天空の翼 Chapter 1 [page 22] prevnext


22 肩透かしの決意


 その少し前。
 フィアナはほんのりと陽光の射しこむ施療室の一室で、傷の手当てをする神官の、枯れ葉色のぼうぼうとした頭を眺めていた。
「そら、これで終わりだ」
 節くれだった手で驚くほど手際よく治療をすすめたボーヴィル師は、包帯を巻き終えるとぺちんとフィアナの膝を叩き、やれやれとかがめていた腰を伸ばす。
「これからはちゃんと足元を見て歩くこったな。ああ、侍女や、わしにも茶を入れてくれ」
 最後のは、手に小さめながら深い鉢を持ってやってきた若い娘に対する言葉である。
 赤褐色の髪を編んで頭に留めつけた侍女は、あるじにずいと鉢を押しつけながら言った。
「これはお茶じゃありません、風邪薬です」
 鉢からたちのぼる湯気のにおいに眉をひそめたフィアナは、侍女を見あげて無言の抗議をした。
「女官長のお言いつけでいただいたばかりの薬ですよ。フィアナさま、さっきもくしゃみをなさってたじゃないですか」
 めっと睨んでくるミアから眼をそらして、フィアナはふたたび鉢を見おろしため息をついた。ボーヴィル師の風邪薬は苦いので有名なのだ。
「まあまあ、風邪も怪我もどっちもたいしたこっちゃない。薬はいますぐ飲まんでもいいだろう」
 宝玉の巫女は神のご加護を厚く受けているからなあ、とボーヴィル師は手をひらひらとさせ、
「だから、侍女よ、わしのためには茶を入れておくれでないか。歳のせいか、風邪薬の調合に打ち身と擦り傷の手当で腰が痛くてのう……」
 わざとらしく腰をさするボーヴィル師に、ミアはお茶と腰の痛みになんの関係があるんですかとあきれながらも席を立とうとする。
 そのときだった。
「わるいんだけど――」
 とつぜん、なんの脈絡もなく言葉を発した六の巫女を、若い娘と壮年神官がうちそろってふりかえる。
 陽光の輝きを金の髪にまとわりつかせた華奢な巫女は、長椅子の上でぴんと背筋を伸ばし、淡い空色の瞳にはいつになく思いつめたような表情をたたえていた。
「ちょっとひとりにしてもらえるかしら。考えたいことがあるの」



 要請に従って診察室を出たふたりは、そのまま隣の部屋にところを移していた。
 薬草園の拡張を果たすため農具をもって不機嫌に出て行く助手に挨拶をしたのち、言われるままに茶を入れてしまったミアは、大きな作業台の隅の定位置に腰掛けた神官の前に、秤やらランプやらすり鉢やらといった細々としたものをかき分けて空間を作り、恩着せがましく椀を置いた。そして、自分は椀をもって窓際の少しでもあたたかそうな場所にある椅子に腰を定めた。南向きで鎧戸全開の診察室とは違い、この部屋は北向きで、おまけにあまり日光が射しこまぬような配慮がされている。薬として使う乾燥させた香草や動物の組織などのなかには、光によって変質するものがあるからだった。おかげで、ここにいると寒いし、たがいの顔色もあまりよくわからない。もっとも、このふたりの場合、どちらも好き勝手な方向をむいて好き勝手なことを話すだけだから、会話に支障をきたすこともないだろう。
「やっぱり、フィアナさまはすこしヘンだわ」
「六の巫女がヘンなのはいつものことだろう。特筆すべきほどヘンとは思えん」
 茶をすすりながら断じるボーヴィル師に、ミアはむう、と不満げな顔をする。
「だって、フィアナさまは確かにぼんやりものだけど、いつもはもうすこし元気なんですよ。言われたままで黙ってることはまず、ないんだから。あんなふうにうなずいてばかりってのは、普通じゃないです」
 娘の言い分に、今度はボーヴィル師がうなった。たしかにそういう見方もできる。一見おとなしげな風情のくせに、六の巫女が口をひらくとけっこう辛辣なことは、一部のものにはよく知られている事実であった。
「だが、怪我は大したことはないぞ」
「ということは、やっぱり、あの従者がなにかしたってことでしょうか」
 ようやく原因らしきものを発見して目を輝かせる娘に、ボーウィル師はけだるそうに椅子の上で身体を揺すった。
「従者ってのは、さっきの髪の黒いぼうずのことか?――かわいそうに」
 かわいそうにといったのは、わざわざ心配してついてきたのだろう若者が、侍女に施療室から文字通り叩き出されたのを目の前で見ていたからである。体重をかけて一気に締め切ろうとした扉に、若者はあやうく挟まれるところだった。
