天空の翼 Chapter 1 [page 31] prevnext


31 灼かれた傷痕


 喚声が、怒号のように石積みの城壁にこだましている。
 期待を裏切られたことで誘発される感情のたかまりはけして好意的ではなかったが、さだめられた未来がくつがえされることへの快感が、すこしも混じっていないともいいきれない。
 トーナメントの昂揚に忘れていた野性をとり戻した辺境の住人たちは、目の前でくりひろげられる予想外の光景にしだいに我を忘れつつあった。
 異様ななにかをもたらしているのは、たったひとりの若者だ。
 黒ずんだ革の甲冑に白い外衣を身にまとう、この若者をひとびとが初めて眼にしたのは、聖堂の儀式においてである。
 若者は、聖騎士の代理としてもたんにトーナメントの出場者としても、ひどく失望をさそう外見をしていた。
 潔斎用の白い衣がかもしだす無防備さや、巫女にずぶぬれにされた経緯がひとを大物に見せるわけもないのだが、そういう事情をさしひいても、辺境の者たちの理想とする戦士と、華奢で頼りなさげな若者はあまりにもかけ離れていた。
 その後、若者は、完璧な戦装束をまとってあらわれた。
 さすがに白衣だけのときよりもひき締まり、それなりの覚悟もうかがえるすがただったが、いったん植えつけられたおおかたの認識は簡単にはくつがえらない。
 おまけに、装飾の少ない禁欲的な甲冑は、神殿が用意したものだったが、よく見ると繕い跡がそこかしこにありそうな、かなりくたびれたものだったし、腕や頭をおおう防具も似たり寄ったりのへたり具合だった。急なことで新品をあつらえるのはむろん不可能なのだったが、もっと見栄えのよいものはみつからなかったのだろうか。
 唯一、若者のいでたちのなかでこれはと思えるのは、細身の長剣だけだ。しかし、陽光に輝く鋼鉄の刃も、持ち主がこれでは宝の持ち腐れである。そもそも、あの細腕で剣がふるえるのだろうか。剣は、ただ持っていればよいというものではないのだ。
 このようすでは、若者がトーナメントに勝ち残る確率は、ほとんどないだろう。
 いにしえのもののふたちのような百戦錬磨とはいかないが、相手はいずれも力をもてあまして守備隊に流れついた荒くれぞろい。たとえばあの、都からきた聖騎士のごとき堂々たる威丈夫ならともかく、経験不足の未熟な若者に待ち受ける結末ははじめから悲劇とさだまったようなものである。
 なぜ、神官長はこんな酷な条件を持ち出したのだろうか。
 そして、若者はなぜ、こんな不利な条件を呑んだのだろう。
 だが、かれらは熱き戦いの民であり、自分からやるというものを端からやめさせるつもりはなかった。身の程知らずとわかっているならなおさらに、若者の挑戦とは寛大に見守ってやるべきものなのだ。
 そうして数十年ぶりにあらわれた挑戦者にいちおうの敬意を表し、ひとびとは入場する若者を盛大な拍手と勇壮な戦歌で迎えいれた。
 気勢をあげるかれらの関心が、若者の勝利にあったといえば嘘になる。この〈試練〉とやらにケリがつけばいつものトーナメントだと聞かされて、ひとびとが心待ちにしていたのはじつのところ若者の敗退する瞬間だった。あまり褒められた趣味ではないものの、敗者の無様なすがたを見物するのもこうした催しの楽しみのひとつであるには違いない。
 ところが、なぜか、若者は負けなかった。
 初めの二、三戦こそ、もたつく場面もみられたが、それで慣れたとでもいうのだろうか。負けないどころか、意外にもひとつひとつ勝利をつみ重ねていくではないか。
 予想外の健闘に意表をつかれ、ひとびとはあらためて若者のすがたを見直してみた。
 だが、若者が勝っている理由は、よくわからない。
