青空は、しだいにわきはじめた白雲に覆われはじめていた。
石畳に、かぽかぽと蹄の音が響く。
黒馬を先頭にした一行は、神殿をかこむ城壁の外へとようやく足を踏み出したところだった。
(へんな散歩)
フィアナはなんとはなしに拍子抜けしていた。馬の散歩といわれて、ひろびろとした場所で馬を思いっきり駆けさせるのだと想像したのだが、ここまではその当てが外れている。
調子が狂うのは、のんびりとした足どりのせいばかりではない。
城壁内をぐるぐると回ってなかなか外へと出て行かなかったこともそうなのだが、これまで通った道筋もなんだか奇妙だったのだ。
かれらはことごとくフィアナの見慣れた道を避けた。その選択は、人通りのないところを歩く誓いでもたてているのかと疑いたくなるほどに徹底している。
おかげで、神殿生活十四年のあいだに一度も眼にしなかった場所を、いくつも発見することになった。正直に言って、こんなに未知の場所があったのかと驚きもした。だからといって、彼女が感謝の念を抱いたかというと、そういうわけではない。
じつのところ、かれらの歩いた、中央の聖域から外へと裏の区画を突き通してすすむ路地は、快適な散策とはまったくかけ離れた場所だった。人通りのない裏路地は門が閉ざされ、空気はよどんでいる。見慣れた建物の裏外壁は表に増して歳月に黒ずみ、荒れるに任されている舗装は敷石が波をうち、排水のための溝はことごとく泥と砂と枯れ葉に埋もれていた。なにかの大きな樹の根のようなものがあちらこちらから頭をもたげ、勢いのあまり敷石が破損しているところもあった。
ところが、散歩の主役である二頭の馬は、この悪路を勇んで前進しているようにみえた。
もしかして、これがこの馬たちの、いつもどおりの散歩なのだろうか。
そういえば、黒馬――ブラウフェルドはすっかりフィアナの命令に従順になっていた。その理由もまた、謎のままである。
(へんな馬)
神殿を出ても馬たちの足は速まらなかった。むしろ下り坂に意識してペースを落としているような気配がある。
慣れない乗馬に緊張しているフィアナにとって、それは歓迎すべきことだったのだが、このとき彼女はこののんびり加減に不満を覚えさえした。
そうして、花の盛りの〈見晴らしの壁〉を横目に山道をくだりつつ、
(そういえば)
と、ボーヴィル師に薬草袋の返却をせっつかれていたことを思い出し、
(どこで落としたのかはっきりとは思い出せないけど、壁に登る階段の途中のどこかなのは確かだ。帰りに少し寄り道して、探せないものだろうか)
などと思いをめぐらせていたりした。
自分がいかに身の程知らずだったかを悟ったのは、村唯一の酒場兼旅籠の店先をかすめて村の門を出たあとのことである。
たどりついた緑の草原で馬は容赦なく走る喜びを満喫しようとし、フィアナは砕かれた自尊心とともに息も絶え絶えになって鞍から下りることになった。
「怖かった……」
草の海に顔を出した古代の石積みにおぼれる者のようにすがりつき、よろよろと腰をおろす。
その姿に傲然と近づいてきたのは黒馬で、なにをそんなにへたばっているのだ、と言わんばかりにまたも鼻先を顔に突きつけて抗議する。
鼻息で髪を吹き飛ばすのはやめて欲しいものだと思いながら、フィアナは馬の顔を両手で挟んで睨みすえた。
「ブラウフェルド。あなたはミアと走ってきなさい」
黒馬は、不満そうにではあったが身をひいた。
「いいんですか、フィアナさま」
手綱をひきながらミアが鞍上から問いかけてくる。フィアナはついさっきまでこの侍女の腰にしがみついていたのだ。
「走りたいんでしょ、いいわよ。私は休んでるから」
言いながら包帯の巻かれた両脚をしめしてみせる。痛みはもうほとんどないのだが、見た目が仰々しいので説得力はあるだろう。
「でも……」
ミアの視線は、遅れてやってくる黒髪の若者へむけられた。
「大丈夫よ。ずっと走ってきたんだから、そんな元気ないと思うわ」
言った本人が(そんな元気ってなに?)と疑問に思っていることはつゆ知らず、ミアはそうですねとうなずいて、あっさりと速駆けの誘惑に屈した。
「なにかあったら、大声で叫んでくださいね。すぐに飛んできますから」
言うが速いか、嬉しげにはずむひとりと憤然と疾走する一頭はあっという間に遠ざかった。先んじた鹿毛と赤褐色の髪の若者を追って、いななく声とともにまだ丈の低い草のむこうへと消えていく。
「はあ……」
フィアナは思わずため息をついた。
持ち主にもわからない“いいもの”をもらう権利を主張して、居丈高な中にもひたむきさをみせる図体の大きな黒馬と、穏やかでおとなしいがやはり巨大な鹿毛、さらににぎやかなハーネス家のふたりがいなくなってしまうと、あたりは急に静けさにつつまれた。
それまで聞こえなかった風の音、草の音がひそやかに耳にうちよせるようになり、ほてった身体に山並みからわたる風が冷たい。視界にちらつくのはしろい花びらだった。風は、こんなところにまでシャンシーラを運んできている。
気がつくと陽光は雲に遮られていた。翳りをおびた大気に、思わずふるえが身をついて出た。と、背後から何者かが近づく気配があり、わずかに風のあたりが和らぐのを感じた。
「六の巫女、つきあわせて悪かった」
