天空の翼 Chapter 1 [page 24] prevnext


24 女神の司祭


 柱廊の影のなかを通り抜けたのち、たどり着いた部屋の前で先導の神官は扉をノックした。がっしりとしたつくりの重たいそれを押しひらき、内部に確認をとると、中へ入るようにとうながした。
 つづけて部屋の奥から聞こえてきたのは、ハル・ダーネイ神官長の声だった。
「どうぞこちらへ、おふたかた」
 言われるままに足を踏み入れると、とたんに奇妙な臭いが鼻をついた。
 臭気の原因をとらえようとして視線を巡らせた、エリディルの守護フェルグス・ディアノードは、そこでひとりの神官見習いと眼があった。
 巨漢の武人と鉢合わせをして、おどおどと身をすくめている若い神官は、両腕でしっかりと羊皮紙の束を抱きしめていた。
 においは、その羊皮紙から漂ってくるもののようだった。
 あわてて客人に道を譲る見習い神官をそのままに、老騎士は背後に聖騎士カーティスを従え、大股に歩を進めた。
 静けさを乱すように入室したふたりの武人に、神官長は細面の顔に皺を刻んでほほえみかける。手元の書類をとんとんと揃えて立ちあがった。祈祷から着替えていないらしく、小柄なからだに正神官の青い長衣を身につけ、一位神官をあらわす肩掛けをまとったままだ。ぜい肉のほとんどないこの人物の場合、五十に手がとどこうかという年齢はおもにやつれとして身に刻まれていた。
「ご足労いただき、ありがとうございます。カーティス卿、そして閣下」
「ダーネイ神官長、すばやい対応を感謝します」
 宵闇色のマントをさばいて、聖騎士が優雅に礼を言う。
「ゆっくりとなさってください。ああ、きみたち。しばらく用はないから下がっていなさい。ご苦労だったね」
 いまだに立ちすくんでいた見習い神官と先導してきた神官とは、神官長の優しげに手をふって退出を命じるようすに目を剥くと、たがいに顔を見合わせるやいなや泡を食ったようにばたばたと去っていった。扉は半開きで放置された。
 あたかもふりかかる災難から逃げ出すかのような部下のふるまいに、神官長はおやおやと苦笑する。
「いったい、なんでしょうかね、あれは」
 失礼をして申し訳ないとみずから戸を閉めに赴く後ろ姿に、フェルグス卿は、
(おかしいのはおぬしのほうだ)
 と、心の中でつぶやいた。
 それに、見習いが去ったのに、いまだに鼻を蝕む不快なにおいはおさまらない。
「どうぞ、おかけください」
 うながされ、昨日はなかった三脚の椅子のうちのひとつに巨体を預けたフェルグス卿は、そこでふたたび変化に気がついた。
 執務机のようすが、昨日と違う。
 得体の知れぬ書物や羊皮紙の束や覚え書きなどが所狭しと積みかさねられ、いつもごちゃごちゃと収拾のつかなかったはずの机の上が、なんと、すっきり天板の見える状態になっているのである。
 いまそこに載っているのは、昨日はむりやりねじこまれた道標のようだった読書用のランプと、さきほど神官長がととのえていた一束の羊皮紙のみだ。
 フェルグス卿は腕を組み、残された羊皮紙をしげしげとながめ、その痛み具合に眉をひそめた。
 変色が著しいうえに、あちらこちらが黴びている。記されたインクの文字も薄れたりにじんだり、穴が空いたりしてほとんど判別不能だ。すでに端はもろもろとして、触れたとたんにくずれてしまいそうな気配すらあった。おまけに、鼻が曲がるようなひどい臭いを放っている。
 間違いなく、悪臭の大元はこれだった。
「いかがなさいましたか」
 唸りながら顎で指し示す。
「それはなんだ?」
 神官長はなぜか嬉しそうな顔をしたが、
「ただの古文書ですよ」
 というだけで答えない。
 そわそわと部屋をうろつきはじめた神官長に、フェルグス卿はさらに困惑の思いを深めた。
 そもそも、エリディルの現神官長はおおらかでも、懐が深いたちでもない。
 自分の領域で不具合を発見しようものならば、どんな理由があろうとすぐさま手近の目下の者を罵倒して片づけさせるのが、いつものやり方なのである。