 しかし、若者を諸悪の根源と断定した娘は、氷のように冷たく言い切った。
「かわいそうなんかじゃありません。あのひと、フィアナさまになにかものすごく無礼なことをしたのに違いないわ。フィアナさまがおかしいのはあのひとと会ってからだもの」
 ショックだったんだわ、きっと、とミアは断言する。
「――さっき、昨日からと言わなかったかのう」
 施療神官の遠くを見ながらの独り言を無視して、ミアは立ちあがる。
「わかりました。私、カーティス卿に抗議してきます!」
 性急な侍女にボーヴィル師は心の中で、おいおいと突っ込みをいれる。
「だがなあ、六の巫女はそんなことはなんにも言わなかったぞ」
「言わなかったんじゃなくて、言えなかったのかもしれないじゃないですか」
 ジョシュにこき使われて哀れだと思ったから目をかけてやったのに、恩を仇で返すとはこのことだと、なにやらよくわからない理由を挙げて憤る侍女の黒煙を噴きあげんばかりの怒りに、ますますもって若者が気の毒になるボーヴィル師だった。たぶん、当人に目をかけてもらったなどという自覚はないはずだ。
「そんなに事を荒立てんでも、大丈夫だとはおもうがな。宝玉の巫女の治癒力というのは、なかなかどうしてあなどれんぞ。三の巫女が落馬したときのことを覚えてるだろう」
 三の巫女クレアデールが思いがけぬ事故で骨折したのは、去年の秋のことである。全治三ヶ月はかかると見込まれた大けががひとつきで治癒したことに、落馬事故には慣れているはずの村の人々もたいそう驚かされていた。つとめはじめたばかりで宝玉の巫女の異能を間近にしたミアは、さすがに神の宝玉を保持するだけあってただびととはちがう、とあらためて感じ入ったものだ。
「でもあれは、クレアデールさまだったからじゃないんですか」
 クレアデールが格別に優秀な宝玉の巫女であることは、巫女のなんたるかを理解しているとはとうていいえないミアであっても、周知の事実として認識している。いっぽう、彼女のあるじである六の巫女がそれほどの存在ではないことも、面と向かってだれかに言われたわけではなかったが漠然と理解はしている。奉公をはじめて知らされたことだが、ふたりの巫女の神殿での扱われ方には天と地ほどに差があって、どうやら神官も下働きたちも、そのことについてはなんの疑問を抱くこともないらしい。表立って肯定されることはけしてないだろうが確かに存在している差別の意識に、当初は不満も抱いたものの半年ほどの間で彼女もすっかりなじんでしまっていた。
 現実にミアの知るかぎり、フィアナがクレアデールのような神秘性を発揮することはまったくといっていいくらいになかった。年上とは思えぬほど小さくて愛らしいが、妙なところでやたらに手がかかる。たいへんに世話のしがいのあるあるじだが、その方面での活躍は期待するだけ無駄だと早々に見切りをつけていたくらいである。ミアの意識はフィアナをどうしたら巫女らしく見せられるか、に完璧に移っていた。
 ところが、それはあるじを侮った考えだぞと、ボーヴィル師が言う。
「いいか、どんな事情があれど、フィアナさまが宝玉の巫女であることだけはぜったいに間違いない。すくなくともこの点においては三の巫女をもしのぐ実績を示しているからの。〈見晴らしの壁〉のてっぺんから転落して無事だったものを、おまえさん他に知ってるか?」
 まさか、このひねくれた施療神官にこんなことを諭されると思わなかったミアは、大騒ぎをしたばかりの石積みにまつわる意外な展開まで聞かされて、
「えっ、ほんとに落ちたんですか」
 思わず大声をあげてしまった。
 ボーヴィル師の皺だらけの笑顔は、これまでになく人が悪そうだ。
「……うそでしょう。からかってるんですね」
「いや、うそじゃあない」
「でも、そんなことがあったようには、ぜんぜん見えないわ」
「それはそうだろう。本人は覚えとらんし、なにより傷跡ひとつ残らなかったからな。今回だって見てみろ、頭のこぶはもう跡形もない。奇跡的な治癒力じゃよ。しかし、あんときゃ本当に大変だった。命も危ういところまでいったからな。つきっきりだったモードはげっそりと痩せたよ……半年で元に戻ったが」
 笑った後で、あれは十年くらい前のことだったかと、ボーヴィル師は言う。とすると、ミアはまだ五つくらいだから、覚えていないのも無理はない。
 自分の知らないうちにあるじの身に降りかかっていた大事故にいたく心をうごかされたらしく、ミアは急に神妙になり、くすんだ緑の瞳を手元の鉢に落として言った。
