天空の翼 Chapter 1 [page 32] prevnext


32 騎士の流儀


 ひとつめの鐘が鳴りはじめたとき。
 ルークは、太い腕で斧をふりまわす男の相手をしていた。
 これまでに後ろに残してきた守備隊兵士の数は十五人。当番を除いた兵士は五十人ほどだったから、だいたい三分の一との対戦を終えたことになる。
 ところが、かれはこの時点ですでに道のりの半ばを踏破していた。
 守備隊側が想定していなかったのは、挑戦者の脳裏に城壁内の道に関する詳細な見取り図が完成していたことである。鐘楼からの見物と馬の散歩がそのための布石だったことなど、だれが想像し得ようか。
 脳内の地図上で、とぎすまされた感覚はおのれの現在位置を正確に知覚する。
 おかげで余計な回り道をしないのは無論、あらかじめもうけてあった誘い道や罠にもひっかかることなく、最短経路の選択が可能となった。周囲の歯がみを尻目に封鎖し忘れた近道を何本か経由すれば、待ちかまえていた相手を飛ばしてしまうこともでき、現実に飛ばされたのはひとりやふたりではない。そうして対戦相手はみるみる減少し、ルークにとってはこれが大きな助けとなった。
 この調子でゆけば、刻限までに目的地までたどり着くのもさほど困難なことではないだろう。
 もともと、この任務の最大の懸案が体力であることは見極めがついていた。
 たとえば、革手袋の手の中ではまあたらしい剣が、その重みを声高に主張しはじめている。
 手渡されたのは、使用者の体格にみあった細身の長剣である。
 聖騎士は辛抱強く騎士用の武器の特性に馴れるための訓練をほどこしてくれ、ルークもかなりの部分で違和感を呑み込みつつあったが、これみよがしで派手なそれはいまだにからだの一部というわけではない。馴れぬ得物での戦闘は予測のつかないことの連続だ。
 そして、もうひとつ。
 騎士らしく戦え、と聖騎士は命じた。
 守護騎士の資格を問う〈試練〉において、いつものやり方をしてはならないことくらいは、ルークにもわかる。
 “正々堂々とした戦い”を演じるためにこれまでずっと、昨日は日が暮れるまでしごかれていたのだから、当然といえば当然であるが。
 それにしても、騎士らしい“正々堂々とした戦い”とは、なんと面倒で体力を消耗するものなのだろう。
 つねに敵の正面に回り込む努力をつづけながら、ルークはつくづくと体感している。
 戦いといってもこれは模擬戦で、命のやりとりをするようなものではないという。必要なのは致命傷ではない。あくまでもその寸前の、反撃不能の体勢に陥らせること、なのである。
 “正々堂々とした戦い”では、できるだけ相手に傷をつけぬように心がけなければならず、ごまかしや罠の使用は禁じられた。それなのに、勝負はだれの眼にもあきらかなよう、“きれいに”つけなければならないらしい。
 まどろっこしい規則だが、人命を消耗させずに決着をつけるためだといわれれば、ルークに反論の余地はない。これまでとは求められているものが違うのだと、むりやり納得するだけである。
 だが、そうはいっても実戦はまた別の問題なのだった。
 自分からしかけるとどこで規則違反を侵すかわからないので、当初、ルークは攻撃を真正面からのものに止めるだけでなく、すべての行為を相手の後におこなうことにした。
 かれに不信感を抱く審判が一挙手一投足を厳しく監視していることを考えれば、これはなかなか当を得た作戦だったといえよう。違反は、認識されれば即座に失格を宣言されたに違いなかったが、消極的な戦術に終始するものからとがめるべき態度をあげつらうことは難しい。ビリング卿の内心はべつとして判定は公正厳粛におこなわれており、これまでのところ、ルークは不機嫌な視線以外の注意を受けることもなくすごしていた。