くしゃみをこらえて顔をあげると、聖騎士の従者がすぐ石積みの向こうに立っていた。
「喉が渇いたか」
「あ、うん……」
「これを飲め」
突き出されたものは、かなり使い込まれた革袋だった。金属製の口がついているが、汚れで半分黒ずんでいる。じっとみつめていると、水だとそっけない説明がされた。
おそるおそるうけとってみたが、どうにも口をつける気にならない。
「……ありがと。でも遠慮する」
拒絶を気にするようすもなく、若者は返した水袋をすぐさま傾けた。よほど喉が渇いていたのだろう。ごくごくと喉がうごく音がはっきりと聞こえた。鹿毛をジョシュに、黒馬を娘ふたりに貸し与えたかれは、城門からひとり、馬を追いかけ自分の足で走りつづけてきたのだから、無理もない。
(へんな従者)
無造作に口元をぬぐい水入れを戻すしぐさを、物珍しさと違和感の混じった不思議な気分で眺めた。
すわったらと声をかけると、若者はおもむろに離れた場所に腰を下ろした。
しばらく、沈黙がつづいた。
若者は、放心したように新緑に覆われはじめた丘に顔を向けている。
ときおり吹きくる風の中で、石と風景とに同化してしまったように微動だにしない姿をみているうちに、フィアナはそこはかとない眠気に襲われかけている自分を認識した。
「――そういえば、ねえ」
思いきって声をかけると、若者はゆっくりと身じろぎをした。
「さっきは悪かったわね」
謝る言葉に怪訝そうな相手をみて、フィアナはもう一度脚の包帯をさし示した。
「わざわざ送ってもらったのに、ミアが叩き出したりして」
「いや、べつに」
若者は目をそらし、ふたたび遠くを見る。
しばらくして、視線を戻さずにぼそりと訊ねてきた。
「痛むのか」
一瞬の空白ののち、これはさっきのつづきなのだと気づく。
「ううん、脚はぜんぜん」
身体はあちこちきしんでいるけれど、口にするのははばかられた。
「そうか」
一拍遅れた答えのあとは、ふたたびの沈黙である。
空から鳥のさえずる声が落ちてきて、知らぬ間に遠のきかけた意識がひきもどされた。
(いったいなんなの。このぶちぶちとぶち切れる空白ばかりの会話は)
自分も話の上手な方ではないと自覚しているが、若者の口の重さには正直あきれた。
間が持たないとか居心地が悪いとか、そういう重苦しさはいまのところないのだが(たぶん向かいあっていないからだろう)、あまりに間が長いのでなんの話をしているのかわからなくなりそうだ。
(ちょっと、このひと、頭鈍いんじゃないの)
さらに長びく沈黙に、話は終わったことになったのだろうかと思いはじめたとき、突然問われた。
「六の巫女、さっきの話だが」
「さっきの話?」
驚きに、思わず声が高くなる。
「厩で、話しかけた」
「ああ……カーティス卿のこと」
さっきといっても、もうずいぶん前の話のような気がするが。
「カーティスになんの用事だったんだ」
いまさらどうしてそんなことをと思ったが、考えてみればかれは聖騎士の従者なのだからあるじにかんすることに興味を持つのはとうぜんなのだ。むしろ、関心がないほうがどうかしている。
ただ、この淡々として無感動そうな若者にそんなふつうの好奇心があるとは思わなかったから、フィアナはとまどいながら言った。
「――カーティス卿に、聞きたいことと言いたいことがあったから」
この答えに、相手は何をと視線を返してきた。
「だって、ほら、あなたも聞いていたでしょう。カーティス卿は味方になってくれるとおっしゃった。私は、その言葉をどこまで信じていいのかを知りたいの。それに猊下のお言葉も」
そういえば、と思い出す。
「ボーヴィル師から聞いたんだけど、いまの大神官って、変人なんですってね。いにしえの森の民の生き残りと会ったことがあるとか、長い間行方不明だったことがあるとか、もしかしたら人間じゃないかもしれないとか、いろいろと妙な噂があるらしいじゃない」
横目で訊ねると、若者が答えにつまったような顔をしている。
「なあに、噂はほんとうなの」
「――噂は噂だ」
「ふうん」
ということは、この情報はボーヴィル師の作り話というわけではなく、幾ばくかの価値はあったということなのだろうか。
「で、噂の真偽は? 猊下が森の民だっていうなら、奇跡の力を持っているというのも信じてあげられるかもしれないわよ」
力なく茶化すと、若者は真面目な顔で答えた。
「人間なのはたしかだ」
驚いた。
「会ったことがあるの、大神官に」
若者は無言だったが、なぜか今度のそれは肯定をあらわすもののように思えた。
しかしほんとうは、そんなことはどうでもよいことだ。大神官が森の民だろうと変人だろうと、約束を守ってくれるのならかまわないではないかと、フィアナは思う。問題はカーティス卿の話してくれなかった事実と、その理由はどの部分にかかっていたのかということで、フィアナが問いただしたかったのもそこのところだった。
「カーティス卿は何を隠しているの。約束を果たせない確率のほうが高いということ? それとも、約束自体が方便ということ? ディアネイアの兄上の話はどこまで本当なの? 噂のこともそうだけど、考えているうちに訳がわからなくなってきちゃったわ」
これにも返事はなかったが、沈黙には深く考え込んでいるような雰囲気があった。
