天空の翼 Chapter 1 [page 28] prevnext


28 〈祈りの間〉の巫女


「フィアナどの、大丈夫か」
(え、大丈夫って、なにが?)
 問いの意味を理解できぬまま、気遣わしげにのぞき込んでくる少女をぼんやりとみあげていたフィアナは、はたと相手の素性に思いあたって悲鳴をあげた。
(クレアデール!!)
 あわてて身をひこうとしたところ、同時にからだがおもうように動かないことに気づいて狼狽する。
 黒い瞳がとまどったように瞬くと、ふわりとなにかが離れた。それは、フィアナの肩をつかんでいたしろい手だった。
 おもわぬ展開にひたすら呆然としていると、クレアデールがすまなさそうに詫びた。
「驚かせて悪かった。何度呼んでも返事がないのでつい」
 そんなことはないと言いたいのに、フィアナは首を横にふることしかできない。どぎまぎしながら助けを求めてふりかえってみたが、いつのまにか扉は閉じられ、周囲にはだれもいなくなっていた。
 鐘の音も、いつの間にかやんでいる。
「女官長なら仕事に戻ったぞ」
「えっ……」
(いつのまに)
「少し――いやしばらく前だな」
 女官長は心配していたが、忙しいのだから六の巫女は自分がひきうけるといって追い払ったのだという。
 気づかなかったのかと問われて、フィアナは悄然とうなずいた。
「ごめんなさい、私……なにをしていたのかしら」
「そういわれてもな。私にはぼんやりと立っているようにしか見えなかったが」
 困ったような苦笑で返されて、どうやらまた意識が飛んでいたらしいと気づかされる。
「いったい、なにを見ていたのだ。私のほうが聞きたいくらいだぞ」
 クレアデールの言葉は、さらにフィアナを恥じ入らせた。
 そんなことを訊ねられても、答えられるわけがない。
 見ていたのは、目の前の少女だったのだから。
 祈り所の薄暗がりのなかに三の巫女を見つけたとたん、あまりに現実離れした光景に、フィアナはすっかり心を奪われてしまったのだ。
 天窓からふりかかる、木漏れ日のようなきらきらとした光の中。祈り所の光沢ある黒い床に、神秘的なまでにうつくしいすがたがうかびあがっていた。
 つややかな黒髪と白磁の肌の持ちぬしは、すらりとした肢体に祭儀用の衣装をまとっていた。ゆるやかに生まれるひだもしっくりと身になじんで、どこにも余剰の気配はない。淡い空色と純白の飾り気のない服は、凛とした美貌をいっそう際だたせるものだった。
 神聖にして高貴。
 それが、当代の三の巫女を形容するにもっともふさわしい言葉だった。
 クレアデールとまむかうと、フィアナは少女の存在感に圧倒された。こんなふうに自分のとの差を見せつけられたときには、とくにそうだった。
 なんという違いだろう。
 その服は、フィアナの身につけているのと基本的におなじはずだった。けれど、少女の床に落ちる長い裾と長い袖は床を撫でる寸前でとどまって、全体の流れるような印象をつよめこそすれ、幼さやぎこちなさを露呈するものではなかった。長すぎる袖をからげ、つまみあげた裾でなお埃を掃いているだれかとは、雲泥の差だ。
 しかも、年齢相応の成長をとげているクレアデールの身体には、しばらく会わないうちに目を瞠るようなめりはりが生まれていた。宝石めいて硬質な美のなかに不意打ちのようにあらわれる娘らしさは、少女を清らかなだけではない深みをもった存在として意識させ、フィアナの動悸はなおさらひどくなった。
 この威厳にあふれたうつくしい少女は、ほんとうに自分のとなりで舞うのだろうか。
 ほんとうに自分とおなじ、人間なのだろうか。
 まるで彫像のようにととのった、端麗なおもざしだった。通った鼻筋、意志の強さを思わせる眉。けぶるような長いまつげのしたの、ぬれたような漆黒の瞳。ふっくらとやわらかそうな朱い唇。そこにきざまれるおごそかな表情は、伝説の大地の娘のように神々しく気高く、そして――痛々しくみえる。
