天空の翼 Chapter 1 [page 29] prevnext


29 闇の旋律 光の鼓動


 あれは、いつのことだったのだろう。
 気がつくと、白い闇の中を歩いていた。
 名を呼ぶ声が聞こえたが、どこからなのか、だれのものだったかはわからない。
 あの声を聞いてはいけない。本能がそう告げるのにしたがい、耳に蓋をして、前へとすすみつづけていたからだ。
 あたりはまんべんなくしろく、そのしろさはうっすらとした輝きをまとっていたが、かといってほかに見えるものもなにもかった。
 ただ、かぐわしい薫りが、風にまじってひそやかに頬を撫でてゆくのだけが感じとれる。
 ここはどこなのだろう。
 どうしてひとりなのだろう。
 なにもわからないのに、不思議と迷いはなかった。
 とくとくと鳴りつづける心臓の音が、足を励ましていたからだろうか。
 彼方より聞こえくるうつくしい旋律に、こころを誘われていたからだろうか。
 歩きつづけているうちに、あらわれたのはあらたな闇だった。
 緑の闇。
 樹陰の闇だ。
 銀の幹を持つ大きな樹がたくさんの枝を伸ばして、足もとに瑞々しい闇をうみだしていた。
 しっとりとしたひびきを奏でるその闇の中には、ましろい衣装をまとった高貴な女性が悠然とたたずんでいた。
 銀の樹に咲き誇る花が、くもなす髪のうえに、ゆったりとした衣装のうえに、ひらひらと舞い落ちてきた。
 ――うつくしいであろう。
 貴婦人は、朱い唇をほころばせた。
 ――この白き花は、そなたらのきよき魂だ。巫女の心映えがよきものであればあるほど、花はしろくたわわに咲くのだよ。
 そうして、毎年妾の衣装を飾ってくれる。
 楽の音のような声でそういったのち、貴婦人はふとこちらをみとめて、なにをしにきたのかと訊ねた。
 ――かあさま。
 それまで凝っていた感情が、灼けるようななにかとともにはじけた。
 しろい衣装の貴婦人は、若くもなく年寄りでもない、輝く闇をあつめたようなふしぎな瞳で見おろしている。
 ――妾はそなたの母御ではない。
 にべもない台詞ののち、しかしと彼女はそっとため息をついた。
 ――そうはいっても、理屈からゆくと妾はそなたら巫女たちすべての母であるわけだ。わがつれあいの心臓を半分抱きしものよ。
 そなたはいまだ翼を持たぬ雛にもかかわらず、危険を冒してここまできた、と貴婦人はつづける。
 ――理解しているか。そなたは転落したのだ。だが、おかげで猶予がうまれた。わがつれあいの眠りは、いましばらくひきのばされよう。
 とたんに寒気が襲いかかり、足もとが心許なくなった。
 しかし、輝く闇の瞳はそれまでにない優しさをたたえて言った。
 ――申してみよ。願いを告げることくらいは許してやる。
 静かにうながされると、言葉はあふれた。
 ――かあさまに、会いたい。
 涙もあふれた。
 ――かあさまが、どこかへいってしまう。
 そのとき、遠い故郷の地で母は病床にあった。
 幼い巫女には酷なこととだれもが隠していたことを、なぜ自分は知ってしまったのだろう。
 ただ、ひたすらに不安でおそろしくて、吐き気がするような動悸にさいなまれていたことを思い出す。
 だれかに助けて欲しかった。
 いわれた言葉に理解できることはほとんどなかったが、目の前の貴婦人に、それだけのちからがあることだけはわかっていた。
 ――たすけて。
 必死の思いで訴えた。
 しかし、許されたのはほんとうに告げることだけだったらしい。
 それからフィアナが生母と会うことはなく、樹陰の闇にて貴婦人とまみえることも、またなかったのだった。


 用件を果たした聖騎士が侍女をともない姿を消すと、いくらも経たないうちに鐘が鳴りはじめた。
 儀式前の最後の鐘は、余韻をことさらひきずって、ゆっくりとにじむように消えてゆく。
 緊張に息をつめていると、〈祈りの間〉に進行役の神官たちがあらわれて、厳粛に儀式の開始を告げた。
 フィアナは薄衣の影から三の巫女をうかがった。クレアデールは無言で神官の指示に従うようにうながしてみせる。
 禁域を侵した不届きものの存在は、気づかれていないらしい。
