澄みわたった空に、風が踊り、鳥たちがさえずる。
一見普段と変わらない光景のなか、ひとびとはぞろぞろと移動をはじめていた。
かれらは、これから神殿の城壁内でもよおされる予定のトーナメントの見物に、それぞれに思いさだめた場所をめざしている。
城門の上には、深緑の地に銀の樹をかたどった、色褪せた女神の旗がひるがえっていた。
ふるいしきたりどおりにおこなわれた儀式に、心は昂揚していまださめやらない。これから始まる、より大きな興奮への期待に突きうごかされた足どりには、いまにも駆け出さんばかりの勢いがあった。
踏みならす足音が聞こえるような昂ぶりは、聖域のふるえにまじってうなりのようにつたわってくる。
エリディルは――太古からの女神の神域は身震いしていた。
ごくごくかすかな振動は、鐘の音がふたたび鳴りはじめるとまぎれてしまい、気づくものはほとんどいなかったのだが、敏感なものたちはおののきのように感じていたかもしれない。
意識の重心を視覚から聴覚へと移行させ、かれは神樹の文様を浮かびあがらせる扉へと視線をうつした。
本堂での儀式がとりあえずの終わりをみたのは、ついさきほどのことである。
儀式の終盤、六の巫女のとうとつな行動がはりつめられた空気を一気に乱した悪夢は、いまは過去の出来事になっていた。
騒然となり、混乱状態に陥りかけた場をすみやかに収めてみせたのは、ただひとりの少女である。
「静粛に」
響いたひとことは凛として、あわてて動きだそうとしていたものたちの時をせきとめる、ゆるぎない意志にあふれていた。
ひとびとは口を閉じてふりかえり、三の巫女を仰ぎ見た。
神懸かりした巫女の美貌は、思わず目を伏せさせるほどの神々しさだった。あふれる威厳はくだされる指示を受け入れるのになんの躊躇も抱かせず、現実にひとびとは嬉々としてクレアデールに従いはじめた。
ついえさる寸前だった結界は、ふたたびひきしめられていた。
数年ぶりの〈花占〉はあやういところで救われたと、その場にいる誰もが感じていただろう。
黒髪の巫女はそのようすに満足したように笑みを浮かべた。そして、女官長に六の巫女の世話をまかせると、六の巫女のかたわらにひざまずいていたかれにも声をかけてきた。
そのとき、なんと言われたのかはおぼえていないが、儀式は終わったのだからその場を離れるようにというような意味だったのだろう。
後見の騎士の接近する気配を察してかれは立ちあがり、入ってきたときとおなじようにふたりの人物に挟まれて、おなじ経路を逆にたどった。
そうして、この控えの間にふたたび押し込まれたわけだ。
本堂のすぐ脇にあるが直接は行き来のできない、隔絶された挑戦者のための部屋は、ひんやりとした沈黙のみちた場所だった。
天井だけが高く、全体的に狭苦しい空間は翳りをおびて、天窓からわずかにこぼれる光がきわだって明るく感じられる。
だが、内部の静寂とは裏腹に、壁を一枚隔てた外側で空気はざわついたままだった。
後見の騎士は、身仕度をして待っているようにと告げ、意味不明ににやにやと笑っている施療神官とともに姿を消した。
目の前で扉が閉ざされると、足音はせわしなく回廊を遠ざかっていった。行く方向は、さきほど後にしてきたばかりの本堂だ。
すべての会衆者が退出し、だれもいない森のようにがらんとした祭礼の場では、神官長を初めとした神殿の首脳たちが顔を揃えて、穏やかとは言いがたい空気を発散していた。
かれらがしているのは、儀式の今後をめぐっての相談だった。
神殿守護をつとめる老騎士は、眉間をしきりともんでいた。巫女自身が挑戦者を名指しするなんて、前代未聞の事態だとつぶやくのが聞こえる。