 その理由をフィアナは知っていた。クレアデールの顔は、万人には担うことのできぬ運命を負ったものの顔なのだ。クレアデールはまさに高貴な巫女姫だった。フィアナのような下賤の身にはとうてい想像のつかない、伝説のような人生を生きている姫君なのである。
 クレアデールの額の宝玉は、聖所においてひときわつよい輝きをはなっていた。光は少女を護り、つつみ込むかのようにひろがり、ときにまぶしいほどになる。
 息づくもののように瞬く宝玉の存在に、フィアナはめまいを感じた。鼓動にあわせて、どくんどくんと光がつよくなる。そのたびに圧迫感がまして、息が苦しい。しかし、つらくはなかった。むしろ、もっと見ていたいと思う。このうつくしい少女と、彼女をつつむ至高の輝きを。
 床から足がうきあがっていきそうな、奇妙な感覚が身体をつつんでいった。
 なんだろう、これは。
 うかんだ疑問は、どこかからか聞こえる調べに流されていった。足もとは、踏みしめた床ごと消えてしまったようだった。そうして、ついにはフィアナという存在そのものがうしなわれそうになったとき、幻想は断ち切られた。
 思いもよらぬ方法で。
 つまり、幻想のもとであったはずのクレアデールに肩をつかまれて、フィアナは現実にひき戻されたのである。


「いったい、どうされたのだ。フィアナどの」
 黒髪の少女は、大きな黒い瞳でフィアナをしげしげと見おろした。
 宝玉の巫女として地位をおなじくするふたりであるが、それほど親しい間柄というわけではない。神殿でのつとめがひっきりなしの三の巫女と、雑事ばかりのフィアナとでは、日々の行動範囲がほとんど重ならないのだ。しかも、生まれと育ちと、公爵家のとりまきという壁に阻まれて、クレアデールの周囲には容易には近づけない雰囲気が濃厚に漂っている。
 それでも、顔を合わせれば挨拶はするし、おなじ年頃のおなじ立場のものとして、クレアデールはクレアデールなりに、フィアナに親しみをもってくれているようだ。
 だが、それがフィアナの気後れを払拭する役に立っているかといえば、とうぜん否である。
「どうもしないわよ、ちょっと興奮しているだけ」
 胸のどきどきを鎮めようとしながら、フィアナは黒い瞳の凝視からそれとなく顔をそむけた。
 年下の同僚には何度も失態を見られているが、ここまでひどいのは初めてだ。
「それよりもねえ、私たち、女官長の言うとおりおさらいをしたほうがいいんじゃないかと思うんだけど」
 あなたもいい考えだといったじゃない、クレアデール、とこわごわ主張してみるが、
「たしかにそうだが、それはさきほどまでのこと。いまはフィアナどのの体調把握が優先だ」
 答えは、きっぱりとしてとりつく島もない。
 神の宝玉という非現実のかたまりを預かる身であるのに、クレアデールはおそろしいまでの現実主義者だった。率先してフィアナの面倒をみることにしたのも、事実上唯一の宝玉の巫女として、儀式における最大の不安要素が気にかかるからなのだろう。少女の考え方はフィアナにとっては合理的で隙がなさすぎた。
「儀式の最中に具合が悪くなっては、困るだろう」
 と指摘されれば、反論することはできないのだ。
 すっかり原因を突き止めるつもりになっているクレアデールは、意欲満々で、問診する医師のようにやつぎばやに問いをかさねてきた。
 以前に診たててもらったという風邪はともかく、ころんだ脚の具合までたずねられると、なぜそんなことまで知っているのかと質問したくなるのだが、もちろんフィアナにそれはできない。
 しかも、問われたいずれかに原因があるのなら救いもあるのに、
「――そっちも大丈夫。もう、ぜんぜん痛くない」
 答えていて自分でも情けなくなってくる。
 クレアデールは、ふうむと考え込むように顎にゆびを当てた。美少女がすると、そんなしぐさすら優雅で上品だ。
「そういえば、フィアナどの――あれからどれくらい舞の練習をつづけていたのだ?」
「……夕飯のあと、三刻ぐらいだった」
 黒い瞳が純粋な驚きにみひらかれるのを、フィアナはげんなりしながら見守った。
「それはたいへんだったな。つきあわなくて悪かった」