「だから、フィアナさまは高いところが苦手なんですね」
「ああ、そうかもしれんな」
「だから、女官長はフィアナさまが〈見晴らしの壁〉にいくのを渋ったんだ」
「ふむ、そうかもしれん」
「でも、怪我の治る速度と、従者に狼藉をはたらかれたのとでは話が違う気がするんですけど」
 ごまかされてなるものかと、ミアは施療室のあるじに食い下がる。
 ボーヴィル師はへらりと笑った。
「いや、だから違わんだろう。怪我のせいでもなく、ぼうずのせいでもない。とくれば、それはやっぱり聖騎士どのとの話し合いじゃよ。あれの内容が巫女の機嫌に大いに関係しとるとわしはみるがね。どうだ?」


 診察用の一画にひとり残され、侍女と神官の騒がしい気配が遠ざかると、フィアナはまず風邪薬の入った鉢を脇の小机に置いて、まぶたを閉じた。自分に落ち着けと言い聞かせながらゆっくりと息をする。だが、繰り返す呼吸は乱れたままなかなかおさまらず、自分がひどく動揺していることを嫌でも思いしらされた。
 朝食の席で紹介されてからまだ一時と経っていないというのに、あの若者がカーティス卿の従者であるとなぜわからなかったのだろう。ミアに言われるまで気がつかなかったなんて、まったくどうかしている。
 しかし、フィアナが落ち着かないのは、聖騎士の従者との珍妙なひとときのせいではなく、従者がわざわざ自分を追いかけてきた理由を想像してのことだった。どうしても、従者が騎士に無断で単独行動をとるとは思えないのだ。あの若者は、ほんとうは聖騎士になにを命じられていたのだろう。
 フィアナは、自分の叔父だというのが嘘のような聖騎士の、思慮深くも厳しくも感じられた深いまなざしを思い出した。
 無理に返事は求めないと、言われたのはたしかだ。
 けれど、聖騎士は大神官の遣いである。神殿における大神官の権威は神官長など比較にならないくらい大きく、フィアナにとっては雲の上のさらにはるか上の神にも等しい存在だ。その大神官の意向を実現させるために遠いアーダナからわざわざやってきたものが、小娘ひとりが嫌だと言ったことを真に受けてそのままおとなしくひきさがるものだろうか。口ではああ言っていたが、聖騎士は大神官の提案が受諾されることを望んでいるはずだ。ならば部下を影として視界にちらつかせ、暗に自分にとって都合のよい決断を促すことくらいはするのではないだろうか。
 そこまで考えて、フィアナはすこしおかしくなった。影といえば、聖騎士の従者が本当に影みたいな人物だったと思い出したからだ。あれであの派手な聖騎士の側仕えがよくつとまるものだ。フィアナは、あの若者にはちょっとだけ悪いことをしたと思っていた。無礼すぎるほど無礼な人物で腹が立ったのは確かだが、冷静になってみるとどの行為もこちらを助けようとしてのもので、悪気があってしたことではないような気がしてきたのだ。カーティス卿は従者の礼儀作法を早急に何とかするべきだったが、その点では、八つ当たりをしたフィアナだって褒められたものではない。落ち度は双方にあったというわけだ。
 その後、状況を説明するのがおっくうでミアには誤解させたままにしてしまったが、まさか聖騎士の従者を部屋から叩き出したりするとは思わなかったので、それがなんともいえない後味の悪さとして残っていた。
(でも、カーティス卿のことをさっさと言わないのもいけないのよ)
 闇色の瞳にみつめられて目がそらせなくなったときの居心地の悪さを思い出し、またなんとなく腹が立ってきたが、とりあえず従者のことは関係ないから置いておく。いまは大神官のことである。
 もともと、大神官の提案はフィアナにとっては願ったりかなったりのはずだった。
 神殿から出たいとずっと思っていたことを、たしかにだれにも明かしたことはなかったが、それは宝玉が胸の奥にある限り、取り出すことは不可能だと信じていたからだ。
 それを実現できるかもしれないと、初めて他人が言ってくれた。しかも、助力を申し出ているのは大神官で、ということは、この世に生きとし生けるもののなかでもっとも尊ばれ、権威のある、地上の神にも等しい存在が、フィアナを後押ししようと言ってくれているのである。
(だったら、なにを迷うことがあるの)
 女官長の言うことに惑わされてはならない。
 あれが事実ならフィアナはここで、もっとちがった毎日を送っているはずだ。
