天空の翼 Chapter 1 [page 26] prevnext


26 祀りの朝


 神殿の聖史はつたえる。
 いにしえの神々が地上を去られたのち、大地は翳りをおびた。光の源たる神々の不在が、影の存在をのさばらせることになったためである。
 地に残された人間は、生まれる以前、死してのちによこたわる暗闇への不安と畏れを目前に惑い、親を失った幼子のように泣きわめいた。泣き声はさかまく波にもまれるかのように上昇し、風に乗り、鳥たちによって上空へと運ばれた。
 天への道をたどりつつあった神々の中に、すべてにおいて若さにあふれ、超越者であることにとまどいを抱く神がおいでになった。
 ひとの子への慈愛深く、大地との縁を断ち切ることにためらいを覚えていた尊き一柱は、それでも掟にしたがって決別の一歩を踏み出そうとされたとき、ひとふしの懐かしき歌を耳にされた。
 地上の鳥のくちずさむ耳慣れた旋律には、ひとびとの嘆きが混ざり込んでいた。それは若き神の心を天上の輝きから闇にふるえるひとの子らへとひきもどした。神は人間の幼さを憐れに思し召され、信じあがめるものたちを置き去りにしたことを後悔された。
 そうして、若き神は、ふたたび地上に降り立つことを決意された。
 それがみずからの永遠に亀裂を生じる行為であることを、大いなる身はもちろんご存じだった。
 すでに、神々は光と闇のちからの均衡をとるために、あえて未熟だが可能性を秘めた人間に地上の支配権を移譲していた。このとき交わされたあらたな、そしておそらく最後になるであろう天と地との契約の履行にあたり、輝く神々はかれらの大地の眷属のように闇を受け入れることはせず、地上を去ることとなった。神性をとどめたまま地上に在りつづけることは不可能となったためである。それは神々の識るべき未来とは相容れることのない、愚そのものの行為であった。
 若き神を愛でた神々は、この決意を眷属の神性を貶めるものとして拒絶され、無謀を非難し、若き神の暴走を押しとどめようとされた。
 だが、かの神のこころはかたく、ただひとり従えていた風の民の戦士の献身を得てついに禁足の地をぬけだされた。
 神はふたたび地上へと降り立たれた。つよき絆をむすんだ白き翼のしもべとともに。
 大地に降臨した神は、目もくらむような輝きをもって荒廃した地上をはるか地平まで照らし出し、大気にここちよい響きを満たして、影を遠く追いはらわれた。
 そして、みずからをひとびとの未来へのともしびとなし、力強き庇護者として、慈愛と恩寵を惜しみなくあたえられた。
 ひとびとはじぶんたちを見守るために留まられた神を、くらぶべきものなき偉大な存在としてあがめ、しばらくは神の御許に至福の時代がつづいた。ときに厳しい神罰が下されることもあったが、至高の存在を得た地上の日々はおだやかに流れた。
 それは、いにしえの神々の息吹が遠ざかり、残照の輝きだけが地上にとどまっていた時代。ひとびとがまだ神代のしあわせを、そのひびきを、直接目にし、耳にすることができた最後の時代であった。
 だが、ついに運命の時がやってくる。
 ひとにとっては長く、しかし神にとってはさほどではない時をすごすうちに、神のすがたは変じていった。いまだ幼き地上の支配者が死とともに肉体と魂とにわかれ、魂は天空へ、肉体は大地へと還ることをさだめられたときに、大地とのつながりを持たぬ意識はすでに地上にあってはならぬものとなっていたからである。
 偉大な神も、神聖なる契約、世界を律することわりからは逃れられない。
 朽ちるべき肉体をもたぬ神は、その神性を永久にかわらぬ結晶へと硬化させていった。そなえし力にふさわしく不変の宝玉となった身は、まばゆいばかりに輝きを増し、その挙措とともにすすり泣きのような高く硬い響きをまき散らすようになってゆく。
 それは神の未来永劫つづくはずだった時が、意に反して停止をしようとする兆しであり、ひとに訪れる死となんら変わることのない終焉の予感であった。