女官長は、六の巫女が祭儀を逸脱した時点で儀式は無効となったのだから、今後の予定はいっさい中止するべきだと主張していた。この意見には老騎士もおおむね賛同している。
いっぽう、慎重な意見に真っ向から異を唱える人物もいて、その代表はエリディルの神官長だった。
後見の騎士と施療神官がたどり着いたとき、細面の神経質な顔を紅潮させた壮年の学者神官は、目を爛々と輝かせ、拳をふりあげんばかりの熱弁をふるっていた。
「これは運命です。われわれは、事態の行く末を見届ける役目を神よりおおせつかったのに違いない!」
げんなり顔の周囲にはおかまいなしにつづけられる興奮しきった演説を聞き流して、かれは女官長の腕に赤子のようにいだかれている、ちいさな存在の気配を確かめようとした。
――西へゆくのだ。
金髪の巫女に名を呼ばれ、その名を確かに自分のものだと肯定したそのとき、かれの視界は急激にひらけていった。
深い水底からうかびあがり、初めて自分以外のものを見たもののように、ありとあらゆるものの存在が痛みとまごう鮮明さとともにせまってくる。
かれのまわりには、広大な世界があった。
かれはふたたびこの世に属するものとなり、世界はふたたびかれのものとなったのだ。
それと同時に、よみがえったものがある。
それは、記憶だ。
そうと気づかぬうちに失いつつあった、名の束縛を解かれてのち、封印を施される直前の記憶だった。
――そこでおまえは、おまえの運命と出会うだろう。
厳粛さが重みとなってのしかかってくるような大神殿の深奥で、さきのあるじがかれに告げた言葉が、ひとつひとつくっきりとした臨場感をともなってよみがえったのだ。
運命とはなにかと訊ねたかれに、明確な答えはあたえられなかった。
返ってきたのは微笑みと、こんどのあるじは自分で定めよという、突き放したような言葉だけだ。
あのとき、あるじがかれにむけたまなざしは、燭台の火灯りをゆらゆらと映していて、いつもにましてよみとることが困難だった。
それは、解放されるという言葉の意味をようやくのみこんだばかりのかれを、ひどく不安にさせたはずだ。
なのに、これまでかれはそのことをまったく思い出さずにいた。
旅立つ一行の無事を祈って都の外れまで見送りにきたあるじの、胸に刻みつけたと思っていたすがたすら、すっかり忘れていたのである。
そしていま、かれは西にいる。
眼の前には、空色の眼をした少女がいた。
風のひと吹きであっけなくとばされてしまいそうな小さな少女だったが、その声はつよく、否応なしにかれをひきよせるちからをそなえていた。
少女は、そのちからを意識もせずに容赦なくふるって、かれを呼んでいる。
長い夢から醒めたようなここちで、まばたきをしている自分にも気づかないほど面食らっていたが、名を呼ぶ行為が意味するのが拘束であることは、かれにはよくわかっていた。
しかし、呼び声はひどく甘美だった。あらがうことが無意味と思えるほど、つよく惹かれた。
森の叡智をやどした思慮深い声とはまったくことなる、清冽なわかさにあふれた声が全身を走りぬける歓喜に、めまいがした。
これが運命だったのかと、かれは思い、これが運命ならばかまわないと、金色のひびきに身をゆだねようとした。
だが、しかし。
――カイリオンのヴェルドルーク。私の願いを叶えなさい。
すでに肯定のいらえをかえした後で、カイリオンのヴェルドルークが直面したのは、あまりにも具体性を欠いた命令の、しんじつ意味するところだった。
疑問に答える前に、少女は意識を失ってしまった。
問いただそうと呼びかけ、肩をゆすったが、ちからを使い果たしたかのようにくずおれてしまった六の巫女は、まったく反応を返してくれない。