おそらく、フィアナは尋ねるべき相手をまちがえているのだ。従者にすぎないかれが知ることは、それほど多くはないのだろう。
相手が困っているのかもしれないと気がついて、フィアナはふうと息をつく。
ふところで、宝石箱がころりと落ちる感触があった。
「“奇跡の力”ってほんとうにあるものなの?」
つぶやくように言うと、若者は知らないと答えた。まあ、当然の返事ではある。
「そうよね。あなたが知ってるくらいなら、私はきっと知ってるし、私が知ってるなら、当然神殿中が知ってるはずだものね」
それならば初めからフィアナの悩みなど生まれないものを、現実はそうではない。
「――いちばんの問題はなんだ、六の巫女」
「え?」
「気にしている最大の問題を教えてくれ」
若者はその台詞をなんだかつまらなさそうに、それでいてひどく重大なことのように言った。
「それが解決したら、行けるのか」
それとも、解決しなければ行けないのか。
――それでは、永遠に神殿から出ることは叶わない。
つづけてそう言われたような気がして、はっとする。
たしかに、フィアナはとうに知っている。自分が本当にしたいことがなんであるかを。それが本来ならばけして実現するはずがなかったことも、今回がただひとつの機会になるだろうことも。どんなに困難な条件が揃おうとも、それは覚悟の上だった。巫女をやめたいと願い、それを実現したいのなら、選ぶべき道はただひとつしかないのだと、知っていたはずだった。
ただ、実行すれば失敗するかもしれない。いや、その可能性のほうが高いのだとも告げられた。あげく、すべての希望を失うことになったら、自分はどうすればいいのだろう。そう考えると不安になって、ためらいが消えない。
たぶん彼女は、失敗したときに、自分に代わって責任をとってくれる人物がほしいのだ。
だが、それをこの若者に指摘されるとは思わなかった。
いや、かれはそんなつもりで言っているのではない。ただたんに、任務の実現の可能性を探っているだけなのだろう。そのことは、事務的な言い方からも察せられた。
しかし、それはそれでなんとなく面白くない。
「――そう、まず一番の問題は、馬よ」
語気の強さに、若者はかるく眼をしばたたいた。
「もちろん、馬になんかひとりじゃ乗れないことくらいは初めからわかっていたわよ。私だってそんなに身の程知らずじゃない。まして、あんな大きくて凶暴そうな馬に。そうよ、わかってましたとも、私は馬には乗れないわ」
フィアナはそこで、落下しつづけていた視線を怒ったようにあげた。
「でも、あの黒馬はやっぱりちょっとヘンだと思う。断っておくけど、私、馬と恋愛したいと思ったことなんか、一度もありませんからね」
「……なんのことだ」
不思議そうに問われて、フィアナはぷんと顔を背けた。
「とにかく。こんなんじゃ私には旅なんかできないと思ったのよ」
言ってしまった後で、顔に血がのぼるのがわかった。なんてことだろう、これでは弱音だ。言い訳よりももっと悪い。よく知りもしない人物を相手に、さっきから自分はなにをしているのだろう。
(私は馬鹿だ)
だが、相手はフィアナの心中には気づかず、提示された問題について真面目に考えていたらしい。
「ブラドはもう大丈夫だ。六の巫女をわずらわせることはない」
静かに断言する若者に、フィアナは不審のまなざしを向けた。
「どうしてよ」
「名を呼んだからだ」
「はあ?」
「名を呼んだだろう」
「ブラウフェルドって?」
「そうだ」
「……ええと?」
「やつはもう、六の巫女の下僕だ」
(やっぱり、ヘンだ、このひとって)
まだ若いはずなのに、こんな顔をして迷信を口にするなんて。
いや、迷信というのは言いすぎかもしれない。それはたしかにかつては存在した言葉の力だった。しかし同時にそれは、いにしえ人の韻律の言葉によってのみなりたつ呪術であって、言葉のちからがうすれ、そのひびきも間延びして粗雑になってしまった現在では、まったく効力を失った過去の伝説である。
いまでも名前には韻律の言葉の変化したものがよく使用されていて、黒馬のそれにも独特のひびきがつよく残っている。本来のつとめがわりにいにしえの言葉を学ばされたフィアナには、かろうじてそのことが理解できた。だが、それが未だに機能することわりであると、信じたことなど一度もない。
フィアナは自棄になって訊ねる。
「だったら、あなたも名前を呼ばれたらどうにかなるの? そういえば、聞いてない気がするんだけど」
あなたの名前。
むきになって問うと若者はひるんだように身がまえた。フィアナは、厩で礼儀作法について一席ぶったことを思い出した。
「ああ、そうだった、ごめんなさい。まず私が名乗るのね。いいわよ、いちいち六の巫女って呼ばれるのもなんとなく嫌だから」
背筋を伸ばして息をととのえると、ちゃんと聞いているようにと念押ししたあとで、ひと息につづけた。
「私はエリディルの六の巫女、フィアナ・フィアリルサーナ・フィリアーナ・フィリオリル・フィランディアリル・フィオリデス・エルティアード・レイシア・グウェンディリル・コーヴェンダイン・デュアーリス・イェルスィニア・ヴィンドリサリア・エルメルシス・ディアネイア、よ」