 白い花の咲く季節、最期のときがせまりつつあることを理解した神は、地上でもっとも天に近いとされる峰のふもとにて、結晶した我が身の一部をとってひとびとにこれを分け与え、すでに身動き叶わぬみずからのかわりとせよと仰せになった。
 そして、最後の変化のきわまるまえにと、みずから時のない眠りの淵へよどみの奥底へと沈んでゆかれたのである。
 変貌した神のあらたな名前はだれにも明かされることはなく、かつての偉大な名はいにしえの言葉の中に封印され、滅多なことでは発語されない秘め事となった。
 ひとの子の最期の守護者となった存在は、こうして〈名を失いし神〉と呼ばれるようになる。
 ひとびとは、記憶のよすがとするために、そのしとねに白き花の樹を植えた。
 そして花の季節を迎えるたびに、つづく眠りの穏やかなることを願って祈りをささげるようになったのである。黒き大地に散り降るひらに思いをかさね、いまもなおたしかに感じる神の御手へととどくように、と念じながら――



 ――これがエリディルの祭儀〈花占〉にかかわる、大神殿の聖典に正規のものとしてしるされた逸話である。
 しかし、当地の人びとがこの神話を正確に理解しているかどうかは、はなはだ怪しいところだった。西の辺境に代々住まう一般的なひとびとは総じて読み書きに興味がなく、いまなおふだんの伝達は口頭によっておこなわれるのが常だからである。
 この地に生まれ落ちたひとびとの世界認識は、まず例外なく、世帯や氏族の年長者の語りによってはじめられる。語られるものごとは身近な親族の昔話から、しだいに時を遡ってかれらの始祖の話、果ては部族のあがめる大地の女神の話にいたる。それは、帝国の成立以前から連綿とこの土地に生きつづけてきた、長く神聖な血族の記憶である。
 子どもたちは、神殿によって編まれた正しい神話よりも、もっと深くおのれと関わる生々しいものがたりをふんだんに浴びるようにして育ってゆく。それは成長とともにかれらのこころ、かれらの血肉に根深く入り込んで、土地の者たちが共通していだく信仰の土台を形成してきたのであるが、その構造は昔もいまもほとんど変化していなかった。
 神官たちの言葉を聞き始める以前、とくべつな意識もなしに培われてしまった信仰に、あとから神殿が何を言って聞かせたところで、それは違和感のもとでしかない。
 あるいは表面的には一致する部分も多いゆえ、半端に既視感をさそい、ともすると自明の理とも感じられ、これもまた土地ものの意識を遠ざけるもととなった。
 〈名を失いし神〉を至高とする神殿の支配下にくだったのち、かれらは砦を神殿と言い換えるよう強制され、それを従順に受け入れてきもしたが、それはもともと砦がかれらにとっての聖域を守るために築かれたものであったからで、現世的な利害関係を含まない事柄にはかれらはたいてい鷹揚で無頓着だった。
 ただし、教えを諭す神官たちの言葉は、右の耳から左の耳へと聞き流されていたふしがある。
 ひとびとは神殿の言葉を理解せぬまま、現実的に対処した。つまり、表向き、信仰の対象のみを変えてみせたのである。
 おそらくかれらの無意識は、〈名を失いし神〉の信者となったはずのいまでも、大地の女神をあがめていた頃からそれほど変化していまい。
 西方のひとびとの素朴な血には、荒ぶる祖先たちの記憶がひっそりと眠っている。
 神官長の唐突で強引な発言は、その記憶を大きくゆさぶり起こすものであったらしい。
 エリディルは、静謐なるはずの太古からの聖域は、祀りの開催を宣する声に一気にどよめき、燃えあがっていた。
 ここ数年、祀りそのものの実施が見送られてきたというが、そのためにせき止められていたものが堰を切ってあふれだしたようである。
 炎熱は、儀式を再現するための腐りかけた古文書を発掘した見習い神官たちからたちのぼり、神官長の言葉を直にした守護や女官長を経由して高位の神官から守備隊の兵士へひろがり、さらには厨房や厩の下働きにいたるまでをのみこんだ。神殿に属する者たちは、年齢も立場も超えてほぼ例外なく突如としてうまれた狂熱にまきこまれていった。