閉じたままぴくりともうごかないまぶたにため息をつき、最後の手段として鼻をつまんだときに制止がかかって、かれはあらたなあるじから当然のようにひきはなされてしまったのだった。
いま、白熱する議論の最中にあっても、女官長は、ちいさな巫女を宝物のようにかかえ込んだままでいる。
だきしめられた少女の、頭を覆っていた薄衣はいつのまにかとりさられて、白い小花を編み込んだ金髪があちらこちらでお約束のようにほつれ、無邪気な姿をさらしている。
黒髪の巫女に額を撫でられ、意識を取り戻したのはつい先ほどのことだったが、ひらかれているはずの眼が、いま、なにを映しているのかは不明だった。
まるで、初めて出会った、あのときのようだ。
空色の眼にみつめられたときの、身動きのとれない感覚がおもいだされる。
焚かれつづけた香のかおりはだいぶ薄まってきていたが、あの場所の空気はどうにもかれの感覚を狂わせた。
そのとき、気配に気づいたかのようにふりかえった黒髪の巫女のまなざしに気圧されて、ルークは意識を手元にひきもどした。
しらずはりつめていた身体から力をぬき、息を吐き出すと同時に磨きぬかれたつめたそうな床をぼんやりと見おろしてみる。
しばしののち、かれは床に座りこんで身体を伸ばす運動を始めた。
「おおーい、入るぞ」
断るよりも先に扉を開けて、傍若無人に踏み込んできたのは、枯れ葉色のあたまをぼうぼうとさせた壮年の施療神官だった。
「よろこべ若人、試練はちゃんとおこなわれることになったからな!」
ボーヴィル師は高らかに宣言をすると、どうだとばかりにルークを見おろしたが、若者の顔に期待されるような表情はあらわれず、ただ無感動なまなざしが上目遣いに返されただけだった。
「なんだ、その景気の悪い顔は。わしが加勢をせなんだら、神官長は負けとったんだぞ」
「そうなのか」
「そうなのじゃ!」
だから深く深く感謝しろと強要するボーヴィル師に、ルークはそうかと真顔で頷いた。
「ならば感謝する」
そこに、遅れてやってきた後見の騎士があらためてトーナメントの実施を告げた。
ビリング卿はすでに教えられていた手順を簡単に説明しなおし、疑問の有無を問いかけたが、ルークは首を横にふった。
「では、これから開始地点へ参る」
重々しくなされた命令にしたがい、ルークは立ちあがる。そのようすを一瞥した後見の騎士は、片頬をかすかにゆがめて皮肉げにつぶやいた。
「具足の身につけ方は、知っていたようだな」
「そうなんじゃ、妙な着方をしていたら笑ってやろうと思っておったのに」
眼をあげると、濃褐色の瞳とぶつかった。
はじめから感じていたことだが、後見の騎士はルークに疑いを抱いている。それは身体検分の際に背中の刻印を眼にしたことで、いっそう深いものになったのだろう。
その疑いはただしい。
かれはまだ、影のなかから一歩踏み出したばかりだ。
一行は、警護の兵を先頭にして控えの間を後にした。
移動の間、たえまなく話しつづけるボーヴィル師に適当な相づちをうちながら、ルークは粒だつようにあざやかになった世界をしみじみと肌に感じとった。
なかでもこころを惹かれるのは風のうただ。石柱のあいだを吹きかようそよ風は、いまはちりちりと神経質な興奮をつたえてきている。
石積みでできた迷宮を通り抜けるにしたがい、緊張と興奮にはちきれそうになった空気が、分厚いどよめきとなって覆いかぶさってくるようになった。通用門から城壁の外に出ても、圧迫感に変化はない。むしろ、時の迫ってきたことを感じているのか、発散される感情は徐々に大きくたかまりつつあるようだ。
聖域のふるえは、ひとびとの昂ぶりと共鳴していた。