はあ、と乏しくなった息をついてから顔をあげると、若者はただこちらを見ていた。どうやら目の焦点が合っていない。
「聞いてたの?」
「――聞こえたが」
途中でわからなくなったようである。
他人に正式名を名乗ると大概こうなるのだが、普通はもうすこし気概を見せるものだ。こんなに簡単に降参するのも珍しかった。
フィアナは大げさにため息をついた。
「宝玉の巫女にはね、一年過ごすたびに新しい名前が授けられるのよ。だから巫女である期間が長ければ長いほど名前も長くなる。でも、神様にいただいたものだから、ひとつだっておろそかにはできないの。ひとに教えることなんて滅多にないけど、中途半端にあつかうことは許されないわ。聞いたからにはちゃんと覚えなさいね」
厳かに、押しつけがましく、建て前を説明してみせると、
「――善処する」
とんだ難題をふっかけられたといいたげな困惑顔で、それでも若者は神妙にうなずいた。
「よろしい。それであなたの名前はなに?」
若者は眉間にしわを寄せ、なにかに抵抗しているかのような表情を浮かべている。
「言いたくないの?」
冷たくかさねると、
「――いや、そうではないが」
返ってくるのは、言葉とは裏腹の、あきらかに嫌々な答えだ。
名前ひとつになんと大げさなことだろうとあきれていると、若者のきつくひき結ばれていた口から、しぶしぶと声が押し出されてきた。
「――俺の名は、カイリオンの……」
「カイリオンの?」
つづきを促すようにくりかえす。フィアナの声は、くもりのない鮮やかさでその響きを完璧に再現した。
それに力を得たように――あるいは抵抗するすべをうしなったかのように、若者はひとつの響きを吐き出した。
「――ヴェルド……ルーク」
ヴェルドルーク、その意味するところは。
「〈光の……風〉?」
古風な韻律が耳をうつ。
強い響きは唇にのったとたん風にさらわれ、宙を舞った。
びょうと耳元を吹きぬけてゆく突風に、フィアナはおもわず頭を押さえた。
あおられて、ばらばらにほどけた長い金の髪は、しかし両手で押さえた程度ではどうにもならない。
叩きつけてくる風と視界を遮る金の紗幕にとらわれかけた意識がひき戻されたのは、目の前に呆然としている若者の、この風の中とはおもえぬほどに見ひらかれた眼に気づいたためだった。
雲に閉ざされていた太陽が、いつのまにかまた輝きをとりもどしていた。
その光を、なにもかもを吸いこむようだった闇色の瞳が、いまは反射させている。
とつぜん炎がともったかのように輝きはじめた双眸の、苦痛と孤独の気配をやどした静けさにひきこまれて、フィアナはあげかけた声を呑みこんだ。
(私は、この瞳を、どこかで見たことがある)
異変は、それだけにはとどまらなかった。
いままで影のようにめだたなかった姿が、初めて見るような鮮明さをもち、生きた肉体として目の前に忽然とあらわれたのだ。
そこにいるのは、まだ若い――少年のように若い、ひとりの男だった。
ほっそりとした、手足の長いからだつき。すっきりとひきしまった身体の線に、地味ではあるが質のよい騎士見習いの装束がなじんでいた。いまはただ投げ出されているが、立ちあがれば大地をしっかりと踏みしめるのだろう両足は、頑丈そうな長靴におさまっている。石積みの端をつかむ革の手袋をした手は大きく、力が強そうだった。
いまだ育ちきらぬ未完成なその肉体からは、しかし芯のとおった、しなやかな強靱さがうかがえた。
そして、抜き身の剣の鋭さと静寂を思わせる、若い貌。
風になぶられる髪の一本一本までもがくっきりと輪郭をあらわにし、いままでにない存在感を主張していた。
(いったい、これは)
何事かと、変貌した若者の姿にフィアナは目をまるくした。
それは数瞬のことだったにちがいない。
突然に襲った強風は次第におさまり、大気の流れはしずかに凪いでいった。
それとともに若者の姿も、灯火がついえるようにもとに戻った。
太陽はふたたび雲に隠され、地上のすべてが真昼の薄暗さの中へと埋没していった。
けれども名の韻律だけは、遠ざかった風のもと、なおもひびきつづけているようで、フィアナはしばらく身動きすることができなかった。
(いまのは何。光の錯覚だったの)
「ヴェルドルーク――ルーク?」
不思議な心地で見あげた相手は、はじめの困惑をとかぬままに口をひらいた。
「――六の巫女、俺は……」
さきほどよりも艶をおびたような気のするその声に、フィアナはぞくりと身をすくめる。
かれはしずかに目を閉じて息を吐き、ついで決意を固めたようにたちあがると、彼女の前の大地にひざまずいた。
いったん沈んだ頭がしずかにもたげられ、不揃いな前髪の奥の闇色の瞳があらためてフィアナを見あげてくる。
まなざしにやどった切迫感が、彼女をひどく不安にさせた。
――怖い。
胸に兆した感情を、もたらしたのはなんだったのだろう。
(なんだか、こんなことがごく最近あったような気がするんだけど)
息苦しさの中でたぐりよせた記憶は、やはりこんなふうになにかを求めるようなまなざしだった。すこし角度は異なるものの、瞳はおなじように闇と見まがう暗い色で、つややかに濡れていた。つよい意志を持って射すくめるように見つめてくるところも、そういえばひどく似ているような気がする。
(まさか――まさか、このひとも?)