 さらに昂揚はみるまに城壁をのりこえてあふれだし、山腹を怒濤の勢いで流れくだっていった。それとともに、出入りの村人たちによって伝搬していったとおもわれる噂が、驚くべき速さでふもとの村を席巻する。神官長のもとには当日のうちに村の顔役が訪ねてくる仕儀となった。神殿ばかりで祀りをとりおこなうなど言語道断と脅迫された神官長は、すでにいつもの慎重さを欠いていたこともあり、村人の参加にあっさりと許可をだした。城門はひらかれ、ひとびとはそれぞれに祀りへの情熱を炎と掲げて集いあつまった。
 こうしてエリディルは、天へとかけあがるような昂ぶりのままに夕暮れを、夜を迎えた。
 前触れなく翌日とさだめられた儀式をとどこおりなくぬかりなく、そして完璧におこなうために、聖堂をはじめ厨房も守備隊も女官たちの持ち場も、ありとあらゆる部署が臨戦態勢に突入した。
 もはや、日課も奉仕も義務も研鑽も祈りもあったものではない。
 厩の動物たちも、そして鐘楼のまわりをとびかう翼の持ち主たちも、地上の熱気に当てられたのか、どこか落ち着きをなくしていた。
 そこにいきなり、じぶんたちよりも大柄な鳥が攻撃的に飛び込んできたものだから、鳩たちは大騒ぎになった。
 白いからだに青鈍色の翼のその鳥は、逃げ去る鳩たちには目もくれず、機敏に空中で向きを変えると一直線にとある西側の窓辺へと降り立った。
 窓は、待ち受けていたかと思われるほどのすばやいタイミングでひらかれ、訪問者の姿は吸いこまれた。
 それがどの巫女の窓辺であるかということなど、もちろん鳩たちの関知するところではなかったが、間近に迫ったもよおしに思考を奪われた巡回当番の守備隊兵士も、この出来事に気を留めることはなかった。そして、眼にしたものをすぐさま忘れた。祀りの熱にくもった頭には、鳩ならぬ伝書の鳥の来訪も変哲のないただの日常と感じられたのである。
 たしかに、エリディルの周囲は非日常の空気につつまれていた。
 聖なる山々から吹きおろす風すら、どこかふだんと違う光をまとっていた。
 そして、だれもがそれを祀りの興奮のためと思い片づけた。
 鐘楼のてっぺんで、翼をひっそりとやすめる白い猛禽の姿を目撃したものがいたならば、あるいはなにかを感じることもあっただろうか。
 だが伝説の神の下僕の休息を妨げるものはあらわれず、いつしか深更を迎えて神殿も眠りについた。心落ち着かぬ浅い眠りではあった。
 そして、東の空が白みはじめ、祀りの朝を告げる鐘が鳴った。


 鐘が早朝の大気をふるわせたとき、守備隊の一番下っ端兵士こと自称フェルグス卿の従者見習いは、まだ眠りの中にいた。
 いかめしい石の建物の冷え切った一室で、おごそかな響きに身をうたれ、世界がゆれた――ような気がして、意識は突如鮮明になった。
 バネ仕掛けのように跳ね起きたジョシュは、硬い寝床でこわばったからだと、冷たい空気に刺された鼻腔の痛みとともに、響きに誘発された、鳴りやまぬ鐘の悪夢に顔をしかめた。あのとき、必死にとどめようとするかれをあざ笑うかのごとく響きつづけた鐘の音は、いまはとうに余韻ばかりとなっている。
 足りない寝台をすきまに草を敷き詰めて補い、雑魚寝をしていたはずの寝部屋には人気がなく、がらんとして寒かった。
 細い窓から差し込む陽光を眺めて、つかの間、ぼうっとしていたジョシュの頭に、ひとつの認識がおごそかに舞い降りてくる。
 きょうは、祀りだ。
 待ちに待った〈花占〉の日なのだ。
 服に手足を突っ込み、汚れた長靴をつっかけながら廊下に出ると、いつもとちがう空気がかれをとりまいた。
 ジョシュは、自分が完全に出遅れてしまったことを理解して、落胆する。
 しかも、今日の鐘は一度鳴ったら終わりではない。儀式の進行をしらせるために、小刻みに幾度も鳴らされるはずなのだ。
 そのことに思いいたって、すこしばかり嫌な気分になった。侍女をしている幼なじみの実の叔母は甥がいい気になって鳴らしたのだと思いこんでいるが、あのときの騒ぎだけは断じてかれのせいではない。
 信じたくはないが、鐘は、勝手に鳴ったのだ。
 だが、かれはその考えをきっぱりと忘れ去ろうとした。