閉ざされた城門の前にしつらえられた簡易祭壇には、神官長が待ち受けていた。
礼装をした武人たちにかこまれて、ひときわ小さくみえる神官長は、神経質な笑顔で挑戦者を歓迎した。
「ようこそ、エリディルへ、風の民の若者よ。大地の女神の民は男神に仕える風の民の権利を尊重する」
仰々しい口上は、おそらく古文書からひっぱりだしてきたものだろう。
「われわれは宝玉の巫女の身柄を保護する権利を要求するものに対し、平等に試練を課してきたものである」
この天地において、宝玉の恩恵を受ける権利を要求するものは、まず巫女の安全をたもつことのできるちからを神とひとの前にあきらかにすべし。
神官長の声はほそく、風にかんたんに飛ばされてしまう。
城門上には、狭間胸壁のあいだから身を乗り出してこぼれ落ちそうになっているひとびとのすがたが見えたが、かれらの耳にはほとんど声が届かなかったに違いない。
神官長の大げさな身振りが演説の終わりを示し、進行が神殿守護に手渡されると、ざわめきはさらに大きくなった。
フェルグス卿はまず自分の副官に守備隊について確認をとり、ルークを見てかすかに眼をほそめると、重々しくうなずいた。
「そなたの得物は、カーティス卿より授けられる」
小声でひざまずくよう命じられ、遅れて膝をついたルークに、カーティス・レングラードは低い声で笑ったようだ。
「昨日の訓練を忘れるな」
騎士らしく戦えよと、鞘に収められた長剣を手渡しながら告げる聖騎士は、さらにひとことつけ加えたのちに、じゃあな、気軽な声をかけて下がっていった。
革製の手袋越しにつかんだ剣は、予想どおりの持ち重りがした。
フェルグス卿のしわがれ声が、確認事項を念押ししていく。
かれがめざすべきは聖堂であること。巫女はそこで勝者を待ち受けているだろうこと。城壁内ならばどの道筋を通ってもかまわないが、出会った守備兵はすべて倒さねばならないこと。勝敗は審判をつとめるビリング卿が定める。期限は五回めの鐘が鳴るまで。鐘は四半刻ごとに鳴らされる。
「六の巫女を連れ出すことができれば、そなたの勝ちだ」
われわれのつとめはそなたを阻止することだがな、といかめしい顔に笑い皺を刻んだ老騎士は、
「たがいに全力を尽くそうではないか」
大きな手で無理矢理握手をすると大股に離れてゆき、審判のむこうの定位置に落ち着いた。
開始前の合図に、ビリング卿が勝敗を決する杖を高くさし上げる。
鐘が、重々しく鳴りはじめた。
それをしおに、閉ざされていた城門がゆっくりとうごきはじめる。
ルークはかすかに天を仰いだ。
青空に太陽が輝いている。
閉じたまぶたを透かしてとどくまばゆい光が、すべての迷いと心許なさを洗い流してゆくようだ。
目をひらくと、風にのって白い花びらが鼻先をよぎっていく。
ルークは身体の力をぬき、息をととのえ、身体の重心を意識して剣の柄に手をかけた。
つかのま、はりつめた静寂がすべてを支配する。
最後の鐘が鳴った。
余韻の消えると同時に、城門が完全に開かれ、静止した。
「開始!」
ビリング卿の声が、朗々と響きわたる。
同時に、ぬき放たれた白刃が一瞬の輝く軌跡をえがき、歓声があがった。
歓声が聞こえた。
ミアは首を巡らせて、騒がしくなったのが城門付近であることを確認し、焦りの声をあげた。
(やだ。もうはじまっちゃったの)
あわてて厨房の戸口を離れ、走り始める。
侍女として、まず女官長に報告しなければならないことはわかっていたが、彼女の足は聖堂とは反対方向、人が流れていく方、騒ぎの大きな方をめざしていた。
目的地は、いま現在対戦がおこなわれている場所だ。
おそらくそこで部下のたたかいを見守っているはずの人物に、ミアは重大な使命を託されていた。