おもむろに口をひらこうとする若者――ルークの目前で、フィアナはいきなり立ちあがった。
「ちょっと待って」
「六の巫女?」
「待てって言ってるでしょ」
感情的な強い制止の言葉に、ルークは困ったように眉をひそめた。
「すこし、だまって聞いて欲しいのだが」
しかし、フィアナは聞く耳を持ちたくなかった。
「嫌、聞かない。私はもう、ヘンな約束はしないんだから」
このまま流されて、黒馬の時のようにいかようにも解釈可能な約束をさせられてしまったらと思うと、どきどきするほど焦ってしまうフィアナである。
「誓約をするのは俺だ。掟にしたがって――」
「ほら、やっぱり約束なんじゃない。掟だかなんだか知らないけど、その手には乗らないわよ」
「ちがう。聞いてくれ」
「いや、聞きたくない」
そのとき、風に混じって、馬蹄の響きがはっきりと聞こえた。
ふりかえったときには豆粒としか見えなかったふたつの騎影は、丘をくだりつつ猛然とこちらへ迫ってくる。
「フィアナさまああああっ、だいじょうぶですかああああっ」
黒馬と娘は怒りの形相で黒髪の従者へと突進し、勢いのままフィアナの目の前を駆けぬけていった。
その後、ミアは怒った顔でフィアナの前に立ちはだかりつづけ、半径二メートル以内にはけしてルークを近づけなかった。
この行為の意味は理解していなかったが、ジョシュは従者をつまはじく行動によろこんで参加した。
その結果、ルークはふたたび馬を追って、ひとり神殿まで走らされることになった。
厩にたどりつくと、ハーネス家のふたりが馬をはさんで馬丁達とじゃれはじめたため、ようやくフィアナは監視から逃れた。
隙あらば髪を食べようとする馬の間をぬって、そろそろと歩きまわる。
ようやく見つけた黒髪の従者は、隅っこでひとり、馬具を片づけているところだった。
「――ルーク?」
ふりかえった若者は、フィアナを見つけて意外そうだった。
薄暗がりの中、相手の顔がはっきりと見えないことに感謝をしつつ、フィアナは息を吸いこんだ。
ようやく固めた決意を表明する声は、ほんのすこしだけ、ふるえていた。
「あの、お願いがあるんだけど。カーティス卿に、私は一緒に神殿を出るつもりがあるって伝えてくれないかしら」
しばしの沈黙ののち、相手は慎重に聞き返してきた。
「それは、本気か」
「もちろん」
「それが今夜のことでもか」
なにを訊ねられているのかを理解する前に、フィアナは反発するように答えていた。
「いつでも。いますぐでも」
言ってしまったあとで、(え、今夜?)と驚いたが、もう遅い。
「――わかった。伝えておく」
重々しい返答に、最後の一歩を踏み出してしまった気分になった。これでもう後戻りはできないのだ。
ミアの自分を探す声が聞こえてきて、フィアナはびくりとあたりを見まわした。声と気配は、馬の影にまぎれて遠ざかっていく。
あわてて、お願いするわと立ち去ろうとすると、
「さっきの話だが」
と、ひきとめられた。
すぐにもこの場から離れたい気分で、話とはなんのことだと頭をひっくりかえしたフィアナは、思いいたった“さっきの話”に血をのぼらせた。
「あの話は聞かないって言ったじゃない!」
それでもなんとかひそめた声で非難すると、相手は声を落とした。
「それでは困る」
「私は困らない」
「どうすれば聞いてもらえるんだ」
そういう問題ではないのだと言いたかったが、心の中で地団駄を踏んでいる間にミアの声がふたたび近づいてきていた。こんなところで押し問答をしている場合ではないというのに、思いつめたようなまなざしに身うごきがとれない。
フィアナは苦しまぎれになっていった。
「わかったわよ、聞くわよ。だけど条件があるわ」
彼女はルークに、〈見晴らしの壁〉のどこかに落ちているはずの、ボーヴィル師の薬草採取袋をひろって持ってくるようにと、言ってみた。時間稼ぎであることが明白なこの条件を、相手は意外に素直に受け入れた。やはり、あまり頭のまわる方ではないらしい。
どうやら交渉が成立したのを確認して、フィアナはそそくさとその場を離れた。
どこに行っていたのかとぶうぶう文句を言いつのるミアをいなし、ようやく私室に戻る。
扉を開けると同時に、フィアナはあっ、と声をあげた。
部屋中をいらいらと歩きまわっていたらしいモード・シェルダイン女官長は、フィアナの顔を見るなり足を止め、鋭く咎めた。
「フィアナさま、どちらへおいでだったのです」