 その神官長が、当然のこととして悪臭の元を自分の机の上に置いたうえ、手に触れて微笑んでいた。
 これは、いったいどういうことなのか。
 しかも、きょうの神官長はやけに明るい。
 よくいえば繊細な性格と、かつては人目をひいたろうと思われるだけにかえって落魄を印象づけてしまう顔の血色の悪さから、“不幸な”もしくは“哀れな”というふたつ名を奉られ、自分ばかりか他人にまで日々不幸をまき散らして嫌がられている人間にしては、異常なまでに明るいのである。
 それに、普段のハル・ダーネイがこんなに余裕しゃくしゃくでいることは、滅多になかった。
 だから、この、“人並みに愛想がよくて寛容に見える神官長”というのがどれほどの不安と疑念をかきたてるかは、部外者のカーティスにはとうてい理解できないであろう。
 ダーネイ神官長は“間違って”いまの役職に任じられてしまった人物なのであって、そういう人間に、理を通して正義を主張するような勇気を望むのはお門違いであると、フェルグス卿は認識している。
 高所の意向に否応なく従わされるのはおもしろくないだろうが、余計なことをしていま以上の不幸を背負うつもりもないはずだ。
 すでにカーティスが言い訳の材料を気前よく与えてしまっていることでもあるし、神官長がことを丸く収める方を選ぶのにためらいを覚える理由はない。
 すくなくとも、フェルグス卿はそれ以外の選択をするハル・ダーネイを予想してはいなかった。
 しかし、である。
 いま、にこやかに笑む神官長の顔は、大神官の膝下に屈しようとしている“不幸な”ハル・ダーネイのものとはとても思えなかった。
 とはいえ、いまさらかれを、権力の横暴には断固として異議を唱える、意志と胆力に優れた大人物と認識するのも、かなり無理がある。
(いったい、なにを考えておるのだ。ハル・ダーネイ)
 フェルグス卿は懸念を感じた。
 いっぽう、椅子を断り、後ろの書架に背を預けて大型の肉食獣のようにくつろいでいる聖騎士は、この明るさになにを見いだしたものだろう。言葉を口にするたび浮かぶのは、満足というよりは退屈そうな笑みである。
 これはこれで、フェルグス卿にとってはあまり歓迎すべき事柄ではなかった。
 たしかに、神官長は小物だ。そのふるまいをときには醜悪とも感じるし、苛立ちを覚えることもある。
 しかし、そのことを理由に神官長個人を蔑んだり軽んじたりするのは、また別の問題である。所を得ぬ存在は、周囲のみならず当人にとっても悲劇なのだ。ダーネイ神官長も望んでいまの地位についたわけではないだろう。
 無論、禁書を所持していた罪については弁明の余地はなく、正統な法の下に罰されるべきである。けれど、文字に書かれた物事などいかほどのものかと思っている武人にとっては、それが当の罪人自身が狼狽したほどの罪とは思えなかったこともまた事実だ。
 むしろ、フェルグス卿は今回の教え子のやり口を汚いとすら感じていた。すくなくとも、相手に相応の敬意もはらわぬような態度は、かれ自身の正義とは相容れぬものである。
 フェルグス卿はそのことをすでにカーティスに告げていた。そして、自分の助力は期待するなとも言ってある。
 久方ぶりの再会だったが、かれは今回まったく心楽しむところがなかった。
 わだかまりを払拭しようと持ちかけた手合わせにすら、邪魔が入るのが腹立たしい。
 それもこれも、みんな“あの”大神官のせいなのだと思うと、アーダナの方角に向かって唾でも吐きかけてやりたいくらいだった。そんなことをしてもなんの役にも立たないので、腹の中で悪態をつくだけで止めているが。
 複雑な気分をもてあまして思わずため息をつきかけたとき、ノックの音が響いて静かに扉がひらかれた。
 あらわれたのは、臙脂のお仕着せでまろやかな輪郭をつつんだモード・シェルダイン女官長である。
「お待たせして申し訳ありません」
