこうとしていた。



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