(はやく行かなくちゃ)
黒髪の従者の試練は、そう長くつづくとは思えない。のんびりとかまえていたら、きっとミアがたどり着く前に終わってしまうだろう。それでは報告ができないし、最後の指示を受けることもできなくなる。もしルークという名の若者が敗退したら、いや絶対に敗退するに決まっているのだが、そのときにかれらはべつの手段を講じることになっていた。それには聖騎士がじきじきに携わる必要があるのである。
(まったくもう、フィアナさまのひねくれもの)
もっとはやくにちゃんと教えてくれれば、いろいろと準備することもできたのに。
しかし、実際にミアが事実を知ったのはついさっきのことで、告げたのも本人ではなかった。
(カーティス卿が教えてくださらなければ、なんにも知らないままだった)
そのことを思うと、気づかなかった自分にもうちあけてくれなかったフィアナにも怒りがこみあげてくるが、ぐずぐずとしている暇はなかった。腹は立つけれど、やるべき事はやってやる、とミアは思い決めていた。
なのに、こんな時に限ってまわりが足をひっぱるのだ。
「おうい、そこの新米侍女!」
懸命に走っていると路地のむこうから声がかかって、ミアは、また、と舌打ちした。
いったい、今日は何度呼び止められればいいのだろう。
たしかに自分は六の巫女付きの新米侍女で、現在、六の巫女はエリディルの噂話界における最重要人物である。〈花占〉突然の開催の裏に六の巫女の事情があることは、公にはされなかったがすでに秘密とは言いがたいものになっていたからだ。おまけに、儀式の最中にあんなことがあったので、みんなが六の巫女の様子をくわしく知りたがっている。
女官長よりもてっとりばやくつかまえられるミアが標的に選ばれるのは、とうぜんのことだ。
だからといってミアが村中の疑問にいちいち答えてやる理由は、どこにもない。
すでに両の手に余る回数足止めされていたミアは、ふり向きもせずにさっさと通りすぎようとした。
しかし、それでもまだ声は追いかけてくる。
「ミア・ハーネス、この薄情者め。自分の兄上さまの顔を忘れたか」
なぜか傷ついたように聞こえる非難の言葉に、はあ? とふりかえると、そこには少々小柄でがに股の男が肩を怒らせて立っていた。うなじで束ねた赤褐色の髪は、だれもが知っているハーネス家の目印である。
「おにいちゃん、なんでこんなとこにいるの」
「なんでって、この時期はいつも休暇だろうが」
二十代半ばで近隣の繁殖農家の牧童頭をつとめるタク・ハーネスは、一番下の妹のまったくわるびれない言いぐさにしかめ面である。
「店には誰もいないし、めずらしい旗がたってるし、それなら当然こっちにいるだろうと思って来てみたんだよ」
「たしかに、父さんも母さんも姉さんたちも義兄さんもここにいるわよ。ひととおり顔を見た」
ハーネス家は奉仕精神旺盛なので、村の催しごとになるといつも全員で大騒ぎをする。困るのは家族がてんでんばらばらにうごくのと、顔を合わせるたびに状況報告を求められることで、ミアはおかげで思惑の倍も足止めを食らうことになっていた。
「おふくろと姉貴は厨房の手伝いだな。親父と義兄さんは――」
「今回は進行には参加してないみたいだけど、かぶりつきで見てるに違いない。今年はジョシュがトーナメントに出るのよ。それに、小遣い半分賭けてるって言ってたし」
そこでタクは、日に灼けた顔にあきれたような笑いを浮かべた。
「……ったく、変わらねえなあ」
「変わらないっていうより、懲りないっていうのよ」
そこに、端からふたりをみていた若い男が、ほほえましそうに口を挟んだ。
「なんだか、楽しそうなご家族だなあ」