「ううん、いいわよ。クレアデールは……ちゃんと覚えたんだから」
 そう、少女は夕食後の練習には一度も姿をあらわさなかった。もたつくフィアナを尻目に、さっさと段取りと舞をものにしてしまったからである。
 しかし、フィアナにそのことを恨むつもりはまったくなかった。そばにいるだけではてしない重圧の源となる三の巫女は、どうかすると女官長よりもダメ出しが厳しくて、姿が見えないほうがずっとありがたい存在となっていたからだ。
 そのことはクレアデールもうすうす勘づいている。そうかと笑んでフィアナの罪悪感を刺激すると、それ以上は触れてこなかった。
「すると、やはり休息が足りないのかもしれないな」
 寝不足だろうかと不本意そうにいわれて、フィアナの心臓はふたたびの疾走をはじめる。
「なにか、ふだんと異なることはなかったか」
 脳裏にひらめいた手燭に浮かびあがる薬草採取用の袋に、フィアナは身体ごとぶるぶると横にふった。
「寒気はしないか。頭痛はどうだ」
「喉が渇くとか、食欲がないとかいったような症状は?」
 動転している患者をよそに、クレアデールは獲物を追いつめる猟犬のようにたたみかけてくる。フィアナは肩をすくめて首をふりつづけたが、
「意識が遠くなるとか、胸が苦しいことはないか」
 ずばり言い当てられて、しらばくれることを忘れてしまった。
「あ、それはさっきから。ほんとうのことをいうと今朝からずっと――」
 ようやく手がかりを見つけた漆黒の瞳は、宝玉に負けない輝きを放った。
「そうか。悪いがすこし触れてもよいか」
 応えを返すまもなく、クレアデールはすっと手を伸ばしてくる。びくりと身がまえるフィアナの、額に落ちかかる前髪の中に長いゆびを差しいれて、わずかにうつむいた。
 まるで、そうするとすべての異変の理由がわかるとでもいうようだ。
 いや、本当に見えるのかもしれない。クレアデールは〈神の眼〉の保持者だ。
 額の宝玉は、さきほどとかわらずに瞬いていた。
 眉間につよく触れる感触と脈打つ鼓動に溺れそうになりながら、フィアナは息をつめて少女の面をみつめた。
 永遠につづくかと思えた時間ののち、凪いでいた端麗な顔に、ある感情が波紋のようにひろがっていった。
 顔をあげたクレアデールは、まるでいま初めて出会ったものを見るような奇妙なまなざしをフィアナにむけた。
「――フィアナどの」
 慎重な呼びかけに、フィアナは息をのみこんだ。
「落ち着いて聞いて欲しい」
 朱い唇が、ためらいののちに紡ぎだしたのは予想外の言葉だった。
 どうしてなのか、自分は間違いを犯したのかもしれないとつぶやく少女に、思わず大丈夫だと声をかけたくなったが、むろんそんなことができるはずもない。
 言葉の意味をはかりかねて、かすれた声で問い返すのが精一杯だ。
「いったいどういうこと。なにが視えたの」
 教えてとひびかぬ声でたずねると、少女は覚悟を決めたようにまっすぐにこちらを見返し、潔いまでの率直さで答えた。
「あなたの宝玉は、目覚めかけている」


「……うそ」
 しばしの沈黙のあと、口をついて出た否定の言葉に、けれどクレアデールは真顔のままだ。
「……でも、いったい……そんなバカな。ありえないわ」
 しだいに声が高くなってゆくフィアナを手で抑えると、クレアデールは漆黒の瞳に力をこめて警告した。
「しずかに」
 押し殺した鋭い口調に、ぶるりとふるえがでる。すぐさま膝から力が抜けて、立っていられなくなった。支えられながら腰を落としたフィアナは、脈打つ鼓動がからだからあふれでて、床までゆれたような気持ちになった。
 無意識に服の胸元をつかんだが、金鎖はさぐりあてられなかった。
 クレアデールは全身をかるく緊張させていた。視線がゆっくりと水平にうごいてゆく。
「――だれかがくる」
 ささやく声と同時に、ノックが響いた。
 うごけずにいるフィアナを制して、クレアデールが立ちあがる。大胆かつ優雅な足どりで扉に達すると、「なにか」とおちついた声でたずねた。
「フィアナさま、あたしです。開けてください、フィアナさま」
(――ミア?)