 それでも胸の奥に感じる痛みを無理矢理はらいのけながら、フィアナは懸命に考える。
 カーティス卿の態度をうさんくさく思うのは、正しいことだとおもう。
 けれど、かれを信用できないことは、おそらくこの提案に乗らない理由にはならない。
 聖騎士は詳しいことはなにも語らなかったが、語ったからと言ってそれが真実かどうかを見極めることはフィアナにはできないのだし、大神官が秘密にしたい〈奇跡の力〉を使おうとしてまで巫女と宝玉を切り離そうとする理由がたんなる同情や憐れみであるとは思えないから、きっとそこにはおおっぴらにはできない別の理由が存在するに違いないのだ。絶対に。
 とすると、語らなかったことにこそ、カーティス卿の誠意はあるのかもしれない。
(そういえば)
 フィアナは懐のなかから、小さな箱を取り出した。
 聖騎士からとその従者から、二度手渡されたことになる宝石箱をじっとみつめる。
 顔も覚えていない姉からの言づけだというこの箱の存在は、フィアナにとって、ただの土産というにはすこしばかり荷が重く感じられていた。
(いったい、なにをくれるというのかしら)
 長い間手紙すらよこさなかった親族がわざわざ大神官の使者に託したものだという事実にひるんで、なかなか中身を確かめる気持ちになれずにいたけれど。
 ディアネイアの水鳥の紋章の精緻な浮き彫りをなぞる。すこし古びた飴色のなめらかな感触は、フィアナの前にも所有者がいたことを示している。
 思い切って精密な造りの掛け金をはずすと、かちりと小さな音がして、箱がひらいた。
 濃紺の天鵞絨のクッションがきちんとつめられた箱のなかには、小さな宝石の飾りが一対、おさめられていた。
 フィアナは肩の力をぬいた。
 宝玉の巫女は神から預かったもの以外の宝石を身につけることはできないのだが、そのことを知らずによこしたものだろうか。
 それは、透きとおったちいさな緑の石が嵌めこまれた、こぶりの耳飾りだった。
 フィアナはそのひとつを指の先でつまみあげた。
 小指の先よりも小さい緑柱石の他にめだった飾り気はなく、むしろ地味なくらいの意匠だったが、よくみると、銀で細工された台座の輪郭には小さな小さな羽根が一本かたどられている。
(これは……)
 フィアナは耳飾りをいっしんにみつめた。
 なにかが心の琴線に触れたのだ。
 この耳飾りは、どこかで見た覚えがある。
 おぼろな記憶が胸の奥によみがえってくるような気がして、フィアナは息を詰めた。浮かびあがる過去の影の輪郭はあわいままで、ひどく心許なく、必死にたぐり寄せようとするのにうまくいかなかった。
 なのに、なぜなのだろう――とてもなつかしいものを見ている気がするのは。
 しばらくして、フィアナは耳飾りを箱に戻すと、目尻ににじんだ涙をぬぐって立ちあがった。
 光の降りそそぐ出窓から離れ、隣との仕切りとなっているつづれ織りに手を伸ばすと、どっしりとした織物のひだをたぐってよせる。
 すると、突然、ひんやりとした薄闇のなかから、金床のように響く侍女の声が耳に飛び込んできた。
「えええーっ。カーティス卿がエセって、それはどういうことですか!」
 フィアナは思わず反対側の壁に貼りついていた。


「大げさだのう」
 エセとは言っとらん、怪しいと言ったんじゃ、と施療室のあるじは両手で耳を押さえてぼやく。しかし侍女は聞く耳を持たない。
「冗談じゃありません。相手は聖騎士なんですよ、アーダナの。なんで聖騎士を疑ったりできるんですか。だいたい、あのカーティス卿のどこが怪しいっていうんです。え? なぜですか? なにを根拠に? ちゃんと説明してください。事と次第によっちゃあ、ただじゃ置きませんからね!」
 きんきんと頭の芯に突き刺さるような声で噛みつかれて、うるさい娘だのうとうつむきながら文句をたれていたボーヴィル師だが、侍女がぜいぜいと肩で息をしながら言葉のつぶて攻撃を終了すると、とたんに態度が大きくなった。その言い分は、そのほうがおもしろいからに決まってるだろう、というはなはだ真剣味に欠けるものであった。
 曰く、
「宵闇色のマントが正義の味方なのはあまりにも当然すぎて、つまらん。意外性に欠ける。裏になにかがあったほうが、ずっと楽しいじゃないか」
 である。
 黒髪の従者が聞いたら、あるじとおなじ人種を発見したと思ったにちがいない。
「どういう基準ですか、それ」