 祭儀用のしろい肩掛けをつけた、こわばった無表情の男たちにしたがって柱廊を歩むうち、聖堂からあふれでたひとびとの気配が、ざわめきとなってつたわってきた。
 だが、ざわめきは、鈴がつよくふられると同時に、潮のようにひいていく。
 しゃん。
 澄んだ音を合図にして、正面の大扉がおごそかにわかれた。
 目の前に、ほのあかるい空間が大きくひらけてゆく。
 みじろぎの生み出す衣擦れの音。
 息を呑む気配。
 ふりかえるたくさんのまなざし。
 賛嘆のちいさなあえぎ。
 それらすべてを圧するおもたい沈黙のなかに、三の巫女は決然と足を踏み入れてゆく。
 そのあとをフィアナは追いかける。
 神官たちは数歩遅れて移動をはじめた。青鈍色の長衣をまとったかれらは香炉を手にし、ひとりずつ中央通路からそれて、あらかじめさだめられた持ち場へと散っていく。
 神官の通ったあとには白い煙がうっすらとひろがっていった。かすかに刺激をともなう香りが、鼻からあたまへとしみこむようにぬけてゆく。
 クレアデールは、人で埋まった聖なる場を臆することなく祭壇へと進んでゆく。足どりはいつもよりわずかに速い。歩みについてゆこうと、フィアナは両足を懸命にうごかした。
 しゃん。
 音は、はりつめた空気の身震いのようだ。
 フィアナはクレアデールのまっすぐな背中を追いながら、思い出していた。
 あのとき、ふたり残された〈祈りの間〉で、黒髪の巫女は言ったのだ。
「フィアナどの。まだ間にあうぞ。あなたがやめると言えば、儀式はおこなわれない」
 平穏に事を終える道は残されているとほのめかされて、しかし、フィアナはかぶりをふった。すでに覚悟は決めていたのだ。
 閉じた扉に手をかけたままでいたクレアデールが、ゆっくりとふりかえった。薄衣に隠れていた顔が、ほの明かりのなかで輪郭を得る。
 うつくしい少女の言葉は辛辣だった。
「もし、宝玉がほんとうに目覚めたら、どうするのだ」
「目覚めないわよ、私の宝玉だもの」
「私はいつわりを言ったわけではないぞ」
 不本意そうな面持ちの年下の少女に、フィアナは逆に訊ねた。
「あなたこそ。ほかのひとにしらせなくてもいいの?」
 自分の正当性を主張するわりに、クレアデールは聖騎士にも侍女にも、宝玉についての何事も告げようとしなかった。巫女としてはただちに神官長か女官長にしらせるべきだろうと思うのに、その判断をフィアナに預けてくれている。
 おまけに、目の前でくり広げられたとんでもない密談を咎めることすらしなかった。
 まるでフィアナがやめると言わないかぎり、すべてのたくらみを黙認してくれるつもりのようなのだ。
 しかし、それはいったい、なんのために。
 不安と緊張でせっぱ詰まったフィアナは、ひどい形相で挑みかかっていたのだろう。
 クレアデールはかすかに肩をすくめた。
「もともと、今回のことを神官長に持ちかけたのは、私だからな」
 馬鹿にされたと怒りに目をくらませるダーネイ神官長に、カーティス卿の鼻をあかせるかもしれないと〈花占〉のトーナメントのことを吹き込んだ。聖騎士が正規の挑戦者になることは不可能であることも、自分が教えたのだと告白する。
 どうしてそんなことをと驚くフィアナに、黒髪の巫女はまなざしを返した。
「兆しを、感じたからだ」
 その言葉と、黒い瞳の輝きの理由をたずねるいとまは、あたえられなかった。
 しゃん。
 ふたたび鈴がふられたときに、フィアナはなんとか祭壇の横に到達していた。
 乱れる息をととのえながら顔をあげると、クレアデールが薄衣の下からおなじようにこちらを見ているのがわかった。
 大丈夫かと、漆黒の瞳に訊ねられたような気がして、フィアナは眼でうなずいてみせる。
 実際はとうてい大丈夫とはいえない状態なのだが、弱音を吐いている場合ではなかった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 〈花占〉は、フィアナのいままでの人生でなによりも重大なもの、かけがえのないものだった。その中心に自分がいるというだけでも予想外の事態なのに、まさかその真っ只中でぜんぜん関係のないべつのことを考える必要に迫られることになるなんて。