 どのみち、それ以上を思い悩んでいる余裕はなかったのであるが。
 普段ならまだ寝ているはずの時刻だったが、今朝の石造りの陰鬱な建物はすっかり目覚めて、圧し殺した興奮としかいいようのない緊張につつまれていた。それでいて、雰囲気は酷くざわついている。設営の主力を担う守備兵たちは、道具を手にしてあわただしい出入りをくりかえしていた。城壁内の整備作業がまだつづいているのだろう。昨日のうちに片づけられなかった手入れを要する箇所は、ひとつやふたつではない。日が暮れるまではたらきつづけたが、神殿の敷地が広すぎるのと時間が足りないのとで手に負えなかったのだ。そして、暗くなった後は防具や武器の手入れに忙殺された。まずは、自分よりも位の上のものから順番に、である。ふだんの仕事もこなさなければならず、就寝したのは、夜もかなり更けてからだった。
 あと二刻のちには聖堂で儀式が始められる。それまでにすべての準備を終えておかなければならない、と叱咤激励する声が聞こえ、ジョシュは思わずこの場から遠ざかろうとした。かれのような下っ端は、あちらこちらにひきわたされて、うまく切り抜けないと、結果的に作業のもっともきついところでたらい回しにされかねない。それでは、せっかくの祀りが台無しである。
 きしむ身体を強引にうごかしながら、ジョシュは自分のするべきことについて考えをめぐらせた。
 まず、自分の防具をもう一度点検してみること。それから剣の切れ味をたしかめること。それから食事だ。いや、食事は早いほうがいいかもしれない。もし一度食いっぱぐれでもしたら、そのまましばらく食べ物にはありつけなくなりそうな予感がする。そうしたら、念願のトーナメントで満足のいく成果を得るのも難しいだろう。それに食事の後には入念に身体を温める時間が必要だ。こわばった身体のあちこちをほぐさねばならない。
 そうだ、きょうはトーナメントの日なのだ、とジョシュはあらためて感慨を抱いた。かれが守備隊に入ってから、初めて催されるトーナメントの日。
 しだいに、胸が高鳴ってくる。
 だが、下っ端の思惑はのっけからうまくゆかない運命にあった。
 食堂へといたる暗い廊下で、かれはもっとも会いたくなかった人物と鉢合わせをしてしまったのだ。
 兵たちが朝食を終えるのを待ちかまえて首根っこをつかみ、否応なしに指示を与えていた四十がらみの男は守備隊の副隊長で、遅れてやってきた寝癖だらけの赤褐色の頭をすかさず見咎めると、危険の兆候たる微笑をうかべた。
「おまえは客人の世話係だったはずだな。厨房から朝食の支度が出来たとしらせてきたぞ。はやくいって受けとってこい」
「えっ、でも俺まだ朝メシが……」
 副隊長のまなざしがすっと細まって「後にしろ」と命じるのにさからえず、ジョシュはおとなしく方向を転換して厨房へとむかった。
 厨房では、作業台の上にすでに盆が用意され、湯気のたつ食べ物の載った皿が並んでいた。
 意外につましく脂気の少ないものが多かったが、それでも自分のふだんの朝食より三倍は量が多く、五倍は手がかかっている料理である。
「ちぇっ。むやみやたらに豪勢だぜ」
 口の中でつぶやくと、いつのまにか側にいた幼なじみの早合点な侍女が、ほんとにねえ、とため息まじりに同意した。
「フィアナさまに、すこし分けてさしあげたいくらいだわ」
 見てよ、と言われてしかたなく目を向けると、そちらの盆の上にあるのは、うすい粥とひとかけのチーズ、それにしわだらけの乾燥シャンシーラが二粒という、さらにつましい、というより胃の弱った病人のためかと思われるほどに食べでのなさそうな料理だった。これが大食らいの六の巫女の朝食だとしたら、たしかにすこし可哀想な気がする。
「仕方ないよ。しきたりだからね」
 賄い見習いの他人ごとめいた口調に、ミアは哀しそうな顔をして言った。
「かわいそうなフィアナさま」
 ジョシュはというと、自分の運ぶ皿の上にめったに口にできない好物を発見し、いまいましさに余計に空腹が意識されたが、時間がなくなると指摘されて仕方なく盆を手に厨房を出た。