 あからさまに冷ややかな反応にひるみもせず、ボーヴィル師はむしろ熱意を込めて持論を展開しはじめる。
「考えてもみろ、あれだけ絵に描いたような聖騎士がほんとうにいると思うか。これでもわしはアーダナにいるときに聖騎士なら何人も見たことがあるが、どいつもこいつもどこかしら問題のある奴らばかりじゃった。まあな、それが普通の人間というもんじゃ。聖騎士だって切れば赤い血が流れるし、屁もひる、糞も出す。ほかより身体が大きい分、いずれも大量じゃがな」
「……そういう品のないたとえ話、やめて欲しいんですけど」
 眼を三角にして抗議する侍女に、わざと下品な笑みをつくったボーヴィル師は、音を立てて茶をすするとまた口をひらいた。
「ひるがえってだ、カーティス卿はとみればこれは間違いなく人並みすぐれた美丈夫じゃ。おまけに師匠はみごとな音痴なのに、かれはそうでもないらしい。都じゃさぞかしご婦人方にもてはやされたこったろう。だがな、あれだけご立派な容姿で腕も立って歌まで歌えるときたら、他の聖騎士の奴らはどうする。立つ瀬がないだろうが。聖騎士がみんなカーティス卿であらねばならないとしたら、十中八九、全員そろって泣きの涙で辞表を提出じゃ」
「……それはまあ、そうかもしれないけど」
 たしかにあの長身で体格の優れた騎士を基準とされたら、普通の人間はたまったものではないだろう。しかし、こんなところでなにゆえ他の聖騎士の立場を思いやらねばならないのか。その点への説明はとうぜんながらなかった。
「それにだ、カーティス卿の顔をようく見るがいい。造作じゃないぞ、表情じゃ。爽やかそうな笑顔にだまされてはいかん。あれは絶対になにかを企んどる顔じゃ。そうでないわけがない」
 どうしてそこまできっぱり断言できるのであろうかという疑問に対し、ボーヴィル師は思わず口を滑らせた。
「でなきゃ、賭のネタにならんじゃないか。種まきの時期はもうすぐそこまで来とるんじゃ。畑をひろくする約束は取りつけたが、ここでもう一押し、とびきりのネタがありゃあ……」
「なんだ、結局はそこなんじゃないですか」
 あきれた侍女がそっぽをむくと、ボーヴィル師は少々あわてて、いや、それだけじゃない、ちゃんとした理由もあるぞと声を高くする。
「いいか、これは巫女にとっちゃけっこう重要なことかもしれんぞ。聞いたところによると、聖騎士の運んできた書簡を見た神官長は卒倒したそうじゃないか。たしかにハル・ダーネイは心が狭く肝の細い、男としちゃじつにみみっちいヤツだが、卒倒までするからには相当なことがあったはず。そうじゃ、かんがえてみれば大神官が聖騎士ひとりを使者に立てること自体、通常ではあり得ないことなんじゃ。あり得ないことをする大神官というのも、これまたかなり怪しいと言えるんじゃないかね」
「怪しいって……」
 おそれおおくも大神官にむかって、そういう考えはちょっと不敬なんじゃないかといいたげな侍女に、ボーヴィル師は純朴な田舎ものを前にした都経験者の得意げな訳知り顔で、ふふふんと人さし指を振ってみせる。
「いやいや、大神官というのはな、怪しいくらいでないとつとまらんもんじゃ。有象無象のほとんどあやかしみたいなじじいばかりを向こうにして権力を張らねばならんのじゃからな。しかもそれだけじゃない。いまの大神官の評判というのが、また――」
「また?」
「また、なんなのかしら?」
 部屋の薄暗がりの中で、とつぜん星の光のような澄んだ声が意地悪く響いた。
 話に熱中して作業台に知らず知らずのうちにかがみ込んでいた侍女と神官は、横から割りこんできたこの声にぎくりとなった。
 おそるおそる首を巡らせると、そこには六の巫女が、乱れた髪から真顔を覗かせてたたずんでいた。
「フィ、フィアナさま。いやだ、驚かさないでくださいよう」
「おお、六の巫女。どうじゃ気分は」
 あわてて話をとりつくろおうとするふたりを一瞥した金髪の巫女は、こほんと咳払いをひとつした。
「驚かそうと思ったわけじゃないのよ。とっても興味深いお話だったから、つい声をかけそびれたの」
「そうかそうか。楽しんでくれてわしは嬉しいぞ」
「私も嬉しいわ。どうやら、ずいぶんと薬草園のお役に立てたみたいですものね」
「……わかっとったのか」
 フィアナは笑みを消してフンと鼻を鳴らした。
「うかがうところによると、これからもまだお役に立てることがあるそうじゃない」
「うう、そんな話をしとったかのう」
「してましたよ、もちろん」