 集中力のとぎれがちな意識には、聖堂内の空気の緊張がひりつくようにつたわってきた。クレアデールすら例外ではなく、翳ることのないように思われた美貌がかすかに青ざめている。
 そのことに気づいたとたん、
(どうしよう。なにも思い出せない)
 とつぜん膨れあがった不安に、フィアナは恐慌に陥りかけた。
 からだが一瞬、棒のようにうごかなくなる。
 しゃん。
 鈴の音が、叱咤するように響いた。
 反射的に、フィアナは手にした細枝を祭壇へと掲げた。
 正対したふたりの巫女は、かろうじてどうじに膝を折る。
 しゃん。
 〈名を失いし神〉への挨拶から、神下ろしの舞は始まる。
 律動を刻む鈴に追い立てられるように、フィアナは覚えた所作を懸命になぞりはじめた。


 こわばった四肢をむりやりうごかして、始まりのひとふしを滞らずに終えることができると、すこしだけ安堵した。それで肩から余分な力が抜けたようだ。搏動がゆったりとした鈴の律動にかさなりはじめると、しだいに混乱は収まっていった。
 おちついた心は律動を自然に受け入れて、間断なく舞へと変換していく。
 なにかを思い煩ういとまなどない。からだそのものが音に反応し、音と一体となってからだはうごき、舞はかたちづくられては変化してゆく。
(そうか、歌とおなじなんだ)
 律動は、からだのなかにある。
 声の代わりに身体をつかえばいいだけのこと。
 ぶかぶかの服が邪魔をして、いくども裾を踏みつけそうになったが、もう動揺の理由にはならなかった。
 旋回する視界の端に、クレアデールの蒼い服の裾がふわりとひろがるのがみえた。
 聖堂を埋め尽くした参列者たちの、陶然とした顔が、つぎつぎに前をよぎってゆく。
 ――からだから、力をぬくのです。神の器になるために、あなたは無となりなさい。
 そうさとしてくれた女官長は、気が気でないような顔をしてこちらを凝視めている。
 かたわらの神殿守護のいかめしい顔にあるのも、出来の悪い子供をみまもる不安と期待のない交ぜになったような色である。
 側仕えの侍者にかこまれた神官長の細面に、予想外のものを眼にした者の感嘆が浮かんでいるのに気がついて、フィアナは心の中で微笑んだ。そういえば、ダーネイ神官長にとって、これが赴任してから初めての〈花占〉なのだ。
 少し離れた会衆者のなかにはミアがいて、なんだかぼうっとした顔をしていた。儀式で焚かれる香に弱いミアは、もしかすると気分が悪くなっているのかもしれない。
(その隣にいるのは――)
 宵闇色のマントのカーティス・レングラードは、眼の泳いでいる侍女を支えてやりながら聖堂全体を見守っていた。巫女の舞と鈴の音の連続に陶然とする集団から離れて存在するかれは、ほかのだれとも違う傍観者だ。
 カーティス卿はフィアナの視線に気づいて、励ますようにうなずいた。
 これからしなければならないことが胸の奥からせりあがり、フィアナはあわてて意識を祭壇へと戻した。
 しゃん。
 ――この袋を渡したのは、ルークだね。
 あの質問に答えるのに、どうしてあんなに抵抗があったのかはわからない。
 けれど、茶化すような口調とは裏腹なつよいまなざしに気圧されて、フィアナは認めざるを得なかった。
 たぶん、そのとおりなのだろうと。
 フィアナは袋が持ち込まれた現場を、見ていたわけではない。黒髪の従者がじっさいに袋を手にしているのを、眼にしたわけでもない。
 それでも、自分がそれをもってくるようにと頼んだのは事実だし、相手がそれを真面目に受けとめたことも、不本意ながらしっていた。
 〈見晴らしの壁〉に落としてきたこきたない袋を、わざわざ拾ってとどけるような人間がほかにいるとも思えない。
 だから、やっぱりそうなのだろうと思う。
 思うけれど、それをこたえるのが、なぜこれほど気まずいのか。
 それに、自分の従者が名を名乗ったと確認したあとの、聖騎士の満足そうな微笑みに、なにかを弁解したくなった理由も、わからない。
 しかし、いまはそんなことをぼんやりと考えている場合ではなかった。
(考えるのは、あとだ)
 最後の一節にあわせた大きな動きでクレアデールの生み出したちいさな風に、薄衣がふわりとなびくのを、フィアナは五感を通して意識する。