 覆いの下の陶器の皿に盛られた中身を気にしながら歩くと、いつのまにかへっぴり腰になってしまう。下っ端兵士の姿は周囲の笑いを誘い、ジョシュはさらにむくれながら兵舎をめざすことになった。


 その人物は、早朝にもかかわらず爽やかな笑顔でかれを待っていた。
「やあ、おはよう。ジョシュ・ハーネスくん」
「あ……おはようございます、カーティス卿」
 意表をつかれたジョシュは、かれらしからぬこもった挨拶を返し、あわてて足を止めた。
 鍛えあげられた長身とそれにふさわしい戦士としての凄みをそなえた都の聖騎士は、エリディル中でもっとも騎士に対する幻想にとらわれている若者であるジョシュの、現在の最大のあこがれの的だった。しかも、いま、相手は自分の名を呼ばなかっただろうか。
 いくら感激してもしたりないはずの出来事だったが、いまのジョシュは喜んでばかりいられない心境にあった。
 つまり、カーティス・レングラードは、狭い廊下の中央に陣取り、大きな身体でかれの行く手を完璧に遮っているのである。
 とっとと馬鹿馬鹿しい仕事を済ませて空腹を満たしにいきたいジョシュにとって、これは足止め以外の何者でもなかった。
 もちろん、聖騎士と話が出来るのは大変に嬉しい。小躍りしたいくらいのものである。だが、このタイミングは勘弁して欲しかった。適当に言葉を交わして立ち去ればよいのだろうが、それはかれの主義に反する。だいたい、憧憬の対象に対して、そんな無礼をはたらくものがいるだろうか。
 ややもするとひきつりそうになる頬になんとか笑みを浮かべ、掲げた盆の均衡を保とうとするジョシュに、聖騎士は「きょうも天気は良さそうだね」などとのんびりと話しかけてくる。どうにも他愛のない世間話で、これがほかの人物だったら蹴飛ばして逃げ出しているところなのだが、語っているのが聖騎士であるというだけで妙に嬉しいのだから困ってしまう。深みのある声のつくる気さくな口調を耳にして、あこがれの聖騎士にまむかう少年の心はふわふわと舞いあがっていた。
 話はそのうち〈花占〉に関するものになった。
 聖騎士は少しく申し訳なさそうに言った。
「しかし、これほど大がかりなものになるとはね。守備隊の方々にはたいへんな負担を強いてしまったな。きみも昨日は日が暮れるまでたいへんだったろう」
 思わぬねぎらいの言葉に、ジョシュはぽっとそばかすの散った顔を赤らめる。
「いや、べつに。たいしたこっちゃ、ないですよ。おれたち、ずっと待ってたんですから、〈花占〉を……というか、トーナメントを。神官長が〈花占〉をするって決めたの、カーティス卿のおかげなんだって聞きました」
 なぜかどもりながら力説してしまうジョシュに、聖騎士はさりげなく視線をあさってに向けて、苦笑する。
「……そういうことに、なるかもしれないな」
「なってますって。みんなカーティス卿に感謝してると思います。いや、絶対にしてますよ」
 だから、カーティス卿が参加されないってきいて、がっかりしてるんです。
 そう口を滑らせそうになって、ジョシュはあわてて自制した。目上に対しての尊敬が態度に表れないと評判の悪いかれであったが、それは相手が敬意に値しないからであって、相応の相手には十分に礼儀を尽くしているつもりである。もし、カーティス卿に対してすこしでも無礼をはたらいてしまったら、自分で自分が許せなくなるだろう。
 だが、それにしても悔しい。
 神官長の意向により、今回のトーナメントは挑戦者がひとりで守備側の全員を倒せるかどうかで守護騎士を決めていた時代の、古い段取りを再現することになっていた。会場となるのはトーナメントの舞台として皆の記憶に刻まれた〈見晴らしの壁〉ではなく、神殿の敷地すなわち城壁内の空間すべてである。だからこれほど石畳やくぐり戸の補修が必要になったのだ。
 それでも、今風だろうが昔風だろうが、本気の戦いが出来るならばそれで満足という単純な歓迎の雰囲気に支配され、ふだんは不平ばかりの兵士たちもすすんで村人たちと一緒に準備に励んでいた。
 ただ、祀りの実施を進言したはずの当の聖騎士が、儀式にのぞまず代役を立てるという報がつたわると、男たちのあいだに落胆の声があがったのはまぎれもない事実である。
