天空の翼 Chapter 1 [page 21] prevnext


21 騎士の精神


 守備隊兵舎の正面玄関は完全に開け放たれていたが、石造りの建物の中に足を踏み入れると独特のこもったにおいが鼻を突く。湿った空気に長年蓄積されたなにかが濃厚にしみこんだような、重たいにおいだ。どちらかというと、清潔というよりはその反対、女性的というよりはその反対の、刺激の混じった臭気である。
 ゆうべ、神殿守護が大勢の兵士達を睥睨していた大広間は人影もなくがらんとして、三人の兵士達が炉端のある隅にたむろっているばかりだ。狭い窓から射しこむわずかな陽光が、守備隊のお仕着せをだらしなく身につけた男達の、すこしかがんだ輪郭を浮かびあがらせる。かれらは再度結成されるという噂の清掃部隊の頭数にふくめられるのを嫌って、一夜を過ごした仮ごしらえの寝床から脱走してきたところだった。
「――ったく、なんでいまごろ掃除なんだよ」
「非番の時には眠らせろってんだ」
 人目をはばかりつつも、ぶつぶつと文句をたれるふたり。その脇で、しばらく無言をつづけていたひとりが、思いきったように「なあ」と口を挟んだ。
「きのう、がらくたの奥から出てきたあの扉……もしかして、例の、あの封じられた呪いの扉だったりはしねえよなあ……?」
 その台詞を耳にして血相を変えたのは、ゆうべの後遺症で鼻筋がみごとに腫れあがったひとりである。
「ばか。そんなこと口に出すんじゃねえ。俺はその手の話は聞きたくねえんだ」
 目の前で手まで広げて遮ろうとするが、言い出した兵士はひきさがらず、わざわざ手をどけてつづけた。
「でも、気になるんだよ。俺、いままで言ったことなかったけど、じつは聞いたことあるんだ」
「やめろ」
「ほら、守備隊七不思議にあるだろう? 真夜中に地下からわきあがってくる、気味の悪い笑い声ってやつ」
 古い時を経た建物にはかならずひとつは存在する怪奇譚だが、エリディルにもご多分に漏れず複数の存在が確認されている。かれが言うのはそのなかのひとつで、真夜中に、いるはずのない女の声がひびきわたるというものだ。一般に、女の笑い声と語りつたえられてはいるものの、聞きようによっては、たがの外れた笑い声にもむせび泣く声にも、怨嗟のうめき声にも聞こえるのらしい。
 男はその噂の声を聞いたといった。時は話通りの真夜中。小用を足したくなって廊下をひとり歩いていると、真っ暗闇のなか、かすかな音が石壁を這いのぼるように、確かにつたわってきたのだという。
「あんときゃ、全身がざわざわしたぜ。言いつたえの通りなら、あれは閉じこめられた昔の巫女の怨念の声ってことだよなあ」
「おい、いい加減にしろ」
「あの扉、開けちまったから、もしかしたら、もっと恐ろしいことが起きるかもしれないよなあ――」
「おまえええっ」
 恐怖と怒りに顔をひきつらせた男が、しつこい同僚の首を締めあげかける。
「しっ。誰か来るぞ」
 上階へとつづく階段に人の気配を感じとって、かれらはとたんに口をつぐんだ。
 静かになった広間に、ゆったりとしたかすかな足音と、そのまわりを跳ねているようなどたつく足音が一緒に聞こえてきた。しだいに距離が近づいてくる。男達は先ほどまでのやりとりも忘れて、たがいに顔を見合わせた。
 興奮気味に裏返った、若い男の声が響く。
「――それじゃ、この剣はムーデウルの作なんだ!」
 階段からとび出てきたのは、守備隊の現在の一番の下っ端、赤褐色の頭のジョシュ・ハーネスだった。無謀と無分別とを絵に描いたような、まだ少年と言っていいほどの若者であり、およそ現実の見えていない突貫小僧である。鞘に収められた一本の長剣を捧げ持っているのは、おそらく自分の持ち物ではないだろう。
「ほう、知っているのか」