 たしかに、予想されたような一方的な勝負ではないのだが、とくに若者が有利に事を運んでいるようにも思われないのである。
 むしろ、勢いだけを見るなら、つねに兵士側に分があるようだった。
 若者からは、勝負事につきものの殺気どころか、闘志のようなものすらうかがわれない。
 といって、ふざけているわけではなかった。その証拠に、若者の顔つきは真剣そのものだ。
 けれど、そこに当然あってしかるべき興奮や緊張感は、どうやら大きく欠け落ちている。
 かわりに若者がまとうのは、冷静を通りこして勝利への意欲までをも疑わせる、ひどく淡々としたありさまだ。
 となれば、最初の一撃は必ずといってよいほど守備兵側が繰り出すことになる。足運びも体さばきも、守備兵側のほうが優に積極的だ。
 対する若者は振り下ろされる剣をかろうじて受けとめ、突き出される切っ先を紙一重でようやく避けている――ように見える。
 だが、しばらくすると、守備兵たちはそろって体勢を崩しはじめた。
 そして、気がつくと若者の剣の先端が、相手の致命的な一点をさししめしている。
「勝者、挑戦者!」
 半信半疑の対戦がかさなるにつれ、周囲のとまどいと不審は大きくなった。
 純粋に番狂わせをおもしろがるむきもむろんある。だが、路地に面した窓や屋根の上から男たちの投げる言葉は、からかいのそれから次第に質を変化させつつあった。
「なにをしてるんだ。あのぼうずは」
 ざわつく周囲を代弁するように、魔法かよ、とつぶやいたタクに、となりで見ていた聖騎士の若者がちがいますね、と応じた。
「見えないかな。ものすごく正確で効果的なんだ、すべてのうごきが。ほら、いま切っ先で相手の攻撃を跳ね返す」
 言われてみれば、一瞬のきらめきと同時に甲高い金属音が短く響き、守備兵の振り下ろした長剣が不自然に浮きはなれたのがわかった。
 つられて、守備兵の重心が背後へと流れる。
 完全にふところがひらいた。
 そこに剣先が襲いかかったようだ。
 ようだ、というのははっきりとは見えなかったからだが、そういえば、若者のふるう剣の軌跡をちゃんと確認できた覚えがないと、タクは気づく。
 あれ、と思うのとほぼ同時に、ビリング卿の声があがった。
「そこまで。勝負あり!」
 石畳に仰向けに倒れ込んだ守備兵を平然と見おろす。
 もちろん勝者は白衣の挑戦者である。
 若い聖騎士リーアム・ディアニースは感心して言った。
「あのぼうず、よほど目がいいんだな。無駄なうごきも、どんどん減っていってる」
 だけど、どこかで見覚えがある型だよなあ、とごちるのに、タクはそんなものかと鼻を鳴らした。そして、ふたりは流れに従い、いそいそと移動を開始する。
 いつのまにかミアの姿は見えなくなっていた。しかし、ふたりとも行方を探そうといいださない。なんだかだいいながらも、かれらはこの、まわりが〈試練〉とか呼んでいる見せ物にすっかり魅せられていたのである。
 小柄なタクは人垣の後ろからぴょんぴょんと飛び跳ねて、つぎの対戦者を確認しようとした。
「おっ、今度はジョシュだな……あのばか、歓声に応えてる場合か」
「ああ、あれが甥御さんなんですか。あれっ?」
 人混みをかき分けて突き進む連れを追いかける途中、リーアムは、視界に挑戦者と歩調を合わせて移動している一群をとらえた。
 その、神官や守備隊の幹部で構成された関係者だろうと推測されるひとびとのなかに、どこかで見たような人影がいたのだ。
 おもわず、かれは眼を凝らす。
 その人物は、かれの所属する団体固有のマントを身につけているようだ。
 こんなところに、知り合いがいただろうか。
 疑問は、周囲からぬきんでて背の高いその人物をはっきりととらえたときには、驚愕に変わっていた。