 このやり方の困ったところは、行う側に体力の余分な消耗を強いることにある。相手の粗く、ときに緩慢な動作の間隙を縫い、最小限の手数で決着をつける方法を工夫して大幅な労力の削減は見込めたとしても、つねに受け身の状態では削る無駄にも限度があった。聖騎士が馬鹿正直めと評した裏には、若者の体力に対する懸念も含まれていたのだ。
 疲労は、知らぬうちにつみかさなってゆく。
 しかし、先に進まないことには話にならない。
 二十三人目の武器をはじき飛ばすと、勝敗を宣する杖がいまいましげに掲げられるのを確認し、つぎの順路へと歩を進める。
 罵る相手にはかまわない。自分をとりまく不穏な歓声の理由も、かれは知らない。
 ただ、自分の呼吸が乱れはじめていること、踏みしめる地面がときおり身震いしているように感じることが気になるだけだった。
 風が、汗のにじんだ額をなでてゆく。
 足どりは極力一定を保つようにした。とにかく、最後まで体力を保たせなければならない。
 頭上では、はやくもふたつめの鐘が鳴りはじめていた。
(残り、四分の一)
 問題なのは、目的地が迫るにつれ対戦相手の技量が目に見えてあがってきたことだ。小手先だけで相手が出来る段階はとうに過ぎている。刃を交える回数が増え、こちらの動きを読まれることもまれではなくなっていた。すでに敗れた兵士から情報が伝わっているのだろう。侮る気配は完全には消えていないが、はじめた頃のような、あからさまに茶化すような態度は、いまはみえない。
 好むと好まざるとにかかわらず、兵士たちは目の色を変え始めていた。
 そして、ルークにも初めの余裕はなくなりつつある。
 搏動に歩調を合わせて背の高い建物の角を曲がると、ささやかにひらけた空間があらわれた。
 今度の相手は、二刀使いだ。
 とたんにやってきた初めの一撃をかるくそらせば、相手はすぐさまもう片方の武器で襲いかかってくる。
 連続技に後れをとりそうになって、ルークはついに潮時を悟る。
 これ以上、無駄に体力を費やすことはできない。
 すでに聖堂は間近に迫り、狭い路地のむこうに高くそびえる本堂の姿が視界に入ってきている。あとすこしなのだ。相手が必死になっていることもそれで理解できた。
 ルークは、拡散した知覚領域を目の前の人物の収まる範囲に限定することにし、意識を相手の一挙手一投足に集中させることにする。
 審判の視線が気にはなったが、正面から行けばいいはずだと思い決め、しばし攻撃を受け流しながら相手の動きを読むことに専念する。
 相手の隙を突く。タイミングを外す。
 戦いの基本はすべてそれだ。
 攻撃の後におとずれる一瞬の空白。相手が無防備になる間隙をとらえて、狙いをさだめ、力をこめる。
 武器と武器とがぶつかりあって、悲鳴のように甲高い音が連続する。
 襲いかかる刃を受けとめるたび、剣を握る手に痺れるような衝撃がかさなる。相手の闘気をたたえた強いまなざしを見据え、戦いの衝動に冷たく燃えはじめた本能が告げる。
 このままつづければ、体力に勝る相手に軍配があがるだろう。
 しかし、敵に弱みがないわけではない。怪我でもしたことがあるのだろうか、この男は軸足が不安定だ。
 隙を見計らい、受けとめた剣を大きく外へなぎ払ってすばやく前へ出る。虚をつかれた相手が思惑通りに平衡を崩す。重心のずれた軸足をさらに浮き足立たせるために逆方向へとステップ。目の前をかすめるような剣先の移動に相手は驚きの悲鳴をあげて、それでもかしいだ身体でもう一本の剣を振りかざすのから、瞬転、身をかわす。
 ふたたび向かいあうと相手は大幅に体勢を崩したまま、まだ半分背を向けている。そのまま一気に勝負をかけようと飛び出して、寸前、当然のように相手の息の根を止める算段をしている自分に気がついた。
 刹那、呼吸が停止する。
 ――騎士らしく、戦えよ。
 空白になった頭の中に、ともしびのように聖騎士の声がよみがえる。