 ついで現れた、宵闇色のマントをまとう大男がアーダナからやってきた聖騎士であることは、夕べの乱闘を経験してのち、そこにいる誰もが骨身にしみて知らされたことである。
「そりゃあ、知ってますって! ムーデウルといったら、剣を打たせたら右に出るものはないっていう話で、しかも、気に入った人物の依頼以外は絶対に請け負わないって、生きながらにしてすでに伝説の名刀鍛冶じゃないっすか!」
「エリディルでその名を聞くとは思わなかったのでね」
 聖騎士が微笑んでみせるのに、あきらかに興奮している若者は、長剣を握りしめて鼻息も荒く力説した。
「そんな、当然っすよ。ムーデウルの剣の右に出るものなしって、フェルグス卿もおっしゃったから。ムーデウルに剣を鍛えてもらうのは騎士の最高の誉れだって」
 逃亡兵士達は目配せをしあって、極力音を立てぬように気を配りながらも我先にと広間を横切り、階段脇の薄暗い壁の隅に身を潜め、そろそろと出入り口へと移動していった。
「きみはフェルグス卿にかわいがられているのだな。そんな話は、私もしてもらったことがない」
 あこがれの聖騎士にお褒めの言葉をいただいた若者は、顔を赤らめて頭を掻きながら口ごもる。
「……えっ、俺、いちおうフェルグス卿の従者だから」
 背後から「嘘をつけ!」というかすかな、しかし鋭い声がとんだ。とたんに、叫んだ兵士はほかのふたりに押さえ込まれ、建物の外へとひきずりだされていく。
 ジョシュが、あれ、と眉をひそめて辺りを見回したとき、あたりにはもう、誰もいなかった。
「どうした?」
「……いや、すんません」
 気をそらしたわびを言いかけたところで、ジョシュは気まずげにつけ加えた。
「じつは……従者っていっても、まだ見習いなんです」
「ふうん、そうなのか」
 カーティスはべつに責めるでもなく、鷹揚に相づちをうつ。事実、かれにとっては、若者の身分が従者だろうと従者見習いだろうと、たいした違いがあるわけではない。
 しかし、いまや心舞いあがり、相手の心中など察することもないジョシュは、もしかしたら聖騎士が抱いたかもしれない悪印象をぬぐい去るため、渾身の力を込めて断言した。
「だけど、そのうち絶対きちんと従者になるつもりですから!」
 カーティスはうなずいた。
「そうか、熱心なのはよいことだ」
「はいっ、ありがとうございます!」
 若者の喜びに満ちあふれた笑顔から苦笑とともに視線をそらして、「それにしても」と聖騎士はひとりごちる。
「こんな辺境の従者見習いですら、都の刀鍛冶の名を知っているとはなあ」
 かすかなつぶやきに、何者かが応えを返してきた。
「そのことに、なにか問題があるのか」
「大いにな。ただし、問題は知っているほうではなくて、都にいたのに刀鍛冶のかの字も知らないやつがいるってことの方だが……何を隠れている、従者ルーク」
 聖騎士が肩越しに目をやると、いつのまにやらそこには黒髪の若者がぼうと立っていた。
「隠れているわけではない、いま戻ってきたばかりだ」
 いましがた階段から下りてきたばかりの聖騎士の背後をとっておきながら、感動のかけらもない声で平然と言う。自分の応答が返答になっていないことに気づかないのだろうか。そんなことよりと、ルークは聖騎士の姿にいぶかしげな顔をみせた。
「その格好は、なんだ」
 問われて、聖騎士は自分のいでたちを、ああと見おろした。かれは現在、武装をしていた。かるい革製の鎧一式を身にまとい、腰には愛用の長剣を佩いている。
 聖騎士団の正規の装備は長旅には向かないので、すべてアーダナに置いてきた。移動の速度を優先させるため、動きの妨げにならない程度の軽い防具を必要最小限に身につけてきたのだ。それもカーティスは、途中から「面倒くさい」と革鎧を荷物の中に押し込んでしまっていたため、聖騎士がこれほどきちんと武装するのは、久しぶりのことだった。