 侍女ににべもなく言い捨てられたボーヴィル師はさびしく背中を丸めて茶をすすろうとしたが、もう中身がなかった。仕方ないので視線を泳がせたまま、枯れ葉色の頭を苦しまぎれにがしがしと掻く。
「まあなあ、もちろん知りたいとは思っとるよ。アーダナの聖騎士が、野を越え山越えはるばるエリディルくんだりまでやってきた、その理由をな。だれだってそう思うだろう?」
 だから賭のお題としても申し分ないわけで、と言葉を濁したあげく苦笑いでごまかそうとする。
 しかし、意外にも巫女の追求は長くはつづかなかった。
「いいわ。すでに終わったことに文句を言ってもしかたないし。そんな暇もないわ。私はいま、忙しいのよ」
 さきほどまでとはうってかわったように生気に充ち満ちて意欲的な巫女の姿に、神官と侍女は狐につままれたように顔を見合わせた。
 そういえば、とミアが尋ねる。
「フィアナさま、考え事はおすみになったんですか」
 空色の瞳をいちど瞬いて、フィアナははっきりとうなずいた。
「いちおうね。だから、ボーヴィル師、さっき言いかけたことのつづきをはやく教えてちょうだい」
 いきなり質問の槍をするどく突きつけられたものの、ボーヴィル師はというと緊張感なく首をひねった。
「はて、なにを話しておったかの」
「すっとぼけないで。怪しい大神官猊下の評判よ」
 巫女の剣幕になにかを嗅ぎとったらしく、施療神官はすぐさまはぐらかしを開始する。
「どうしてそんなことを知りたいのかのう」
「理由なんてどうだっていいでしょ。内容によっては、書簡について教えてあげようかと思ったのだけど、知りたくないのね」
「なに、それは本気か」
 にわかにいろめきたつボーヴィル師に、フィアナは、いいから、はやく話してよと言ったのち、冷ややかに一言つけ加えた。
「じゃないと、モードに賭のことを言いつけますからね」


 外へ出ると頬を撫でる風は穏やかだったが、まだすこし冷たかった。
「フィアナさま、どうしちゃったんです。ちょっと待ってくださいよう」
 ボーヴィル師から情報をむしり取って施療室を出たフィアナは、石畳の道を猛然と歩みつづけて守備隊の兵舎前にたどり着いたところだった。ようやく追いついてきたミアが、足は大丈夫なんですか、せめてその頭は何とかしましょうよと心配するのを無視して問いかける。
「カーティス卿はここに泊まってるって言ってたわよね」
「ご用事なら、私が取り次いでまいります。なんでもお申しつけください!」
 瞳を輝かせて妙に攻撃的な反応を示す侍女に、これは聖騎士へのあこがれをあらわしているのか、それとも従者への誤解のためだろうかと一瞬思ったものの、いまはそんなことを斟酌している場合ではない。
 フィアナは決意をもって、自分から薄暗くしめった妙なにおいのする兵舎のなかに足を踏み入れた。
(カーティス卿に、会わなくては)
 それだけを思って、ここまできたのだ。
 会っただけで、なにかが変わるというものではないだろう。話を真剣に受けないかぎり、聖騎士がこれ以上の言葉を与えるつもりはないであろうことは容易に推測できた。けれど人づてにせず、じかに顔を合わせることで、べつのなにかが得られるかもしれない。女官長がいるところではできなかった話が、フィアナにもあるような気がしていた。その思いは、箱の中身を確かめたときにいっそう強くなっていた。カーティス卿が彼女の叔父というのが事実なら、あの耳飾りの意味を知っていることだろう。うすれかけた記憶から漠然と思い描いた由来が真実であるかどうかを、確かめることくらいはしなくては。
 しかし、意気込みにもかかわらず、聖騎士の姿は、あてがわれた部屋にはなかった。いないのは聖騎士だけではなく、従者もいなかった。そもそも、兵舎自体にほとんど人影がなく、もぬけのから状態だったのだ。
 ただひとりだけみつけた平の兵士は、突如としてあらわれた六の巫女の姿に目をまるくしてできるだけ丁重にふるまおうとしたが、残念ながらカーティス卿の行方を教えることはできなかった。どうやら居眠りをしていたらしく、現在の周囲の状況がよくわかっていないらしい。かれ自身も取り残されたことに気づいたところで、すこし途方に暮れているようだった。懸命に寝癖だらけの頭をひねり、守護と手合わせをすると言っていた気がするから、もしかしたら練兵場にいるのではないかという兵士に礼を言って、フィアナは兵舎からまっすぐに練兵場へむかった。