 絶好の機会を眼の前にしながら、なすすべもなく男の脇をすり抜ける。
 荒い呼吸が、全身の筋肉にふるえを呼び起こしていた。
「ちくしょう」
 痛みと怒りに顔をこわばらせ、男が罵る。視線をうごかすと、審判の杖を握りしめた後見の騎士の剣呑なまなざしにぶつかった。
 なにをするつもりかと詰問されたようで、いっきに頭が冷える。
「てめえ、俺を馬鹿にしてるのか!」
 身がまえなおした敵が、感情をむき出しにして襲いかかってくる。
 対処するのが一呼吸遅れて、剣をあわせるのが精一杯となった。
 形勢の逆転に沸く歓声をついて、聞き覚えのある声がなにかを叫んでいる。
「こら、従者ルーク、手加減するな。おまえの剣には刃がついてないと言っただろうが。思い切りやれ!」
 おまえに剣で殴られて死ぬようなやつは、ここにはいないぞ、とつづく聖騎士の叱責に周囲はどよめいたが、ルークは、そうか、とようやく納得し、かすかに安堵した。
(あれは、そういう意味だったのか)
 ということは、相手の身体に剣が触れぬように努力する必要はない。
 すぐさま両刀の相手のふところに飛び込むと、思い切り剣で胴を殴りつけた。
 ずしりと革鎧の腹にめり込んだ剣は、聖騎士の言葉が真実である証拠にそのまま相手を両断はしたりはしない。
 男はそれでも衝撃に踏ん張りきれなかった。身体の表面をさらして倒れた相手に突きつけた剣を、ルークはあらためて眺めてみる。
(なるほど)
 これがなんとかいう銘のついた剣かと、その鈍さと頑丈さとに感心する。
 そして、騎士のやり方に馴れるのにはまだ時間がかかりそうだ、と思わずため息がでるのだった。


 どこからどこまでが正々堂々の許容範囲なのか、いまだに見極めることは出来ずにいたものの、それからルークのペースは元に戻ったようである。とりあえず、相手を“剣で殴る”ことは許可されたので、武器だけを攻撃対象とする窮屈な戦法から解放されたためだろう。
 しかし、とうに完全な興奮状態にある観衆は、挑戦者のささいな変化など気にも留めない。
 そんなことよりも、残りわずかで守護騎士の〈試練〉がまっとうされてしまうということの方が、ずっと重大で驚くべきことだったからだ。
 対戦相手が残り半分となったところで締め切られた、トーナメント優勝者予想の賭けは大波乱の展開となっていた。
 もしかすると自分たちは、とんでもない事件を目の当たりにしているのではないだろうか。
 ひとびとがおどろき浮かれ騒ぐ中で、兵士たちは自分たちのふがいなさに憤慨し、神官たちは思惑が外れてあわてふためき、開始直後はあれほどご満悦だった神官長の姿は――いつのまにかどこにも見えなくなっていた。
 隣の声も聞こえないほどの騒ぎとなっていたが、若者の歩みは依然として冷静着実だった。ひとりで三十人以上を相手にしてきたのだ、さすがに疲労の色は隠せないが、それにもまして頭に血を上らせて対する兵士たちの空回りがひどかった。
 ヤジの対象はいつのまにか挑戦者ではなく、守備隊に移っている。
「おい、まだ残ってるのはだれだ」
「ダグスとボーン。バルガスもいたか」
「バルガスの阿呆はさっき、自分で足を滑らせてたじゃねえか」
「んなら、あとふたりだ」
「なんだよ、あと、ふたりしかいねえのか?」
 そして、興奮した観衆の見守る中、残ったふたりのうちの片割れ、大鉈づかいのボーンが若者の目前に膝を屈した。
 わきあがる期待と面罵の声が、地響きと化して城壁全体につたわっていく。
「よし、これでなんとかいけるだろう」
 カーティス・レングラードがほっと一息ついて巫女付きの侍女に目くばせをしたとき、いまいましげなうめき声をあげたのは守備隊の幹部たちである。
「これは困ったことになりましたねえ」
 微笑みの副隊長モーリス・ディアベインの笑みは、めいっぱいひきつっている。