 視線をあげると、神樹を模した柱の支える祭壇の天蓋までが、香に煙っていた。
 心臓の鼓動は、肌が震えているのではないかと思うくらい、身体ぜんぶにひびいている。
 律動によって生み出された旋律が、四肢のすみずみにこだましていた。
 このまま歌い出してしまいたいという衝動を抑えつけながら、フィアナは両手をシャンシーラの枝に添えて頭上にかかげた。
 しゃん。
 最後の鈴の音とともに舞が、終わった。
 〈名を失いし神〉の意志は、巫女へと依りきたった。
 いまや神の気配にみちみちた聖堂には、神官たちによる喜びの唱和がおごそかにひびきはじめた。
 そして、いままで入場を待たされていたものたちがゆっくりと歩を進めてくる。
 舞の後におこなわれるのは、巫女によるもののふたちへの祝福である。守護騎士の試練に参加するものたちには、ひとしく神からの恩寵が授けられる。男たちは神の意志を表現するためのたたかいに、神のみこころを抱いておもむくのである。
 神官長が出した命令により、守備隊の兵士は当番をのぞいてほぼ全員が試練に参加することになっていた。むこうみずな村人も数名が参加を表明しているらしい。
 無骨な顔をした逞しい男たちの多くは、はりつめた空気にあてられたのかこっけいなくらい神妙な表情を浮かべていた。腰のひけたようすでおそるおそる近づいてくるかれらひとりひとりに、祭壇の巫女はシャンシーラの枝を払い、横から差し出された鉢から片手で少量の水をすくっては、ふりかける。
 ――汝を祝福する。
 言葉は、よどみなくすべり出た。
 ――われの意志をひとびとに知らしめよ。
 自分のなかにほんとうに神がいるのではないかと思うほど、いにしえの韻律が自然に響く。
 しろい花びらをうかべた銀の鉢からつぎつぎに聖水を受け、祝福を待つ男たちの列は次第にみじかくなっていってゆく。聖堂の緊張はすこしずつゆるみはじめていた。
 しかし、フィアナの動悸におさまる気配はない。
 列の終わりが近づくにつれて、不安と緊張はさらにましてゆく。
 気がつくと、水をすくいあげるゆびさきが、ふるふるとふるえている。
 視界のなかに恐れていた人物の姿が近づいてくると、フィアナは緊張のきわまりから意識が遠くなりかけるのを懸命にこらえなければならなくなった。
 小柄な薬草園のあるじと背の高い後見の騎士にともなわれて、黒髪の若者はそこにいた。
 潔斎用の白衣だけをつけたほっそりとした姿に、力みらしきものはまったく感じられず、こちらの緊張が馬鹿馬鹿しく思えるほど、温度の低い顔つきで淡々と立っている。
 事実、〈挑戦者〉としてべつの場所からやってきたかれは、残っていた列の最後尾に足を止め、自分の番になるとさっさと三の巫女の前に進もうとした。たしかに順序からゆくとクレアデールに振り分けられる位置にいたのだが、それはそれとして、かれは自分が参加する試練がだれの守護騎士をさだめるものであるのかを、きちんと理解しているのだろうか。
 呆然と見送りかけたフィアナの前で、クレアデールがおごそかに片手をあげて制止する。
「そなたの祝福は、六の巫女に」
 同時に後見の騎士にむんずと肩をつかまれ、ひきもどされると、間髪おかずにフィアナのまえに押し出されてきた。
「こら、ひざまずくんじゃ、馬鹿者」
 ボーヴィル師のどやしつける声が、静まりかえった聖堂にひびく。
 くすくすと馬鹿にしたような笑い声があがり、しかし、若者はそのことにも動じることをせず、おとなしく黒い床に膝をついた。
 まったく、わけがわからない人物だった。
 いったい、どうして、あんな約束をわざわざ果たしたりするのだろう。
 ひとくちに〈見晴らしの壁〉といっても、それほど狭いところではない。一度も見たことのない薬草採取袋を、どこで落としたのかも教えられずに探し出してこいといわれる。それがたとえ巫女の要請だったとしても、ふつうの人間はきっと真に受けたりしないだろう。
 どう考えても嫌がらせか時間稼ぎでしかない無茶な要求に、すなおに従おうと思う熱意が、この若者のいったいどこにあるというのだろう。
「……六の巫女」
 鉢を掲げた神官の注意に我に返ると、目の前の若者は、うつむけていた顔を不審そうにあげていた。