気まずい気分を呼びおこされて、フィアナは相手の表情をおそるおそるうかがった。
「ちょっと散歩に……まさか、あれからずっとここにいたわけでは……」
「いいえ。私もそこまで暇ではございません。お待ちしておりましたのは事実ですが」
懸念とともに見おろしてくる鳶色の瞳に、後ろめたさを刺激される。ついさっき、この女性がけして望まないことをしてきたのだと気がついて、咎められているような心地になったのだ。
女官長は、しかしそのことには言及せず、ひどくあらたまったようすで用件を切り出した。
「フィアナさま、こころしてお聞きくださいませ。ダーネイ神官長が結論を下されました」
不意をつかれたフィアナは息を止めた。
「え、もう?」
まだお昼前なのに、ともごもご口にすると、となりでミアが、なんの話ですかといぶかしげに尋ねてくる。それを無視してフィアナは尋ねた。
「それで、神官長はなんて」
「あなたの里帰りは、認められないそうです」
里帰りってなんですか、とふたたび尋ねるミアを無視して、フィアナはため息をついた。
それほど期待をもっていたわけではないが、現実に言葉として聞かされると落胆するものだ。
あとは、聖騎士の言葉を頼りにするしかないが、エリディルの最高責任者の決定を覆すことなど、出来るのだろうか。
そのとき、さきほど黒髪の従者が口にしたひとことが、ふとよみがえった。
――それが、今夜のことでもか。
いったい、あれはなにを意味する言葉だったのだろう。
(まさか、夜逃げするなんていうわけじゃ、ないわよね)
説明してくれと懇願するミアをまたもや無視して、突飛な考えにぎょっとしていると、話はまだ終わっていないと女官長にたしなめられた。
「でも……認められないんでしょう?」
すこし投げやりにいうと、女官長は意外な言葉を疲れたようなため息とともに返してきた。
「神官長個人の意見としては、です。しかし、さまざまな状況を鑑みた結果、今回、ダーネイ神官長はご自分だけで事を決するのはいささか無理があるとおっしゃいまして」
神官長が判断できないことを、だれが判断するというのだろう。
狐につままれたような気分でつづきを待っていると、女官長はいったん視線をそらして、咳払いをした。
「それで突然ですが、あす、〈花占〉の儀をおこなうことになりました。いにしえの儀式をなぞって試練をおこない、守護騎士が出現するかどうかで神のご意志をあきらかとしたい――それが神官長のカーティス卿に提示された見解です」
北側の胸壁を形成する石積みをつたいのぼったルークは、城壁上に達するとすばやく狭間の陰にすべりこんだ。
そこは頭上のひらけたあかるい場所だったが、同時に静寂に支配されていた。あるのは空と陽光とそれがつくり出す陰影。そして風と、ときおり舞いあがる鳩の姿だけだった。
風はかすかに歌っていた。
前髪を吹き払い、肌にひややかな感触を残してすぎていく大気に、ときおり雪のような白いものが混じる。それは、かれを追いかけるようにして流れてきた、〈壁〉のシャンシーラの花びらだった。
太陽は中天をとうに過ぎていた。
静けさを破ったのは、背後に接近してきた気配だった。
身がまえたルークが、鋭い翼の音に耳をうたれたのは一瞬のこと。頭上をかすめて過ぎたそれは、ぐんと加速して上昇し、逆光にそびえる鐘楼のまわりを旋回するとふたたび目の前に戻ってきた。
悠然と、挨拶をしているかのような一連のうごきを、ルークは無言で観察する。
大気を斜めに斬るようにしてえがかれる飛行の軌跡の延長に、陽光を遮る影はときおり確認できた。しかし、その姿は最後まで見えないままだ。
遠ざかるそれがどの感覚にもとらえられなくなると、ルークはひきしぼっていた意識を拡散させて周囲に人の気配のないことを確認した。
見おろすエリディルの城壁内は、雲間からまだらにしたたりおちる陽光を受け、どこか落ち着かない雰囲気を醸していた。
そのことをすこし不審に思いながらも、草染みのついた袋を肩にかけなおすと、ルークは、自分の背の五倍はあろうかという狭間胸壁から音もなく裏路地へと降り立った。
そのまま、なにげない足どりで歩き出す。
途中、すれ違うものはほとんどいなかった。
ふたたび厩にたどり着いたルークは、聖騎士に命じられた事柄をあらためて点検していった。さいわいにして、かれに不可解な敵愾心を燃やしている赤褐色の髪の持ち主の姿は、ここにはいない。散歩の後、兵舎に戻ったときに上官に首根っこをつかまれたジョシュを残して、ひとりこっそりとぬけ出てきたのだ。そのとき、聖騎士はまだ部屋には戻っていなかった。