 女官長は会釈をして聖騎士の前を通りすぎると、空いていた席に腰を下ろし、となりのフェルグス卿とわずかに視線を合わせた。
 あいかわらず物腰は穏やかそのものだったが、無理をして背筋を伸ばしている気配があり、眼の下には疲労の色があらわれていた。
 賢明な彼女のことだ、状況が歓迎できないものになりつつあることを、うすうす感じているのだろう。
 六の巫女の幸せがどこに見いだされるかは、だれにもわからない。
 それは巫女自身が決めることで、はたがどうこう言う問題ではないと、老騎士は思っている。
 そうはいっても、とりあえずのところ、神殿に身を置いていれば巫女の安全は保証される。フィアナがこの件をどう受けとめているかは別として、カーティスのもらした政治情勢を思えば、かれとて大神官の要請に安易に同意する気持ちにはなれない。
(女官長は反対するだろう。が、その意見は尊重されまい)
 フェルグス卿は思案していた。名目上、神殿における最終決定の権限は神官長の上にある。それを覆すためにはどんな圧力をハル・ダーネイにかければよいものかと。
「これで顔ぶれは揃いましたね。では、はじめさせていただこう」
 執務机の脇に立った神官長は居住まいを正し、顔から微笑みを消すとおもむろに宣言した。
「誠に残念ながら、私には今回の猊下の要請を受け入れることはできない」


 青白い顔を興奮でうっすらと紅潮させて、ハル・ダーネイ神官長はあたりを見わたした。
 ゆっくりと移動した視線は、自分よりもはるかに背の高い聖騎士の立派な体格にたどりついたときに、最も長くとどまっていた。
 フェルグス卿が自分の眼と耳を疑っているうちに、神官長はいったんあげた声の調子をひくく落として、ゆっくりと言葉をつづけた。
「宝玉は神の奇跡です。たいへんに貴重で、かけがえのない恩寵です。そして、宝玉は長年のうちに幾片ものかけらが失われており、いまわれわれのもとに残されたものが消滅するようなことになれば、もう二度とその奇跡を取り戻すことはできない。そのことを考えてみても、今回のことがどれだけ常軌を逸しているかはおわかりになりそうなもの。しかし、それだけではありません」
「思い出していただきたいのは、宝玉は神の慈悲だけではない、怒りをももたらすものであるということです。巫女を神殿に住まわせるのは宝玉を護るためだ。しかし、このことにひとびとを宝玉から護るというもうひとつの使命が隠されていることを、宝玉神殿を預かるわれわれは、けして忘れてはならないのです。もし、いったん神の怒りをまねくことあらば、その力は目前のささやかな恩寵を遙かにしのぎ、われわれの想像を超えた大きな破壊、ひいては人の世の破滅すら、ひき起こすかもしれないのだから」
 思い出していただきたい、と神官長はさらにつづけた。
「いにしえの都邑カラカースが一瞬にして灰燼に帰した悲劇は、聖典にも記されていることでもあり、みなさんご記憶のことでしょう。カラカースでは、私欲に走った人の子のために多くの罪なきものたちが巻き添えとなり、神罰の霹靂の中に命を落としたとされている。カラカースの悲劇は、われわれに幾多の教訓と悔恨をもたらしました」
「そのなかには、最近まで公には認められていなかった事実もあります。あの悲劇の中で、もっとも大きくつよい力を秘めていると讃えられていた宝玉のひとつが割れ、その半分が失われました。そのこと自体はすでに一部のものには知られておりましたが、残された宝玉のことについてはどうでしょう。じつは、割れた宝玉はなおつよき力を秘めてはいたが、ひどく不安定な存在へと変質してしまったのです。宝玉は安定のためにつねに保持する巫女を必要とするようになったが、巫女を得たからといって必ずちからを発揮するというものではなくなってしまった。エリディルに残されている記録には、ときにすぐれた巫女が現れ、ひとびとに奇跡の記憶を刻みなおしてきたことが記されておりますが、それも次第に間遠となり、伝説の中に薄れかけている」