 中断された守護との手合わせの再現を望んでいたものはすくなからず存在したし、それでなくとも毎日おなじ相手と十手先までお見通しのような練習している身からすれば、勝手のわからぬ人物との対戦は喉から手が出るほど経験してみたいものなのだ。
 守護の説明によると、聖騎士は信仰に唯一の剣を捧げている性質上、形式だけとはいえ、巫女を唯一のあるじともとめる守護騎士に名乗りをあげることは許されないのであるらしい。
 不幸な神官長は、どうして今回にかぎって、昔風の〈花占〉をおこなおうなどと思いついたものだろう。まったく、書物ばかり読んでいる被害妄想者の考えることはわからない。
 聖騎士の、もりあがった二の腕から分厚い胸板を経由して、太い首に支えられた彫りの深い獰猛な顔にゆきついたジョシュは、この偉丈夫の太刀さばきを見たいと思わないなんて、あの神官長はどうかしている、と本気で思う。
「あっ。でも、カーティス卿が出場されたら、試合をする意味がなくなるかもしれないっすよね」
 若い兵士の素朴な讃辞を鷹揚に受けとった聖騎士は、金髪をかきあげながら「ところで」と言葉を継いだ。
「じつはきみに、頼みたいことがあるんだが」
 思いのほか鮮やかな空色の瞳にじっとみつめられ、ジョシュはどぎまぎとしてしまう。
「えっ……なんっすか」
 聖騎士の頼みとは、朝食の届け先に同行させて欲しいというものだった。


 最上階まで階段をのぼりきり、薄暗い廊下を神殿守護の私室を横目に通りすぎる。突き当たりの古い扉の前には槍を手にした警護兵がひとり立っていた。古式にのっとり、儀式のはじまりまで室内の人物に対する接触を禁じるという通達を厳守するためである。が、いまの状況で付近に人影などあるはずもなく、兵士は退屈そうに壁により掛かっていた。
「客人に食事を持ってきた」
 つづいてあらわれた聖騎士の姿に気後れしたように目をまるくして背筋を伸ばす同僚に、「こちらは面会。閣下のおゆるしはもらってある」と告げて、錠をひらき、かんぬきをあけてもらう。
 扉が軋みながらひらかれると、古く冷たい空気がやってきた。
 高い位置にある小さな窓から、たよりない光が差し込んでいるだけの空間は、静寂をたたえた暗闇になかばぼんやりと沈んでいる。
 とりあえずきれいに片づけられてはいるが、それ以上に殺風景で寒々とした部屋だった。懲罰房でももうすこし愛想があるような気がするのは、かれがここを初めて見るせいかもしれない。
 貴人のための拘束室として昔からあるその部屋は、しばらく使われることもなく放置されていたはずである。
 ただ、部屋本来の存在理由を物語るように、置かれた数少ない調度には格と品がそなわっていた。
 そのひとつである寝台に、人影がある。
 こちらをむいて、腰をかけている、ほっそりとした若い身体。光を遮り、文字通り影をつくるひとの輪郭はかすかにうごき、そこにいるのが生きた人間であることをやにわに主張した。
 思わぬ緊張を強いられたことにすこし腹を立て、ジョシュは室内に勢いよく歩み入った。
「メシだ」
 叩きつけるように宣言すると、脇机のうえに盆を置く。
 わざと無造作に手放された盆の上で、陶器の食器はおそろしいほど騒々しく音を立てた。
 驚きに身体をすくめると、聖騎士の従者が、いや、いまは一時的に任を解かれて〈客人〉となり、大それたことに〈挑戦者〉とみとめられた黒髪の若者が、ざんばらな前髪の影からこちらを見た。
 ジョシュは眉間に皺を寄せる。
 噴出しそうになった感情は、黒い瞳のそらされると同時に勢いをうしなった。
「よう、従者ルーク。ゆうべはちゃんと眠れたか」
「――カーティスか」
 ぼそりと口にされた名前のあるじは、面白そうに若者の姿を眺めて言った。
「その格好、けっこう似合うな。少ない着替えにいただいて帰ろうか」
「無防備すぎる。俺は好まない」