 闇色の瞳は、焦点を結んでいるのかいないのか。
 けれど、よくわからない誓約にひとりでこだわっていたかれの、一瞬だけみせた怜悧な表情は、フィアナの胸にもつよく焼きつけられていた。ふしぎなことに、それがふたたび取り戻せるというのなら、これからすることにもまったく意味がないわけではないように思えるのだ。
 カーティス卿の言葉を信じるならば、それは、フィアナの現状にも役立つはずだった。
 ――名を呼ぶのだ。
 若者は名で存在を縛られる出自のものだと、聖騎士は言った。カーティスは、ルークが現在の大神官もつらなる旧家に代々仕えた、古い血筋にかかわりあるのものなのではないかと推測していたのだった(変人といわれる大神官には、さまざまな交友関係があるらしい)。
 よく言われるのは、古い血筋をつたえるものたちは、自分の名前を明かさないということだ。名前を所有することにより他人を支配する。いにしえのことわりを実現可能な術としていまだに保持しているためだといわれていた。そして、それは真実だったのだ。
 ルークは大神官によって解き放たれた。
 だが、名前を縛られてきた期間が長すぎたのか、若者は確固とした自我を持たなかった。自分という存在を確信していない、輪郭のない存在はふとしたはずみでゆらいでしまう。深い影のなかにとらわれて、自分の姿を理解せぬままに薄れていってしまいそうだ。
 だから、誓約を欲している。
 大神官の私的な護衛をつとめていたくらいなのだから、そのための技術は身につけている。トーナメントにも希望はあるはずだ。ただ、このままでは難しい。いまのルークには長丁場に耐える精神力がない。
 かれを守護騎士として得るためには、この現実に呼び戻し、この場につなぎとめなければならなかった。
 ――だから、もう一度名を縛るのだ。
 自分から名乗ったルークには、それを受け入れる意志があるはずだと、カーティスは言った。
(お願いだから、うまくいって)
 フィアナはいまにも破裂するのではないかと思われる心臓をかかえたままで、右手で枝の先を若者の頭上を薙ぎ、左手を鉢のなかに浸した。こわばったゆびを無造作にひきだすと、派手にしぶきがあがり、あたり一面に飛び散った。フィアナの顔にもつめたい飛沫が飛んできた。
 祝福の言葉は難なく出てきたが、他人がじぶんのからだを使って口にしたもののようだった。
 若者が立ちあがり、祝福の大しぶきを受けた頭をゆっくりとあげた。
 このまま祭壇から下がってゆけば、祝福の儀式は終わりとなる。
 背後の後見の騎士がけわしい顔で促すのにしたがい、踵を返そうとする。無感動なその背中に、フィアナは意を決した。
「――カイリオンのヴェルドルーク」
 とつぜん響いた金色の声に、聖堂中が目を剥いた。
 すべてがひととき我を忘れ、うごきをとめた。神官たちの朗唱はとぎれていた。
 だが、もっとも大きな驚きをしめしたものは、目の前にいる。
 うたれたように身を硬直させたルークは、つぎの瞬間には呼び声を確認するようにすばやくふりかえっていた。
(ああ、あのときの眼だ)
 ふだんの、どこを見ているのかもわからないような茫洋としたものではない。
 はっきりとした意志をやどしたまなざしが自分を認めてさらに生気をおびるのに、ふしぎな喜びがこみあげてくる。
 ルークははっきりと返事を返した。
 濡れた髪のあいだから、苦痛と期待がないまぜになったような眼が、フィアナをみつめる。
 視線の思わぬつよさに、フィアナの心は身体ごと戦慄きはじめた。
 光の粒子が、神樹の森の薄闇にゆっくりとうずをまくしろい香煙のなかをおりてくる。
 聞き覚えのある、しっとりとした旋律に誘われて、搏動が呼応するのを感じながら、宣言した。
 約束の物を受けとったことを。そして、願いを聞き入れるつもりであることを。
「あなたの誓約を受けます」
 約束を果たした代価に拘束を期待するなんて、やはりこの若者はどこかがおかしいのだと思う。だいたい、こんなことをして、なんの効果があるのかとも思う。
 けれど、それが望みだというのならかなえてあげる。
 ――名を呼んで、名づけなおして、つなぎとめよ。
 あなたの身は、ひととき私がひきうける。