「そして現在、この宝玉はすっかりちからを失ってしまったかのようにすら見受けられます。あるいは、宝玉はすでにひとにとって必要のないものとなっているのかもしれません。だが、〈神の心臓〉が巫女を選びつづけるかぎり、宝玉のちからは失われてはいないと私は考える。宝玉にこめられた神の意志は、いまは眠っているだけなのです。そうであるかぎり、神殿には責務がある――」
 フェルグス卿は、はじめの衝撃から立ち直ると、釈然としない心地で顎を掻いた。
 神官長の話しぶりはまさに堂々としていた。声こそときおり掠れたり、ふるえをおびたりするものの、これなら大神殿の上級神官達の前でも立派に一席ぶてるのではなかろうか。
 だが、その言い分に、そらぞらしさを感じるのは何故だろう。
 神官長の言葉に、誤りがあるわけではない。
 六の巫女の保持する宝玉が〈神の心臓〉と名づけられた、とくに重要なものであることも、それが歴史に名高いカラカースの悲劇をひきおこしたとされていることも、そのおりにふたつに割れた片方が行方不明になり、現在の神殿はその片割れを失われたものと判断していることも、すべてはアーダナの大神殿によってみとめられた事実であり、神殿の正史にも明記されている。
 そしてエリディルでの現実をかえりみれば、ここ数十年というもの、〈神の心臓〉がめだった力を発揮することは稀となっていた。巫女の代替わりのたびに多大な期待がかけられてきたが、〈心臓〉がみずからの意志で脈打つことは絶えてなくなった。フィアナの代になってからは沈黙にますます拍車がかかり、その保持者が眠りを欲するのは宝玉が望むためかと邪推したくなるほどに、ただひたすら“眠りつづけて”いる。宝玉に潜む力の気配は、ふたたび目覚める日の訪れが疑わしくなるほどに、内にこもっているらしい。そして、フィアナがそれを自分の身体に抱いているかぎり、この状態は続くのだろうと思われている。このことにも、虚偽の入り込む余地はない。
 それゆえに、アーダナは〈神の心臓〉の巫女を利用することを思いついたのだろう。いまのまま眠りつづけるのならば、宝玉も巫女もいかなる政治的勢力の驚異にもなりえない。それでいて、宝玉の巫女という名前が世俗に与える影響ははかりしれない。事実が発覚するまでに巫女を手中に取り戻すことができれば、危険も生じる恐れはないと踏んだのだ。フィアナが、これまでに一度たりとも巫女として奇跡を演出した実績がないことも、大きくものを言ったのに違いない。
 神官長が指摘しているのは、その考えに潜んでいる希望的観測にもとづいた楽観主義であるといえる。
 人の上に立つものは、楽観主義であるよりは悲観主義であるべきだ。指導者に求められるのは、最悪の状況を想定し、事態に備えることである。まして、相手は神の宝玉なのだ。人の子の知恵などおよびもつかない奇跡は、当てにしてはならないが、侮るべきものでもない。神に仕えるものが神の宝玉の奇跡を信じず、なにを人びとに説くというのか。
 たしかに正論なのだ。神官長は正しい主張をしている。
 ところが、語りつづける神官長のまなざしは、おのれの言葉の真実のみを武器として相手に挑むものの切実さを欠いていた。まるで、本当にたいせつなことは別にあって、いまはその前置きに余興を楽しんでいるかのようなのだ。紡がれる言葉のどこまでをみずから信じて口にしているものやら、しだいに疑問にもなってくる。
 それにしても、言葉を弄する神官長がふだんより格段に立派に見えるのは確かだった。
「――いま、われわれの手に残されたのは偉大なる礎石と、わずかばかりの宝玉と、さらにすくない巫女のみだ。使命をないがしろにすることは、宝玉神殿の長としてけして許されることではないと私は思う」
 ようやく言葉がとぎれたのを受けて、聖騎士が確認を求めて穏やかに問いかけた。
「ダーネイ神官長。それは、あなたが大神官のご意向を無視されるつもりだということなのだろうか」