 見れば、若者は昨日までの薄汚れた服ではなく、神殿の用意した潔斎用の簡素な衣をまとっているだけだった。丈はふくらはぎほどまであるが、薄くてたしかにたよりない。あたらしいことを除けば、ほとんど寝間着と変わりないようなひとえである。身につけるとだれでもすこし間が抜けて幼く見えるだろうが、どうやら、聖騎士は若者のこの姿がいたく気に入ったらしい。人の悪そうな笑みが、満面に浮かび、何をしにきた、とそっけなく問われたのに楽しげに答える。
「ご挨拶だな。一生に一度の儀式を前にして緊張しているだろう可愛い部下に、はなむけの言葉を贈りにきたというのに。昨夜の食事はきちんととったか。で、今朝のはどうだ。おお、これはなかなかうまそうだ」
 無表情ながらどことなく迷惑そうな若者の頭を大きな手でがしがしと撫でた聖騎士は、朝食の覆いを遠慮なくはぎ取って歓声を上げた。
「これは噂の、シャンシーラのゼリーじゃないか」
 ジョシュはごくりと喉を鳴らしてしまった。一年に一度、ありつけるかどうかという好物の、ほのかに甘酸っぱい香りが鼻先を思わせぶりにかすめていく。
「さすがに伝統ある宝玉神殿、生け贄に供する食事にも矜持があるな」
 もしかしたら、これが人生最期の食事になるかもしれんのだしなあ、と感心しつつうなずいた聖騎士は、小ぶりの鉢で型どられたと思われる薄紅色をした、やわらかそうにふるえる半透明の食べ物をうやうやしげに手に取ると、ほら、とジョシュの前にかざして見せた。
「食べたいのだろう?」
 視線は釘付けのまま思わずうなずくと、皿は目前でひらひらと揺れたあげく、予想に反して剣ダコのできた手の中に押しつけられていた。
「それを食べて、外で待っていてくれ」
 おとなしく部屋から押し出されようとする下っ端兵士を目の当たりにし、あわてた警護兵の抗議は、聖騎士の「扉は開けておくよ。さあ、これでいいだろう」との笑顔に押し切られてしまった。
 食い意地に負けたと非難する兵士のまなざしを無視して、ジョシュはうっとりとしながらゼリーを口に運んだ。
 出鼻はくじかれたが、今日の自分はけっこうついているのかもしれない。もしかしたら、トーナメントだってそこそこ勝ちあがれるのではなかろうか。そんなことを考えると、しだいに胸の奥から笑いがこみあげてくる。
 とにかく、相手があの従者だというのだから、負ける気はまったくしなかった。
 黒髪の若者のあらためて見た印象は、細くて、とにかく非力な感じだった。薄い衣にうきあがる身体は神官たちとは違い、それなりに鍛えられてはいるようだったが、筋肉がめだって発達しているというわけでもない。背も普通、というよりこのあたりの感覚でいえばむしろ小柄なほうだ。どちらにしても、聖騎士のように剣を片手でふりまわす膂力はないだろう。逆に振りまわされたとしてもおかしくはない。あれが〈客人〉では、守備隊の猛者たちはがっかりするだろう。
 〈客人〉が敗退してしまえば、いつものトーナメントに戻るのだから、それはそれでかまわないともいえたが、わざわざ昔風にこだわった意味がなくなるのも、くたくたになるまでさせられた作業を思うと業腹だ。
 ただ、とジョシュは思い出した。
 ついさきほど、闇色の瞳に覚えた圧迫感はなんだったのだろう。
 昨日までのヤツは、あんな眼をしていただろうか。
 開け放たれた戸口からは、聖騎士の声がはっきりと響いてくる。
 対する返答はぼそぼそとしているが、あたりが静かなのでほとんどのところ聞きとるのに支障はなかった。
「――それで、昨夜は何をしていたんだ」
「外を見ていた」
「空をか?」
「空もだ」
「そうか……何か見えたか」
「鳥が飛んできた。南から」
「鳩じゃないのか。ここには掃いて捨てるほどいるぞ」
 神殿の象徴に対する罰当たりな発言にはとりあわず、若者は淡々と答える。
「鳩ではない。もっと速く飛ぶ。西側の窓にまわりこんだ」
 なにかを思案するように唸る声がする。
 こんなことを尋ねるために、カーティス卿はここにきたのだろうか。
 が、よく考えてみれば、姿の見えない聖騎士がこの状況を歓迎していると断言することは出来ないわけである。いや、きっと金髪をかきあげながら苦い笑いをこらえているのだろう。