「じつは、すこしばかり守護と手合わせをすることになってだな――」
 説明しながら、カーティスは黒髪の従者から赤褐色の髪の若者へと視線を移す。
「かれが支度を少々手伝ってくれたのだよ。これから、練兵場へ行くところだ。ちょうどいい、おまえもついてこい」
 そして、ジョシュに、手が足りるようになったから守護のもとに戻ってよいと告げた。
「フェルグス卿に、お待たせして申し訳ないと言っておいてくれ」
「わかりました、そう伝えます!」
 聖騎士を見あげて意気込みあらわな返事をしたジョシュは、しかし、ルークにむかったとたんにするりと愛想をひっ込めた。大きく踏み出した一歩ごと、長剣を鞘ごと「ふん」と懐に乱暴に押しつける。
 さすがに少々身を固くしてそれを受けとめたルークの耳に、冷たい声が言い放つ。
「従者失格、だよな」
 地面に落ちそうになった剣を危うく受け止めたルークは、次の瞬間には若者の分厚い肩で強引に押しのけられていた。体勢をととのえなおしているうちに、赤褐色の頭は石壁の向こうに見えなくなる。
 あれだけ喜怒哀楽がはっきりとしていれば、操るのもずいぶん楽だろう。聖騎士は自称従者見習いをほほえましく見送った。なんとも威勢のよい若者だ。しかし、複雑な命令を託すには、いささか単純にすぎるかもしれない。おなじ単純でも聖騎士を神聖視していない分、この任務にはまだこちらのほうが適任というわけだ。
 カーティス・レングラードは、あらためて息をつくと、自分の従者に語りかけた。
「従者ルーク、六の巫女はきちんと送ってきたんだろうな」
「もちろんだ」
 応えながらふり返る顔にも声音にも、わずかでも感情を深読みさせるような変化はない。
「巫女は、どこに行こうとしていたんだ」
「見張り用の階段のようだ。それが重要なのか」
「いや、ただの好奇心だ」
 カーティス・レングラードは額に手袋をした手を当てて視線を宙へと巡らせたのち、慎重に言葉をつづけた。
「それで……泣いていたか?」
「泣いてはいなかった」
 微妙に力のこもった回答は、泣く以外にはなにかがあったということを示唆しているようにも思える。その点をただすべく問いを重ねると、
「ころんでいたので、侍女と施療室へ行った」
 という応えが返ってきた。すこし驚く。
「怪我をしたのか」
「かすり傷だ。心配はない」
「――」
「施療室の責任者も、そう言った」
 カーティスには黒髪の従者の、妙にかまえた態度が気にかかった。あまりにも率直にすぎる言葉の裏に、かえって内心の逡巡を感じるのと同様である。
「それで、巫女からは、なにか言葉を賜ったのか」
「……特にはない」
 これはなにかあったなと察しがついたが、簡単には詳しい情報を聞き出せそうにないということもわかって、カーティスはううむと唸るしかなかった。残念ながら、いまは悠長に手順を考えて尋問をしている暇はない。
「それで、手応えはどうだったんだ。巫女は神殿を出る気になっていたか?」
 すこし考えてルークが応える。
「――それは俺には判定不能だ」
「そうか」
 やはり、とカーティスは思った。自分の感情にすら無頓着なこの若者に、ひとの機微を推測するような芸当は無理なのではと予測していたのは正解だったらしい。ただし、
「自分で判断してくれ」
 えらそうにこんなことを言われるのも、筋が違うように思うのだが。
「――わかった」
 本当はこんな言葉でまとめたくはなかったが、人目のある場所で説教をはじめる気はないので、仕方ない。
 カーティスは髪をかきあげて、鳩の群れ飛んでいった聖堂の方向を見あげる。日が、高くなっていた。そろそろ、練兵場に向かったほうがいいだろう。フェルグス卿がしびれをきらしているかもしれない。