 バルガスもボーンも、けして弱い戦士ではない。守備隊の中では五本の指に入るつわもので、だからこのトーナメントの終盤部分に配置されてもいたのである。
 ただし、かれらは無手勝流で大げさな武器をふりまわしてきた、膂力でもって相手をねじ伏せるのが常套の単純な乱暴者たちである。正規の訓練などは馬鹿にして受けていないので、観衆に煽られて気負い込んだまま視野狭窄に陥ると、それをみてとった相手に翻弄されても立て直すだけの精神的な修練の土台がない。ある意味では、今回かれらは戦う以前に負けることをさだめられていたのだろう。もし、逆の立場であったなら、兵士たちは手のつけられない狂戦士と化して実力以上のちからを発揮していたかもしれないのだ。感情の起伏が激しく我を忘れやすい辺境人気質は、良きにつけ悪しきにつけ、さまざまな作用を及ぼした。それが、今回はたまたま悪い方に出たわけだ。
 とはいえ、守備隊にとってそんなことばは慰めにもならない。
「このままだと、わが守備隊はとんだ恥さらしの集団ということになる。非常にまずい事態です」
「そんなことはわかっておる」
 守備隊隊長兼神殿守護の怒りのいらえに、独り言をつぶやいたつもりだった副隊長は驚き、ふりむいた。
「おや、閣下。いつのまに――そういや、いままでどこへいらしてたんですか」
 この大変なときにと非難まじりの質問を、不機嫌な老騎士は鼻を鳴らして無視をした。
「ディアベイン。おぬし、あの坊主の剣をどう見る」
 副隊長はいぶかしげな顔つきをしたが、あえて意味を訊ね返さずに軽い調子で応じる。
「馬鹿なんじゃないかと思うほどまっとうですな。すこし閣下の剣に似ています」
「……馬鹿なところがか?」
「もちろん、まっとうなところがですよ。カーティス卿が稽古を付けていたようですが、かれの剣もああだとしたら、すこし意外ですな」
「そうか」
「いったいなんですか、藪から棒に」
「――十数年前、わしがカーティスに剣を教えたのだ」
「それでは、あの若者は閣下の孫弟子ということになるわけですね」
 フェルグス卿はじろりと副官を睨むと、おのれの道にむかって淡々と足を進める挑戦者の姿を追った。いまいましげに舌打ちをする。
「あの冷静さが好かんのだ」
「ああ、そこは閣下とはまったく似ていませんから」
 ご安心をとばかりに合いの手を入れた副官は、行く手にあらわれた甲冑姿の兵士に、急に顔をひき締めた。
 守備隊の最後の砦となったダグス・リードは慎重だった。図体の大きさで威嚇しようとしてきたほかの男たちとは異なり、不用意に相手の間合いに踏み込むようなことをしない。
 見えない緊張の糸が張りつめたまま、距離をとっての睨みあいがしばらくつづいた。
 これが最後の対戦と、観衆の興奮はいやがおうにも増していた。驚いた鳩が、あちらでもこちらでも慌てたように青空へと飛び去ってゆく。
 先に前へと出たのは、意外にもルークのほうだった。閃光のような鋭い攻撃に、しかし、ダグスも慌てることなく応戦する。
 疲労でますますかるくなったルークの打突は、無駄なく確実に跳ね返されていった。
「あれはおぬしの従者だったな。勝てると思うか」
「相手も疲れていますから、打ち合いだけならついてゆけないこともないでしょう。技術は向こうが勝りますが、膂力では文句なしにダグスに分があります」
 ダグスは恵まれた体格にもかかわらず、ほかの守備隊兵士には見られない、ねばり強い剣の使い手だった。真面目な表情を映すようにふるう太刀筋は剛直で、意外性はないかわりに隙もなかなか見えない。
 踏み込んでは退く。退いては、踏み込む。
 たがいにおなじリズムを刻みながら一歩も退かず、放っておけば際限なくうちあいがつづきそうだった。