 突然、あたりを見まわしたカーティス・レングラードに、ボーヴィル師がたずねた。
「どうかしたかな、聖騎士の御仁」
「いや、なんでもありません」
 だれかに呼ばれたような気がしたのだが、ますます大きくなる歓声、あるいは怒声にまぎれて、よくわからなくなっていた。
 幻聴だろうか。聞き覚えのある声だったような気がするのだが。
 ひととおり周囲に視線を走らせてみたが、城壁内の路地は死角が多く、強い陽射しに目がくらむ。どこからわいて出たのかと驚くような人出のなかで、目当て不明の人捜しは成功しそうもなかった。
「しかし、うるさいのう」
 殺気だった輩がとばす汚いヤジは、いまでは辺りをはばからない大声になっていた。
 聖騎士の従者の予想外の健闘は、進行をとりしきる現場でも驚きを持って迎えられている。じつは、さきほどから神官長は青ざめた顔をしてなにも語らなくなっていた。フェルグス卿の顔つきも、ひどく険しく変化してきている。
 しかし、飛びかうヤジの原因は、もうすこし別のところにあるようだ。
「ま、一瞬にして虎の子が消えてなくなるんじゃ、腹が立つのもわからんではないがね」
 そう言って、ボーヴィル師は人が悪そうなふくみ笑いを浮かべる。
 罵り声をあげているのは村人ばかりではない。ふだんは真面目ぶっている青鈍色のお仕着せの神官たちだって、すっかり立場を忘れているのだ。
 そのようすを横目にして、ボーヴィル師はかなりのご機嫌だ。
 理由は、なんとなく想像がつくような気がするが、当の神官はにやにやと笑うだけである。
「ほら、始まるぞ」
 あれはハーネスのところのぼうずだな、というつぶやきは、ふたたびのどよめきにかき消された。



 突然襲いかかってきたのは、風のようだった。
 自称エリディル守護の従者見習いは、危険を察知し、歓声と信じる声に酔いしれていた身をとっさにひるがえした。
(なんだ、いまのは)
 驚きとともに周囲を見まわすと、左手前方に敵がいた。
 彩度の低い石壁を背にして、正面から陽光を浴びた白い外衣は予想外に目についた。
 かざした長剣ごしの相手がおなじようにこちらをうかがっていることを確認して、ジョシュは浅く息をつく。
 ひやりとさせられて動揺したのか、呼吸が荒くなった。心臓も、どきどきとうるさいほどの音をたて始めている。
 歓声は、もう耳に届かなかった。
 いまや世界は、このせまい石畳と石壁とで区切られた空間に集約されている。
 全神経を武器を持った相手に集中させ、間合いを計って、ジョシュはじりじりと横へうごきはじめた。呼応するように、相手も移動を開始する。
 そのあいだも、兜の奥からひたとこちらを見据える、闇色のまなざしから目が離せない。
 いや、離してはいけないのだ、隙を見せてはいけない。
 これは、たたかいなのだから。
 そうだ。自分はうまれて初めて真剣に戦っているのだと、とうとつに気がついて、とたんに胃がひきしぼられるように重くなった。
 相手の剣が移動とともに光を受けて、ひどくまぶしい。
(びびるな。あいてはぼんやり従者だぞ)
 意に反してゆれうごく視界のなかで静かに身がまえる、甲冑を身につけていてすら威圧感を感じることのない細身の相手。それは、まごうかたなく、カーティス卿の黒髪の従者だった。
 ここまでたどり着くこともないかと思っていたのに、前のやつらはどうしたのだろう。負けたのか。まさか、こんなやつに。だが、現にやつはここにいる――。
 ひゅっと甲高い音がして、ジョシュは反射的に剣を顔の前にかざし、あわてて飛びすさった。
 間一髪。叩きつけられた金属が頭上で硬質な悲鳴をあげ、受けた鋭い衝撃が剣をもつ両手から腕へとひびいてくる。
 相手が攻撃してきたのだと、自分はそれを受けとめたのだと、認識したときにはもう次の一撃が繰り出されてきた。