「午後には神官長からお呼びがかかるはずだしな。どちらの場合でも、すぐに動き出せるように準備をしておこうと思う。これがすんだら、おまえはブラドたちを見ておいてくれ」
 そこでカーティスはわずかに声を低めた。
「もしかしたら、今夜にも必要になるかもしれん」
 言わんとしたことを理解した証拠に、若者はかれなりに顔をひき締め、きまじめに応えた。
「了解した」


 守備隊の練兵場は、これまで目にした神殿の他の部分の印象からすると意外なほどひろかった。狭い路地を歩きつづけたあとで思いがけなく視界がひらけたのと、これだけ陽光が遮られずにふりそそぐ空間を見るのが久しぶりだったため、ことさらにそうと感じただけのことかもしれないが。
 聖騎士とその従者が兵舎の裏手にあるそこにたどり着いたとき、その場にいた兵士達のうち、剣をとって鍛錬らしきことをしているのは十人前後だったろうか。熱心に打ち合っていたのはそのうち半分くらいだったが、その半分も、宵闇色のマントの男が大股に歩んでくる姿を認めると、とたんにうごきを止めた。
 奥の床几に腰掛けた紺のマントの神殿守護をとりまく人だかりの中に、さきほど別れたばかりの守護の従者見習いの笑顔があった。そして、あのすらりとした濃緑色のマントはもしかしたら、三の巫女の後見の騎士ではないだろうか。ビリング卿は聖騎士をみとめた証に、気むずかしげな顔のまま会釈をよこした。
「遅いぞ、カーティス・レングラード」
 エリディルの神殿守護フェルグス・ディアノードは、聖騎士が目の前にたどり着くなり顔をしかめて苦言を呈した。
「細かいところにいい加減な癖は、まだ治っておらんようだな」
「申し訳ありません、フェルグス卿。どうやらそのようです」
 苦笑しながらのカーティスの謝罪を、厳つい顔つきの老人は困ったものだといわんばかりの態度で受け入れた。
「だからわしは、おぬしを信頼はするが信用はできんのだ。第一、従者の教育にもよくない。そなた、剣はともかく、カーティスの素行はけしてまねてはならんぞ」
 いきなり眼光鋭く命じられたルークは、わずかの間反応を示しかねたが、どうやら答えは期待されていなかったらしい。フェルグス卿はすぐに視線を聖騎士に戻して重々しくつづけた。
「やはり、そうそうに身を固めた方がよいのではないか? その歳でまだ所帯を持たずにふらふらしているのは団内でもおぬしぐらいのものだろうが。つれあいに尻を叩いてもらえば、すこしは性根が据わるかもしれんぞ」
 いや、それでもまだ生ぬるい。首根っこつかんで後ろからひきしぼるくらいの女ではなくては駄目かもしれんな、などとつづけられて、カーティスもさすがに困ったらしい。周囲の興味津々の視線にもさらされて、笑顔がかすかにひきつっているようだ。
「閣下。とりあえず私の話は置いておいてください。時間がなくなる」
「おお、確かにな。だが、そもそもはおぬしの遅刻が原因なのだ」
「承知しておりますとも。得物は木剣でよろしいでしょうか」
「なにをふざけたことを。真剣勝負に決まっておる」
 すでに万全の体制をととのえていたフェルグス卿は、外したマントとひき換えに従者から剣を受けとると、立ちあがったその威厳であたりを払い、進路をあけさせた。カーティスも、マントをとって後へつづく。ルークは受けとったマントを腕に掛けたまま、対戦の場へと歩を進めるふたりの男を見守った。
 その身を練習用の革鎧で覆ったフェルグス卿は、背の高さこそわずかにおよばぬものの、体格そのものでは働き盛りのカーティスに少しも負けていなかった。もともと生まれそなえた骨格そのものが立派であるうえ、大柄な全身を支える筋肉は年齢を考えると驚くほどみごとに発達し、隆としていた。身のこなしにもまるで隙がない。