 ダグスは無理をして仕掛けようとはせず、ルークの足が止まるのを待っていた。あるいは、ルークが打ち合いに耐えかねて、なにかを仕掛けてくるときを。そのなにかに対処するだけの自信はあるのだろう。
 ただ、ダグスはこんな雰囲気には慣れていない。思惑通りに自分の力を出し切れるかどうか――五分五分ではないかと、副隊長は冷静に分析する。
 異様な状況で平常心を保つことの難しさは、経験したものでないとわからない。普段どおりにうごいているつもりでも、無意識に心は萎縮し、身体は力むものである。ダグス・リードは余裕を持ってゆったりとかまえているようにみえる。しかし、普段の立ち合いを知るものからすれば、緊張からくる硬さを否定することはできない。守備隊の面目がかかっているのだという重圧が、ダグスにこれまでにない負担となっていないとはいえないのである。
 一方、挑戦者からは最初からいまに至るまで、力みというものがまったくつたわってこなかった。
「あの若者のもっともすぐれているのは、そこでしょうな。若いのにまるですれからしの傭兵のように揺れがない。こちらの隙を見逃すようなこともしないでしょう」
 その言葉を証立てるかのように、ひとつの動作がさそった動揺を契機にダグスは圧されはじめた。形勢は一気に挑戦者へと傾いてゆく。
 仕方がないとばかりにため息をつき、みずからの出陣を告げる副隊長を、老騎士は険しい顔で咎めた。
「おぬしが行ってどうなる」
「たしかに私は剣術が得手ではありませんが、しかし、ダグスよりは老獪であるつもりです。守備隊の面目を保つ努力はせねばならんでしょう」
 来年度の予算のこともありますし、と肩をすくめてマントを脱ぎさると、下にはすでに武装をととのえていた。
「待て、モーリス」
「なんですか。番外の対戦は賭の対象じゃないからやめろなんて言わんでくださいよ」
 施療神官にばかりいい思いはさせません、と踵を返しかけた副隊長は、大きな分厚い手に背後から強引にひきもどされた。
「おぬしが行くにはおよばん。わしが出る」


 辛抱強くねばりつづけたダグス・リードの武器がついにたたき落とされ、石畳の上をころがると、勝敗の行方はもはや誰の眼にも明らかとなった。最後の瞬間を先延ばしにしようとして無理な体勢からこころみた足技も、挑戦者の勢いを削ぐには至らない。むしろ自分からバランスを崩して、となれば巻き添えにしてやるとばかりに胸ぐらをつかんで地面に倒れ込んだのだが、次の瞬間ひとびとの眼に飛び込んできたのは、相手の眉間に狙いをさだめたまま、ぴたりと剣先を静止させる挑戦者のすがたに他ならなかった。
「勝負あり――挑戦者!」
 一瞬の沈黙の後にためいきのごとく判定が下り、歓声がどっと大きくなった。
 しばしののちに、ビリング卿が地面に伏したままのふたりを分けた。敗戦に心底落胆しながら身を起こしたダグス・リードは、自分を倒した男がおぼつかぬようすで膝をついているのに気づいて、目を瞠る。
「……おい」
 大丈夫かと訊ねかけて、苦しげな呼吸をくりかえす若者のまなざしのつよさに口を閉ざした。
 そうだった。この若者の試練は、まだこれで終わりではないのだ。
 ルークは頭を覆っていた防具をむしり取ると、乱れた髪の下、汗まみれの顔を手の甲でぬぐった。息をととのえるまもなく、疲れた足どりで歩み始める。
 ――聖堂へと。
 そのときだった。
 巨大な影が、若者の行く手を阻むように立ちはだかったのは。
「待て、そこなぼんくら聖騎士の従者よ。勝負はまだ終わっておらぬ!」
 大音声とともに姿をあらわしたのは、神殿守護の正式武装をまとったフェルグス・ディアノードである。背後に薄汚れたしかめ面の守備隊の面々をずらりと従えて、生きてきた歳月を皺に刻んだ厳ついおもてに気迫をみなぎらせ、巨漢の老騎士は威嚇のひびきをもつしわがれ声をさらに張りあげた。