 その深みのある男らしい声に、神官長の宣言に対する不快感は、まだあらわれてはいない。
「宝玉神殿を預かる神官長として、その責務を放り出すわけには参りませんから」
 おごそかに言い切った神官長のまなざしは、正体不明の奇妙な笑みに押し殺した興奮をふくんでいた。
 やはりおかしい、とフェルグス卿は感じる。
 となりに視線を移すと、女官長も不安そうな顔をして神官長の一挙手一投足に注目をしていた。
「それは困った。すこしは私の立場もお考えくださいませんか、ダーネイ神官長。私は、猊下に歓迎される使者になりたいのだが」
 頭をふった拍子に落ちてきた金の髪を無造作にかきあげた聖騎士は、気分を害されたといいたげに神官長を見返した。
 その青き瞳に、失われかけていた興の色がよみがえっていることに気がついて、フェルグス卿は心の中で舌打ちをした。
(カーティスめ、またしても楽しんでいる)
 しかし、それに反応するように浮かんだ神官長の笑みに気づいたことで、フェルグス卿はようやく状況を理解しはじめることとなった。
「私も今回のことは残念に思っていますよ、聖騎士どの。きのうのあなたは、じつに楽しい話し相手でしたからね」
「それはどうも。ならば当然、そのことも十分に考慮していただけるだろうと思っていたのですが」
「ですから、神官長として、私が申し上げられることは他にはありません」
 嗤いながら鋭い刃の先で斬りつけあうようなやりとりに、フェルグス卿は苦い思いをかみしめる。
(やはり。カーティスは神官長を責めつけすぎた)
 ハル・ダーネイは神経質で臆病者で、そのうえからだつきまでもが小さく、痩せており、貧相という言葉にこれほどあてはまる人物もいなかった。
 しかし、そういう人物は得てして、自尊心を人並みはずれた大きさに育てあげてしまうものなのだ。
 いまやフェルグス卿は、神官長の意図が大権力に対する抵抗などではないことを悟らざるを得なかった。ハル・ダーネイはいま、憎い仇に一矢報いるために、目も暗むほど必死になっているのである。
 必要以上に相手を追いつめても、得るものはないと、従者だったカーティスに教え諭したことが昨日のことのように思い出される。
(あるとすれば、死にものぐるいの反撃か、思いもかけぬ所での意趣返しと相場は決まっている)
 そして、そうした抵抗は往々にしてこちらの不意をつき、予想外の損害をもたらすことになるのだ。
 おそらく、神官長は自分の大事な自尊心を傷つけた相手に対する、強い恨みと憎しみに我を失っているに違いなかった。極端に視野が狭まっているため、自分の行為がのちにさらなる不幸をもたらすかもしれぬということにまでは、考えがおよばないのだろう。
 その証拠に、神官長は老守護や女官長の存在がまったく目に入らないようすで、聖騎士だけをひたすらに凝視めている。すでに表情をとりつくろうこともなく、そのまなざしは恐ろしく据わったものになっていた。
「だが、そうですな。六の巫女の境遇に関しては私もあわれに思っています。運命に導かれはしたものの、我々はすくなくとも自分の責任においてこの土地にやってきた。しかし、彼女は否応なしにここに来ざるを得なかった。しかも、このままであれば出て行く見通しもまるで立たない。猊下がお心をうごかされたわけも、理解できないではありません」
 沈鬱な言葉に不謹慎とも思える興奮をやどして、神官長は微笑しながら皮肉まじりに言い放つ。
 なにか、よほどおもしろい趣向を用意しているのだろうか。
 フェルグス卿は柄にもなく不安になった。
「六の巫女は、神官長のお気持ちを、さぞかしありがたく思うでしょうね」
 皮肉を返した聖騎士へ、さらなる不敵な微笑をみせた神官長は、ところで、と突然話題を変えた。
「ここでひとつ、物語をしたいと思うのだが、よろしいだろうか」
「なんの物語ですか、ダーネイ神官長」
 聖騎士は、今度はなんだと言わんばかりに片眉を跳ねあげた。