 初めて見たときと比べても衰えを知らぬ師匠の姿、とくにその勝負への意気込みを隠しもせず炯々とするまなざしに、カーティスは素直な感嘆を覚える。
 かれが普段剣術の稽古で相手にしている聖騎士たちは、フェルグス卿よりずっと若く、中には守護よりも高い地位にあるものすら混じっている。しかし、これほどまでに真剣で熱のこもった勝負を挑める者は、ほぼ皆無といってよかった。
 聖騎士のつとめにおいて、武術への情熱は周囲が思うほどには重要ではなかった。少なくとも、かれやフェルグス卿ほどに熱心に剣をふるう者は、聖騎士団の中枢には存在しない。おそらく、聖騎士としてだれもが認めるような地位を手にするためにすべきことは、ほかのところにあるのだろう。そうしたことに気づけない者は、いつのまにか居場所を失うことになるのだ。
 目の前のフェルグス卿は、その典型といえる。剣技の高さと一本筋の通った人格故に組織の誰からも尊敬されてはいるものの、それは任地を西の辺境からべつの場所へと転じさせるほどの力にはならない。
 そうはいっても、カーティスにはこの、小細工なしの力と力のぶつかり合いの単純さが好ましかった。普段、任務だといわれて妙な駆け引きばかりさせられているうちにたまった鬱屈が、一気に発散されるような心地よさがある。なによりも、相手をねじ伏せることで満たされる雄の本能が、強敵を前にして熱く猛ってゆくのを、感じずにすませることなど不可能なのだ。
 かれはふと思った。ルークは、この立ち合いをどう受け止めるだろうか。
 騎士の戦いは、相手に敬意をはらうところから始まる。相手からはらわれる敬意に値するような自分であるために、おのれを律し、つねに厳しく鍛えてゆくのが、騎士たるもののつとめである。騎士は戦士である。必要とあらば武器をとって敵を迎え撃ち、場合によっては死に至らしめることもあるだろう。だが、騎士は殺戮者であってはならない。騎士は戦う者だが同時に護る者だ。信念を持って、堂々と、何者にも恥じない戦いを演じなければならない。公正でなければならない。
 フェルグス卿によってたたき込まれたこの教えを、カーティスは基本的に守って生きてきた。戦いにきれいも汚いもない。そうした考え方をするものには甘いと思われることもあるだろう。だがかれは、守る価値のある教えだと思っている。そうでなければ、騎士を名乗る意味がないではないか。
 そうして骨の髄まで染みついた騎士の精神を、カーティスはルークに示しつづけてきたつもりだった。
(どれだけ届いているかは、疑問だが)
 ともあれ、フェルグス卿との立ち合いが、またとない見本となることは間違いがないだろう。
 ふたりが一定の距離を挟んで対峙すると、周囲の空気がぴんと張りつめた。
 フェルグス卿が剣をひといきに鞘走らせ、同時にカーティスは腰から得物を鞘ごと取り外す。
「抜かぬつもりか」
 長い眉をひそめてフェルグス卿がなじると、カーティスは口元をゆがめた。
「まさか――そこまで余裕をもてるならば真剣でなど相対しませんよ、閣下」
 右手ですらりと鋼鉄の刃を抜き放つと、中身のなくなった鞘を放り投げる。
「こちらにハンデをいただきたいくらいだ、と言ったら喜んでいただけますかね?」
「ふむ、相変わらず口ばかりは達者だ」
 皮肉を言われてカーティスは苦笑いをもらす。だが、まなざしは真剣そのものだった。おたがいにまだ剣を構えてもいないが、すでに勝負は始まっている。軽口の応酬も、かれらの間では探り合いの一環なのである。
 真っ向からむかいあうふたりの騎士は、かれらの身体から放たれる精気によってその周囲に濃密な戦いの聖域を築きあげていく。
 しずかに張りつめはじめた緊張は、見守る者たちにも確実に伝わっていた。守備隊の兵士達は、これまで一度も自分たちの隊長の真剣勝負を目にしたことはなかった。いつも細身の木剣であしらわれているかれらには、目の前ではじまった戦いの前哨行動に、固唾を呑んで拳を握ることしかできない。