 だが、そこにも聖騎士はいなかった。
 おまけに今度は、この場のだれひとりとして六の巫女の存在に気づきもしない。だれもが自分のことに夢中で勝手に武器をふるっているばかりなのだった。理由は不明ながら、いつもより格段に鍛錬への熱意が上昇していることは確かだ。練兵場全体に充満する気合いは気後れを感じるほどで、聖騎士はどこかと尋ねようにも、これでは危なくて近寄ることもできない。
「どこへ行っちゃったんでしょうねえ、カーティス卿」
 つぶやくミアのとなりで平然としてはいたものの、実はフィアナはすこしばかり、いやかなり落胆していた。
 さっきは煩わしいとしか思えなかった黒髪の従者までが、こちらから探してみるとどこにも見あたらないとはどういうことか。
 せっかくその気になりかけていたのに、肩透かしもいいところだ。
 剣戟の響きに耳を打たれ、乱れた髪をさらに風になぶられながら、腕組みをしたまま埃まみれ汗まみれで組み合う兵士達を眺めつづけていると、しばらく黙っていたミアがじれて話しかけてきた。
「フィアナさま、もうお部屋にお戻りになりませんか」
「嫌。戻らない」
 間髪いれずに拒絶する。ミアは眉を跳ねあげた。さきほどからつづく不審な行動の意味を、すこしでもいいから説明して欲しいと思っているのだろう。
 でも、それは無理なことだった。わけを話そうにも話せることなどほとんどない。ほんとうのところ聖騎士に会って実際になにをするつもりでいるのか、フィアナ自身よくわかっていなかったのだから、どうしようもなかった。
 確かなのは、いまはまだ、部屋に帰りたくないということだけだ。部屋には、女官長があのとき別れたままの姿で待っているような気がする。こんな気持ちでもう一度女官長に会うのは嫌だった。冷静な態度をとれる自信がないし、そうしたらまた気まずい事態を招きかねない。
 そうやってしばらく頑張っていたが、こんなところにいたら喉を痛めますよとつよく諭されて、仕方なく練兵場を離れることにした。女官長と顔を合わせるのも気が進まないが、それ以上にボーヴィル師の風邪薬のお世話になるのも遠慮したかったのだ。
 それからフィアナはふらふらと城壁内を歩きつづけた。まっすぐ居室をめざすことに、どうしても抵抗があったのだ。分かれ道でわざと遠回りな方向を選択するあるじに、文句を言いながらもミアはついてくる。フィアナはそのまま幾度も石畳の上の日向と日影を踏み越えて、行く手を遮る何十羽もの鳩を蹴散らした。逃げる先々で災難に出会った鳩たちは、しまいに娘達の気配を察知すると、すぐさま羽根を散らして上空へと逃げ去るようになった。ときおり出くわす下働きは、いるはずのない場所にあらわれた巫女とその侍女に例外なく不審の目を向けたが、気にせず堂々とすれ違った。そのようすに、ミアはまた目をまるくしている。
 そんなことをしばらく繰り返して、太陽が中天近くに達し、足もほどよく疲れてきたころ。
 あてのない散歩に飽きてきたミアが、突然、跳ねるようにしてふりかえった。
「そうだ。フィアナさま、厩に行きませんか」
「厩?」
 唐突な提案に、フィアナはぽかんとうごきを止める。
「そうです、厩です。カーティス卿の乗馬を見に行きましょうよ。まだちゃんとごらんになってなかったでしょう?」
「でも私、馬には興味が――」
 ないと言いかけるフィアナを見おろすミアのまなざしは、苛立ちを含んでいささかやけ気味に笑っていた。
「そんなこと言わないで。とってもきれいですばらしくかっこいいんですから、絶対に見るべきです。そうよ、それがいいわ。そうしましょう、そうしましょう」
 がしっと肩をつかんでフィアナが身をすくめた瞬間に腕をとると、ミアは進路を厩へとびしりとさだめ、有無を言わさず歩きだした。その歩調は、もはや小走りに近かった。
「ちょっと、ミア。手を離してよ、痛いじゃないの」
 ふりまわされてあちこちの石壁にぶつかりそうになるたびに悲鳴をあげながらたどりついた厩では、ちょうど馬丁が馬を一頭連れ出そうとしているところだった。ミアはそこに無造作に近づいて、当然の権利をもっているかのごとく横柄に尋ねた。
「カーティス卿の馬は?」
「ああ、中にいるよ。どうしたんだい、こんな時間に――えっ?」
 ひきずられていく六の巫女の姿に気づいて驚く馬丁を残し、ずんずん中へと踏み込んでゆく。