 それを受けとめれば、すぐに次がくる。さらに受けとめる、また次がくる。
 無我夢中で受けつづけているうちに、そこそこ頭は落ち着いてきていた。しかし、反撃する態勢にはどうしてももってゆけない。相手の剣勢は意外につよかった。だが、あらかじめ予想したとおり、細身の身体から繰り出される一撃は、それほど重いものではない。腕がしびれて使い物にならなくなるような攻撃は、受けていないのだ。
 問題なのは間隔の短さのみならず、剣の走りの恐るべきすばやさだ。
 しかも、相手の接近する気配は異様に薄かった。
 足音すらさせず、すべるように移動する敵は、あっというまにふところまで踏み込んできてしまうのだ。
(くそ、速いっ)
 なのに、ジョシュの身体はいつものようにうごいてくれない。これでは押し返すいとまがなかった。受けとめた後の態勢がととのわないのに、次の攻撃がやってくるのだ。間髪おかず、それこそ眼にも止まらぬ速さである。
 つむじ風のように、相手は自分を翻弄している。
(こんな速さ、反則だ)
 悔しいが、反応するだけで精一杯だった。それも、体力がつづくまでだろう。つぎつぎに襲いかかる剣先をうち払いつづけて、すでに息はあがり始めている。疲労で反射速度までが鈍りだしていることに気づいて、ジョシュは苛立ちとともに吐き捨てた。
「だあああっ、うるせえっ」
 一度だ、ただ一度でいい。一発うち込めれば、勝機はある。体重をのせた一撃をたたきこめば、たぶんやつには受けとめきれない。その場でうち伏せることができなくても、一気に劣勢を挽回できるはずだ。
 ジョシュは相手の攻撃を遠ざけようとして、長剣を握る手首をねじり、むりやり大きく振りまわした。相手は、最小限の動きでそれを避け、一瞬距離を置くように後ろへ下がった。
 そこに、間隙が生じた。
 十分な間ではなかったが、そこでジョシュは意を決して大きく一歩を踏み出した。移動するエネルギーと全体重をすべて剣にのせ、目標をめがけ、身体のしなりとともに大上段から一直線に叩きつける。
 一瞬後、風音を耳にのこし、剣は怖ろしい勢いでなにかを殴った。
 同時に、しびれるような重たい衝撃が全身にはねかえってくる。
(痛ってえ……)
 涙が出そうだ。
 すべてのちからを出しつくした後で、体は燃えあがっていた。心臓の鼓動が、血の流れる音が、痛みとともに全身に響きわたる。四肢が重い。まるで鉛のようだ。汗まみれで、焼けつくように苦しくて、声もでない。
 それなのに、剣が傷つけたのは、なにもない石畳だけだった。
 もう、うごけない。
 しかし、おなじ時間を共有していた相手は、すこしの乱れも感じさせない動きで、ただ、目の前に立っている。
 ゆっくりと流れるように近づいた切っ先が、喉元すれすれでぴたりと静止する。
 視線をあげると、眼があった。
 ざんばらの前髪からのぞく闇色のまなざしには、勝利の笑みも敗者へのあざけりも、そのほかどんな感情も、一片のかけらほども見てとることはできなかった。


 ビリング卿が宣告を下すと、大きなどよめきが大地からわきあがった。
「大振りのしすぎじゃ、ばかものめ」
 吐き捨てると同時に脱力し、失望のため息までついたボーヴィル師に、カーティスは訊ねた。
「もしかして、あいつに損をさせられてますか」
「いんや、ちがうよ。わしは大穴を当てるのが得意でね」
 ボーヴィル師は、さきほどようやく聖騎士から返還された草染みのついた愛用の袋を嬉しげに叩き、まあ、あのぼうずにはすこしくらい礼をせんとなと、笑顔になる。
「だが、いままでの試合とはちいっと風向きが違ったように思えたんでね」
 かすかに真面目な顔つきになって、すこしは勝負になっとったんじゃないか、というのに、聖騎士も同意する。