 あるじの思惑を感じとることもできないとは、やはりあの従者、たいした輩ではない。
 ジョシュは、若者に対する評価をもう一度下げた。
「――そういえば、きのうヘンな袋を持ってたが、あれはどうした」
「――薬草採取袋だ。部屋に置いてきた」
 そんなものは見なかったがな、とまたしてもいぶかる聖騎士への、返答らしき言葉はとうとう聞こえてこなかった。
 なんとまあ、意味不明な会話ばかりである。しかも、退屈だ。
 皿を舐め終えたジョシュは、そのとき、別方向からかかった声にぎくりとした。
「なんだ、おぬし。どうしてこんなところにいる」
 ふりかえると、枯れ葉色の髪をぼうぼうと茂らせた薬草園のあるじが、小柄な身体でひょこひょこ階段をのぼってきたところだった。しかも、その後ろからくるのは三の巫女の後見の騎士である。
「おまえさん、ハーネスのところの坊主だろう。なにをしとった。その皿はなんじゃ」
 ボーヴィル師の非難というよりは好奇心のまさった詰問と、ビリング卿のいつもながらの深刻さに気圧され、立場の悪いジョシュは後じさりを余儀なくされる。
「……ああーと、べつに俺は悪いことはしてな……」
 弱気な発言を聞きとがめ、神官は嬉しそうな声をあげた。
「なに、悪いこととな。それはいったい、どんなことじゃ」
 窮地に立ったジョシュを救ったのは、間一髪戸口に姿をあらわした聖騎士だった。
「おはようございます、おふたかた。こんなところになんの用ですか」
「ああ、おはよう、聖騎士の御仁」
「我々は神官長に〈客人〉の検分を要請されたものだ」
 真面目に答えるビリング卿のとなりで、〈客人〉はおまえさんの従者だったな、とボーヴィル師はつづけて問うた。
「へんな病気は持ってないだろうな」
 聖騎士は肩をすくめる。
「大丈夫でしょう。このところ、そんな暇はありませんでしたし」
 神官は、まあいい、診てみればわかるだろうと下品な笑い声をたてながら部屋に入った。
 会釈をしてつづいたビリング卿と入れ違いに出た聖騎士が「それではよろしく」と扉を閉めようとするので、ジョシュはあわてて皿を盆に戻しにいく。
 戸口には聖騎士が待っていた。
「もう、いいんですか」
「うん、助かったよ」
 ありがとう、と笑顔で言われてジョシュはふたたび朱くなった。
「ついでにひとつ尋ねるが――鳩よりひとまわり大きな、翼の先の青い鳥というとなにを予測する?」
「――三の巫女の伝書の鳥。公爵んとこから飛んでくるんっすよね」
 西の公爵は末娘と離れているのがさびしいらしく、頻繁に書簡を書いてよこす。公爵家に代々つたわるという血統書付きの伝書鳥は、そういうわけで、毎週のようにエリディルとエンクローズ家の所領を行き来しているのだった。
「ふうん、あいつが見たのはそれかな。三の巫女の部屋は西側にあるのか」
「ああ、はい。たぶん」
 そういえば、今週もそろそろやってくる頃だったような気がする。聖騎士騒ぎのため、いつもなら神殿中の注目の的である三の巫女関係の出来事も、あまり注意をひかなくなっているのだろうか。
 なにかヘンな気がしたが、理由がわからない。
 わかったのは、聖堂へ向かう聖騎士と分かれ、食堂に駆け込む直前でふたたび副隊長にとっつかまり、逃げ出すことも出来ずに舗装修復作業にむかわされた路地で、ふと鐘楼を見あげたあとだ。
 空を舞う鳩たちのようすを目で追ううちに、かれは気づいた。
 東を向いた〈客人〉の部屋の窓からは、神殿の西はおろか南側だって見ることはできない。どう頑張っても、逆立ちをしたとしても、それは無理だった。
 そもそも、あの部屋はさまざまな理由から窓そのものがひどく高い位置にあって、とりつくことすら至難の業のはずだ。あの窓は、けして景観を楽しむためにあるのではない。
 ならば、やつはどうやって鳥を見たというのだ。
 気づいた事実に立ちつくしたかれは、すぐさま作業に合流していた村人にさぼるなと殴られることになる。
 そしてふたたび、鐘が鳴った。



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