見慣れぬ男はにこにこと笑っている。兄と比べるとかなり背が高いが、友人なのだろうか。どこか無邪気さを残した素朴な面立ちはたぶん兄よりいくつか年下で、牧童仲間といわれても違和感がない。しかし、鍛えられたたくましい肩を覆う宵闇色のマントは、ミアがこのごろ頻繁に間近にしているものと型も色も素材までがまったくおなじように見えた。
「おにいちゃん、だれ、このひと」
「こら、失礼な口をきくな。なんと、このひとはアーダナからきた聖騎士なんだぞ」
ふたりはエリディルへの道中に出会い、〈羽根と蹄鉄〉亭を休息場所として紹介したところ、店が無人だったのでしかたなく神殿まで連れてきたのだとタクはいう。かれは聖騎士という固有名詞にまったく畏れ入る気配のない妹に、すくなからず不満のようだった。
「ちょうど祀りのときにたどりつくなんて、ちょっと幸運ですね」
若い聖騎士は、リーアム・ディアニースと名乗った。物珍しそうにあたりに視線をめぐらせる、人のよさそうな笑顔をじいっとみつめていたミアは、そこであっと声をあげた。
「こんな事をしている場合じゃなかった。はやく行かないと終わっちゃう」
あわてて走り出した妹をタクはなぜか追いかけてきた。その後にリーアムが、おそらくは訳のわからないまま、マントをひるがえしてくっついてくる。
「なにを急いでるんだ。さっき始まったばかりだろう」
「今回はいつもとちがうのよ。フィアナさまの未来がかかってるんだから」
「それは、おまえのご主人の名前か?」
「そうよ、今度のトーナメントはいろいろと大変なのよ」
すすむにつれて石畳の路地はどんどん混雑してきた。ざわめきがときおり歓声になり、大きくなって次第に近づいてくる。
ミアはすばやく計算をめぐらせて、このままでは追いつけないと判断し、急に方向を転換した。
「どこに行くんだよ」
当惑気味に訊ねる兄に、ミアは乱暴に答えた。
「ジョシュのところ。たしか、最初のくぐり門のところが持ち場だっていってたから、待ち伏せできるかもしれない」
妹の予想外の行動にふりまわされて、タクは文句たらたらである。
「おい、ミア……わけがわからないぞ」
「誰を待ち伏せるんですかね」
ぶつぶつと言葉を交わしながらも、まだふたりは追いかけてくるが、ミアはもう返事はしなかった。
路地裏の防火壁上にあがる階段をみつけて、駆けあがる。
登りきると同時に大きなどよめきがあがった。緊張と興奮とともにどこか不穏な空気が、かたまりとなっていちどきにおしよせてくる。
どきどきしながら駆け寄った手すりの側には、つぎつぎに人がつめかけてきた。なんとか人垣をかきわけて、隙間から下方を見おろすと、陽光の燦々と降りそそぐ石畳のちいさな広場に、深緑のお仕着せの左上腕部に深紅の布をむすんだ大男がいて、得物の斧で小柄な対戦相手を殴りつけようとしているところだった。
いや、違う。
ふりかざしたと見えた斧は、なにかを防ごうとして必死に掲げられているもののようだった。
攻撃しているのは守備兵ではないのだろうか。
歓声のなか、兵士はその姿勢のままでじりじりと後退していった。
どうして攻勢に出ないのかと不思議に思っているうちに、ビリング卿の右手がさっと挙がった。
「勝負あり、挑戦者の勝ち!」
ふたたびのどよめき。
なかには、だれかを非難しているのかと勘違いしそうなほど、たくさんのヤジがまじっている。
敗退した守備兵は石畳にがっくりと膝をついた。
しかし、そのすがたはもはやだれの関心もひくことはなかった。
ひとびとの視線は、予想外の勝者――挑戦者である若者のすがたに集まっていたからだ。
若者は、淡々と進路にそって移動していくところだった。