「ええ、かれはなかなか見所があると思いますよ。必要なのは実戦での馴れだな。あれだけがちがちになって、あいつの速さについていける初心者は、滅多にいない。むしろ、問題なのはルークのほうだ」
 馬鹿だとは思っていたが、やはり馬鹿だった。馬鹿正直に正面からばかり攻撃していると不満顔の聖騎士に、ボーヴィル師はほう、と好奇心を刺激されたようだった。
「おまえさんの従者は、それほどつよいか」
「つよいというより、あれは専門家なんですよ」
 そういってなぜか浮かぬげにため息をつく聖騎士に、ボーヴィル師は大いに興味をひかれたらしい。目をまるくして、そうかと視線を泳がせたのち、思い出したように言葉をつづけた。
「ということは、ビリング卿の言い分もあながち妄想とはいえぬのだろうかな。じつはあの御仁は、ぼうずのことをしきりに疑っていてな。つまり、騎士になるにはふさわしからぬ出身のものではないかと、そういうんだが」
「案外おしゃべりなのだな、かれは」
 カーティスは眉をひそめた。昨日とうとつに訪ねてきてまっすぐに懸念を表明した三の巫女の後見の騎士は、どうやら口をつぐんでいることが出来ない質らしい。
「ふさわしいか、ふさわしくないかは、この〈試練〉があきらかにすることなのではないですか」
「それはそうなんだが。そのことに関しては、ひとつわしも聞きたいことがあったのだな」
 そこで急に言い出しにくそうに口ごもった神官を、聖騎士は平静に促した。
「なんでしょうか」
「うん、じつはだな」
 今朝の検分の際の出来事なのだが、と前置きし、若者の背中に火傷のあとを見つけたのだと頭を掻きながら神官は言った。
「それほど大きなものじゃあない。それに、ほぼ完全に治癒しているから、安心していい。身体を動かすのには何の支障もないだろう――もっとも、そんなことは聞かんでもしっとるわな。だがな。あんな場所にはふつう、火傷は負わないものだよ。わしの思うに、あれは故意につけられたものだ。しかも、比較的最近に」
 ボーヴィル師が横目づかいに問うているのは、傷痕のついた理由と経緯だろう。それを承知しているのだろうと、聖騎士は思われている。
 カーティスは、さりげない口調でそれを肯定する言葉を吐いた。
「不必要なものを消したのです。いまの傷には、意味などありません」
「消すために灼いたのか」
 ボーヴィル師は瞠目し、嫌悪もあらわに顔をしかめた。
「痛かっただろうに……そうまでして消さねばならないなにかが――」
「あったはずです。少なくとも、私はそう思っている」
 家畜に焼き印を押すように、人間の肉体にも記号や文様を刻んだり、焼きつけたりすることがある。そうしてしるしをつけられた人間には、所有者がいるのだ。
 世界のすべてが神殿のかかげる神のことわりどおりにうごいているわけではなく、神殿はけっして認めはしないが、そうした外道のおこないを平然と、あるいは必要に駆られておこなうものたちも、この世には確かに存在している。
 それでも、そうしたことが健全な日常の生活のなかで口にされることはというと、滅多にない。とくにエリディルのように戦の記憶の遠のいたところでは、人間の暗部の記憶もまた薄らいでいる。善良なひとびとには、他人の所有物として家畜のように扱われる人間のことなど想像もできないだろう。それは幸せなことだった。陽のあたらぬ影の世界など、知らぬままに過ごせればそれに越したことはない。
「私も、真相を知らされているわけではありません」
 だが、推測することはできる。
 ルークは大神官の私兵だった。そして大神官はディエンタール家の出身だ。