 ――そなたの声には、いま、それだけの力がある。
 すぐそばにいる、何者かのひときわちからづよく頼もしいことばの、黄金色のひびきに勇気づけられて、フィアナはひと息で言い放った。
「カイリオンのヴェルドルーク、あなたは私のしもべとなれ。そして、私の望みをかなえなさい」
 ――神殿から、われらを解き放て。
 その瞬間、まばゆいなにかが身のうちからほとばしり、目の前がしろく灼けた。



 気がつくと、黒髪の若者がおそろしく真面目な顔でのぞきこんで、なにごとかをひくく語りかけていた。
 遠のく意識のなかで聞こえたその声に、うなずいたのはだれだったのだろう。
 壁画の銀のいにしえびとのすがたと吸いこまれるような闇色の眼。
 ふたつを同時に仰ぎみながら、よわよわしい、それでいて満足そうな笑みを浮かべると。
 足もとからくずれるように、フィアナは落ちていった。


 鐘楼の上で一部始終を見守っていた白い鷹は、墜落の記憶をよみがえらせた巫女からすんでのところで身を離し、ひとには見えない翼をひろげて大きくはばたいた。
 笑いさざめく風をつかんで、こみあげる歓喜とともに大空を旋回する猛禽を、遮るものはなにもない。
 輝く神が、いまだ真実のめざめに至ったわけではないことはわかっていた。しかし、巫女から発せられた黄金の波動を、どうして見まごうことがあるだろう。
 長いときが過ぎた。
 女神の聖域はいまや無骨な石造りの陰に隠れ、あのみずみずしい闇のちから、あるじが魅せられ、いやおうなく惹きよせられた大地の貴婦人の輝きも、伝説としてつたえられるだけのひとの眼には映らぬまぼろしとなっていた。
 言葉のひびきから陰影とかがやきが失われ、名前の神秘は風化して、いにしえの幸福も時のかなたに忘れ去られてしまったかのようにみえる。
 それでも、変わらぬものもある。
 霊峰からの風は、たしかに希薄になりはしたが、まだ神々の息吹をつたえている。つめたい流れにはささやかながらも天界の音楽の光輝がまぎれこんでいて、ひびきは神々がいまだにかの神を忘れてはいないと告げていた。
 ひとびとは相変わらず真実を理解していなかったが、それでも庇護者たちに抱いていていた素朴な親しみと尊敬の念を、親から子へ、子から孫へと確実に受け継いでいる。白き花の儀式につどったひとびとのなかに、なつかしいものたちの面影を見いだしたときの喜びは、思いもかけずあたたかなものだった。
 そして、いま。時は至ろうとしている。
 ヴェルハーレンは、おのれの心臓にまだ熱い感情が脈うっていることに感謝しつつ、ひとびとが神殿と呼ぶ、山腹の聖域の上空をゆっくりとへめぐった。
 猛禽の鋭い視力には、神聖なる儀式のさなかにある聖域へと近づく、あらたな来訪者のすがたが映っていた。
 白い花びらの舞うふるき道を、馬がのんびりとやってくる。
 鞍上の、赤褐色の髪をうなじで束ねた小柄な男は古代の祭司の末裔で、いまでも神殿のまわりあちこちに親族が暮らしている。だが、かれ自身のなりわいは鷹の時代の言葉でいえば馬使いである。
 その背後を、栗毛を疾駆させてもうひと組の人馬がやってきた。歩調をゆるめながら、エリディルへいくにはこの道でいいのかと訊ねる旅人に、馬使いがそうだと答える。
 見れば相手は若い男だ。礼儀正しく物腰は穏やかで、親しみやすい素朴な顔立ちをしているが、馬も乗り手も立派な体格で、腰に長いものをつけていることからしてもあきらかに一般庶民ではない。もっとも特徴的なのは、広い肩からまとっている長いマントである。
 風をはらんで、宵闇色のマントは大きく背後へとはためいた。
 神殿に用事かと問うと、そうだと相手は苦笑する。ため息に面倒を背負わされた者の苦労を読みとって、男もついつい笑いながら応じた。
「わざわざこんなところまで、たいへんだな。いったい、どこから来たんだい」
「アーダナです」
「アーダナって、あの大神殿のある?」
 馬使いはひどく驚いたが、若い男は笑ってうなずき、ところで、とつづけた。
「申し訳ありませんが、ちかくに、すこし休めるようなところがありませんか」



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