いま、ルークの行動を把握しているものはどこにもいない……はずである。
ひそかなる逃亡のための準備と手順の確認をしているあいだ、通路をゆきかう馬丁たちが黒髪の従者の存在を認識することはなかった。
ただし、馬だけはべつで、ブラウフェルドはルークをみとめるなり、いつものように攻撃的な挨拶を仕掛けてきた。ルークはこれをなんなくかわすと、締めくくりとして鹿毛の額を撫で、厩を後にした。
守備隊兵舎には、人間の気配がずいぶんと増えていた。離れていた半刻ほどの間に、出払っていたものたちがあらかた戻ってきたらしい。薄暗さ、悪臭についての変化はないが、熱源が増えたので建物内の温度がわずかだが上昇していた。人通りも頻繁になり、玄関から広間までの間に幾人かとすれ違うことにもなったが、暗がりに溶けこむように移動する従者の姿を、見咎めるものはいなかった。
ルークは、にぎやかな雑音のひびく奥へと歩を進めた。
広間では大勢の兵士達があつまって、お楽しみを目の前にした子どものようにわくわくと会話を交わしている。
「何年ぶりだろうな、トーナメントをするのは」
「〈花占〉が中止になってからだから、もう、五年は経ってるんじゃねえか」
「今回のはなんだか変則的な規則でやるらしいが、〈花占〉とは違うのか」
「さあな。俺は試合ができるってことしかしらねえもん」
「いやさ、それが一番大事なことだぜ。力比べができるってことがな」
「違いねえ」
楽しげに笑い声をあげる、もとは緑だったと推測される薄汚れたお仕着せの男達は、木製のベンチに腰をかけ、手に手に物騒な得物を持って、油をひいたり、曇りをぬぐったりと手入れに余念がなかった。顔ぶれの中心は、さきほど練兵場で聖騎士と守護の手合わせを間近にしていたものたちだ。鍛えあげられた身体が、かれらが守備隊の中でもとくに腕に覚えのある一団であることを告げている。
男たちの会話には聖騎士の話題ものぼっていた。昨夜、乱闘を収めるためにカーティスが発揮した腕っ節は、かれらに深い感銘をあたえたようだ。あの聖騎士と立ち合いをしてみたい。口々にいう男たちの顔は、無邪気な期待と興奮に輝いていた。
活気づいた部屋の隅には、掃除部隊から逃亡し隠れ潜んでいたものたちの姿もあった。
「なあ、こんなことになったんだから、もう、掃除はしなくていいんだよな」
「あたりめえだろ、全員出場しろって神官長からのお達しだ。そんな暇あるか」
「女官長あたり、なんか言ってこねえよな」
「こねえよ。女官長も準備で走りまわってる」
「それじゃあ、あの扉はどうすんだ?」
「馬鹿っ。その話はするなと言っただろうが」
「だってよう。まだ掃除は途中で、扉もぱっくり開いたまんまだろ。あのままほっといたら、なんか出てきそうでおれはものすごく嫌だ」
「だったらてめえは、ひとりで掃除してろ」
守備隊の隊長たる老騎士が副官を従えて上座に姿を現すと、広間はさらにざわめきを増した。
「皆、静かにしろ。明日のトーナメントのことで閣下からお話がある」
拍手と野太い歓声のわきおこるなか、ちょろちょろと動きまわる赤褐色の頭を発見し、ルークはその場を離れた。
途中、深緑のマントをまとった騎士とゆきあったが、眉間に皺を刻んだビリング卿は無人の廊下を歩むものの傍若無人さで、足早に通りすぎていった。
そうして、ルークが宿舎として貸し与えられた一室にたどり着くと、とたんに文句がふりかかってきた。
「従者ルーク、遅いぞ。どこで油を売っていた」
声のぬしは寝台に腰をかけ、待ちくたびれたと言いたげに前髪をかきあげていた。
「すまない。ブラドたちの散歩に手間取った」
落ちかかる金髪の間から、青い眼がじろりと睨んでくる。
「ちゃんと散歩はしたんだな」
「した」
「それならいい」
あれは走り足りないと機嫌が悪くなるからなと言いながら、聖騎士はひとりで身繕いをはじめた。
本来なら、ここは従者がかいがいしく世話を焼く場面のはずだったが、カーティスは正式武装をする以外の状況でルークにそれを教え込む面倒を厭った。じっさいはルークを従者としてからこれまでに武装をする機会はなかったので、結果的に、かれの従者はあるじの身の回りの支度をしたことがないままである。
ルークはつづけて報告する。
「命令通り、いつでも発てるようにしてある――六の巫女の了解も取りつけた」