 扉の向こうから聞こえる声は、フィアナの侍女ミア・ハーネスのものだった。
「用があるんですってば、はやく、はやく」
 〈祈りの間〉は関係者以外立ち入り禁止だというのに、なにをしにきたのだろう。時間がないとしきりに言い立てられて、クレアデールが問うようにふりかえった。フィアナがうなずくと、扉はすみやかにひらかれた。
「なにをぐずぐずしてるんですか。フィアナさまったら、まだねぼけて――」
 飛び込んできたいきおいのままに文句を浴びせはじめたミアは、そこで噛みついた相手が自分の小柄なあるじではないことにようやく気づいた。
 眼をまんまるにしてぽかんとくちをあけ、たっぷり一呼吸のあいだかたまっていたミアは、次の瞬間両手でなにかを抱えこむと、ひいいと床にしゃがみこんだ。
「ごめんなさい、すみません、失礼しました、クレアデールさま!」
 許してくださいと懇願する侍女に、黒髪の巫女はため息ひとつののちに、許す、と言った。
「それで、用とはなんだ」
 はっとしたミアは、そうだったと言わんばかりに力強く立ちあがった。握りしめているのはなにかと思えば、ボーヴィル師の薬草袋である。
「フィアナさま! ありましたよ! フィアナさまがうかつにも落っことして、ひとりで大騒ぎした飾り箱!」
 クレアデールが疑問にみちたまなざしをむけるので、かわりにフィアナが訊ねてみる。
「……あなたが持っているのは、箱だったの?」
 ミアは大いばりで否定した。
「もちろん違います。これは薬草おじさんのおんぼろ袋じゃないですか。箱はカーティス卿がお持ちです」
「カーティス卿が?」
「はい、そうです。フィアナさまの箱は、カーティス卿が拾ってくださったんですよ。それで……あ、とそうだ」
 ミアは、おそるおそるクレアデールをうかがった。
「こちらにカーティス卿をお連れしてもいいでしょうか。儀式の前にどうしてもフィアナさまに会わねばならないとおっしゃるので、そこまでご一緒してるんですけど……」
 そこまでとはどこまでだと問われたミアは、身をすくめて白状した。 
「……そこまでです、すぐそこ」
 扉を、クレアデールが開けはなった。
 外にいた人影が、突如として姿をあらわした三の巫女に不意をうたれたのは確かだ。
 だが、かれはすぐさま居住まいをただして歩みよると、禁域に踏み込んだものの気後れなどおくびにも出さず、うやうやしげに貴婦人への礼をとってみせた。
「ご無礼をお許しいただきたい、三の巫女」
 手に金髪の聖騎士の口づけを受けながら、ほんとうにすぐそこだったなと、クレアデールがつぶやく。
「アーダナの聖騎士が立ち聞きとは行儀が悪い。ここは祈りの場だぞ、カーティス卿」
 ひややかに咎める美少女に、カーティス・レングラードは悪びれたようすもなく、
「火急の用件ですので」
 と、微笑んだ。
 まるで、それですべてが許されるとでも思っているかのような、傲慢な笑みである。
 後見の騎士がいたならば、必ずや不快に眉をひそめるに違いないこの態度を、なぜかクレアデールは抵抗もなくうけとめた。彼女は重々しくうなずくと、淡々とフィアナには意味不明の言葉を返した。
「そうだな。私もそのことには同意する。時間はあまりない。貴公の同僚のカラスたちはケンデルを発ったそうだ」
 聖騎士の顔色が、わずかに変わった。
 ケンデルは、エンクローズ家の所領のなかにあって、もっともエリディルに近い街である。そして、街道沿いにエリディルをめざしたときに出会う、最後の街らしい街でもあった。
「二日前のことだ。父上の言葉が真実ならばな」
 つけられた保留の言葉に、カーティスは問いかける。
「――西の公爵が、愛娘のあなたに偽りを告げる理由があるのですか」
「ないな」
「あなたが、私に真実を告げる理由は」
「それもないな」
 聖騎士は、クレアデールの落ち着き払った端麗な面をあらためて見直すと、感銘を受けたものの面持ちで謙虚にわかりましたと言った。