 大神官本人はいっぷう変わった経歴の持ち主だが、ディエンタールといえばふるくから神殿を支えてきた長老たちの一族だ。神殿内部の権力争いが激化するうちに、長老たちはおたがいを圧倒するため、牽制するために、あるいはさんざんにうち負かそうとして、さまざまな力を行使してきた。長年にわたってつづいている凌ぎあいのなかには、あからさまにはできない種類の争いも当然あったに違いなかった。
 現に、大神殿周辺でささやかれる言い伝えや噂には、神殿自身が公には存在しないある者たちと交渉を持ったことを物語るものすらある。
 名指しされることはけしてなく、必要なときには〈影〉とのみあらわされる、後ろ暗い結果をもたらすことをなりわいとする不吉な者たちがいるという。
 いにしえの〈影の民〉の末裔ともいわれるかれらは、ひとりひとりがその身に一生消えない刻印をきざみこまれ、すべてを統べる長のほかには自分の意志をもたない。
 そうして生まれた〈影〉はあるじとさだめられた人物の意のままにうごき、おそらくはあるじのかわりにその手を血で染めていくのだと。
 そういわれる者たちがいる。
 そんなものは噂にすぎないと、笑い飛ばすのは簡単である。
 だがそれは、まさに、カーティスが初めてであったときのルークの状態、そのものだったのだ。
 カーティスの口元には、これまでにない苦い笑みがにじんだ。
「――私は、ひきあわされたその場で、一度やつに殺されかけているのですよ」
 実際には、大神官に若者の技量をあきらかにするほかの意図はなく、ゆえにルークがカーティスの不意をつき、急所に武器をあてがってみせる以上のことをしたとも思われない。
 しかし、それはいまだから言えることだ。油断していたとはいえ易々と背後をとられたあげく、なんの感慨もなしに突きつけられた鋭い刃の感触を思い出せば、若者が黒い死の影そのものと思えたあの冷たい瞬間もまた、よみがえらざるをえなかった。
「それはそれは……守護騎士候補としては、いささか物騒な気がするが……大丈夫なのかね」
「猊下が、すっかり手なづけましたからね。護衛として、またとない人材であることは確かですよ」
 またもため息をつきそうになって、カーティスは落ちかかる髪をかきあげた。
 なにゆえ大神官が〈影にひそみしもの〉を手元においていたのか。それはわからない。
 かれの上司には得体の知れない部分がたしかにあって、それはもっとも近い位置にいる部下にすら容易に真意を悟らせないのだった。
 冗談交じりに、〈影〉と若者とのあいだにあった束縛の契約を、自分を対象にしてうつし換えたのだと説明されたが、いったいどうしたらそんなことができるのだろう。
 上司の正気を疑うカーティスに、大神官は、気になるのならば面倒を見ろとばかりに若者を従者として押しつけ、姉の婚家にかんする任務を「巫女の叔父君であるそなたに」とわざわざ命じてくれたのだった。
 そんなふうに恩着せがましく言われなければならないような事だったろうかという想いは、都を出てからいや増している。
 とはいえ、まさか、自分が守護騎士をそだてることになろうとは、夢にも思っていなかったカーティスである。
「たしかに、いまのぼうずにそんな鋭さは微塵もないな。危険人物にはとうてい見えん――それはそれで、心許ないような気もするがのう」
 話の真偽をどううけとめたものだろう。ボーヴィル師の口調はあきれたような、しかし感心していないわけでもないような緊張感のないものになっていた。
 つられて、カーティスは嘆息してしまう。
「そうなんですよ。むしろぼんやりが度を超して、心配なくらいだった。それでも、こと戦いに関してはそれほど心配していなかったんですが」
 ルークのぼんやりを解消すべくうった布石は、ここでは口にしない。緊急事態とはいえ、自分でも規則違反をしたような気分がぬぐえないからだ。