 ジョシュ・ハーネスも、息をひそめ、食い入るようにふたりの剣士をみつめるばかりだった。おたがいに有利な間合いを求めてじりじりと移動しているのはわかるのだが、戦いがどのように口火を切られるのか、かれの乏しい経験からはまるで予測がつかなかった。
 練兵場は静まりかえった。不用意に触れれば身を斬られてしまいそうな、重苦しい静寂だ。
 呼吸ばかりが荒く感じる長い時が過ぎ、ようやく聖騎士が長剣をかまえる。
 それに応じるように、守護も手にした幅広の剣をしずかに正眼の位置におさめた。
 陽光をはじいて、二本の剣がきらめく。
 にわかに緊張が膨れあがり、圧倒的な気迫が周囲に発散される。
 いまにも剣戟が鋭く響きはじめるのかと思われたが、そのとき、一気にその場の緊張が解けた。
 向かいあったふたりが肩から力をぬいて、笑いだした。
「なかなか。さらに腕を上げたようだな、カーティス」
「閣下こそ。相変わらずの気迫、おみごとです」
 見物していた兵士達は、文字通りあっけにとられた。
 つい先刻まで凍りついたように睨みあっていた対戦者同士が、突然構えた剣をおろしておたがいを讃えあいだしたのだから、無理もない。
「なんだよ。これからだってのに、どうしてやめちまうんだ」
 ジョシュが気が抜けたようにつぶやくのを聞きながら、ルークはわずかに後方に神経をむける。近づいてくる気配を感じていたのだ。
「このつづきは、またいつかのお楽しみということだな」
 残念そうにフェルグス卿がふりかえる。その視線をたどると、陽光の中に、青鈍色の長衣をまとった神官が神妙な顔をして歩いてくる姿が見えた。どうやら、そのおかげで立ち合いが中止になったらしいということを悟って、見物人達は不満の声をあげた。もちろん、ジョシュも例外ではなかった。
「アーダナの聖騎士どの、神官長の執務室までお越しいただけますか。神官長がお待ちしています」
 あらゆる方向から非友好的な歓迎を受けながら、顔をこわばらせた神官が神経質に神官長からの伝言を告げる。当初の約束が午後であったことを考えると、いくらかフライング気味の要請だったが、そのことについて触れたカーティスにはこんな返答が返ってきた。
「聖騎士どのは、はやくお返事をお聞きになりたいだろうからと、神官長は仰せでした」
「――よかろう。すぐに行く。このままでよければな」
 神官は、そこで初めて聖騎士のものものしい甲冑姿に気づいたらしかった。少し逡巡した後、かまわないのではないだろうかと幾分消極的に告げる。
「それから、守護どのにもご同席いただきただければと」
「わしもか?」
 そういいながらも、フェルグス卿はすでにその気のようである。
 カーティスは従者からさきほどなげうった鞘を受けとると、むきだしの刃を収め、ふたたび腰にさげた。
「ルーク、さっき言ったことを覚えているな」
「当然だ」
「ならいい」
「カーティス」
 いつも通りのはずだったやりとりの、ちょっとした間合いの乱れを訝しんで、カーティスは黒髪の従者を見る。
「なんだ?」
「――騎士の戦いというのは、ずいぶんと効率が悪いのだな」
「そうだったか?」
 少々間が抜けたような応えを返した聖騎士に、ルークはだが、と真面目な顔をしてつづけた。
「興味深かった。あんたに言われたことがわかったように思う」
 少しだけだが、とつづける言葉は、このさい関係なかった。
「そうか」
 宵闇色のマントを大きくひろげて肩からまとうと、カーティス・レングラードは金髪をかきあげ、口元に笑みを浮かべてみせた。


 それから、聖騎士と守護は遣いの神官に先導されて練兵場を去っていった。