「あなたは当代一の宝玉の巫女だ。フェイエルガードの末裔として、巫女のことばを疑うわけにはいかない。信じましょう」
 三の巫女は満足そうにうなずくと、特例として聖騎士の入室を許可した。
 黒くつめたい床に座りこんだまま、巫女と騎士の物語のような光景をうかがっていたフィアナは、自分をみて微笑む聖騎士を不思議な思いで見守った。外光を背に宵闇色のマントがひるがえると、長靴の音がちかづいてくる。
 あれほど会おうとして会えなかった人物だというのに、実際にまむかってみると、なにを言えばよいのかわからない。
 目の前で片膝をついた聖騎士は、落とし物だといいながら飾り箱を持たせると、そのままフィアナの手を両手でつつんだ。剣をふるう手はごつごつとして硬く、箱を持った手を完全に覆い隠してしまうほどに大きかった。
「話はうちの従者から聞いたよ。承諾と受けとってもよいのだね、フィアナ」
 穏やかだが断固とした問いに、フィアナは一瞬身体をこわばらせ、無意識にクレアデールの姿を求めた。
 ――あなたの宝玉は、目覚めかけている。
 そう告げた黒髪の巫女は、フィアナの視線に否とも是ともつかない、深いまなざしを返してくる。
 自分の言葉は嘘ではないと、静かに主張するようだ。
 だが、そのことを声高に言い立てるつもりも、ないらしい。
 フィアナは視線を戻すと、唾をのみ込むようにしてこくりとうなずいてみせた。
 交渉は成立だな、と聖騎士は手に力をこめた。
「これからしばらくのあいだ、我々は運命共同体だ。責任を持ってあなたをアーダナに送り届けよう。だが、六の巫女、あなたにもすこしばかり協力してもらう必要がある。いや、むしろ積極的に力を貸してほしいのだ。じつは、いま我々は客観的にいって困った状況にあるわけだが――」
 守護騎士の試練に立ち向かうのが聖騎士ではなく、べつの人物であることを思い出して、フィアナはむうと眉を寄せた。
 聖騎士はこの反応を予想していたらしく、眼もとに微苦笑の皺を刻んだ。
「心許ないか。だが、いたしかたない。神官長の要求は、いにしえの法に則った正当なものだ――ご本人にその自覚があるかどうかはわからぬが。我々は立場上これを無視するわけにはゆかないし、受けて立つからには、すべての条件を満たした完璧な答案を用意せねばならないだろう。あとで難癖をつけられても困るからな。現時点ではこれが最善の策だ――それに、私は勝算はあるとおもっている」
 予想外の薄笑いとあかるい言葉に、フィアナはまじまじと相手を見て思い出した。彼女の叔父は、なぜか真面目な話をするときほど不真面目をよそおうのだ。聖騎士は真剣だ。本気で勝つと言っているのだ。
 だが、そのためには、是非ともしてもらわねばならないことがあるという。
 そのとき、またも鐘が鳴りはじめた。儀式前に鳴らされる、最後の鐘だとフィアナは気づいた。
 いままででもっとも冷淡にひびいた鐘の音が消えてゆくと、聖騎士は表情をあらためた。
「時間がないな。手短にいこう」
 合図をすると、なりゆきを固唾を呑んでみまもっていたミアが心得たように近づいてきて、持っていたものを差しだした。
 聖騎士は、受けとったそれをわざともったいつけてゆっくり掲げてみせる。
 フィアナは、相手の真面目な顔と薄汚れたそれを見比べた。
 緑褐色の草染みがあちこちにしみつき、端がほつれかけている。
(これは……どこからみても、どうみても、間違いなく、ボーヴィル師の薬草採取袋……)
 それをなぜ、こんなにうやうやしげに、まるでなにかの証みたいに突きつけられなければならないのか。
 動悸が、ますますひどくなってきた。
 三の巫女は、このようすをひどく興味深げな顔をして見守っている。
 動揺しまいと必死になっているフィアナの気分など知らぬげな聖騎士は、つよいまなざしを据えたまま、ささやくように問いかけた。
「これをあなたに渡したのは、ルークだね」



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