生返事をしかけたカーティスが、面食らったようにふりむいた。
「なんだって。フィアナがうんと言ってきたのか?」
ルークは肯定した。
「条件付きだが」
「ふうむ」
寝台の端に腰掛けたまま、聖騎士はひどく興味深そうにルークを眺めあげた。
なんとなく居心地が悪くなって、ルークは普段はしない質問をした。
「今夜、何時だ?」
「ん? いや、それはいいんだ。今夜はなくなった」
準備させたのに悪かったな、と笑うカーティスにルークは無言である。
「そう、怒るな」
「怒ってはいない」
「そうか。怒っているように見えるものだから」
それならいい、とカーティスはあっさりひきさがった。
「作戦が延びたのはここの神官長のおかげだ。ハル・ダーネイ神官長が捨て身の最終攻撃を仕掛けてきた。なんと、地下の迷宮から蜘蛛の巣のはったような古文書をわざわざひっぱりだしてきて、“巫女の派遣”には条件があるとのたまったのだよ。われわれがその条件を満たさないかぎり、フィアナは一歩も外へは出さないと、そう宣言されてしまった」
計算外のなりゆきに腹を立てているような、それでいておもしろがってもいるような聖騎士のようすに、ルークは返答に困った。
「――条件とはなんだ」
「巫女に、守護騎士をひとりつけることだ」
なんだ、とルークは思った。それならば、もともとカーティスが果たすはずの役割と変わりないだろう。
「では、つければいい」
「そうだな。もちろんそうするつもりだが」
そこで青い瞳がまたも自分を注視していることに気づき、ルークはいぶかしそうに眉をひそめて問いかけた。
「――なんだ?」
これには答えず、聖騎士は話をつづけた。
「ところでだ。おまえ、守護騎士がどういうものか、しってるか」
「いや、よくは」
「そうだろう。だが大丈夫だ。これから私が説明してやるからすみやかに理解しろ。守護騎士というのはだな、その身を宝玉の巫女を守護することにのみ捧げることを誓約した、歴史上もっとも禁欲的な騎士のことだ。ふるきエリディルのしきたりによれば、その資格は、聖域をつかさどる司祭によって課される試練を乗り越えたものにのみ与えられる。合格するために必要なのは剣術と体術、ようするに護衛としての高度な能力だな。そしてむろん体力と精神力」
というわけで、とカーティスはそこで長剣を一振り、鞘ごと放ってきた。反射的に受けとめたルークに、顎をしゃくってついてこいと言う。
「これから少しばかり、手合わせをする」
「これからか」
思わず尋ね返すと、聖騎士は大きくうなずいた。
「これからだ。それともなにか。用事があるとでも……」
視線を落としたルークの手元を見て、怪訝な顔をする。
「なんだ、そのこきたない袋は」
「薬草採取袋、だそうだ」
「なんでそんなものをもってる」
「拾ってきてくれと頼まれた。手渡す必要があるのだが」
「――あとにしろ。こっちは明るいうちでないと剣先がわからん」
「剣の相手は他にもいるだろう」
めずらしく抵抗するルークにカーティスは苛立ったように髪をかきあげたが、それからこれまで一度も見たことのない真面目な表情が、強面の顔に広がった。
「誤解するな、従者ルーク。これはおまえのためにやってやるんだ。私のためじゃない」
嫌な予感がした。
「どういうことだ」
「おまえが、剣の練習をするんだよ。これからすぐに長剣に適応するんだ。はやくしろ。まだあと半日は時間がある」
「なんのためだ」
「従者ルーク。いいか、よく聞けよ」
言葉を切ったカーティス・レングラードの瞳は、窓からのわずかな光を反射して不敵に輝いた。
「じつは、守護騎士には実質的な報酬がないんだ。世俗の財産を持たない巫女の臣下だからな。どこまでいっても、ただの名誉職。いつまでやっても、ただ働きだ。もちろん、衣食住くらいは保証されるが、この神殿を見てみろ。よくてかつかつというところだろう。そんな暮らしは私にはとうてい我慢できない。しかも、わずかでも誓約に反すれば死をもって償わねばならないとくる。もし私が死んだら、都中のご婦人がたが悲しむだろう?」
ルークはまだなにを言われているのかわからないようだった。困惑したようすで、すこし怒ったように問い返してくる。
「それは……どういうことだ」
若者をあわれむ微笑を浮かべ、聖騎士カーティス・レングラードは告げた。
「だから、おまえだよ、従者ルーク。おまえが六の巫女の守護騎士になるんだ。明日、神官長の用意した試練を受けて、合格しろ。これは命令だ。わかったな」