 フィアナは、どれほど事の真相を理解しているだろう――自分はあとでそうとう恨まれることになるのではないだろうか。
「そういえば、きのうも長々と特訓をしていたようじゃな」
 いったいなにを教えていたのか、と訊ねられて、
「あれはつまり――」
 応えようとした言葉は、勢い込んであらわれたふたりの人物によって遮られた。


「なんだと。あのぼうずはディエンタールの〈影〉なのか!」
 会話を遮ったひとりは、神殿守護のフェルグス卿だった。どうやらいまの会話をすべてとは言わないまでも盗み聞いていたらしい老騎士は厳つい顔をこれ以上ないほどこわばらせており、不意をつかれたカーティスはたじたじとなった。
「カーティス卿! 聞いてください! 聞いて! 大変なんです!!」
 もうひとりは六の巫女付きの侍女ミア・ハーネス。赤褐色の頭の娘は、制止する神官のむこうずねを蹴り飛ばして懸命に駆け寄ってくるところだった。娘の後ろからは、もうひとつの赤褐色の頭がおぼつかぬ足どりでぼんやりとついてくるのが見える。
 カーティスはまず、フェルグス卿の身体をかいくぐって一足先に到達したミアに問いかけた。
「いったいどうしたのだ。六の巫女の具合に変化でもあったのか」
「フィアナさまは大丈夫です、さっき食べ物を運んでくれるように厨房に頼んでおきましたから。ええ、そうなんです、お腹が空いてたんだって本人が白状しました。あのフィアナさまがゆうべからろくな食事をとってないんだから、たおれるのも当然なんです。そんなことより!!」
 頬を紅潮させ両手で拳をつくって力説しようとする侍女を押しのけて、今度は老騎士が掴みかかってくる。
「カーティス・レングラード。おぬし、聞き捨てならない言葉を口にしたな。神聖な〈試練〉に〈影〉だと。しかも、よりによってあの、ロイド・ディエンタールのやつの〈影〉だと。聖騎士ともあろうものが、なにゆえそんなやつをひきつれてここまでやってきたのだ」
 聖騎士は、大きな手でのど頸を押さえつけられてもまだ笑顔だった。もっとも、そのくちもとはいささかひきつってはいたが。
「何故といわれても、従者だからですが」
「認めたな、若造め。やはりあやつは〈影〉なのだな。なぜ、そんなものを従者にした」
「いまは〈影〉ではありませんが――ディエンタール猊下の差配です」
「ディエンタールの言葉なんぞ、無視しろ」
「そう言われましても――」
 あれでも大神殿の長ですから、命令を聞かないわけにはいかないのですよとつづけると、老騎士は苦虫を思いきり噛みつぶしてしまったような渋い顔に怒りをつよくにじませて、歯ぎしりをした。
「ディエンタールのやつめ、なにゆえ大神官なんぞに成り上がった……いや、成り下がったのだ」
 畏れ多くも大神官を呼び捨て罵る老騎士の巨躯は異様な迫力に満ち満ちて、端から見るものにはどす黒い怒りをくすぶらせる太古の巨人のようにも映った。運悪く間近にいたジョシュ・ハーネスは、声も出せずに立ちつくしている。あの、いつも泰然として巌のように頼りがいのあるフェルグス卿がここまでとりみだし、他人を、それも目上の人物を罵倒している。しかも、ここは私的な場でもなく、衆目のあつまるトーナメントの会場なのである。
 事実、怒りもあらわに相手を怒鳴りつける老騎士のすがたは、そろそろ周囲の注意をひき始めていた。
 だが、フェルグス卿は視線などはかまわない。
「カーティス・レングラード。おぬしには失望した。わしは、こんな悪事に荷担するような人物を聖騎士として推挙した覚えはない!」
 雷鳴のようにとどろく老騎士の一喝。
 まわりはいっせいに縮みあがった。
「すべてを悪事だと、決めつけないでいただきたいんですが――」