 だが、神官長はこれを意に介さず、予定通りといったようすで、視線とゆびの先を机上の黴びた羊皮紙にするりと落とした。
「その話は伝説に非常によく似ているが、伝説そのものというわけではありません。しかし、伝説のもととなったものとして考えられる話のひとつではある。ゆえに伝説のエリディルにご執心であるあなたがたには、お気に召すのではないかと思います」
「ただし、この話においては、私は宝玉神殿の神官長ではなく、大地の女神の聖域をつかさどる司祭としてものを言うことになります――そのことに異論はありますかな」
 わずかの間に感情を消し去った聖騎士は、ふたたび退屈そうな表情に戻っていた。
 深みのある、低い声が問う。
「その物語を聞き入れると、こちらになにか益になることがあるのだろうか」
 神官長はうすく微笑みながらうなずいた。目元に細かい皺が刻まれる。
「あります」
「さて。それはどのような」
「大地の聖女の司祭達は、しばしば宝玉の巫女達を野に遣わす決断を下していたからです――ある条件を満たした場合には、ですが」
 フェルグス卿の心は、ここでふたたび混乱の渦に投げ込まれることになった。
 神官長の口にした言葉の意味が、さっぱりわからないのである。
 大地の女神がいにしえびとの信仰した神々の一柱で、天空の大神と対をなす存在であることくらいはもちろんしっている。現在の神殿が至高の存在として祀り、フェルグス卿自身も剣を捧げた〈名を失いし神〉がかれらにゆかりのもの――一説には息子であったとされていることも。
 だが、宝玉神殿の長が女神の聖域の司祭であるなどという話は、これまでに一度も聞いたことはなかった。それとも、かれが知らないというだけで、エリディルにあってそれは自明の事柄だったのであろうか。
 そうなのかもしれない。
 かれはここに赴任してからというもの、それまでに学び常識と心得てきた神学とは微妙に、ときにはまったく異なる、ふしぎな言い伝えをいろいろと耳にしてきたのだ。これもそのひとつなのかもしれないと思うだけの経験が、かれにはあった。それに、ハル・ダーネイは伝承学の権威であるらしい。おのれの自尊心にかけても、まったく根拠のない話をでっちあげてくることはないだろう。
 とはいえ、この提案がカーティス・レングラードを困らせるためにわざと持ち出されたものであることは、火を見るよりも明らかだ。
 いい加減にしろと言うべきだろうかと、フェルグス卿は考えた。
 ひとひとりの運命を、個人的な意趣返しのために左右するなど、言語道断もいいところである。
 だが、神官長が大神官に異を唱える現実は、この状況以外にはあり得ない。そのことは考えるまでもなくすぐにわかった。
 カーティスに無理難題をふっかけることが本当に神官長の憂さ晴らしにつながるかどうかはともかくとして、とにかく、いま現在、ハル・ダーネイは大神官に従うことをはっきりと拒絶しているのだ。
 モード・シェルダインも、そのことを理解しはじめているようだった。彼女は膝の上で両手をきつく握りしめていたが、頬にはそれまでなかった血の気が、瞳には力が戻ってきていた。
 わずかの沈黙ののち、お聞きしよう、と聖騎士は告げた。
 神官長はうなずいて、机の上に積みあげられた羊皮紙の中から、とりわけ古びた一枚をそっと手にし、ではお話しいたしましょう、と顔をあげた。
「これは、いにしえびとの時代よりエリディルにつたえられてきた、巫女の守護騎士にまつわることどもです。この地位は長きにわたって空位のままでした。しかし、もし心あるおかたのご尽力あらば、伝説はよみがえるやもしれません。カーティス・レングラードどの。フェイエルガードの末裔であるあなたのお力添えがいただければ、いかにも、不可能ではないと私は思いますよ」
 神官長の双眸は、意趣返しの喜びに光り輝いていた。



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