 そこはまた、施療室とも兵舎とも異なる種類の独特なにおいの充満する場所だった。ざわざわと生き物たちの気配がする。フィアナは顔をしかめて鼻を押さえ、おそるおそるあたりを見まわした。すると、前方からは巨大な図体をした獣――つまり馬たちが複数、見慣れぬ侵入者に気がついて好奇心もあらわに覗きこんでくる。荒い鼻息がかからないよう、腰をひきながらそろそろと通り過ぎようとしているうち、すぐそばにいた一頭に髪の毛をぱくりとされそうになって、あわてて飛び退いた。十分な距離をとってあらためて眺めてみれば、それはたしかに三の巫女の葦毛であった。
「なにをしてらっしゃるんです、フィアナさま」
「私の髪はまぐさじゃないってば」
 よく似ているのに、と言いたげな葦毛を横目で睨みつつ、待っている侍女の後を追いかける。ミアはひときわ大きな身体をした鹿毛を前にして、どうやらその額を親しげに撫でようとしているところだった。
「フィアナさま、ほら、こっちですよ。見てくださいな、このすてきな毛艶……あら?」
 人なつこく顔を寄せてくる鹿毛の影から現れた人物を見て、心外そうな声がつづく。
「なんであんたがここにいるの、ジョシュ」
「それはだな」
 片手に鹿毛の手綱を持ち、もう片方の手で赤褐色の髪を掻きあげてひとつポーズを決めた自称従者見習いは、
「俺さまの優秀な馬扱いのわざを、ぜひ見たいというやつがいるからだ」
 と上機嫌で胸を張ったが、
「またおつとめをサボって、困ったひとねえ」
 相手が馬耳東風でいつもの説教をはじめようとするので、すぐに不機嫌になった。
「おまえ、ちったあ俺の言うことを聞けよ」
「聞く価値のあることなら自然に耳に入ってくるわよ」
「それはどういう意味だよ」
「あんたの言うことはいつもおんなじだから聞かなくてもわかるってことよ」
 言い合いをはじめた幼なじみふたりを眺めているうちに、フィアナは次第に空しくなってきた。
(なんだかんだ言っても、いつもこのふたりは楽しそうよね)
 正確には甥と叔母という続柄らしいが、はたからは年季の入った腐れ縁の幼なじみか、仲がよすぎておたがいへの遠慮など考えたこともない姉弟にしか見えないふたりである。わざわざ厩のこんな奥にまで入り込んだあげく、姉弟喧嘩をぼうっと見ているだけなんて、馬鹿みたいだ。帰りたくないからとそこらへんをだらだら歩いたりしないで、とっととカーティス卿の居所を探したほうがよかった、などといまさらなことを考える。どうして自分はこういう建設的なことをすぐに思いつかないのだろう。情けない。けれどいまは、ミアをほっぽって勝手に出て行くわけにはいかないし……。
 見れば、ふたりの間に挟まれた鹿毛も、何とはなしに迷惑そうな顔をしている。そのうちつぶらな瞳と眼があって、ほのかな共感が生まれたような気がした。
(うん……すこしかわいいかもしれない)
 そのとき、背中にとん、となにかが当たった。
(な、なによ)
 硬くはないがやさしくもない感触に驚いているうちに、もう一度、どん、と今度は強く小突かれる。
 よろめきかけたところをなんとか踏みとどまって後ろをふりかえると、目の前に大きな黒いものがぬう、と迫ってきた。
「うわっ」
 それが隣の房にいた黒馬の頭であることに気づいたのと、なまあたたかい鼻息を盛大に吹きかけられたのとは、ほぼ同時のことだった。フィアナは悲鳴をあげて後むきに逃げだしたが、狭い厩舎のことで三歩もひかないうちに何者かとまともにぶちあたってしまった。
「やだ、もう」
 干し草の散らばるつめたい土間の上に半分ひっくりかえったフィアナが、半べそをかきながら立ちあがろうとしていると、背後の人物が声をかけてきた。
「大丈夫か」
「大丈夫よ。ごめんなさい、どうもありがとう……っと」
 体当たりを食らわせたというのにずいぶん親切な馬丁だと、感謝して差し出された手につかまったフィアナは、そのまま礼を言おうと相手を見あげたところで、硬直した。
 彼女の握っている革手袋につつまれた手は、闇色の瞳をした若者の長い腕へとつながっていたのだ。
(な、なんだってまた、こんなところで)
 驚きを通りこして狼狽しているフィアナに気づいているのか、いないのか。
 何故かつっかかってくる黒馬の鼻面を片手で押しやりながら、聖騎士の従者はまじめくさった顔でぼそりと言った。
「六の巫女。頭が、鳥の巣になっている」



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