 その後ろ姿を眺めつつ、伝えるべきは別の言葉だったのかもしれないと、ルークは思っていた。しかし、かれの言葉をあやつる能力は赤子にも劣ると揶揄されたくらいであるから、口にしたところで言いたいことが伝わる可能性は、ごく低いだろう。
 口からでかけたのは、つまり、こういうことだった。
 ルークにはいまの立ち合いが、かれの視界を曇らせている迷いをぬぐいさるすべを、すこしだけ垣間見せてくれたような気がしたのだ。
 エリディルに来て、はじめに抱いた予感が現実となることを、かれはたぶんずっと恐れていた。
(もし、そうなったとしたら、自分はまた、日の当たる現実で存在しつづけることになるのだろう)
 その結果として自分が少なくとも現在より有能な兵士、有効な駒となるだろうことはうすうす理解しているのだが、影に半分かすんだいまの状態はかれにとってひどく居心地がよく、できればずっと薄暗がりの中にまどろんでいたいと願うことを止められない。あまり長い間この状態をつづければ、かれはかれとしての自覚を失い、あるいはほんとうに影の中にうすれてしまうかもしれない。聖騎士の呼びかけの端々に懸念を読みとっていたにもかかわらず、そんなことはかまわないとさえ感じてしまう自分がいて、かれはこの事態にも困惑していた。
 まえのあるじのもとにいたときには、このようなことは考えたこともなかったのに。だが、あのときはただ、命令を果たすことばかりを一心に考えて、なにを省みる余裕もなかったのだ。
 もしかすると、かれはもとから、世界の影の中に、永遠に溶け消えてしまいたいという願望を抱いていたのかもしれない。ただ、思わぬ成り行きによって名を返却され、誓約を解かれることになり、自分というものを意識しはじめたために不幸にもそのことに気づいてしまっただけで、本当はずっとひそかにそう願いつづけていたのかもしれなかった。
 しかし、厳重に記憶の奥底に沈められたはずの封印解除の言葉は、すでに脳裏のごく表面にまで浮きあがってきていた。
 それとともに、静けさに満ちた大神殿の一室で、闇色のまなざしに見おろされ、年降りた皺ぶかいゆびに額を触れられた、あの瞬間。いにしえの言葉をもちいた呪の韻律が肌から肉へと次第にしみこんでいったときの、凍えるような感触もよみがえってきている。
 原因はあの〈声〉なのだと、かれにはわかっていた。聞くたびに心うごかされる、理由はわからないのに懐かしく、胸の痛むひびき。いにしえの言葉の韻律を信じられないほど正確に再現する六の巫女のすずやかな〈声〉が、かれのかたく閉ざされたいびつな魂を刺激して覚醒を促しているのだ。
 いまでは自分にかけられた呪という罠がなんであるのか、かけたものたちの意図がどこにあるのかも、かれは理解しはじめている。
 おそらくかれは、あの〈声〉のためにここに来るように手配されたのだ。もしあの〈声〉で名を問われたら、かれは抵抗する力を持たないだろう。そうすれば、かれはまた、みずからを解放する機会を逸することになるのだろう。
 だが、もしかすると、それは悪いことではないのかもしれない。
「おい、ぼんやり従者」
 皮肉を交えたからかいの呼びかけに目を向けると、またしてもそこにいたのは赤褐色の髪の若者だった。
「ちょうどいいから、手合わせをしてみねえか。聖騎士の従者の腕前を見せろよ」
 木剣を手に挑発的な物言いで誘いをかけてきたジョシュに、かれは間髪入れずに断りの言葉を返した。
「悪いが、仕事がある」
 おい、と憤慨する相手に背を向けると、それぞれに自分たちの用事に戻りはじめた兵士達の合間を縫って、ルークは一直線に歩き始めた。



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