「ディエンタールのやることが、まっとうなはずがあるか!」
 そのとき、聖騎士にとっては運のいいことに、この場のすべての会話を遮るように鐘楼の鐘が鳴りはじめた。
 ひとつめの鐘だ。
 鐘の音は、ひとびとに青空を仰がせ、ひととき時間の流れをとどめた。
 大音響にもかまわず、フェルグス卿は険しい顔でまくしたてたが、だれの耳にも届かない。そのようすをくびをすくめて見あげるかつての部下を、老騎士はいまいましげに睨みつけた。鐘の余韻が消え、ざわめきが戻ってくると同時に乱暴に突き放す。
 聖騎士のよろける姿に、ふたたびびっくりするほど大きな悲鳴がひびきわたった。ミアが、自慢の喉を大気も裂けよとばかりに張りあげたのだ。
 若い娘の頭につき刺さる悲鳴に毒気を抜かれたのか、フェルグス卿の激昂はやや勢いを失った。
 猛獣使いを気どった神官がなだめるように肩を叩いてくるのを追い払うと、老騎士はやおら冷たい視線をカーティスに投げる。
「あいかわらず、へらへらしておるな、おぬしは」
「それはどうも。気に障ったのならおわびします」
 カーティス・レングラードは潰されかけた喉に手を当てて、すまなさそうに謝ってみせた。声がわずかにしわがれている。
「こんなことをしているあいだに、おぬしの〈影〉はうちのやつらを三人ほどもたたきのめしたようだぞ」
 いわれて首を巡らせるが、近くにその、〈影〉のすがたは見あたらない。
 ルークだけではなく、見える範囲には審判も、神官長も、運営の神官たちのすがたもなかった。かれらは試合進行から置き去りにされていたのである。
 歓声とどよめきは、いまは数段階前方から聞こえてくる。たしかに、この離れ具合からして遅れは三人分くらいだろう。
「いや、たたきのめしてはいないでしょう。そんな腕力はやつにはない」
 さらにむっとするフェルグス卿。
「言葉の綾というものだろう。そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるぞ――六の巫女はけしてディエンタールには渡さん」
 あとで文句をつけてきても関知はせんからなと言い捨てると、肩を怒らせたまま、あたりを威嚇するようにのしのしと離れていく。
 遠ざかる大きな背中を見送った聖騎士は、やれやれと乱れた金髪をかきあげた。
「完璧に怒らせてしまったようじゃのう」
 ボーヴィル師の感想は、老騎士の嵐のような怒りをあらわすにしては、いささかのんきな口調で表明された。
「――いつかはこうなるだろうと、思ってはいたんだが」
 すっかり怯えて目に涙をためてさえいる自称従者見習いに同情のまなざしをむけると、カーティス・レングラードは強力な援護をしてくれた侍女にむかって力なく笑んだ。
「それで、なにが大変なのかは教えてもらえるのかな」
「――はい、もちろんです!」
 ところが、
「その必要は、ないんじゃないかと思います」
 勢い込んで口をひらこうとしたミアをふたたび遮ったのは、鍛えられた身体に騎士服、さらに宵闇色のマントという、カーティス・レングラードそっくりのいでたちをした、カーティスよりはずっと地味な顔立ちの若い男のひとことだった。
「彼女の大変は、私のことかと思いますから」
 カーティスは空色の眼をみひらいて、いつのまにやら侍女の背後にあらわれた旧知の相手の名を呼んだ。
「リーアム・ディアニース。おまえ、どうしてここにいる」
 気軽な調子に憮然としかいいようのない表情を浮かべて、若い聖騎士が言い返す。
「どうしてここにおいでなのか、聞かせていただきたいのはこっちのほうです。カーティス卿」



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