「エリディル神殿守護として、宝玉の巫女はわしの保護下にある。そのほうが守護騎士の名に値するものならば、それなりの覚悟を示してもらわねばならぬ。答えよ。そのほうにとって、宝玉の巫女の騎士とは何を意味するか」
 突然の問いかけに、ルークは返す言葉を持たなかった。もともと会話は得手ではないのだ。おまけに、いまは息があがって、声を発することすら難しい。
 老騎士はさもあろうと重々しくつづけた。
「答えられぬか。それではここを通すわけにはゆかん。どうしてもというなら、わしを倒してからにしてもらおう。いざ、尋常に勝負せよ!」
 腰の大剣を鞘走らせ、裂帛の気合いとともに突進する。
 相手を斬りとばさんばかりの勢いで迫った老騎士を寸前で止めたのは、宵闇色のマントをひるがえして飛び出してきたひとつの影だった。
 鈍く大きな音とともに、鋼の刀身といまだ鞘に収められたままの長剣が激突する。
 重量級の一撃を受けとめたカーティス・レングラードは、フェルグス卿の大剣を押し返しつつ、皮肉に笑いながら抗議した。
「規則違反ですよ、閣下。この期におよんで余計なことはしないで頂きたい」
「余計なこととはなんだ。わしはこの神殿の守護で、守備隊の隊長だ。最後のひとりになっても、巫女を護るのがわしのつとめ。だいたい、それが目上にむかって言うことか。不届きものめ」
「きのうの取り決めをお忘れですか。古式に則っておこなわれる〈試練〉に、飛び入り出場は許されません。そうでしたね、ビリング卿」
 肩越しに確認を求められた後見の騎士が、気まずそうに同意する。
「……閣下は巫女の祝福を受けておられませんから」
「わしは着任時にさきの大神官の祝福を受けておるぞ」
「それとこれとは、別の話だ」
 至近距離で鼻をつきあわせ、睨みあいつつ力任せの鍔迫り合いをつづけることしばし。
 埒があかないことにいらだち、老騎士は大剣をねじりはらった。
 いったん距離をとったふたりの戦士は、相手の出方を探るように牽制しあう。
「困りますねえ。久しぶりに正規の守護騎士が誕生するかもしれない貴重な機会だというのに、台無しにするおつもりですか」
「だから、わしと勝負せよと言っておるではないか。わしを倒したら仕方ないから認めてやろう。わしよりも弱い守護騎士なら、そんなものは必要ないわ」
「そこまでおっしゃるのなら――ルーク」
 聖騎士は視線を前に据えたまま、背後で困惑していた若者にひとこと命じた。
「おまえはさっさと巫女のところへ行け」
「……だが」
「余分なことにかかずらうな。時間がなくなる」
「カーティス・レングラード!」
 老騎士の憤怒の抗議に、聖騎士は不敵に笑いかえした。
「閣下にはご心配なく。御身のお相手は、私がつとめさせていただく」
 宵闇色のマントを肩からひき剥がし、ばさりと放り投げる。
「たがいに祝福を受けていないもの同士、ちょうどよい組み合わせではありませんか」
 これでようやく昨日のつづきができるというもの、と空色の眼が喜悦に輝き、長剣をぬき放つと、鞘はさりげなく石畳へと投げ捨てられた。
 直前までかつての上司相手に抗議を連ねていた聖騎士リーアム・ディアニースは、ここにきて自分の役回りを認識せざるを得なくなった。ぽんぽん捨てないでくださいよとぼやきながら腰をかがめて暴走する先輩騎士の落とし物を拾いあげる。そこでいったん完全にひいたかと思われた興奮の波が、ふたたび高くつよくみちてくるのに気づいて目をまるくした。
 あがるどよめき。飛びかうヤジ。足を踏みならす音に口笛に、さらには聖騎士の名を叫ぶ黄色い悲鳴がくわわって、そのうち耳が聞こえなくなりそうだ。
 騒音に負けじと聖騎士が声を張った。
「ルーク、はやく行け!」
 はじかれたように動き出した黒髪の若者に、逃げるなとフェルグス卿が怒鳴り、怒鳴りながら追いかけようとする老騎士の進路に、そうはさせじとカーティスが割って入る。
 怒りとともにふり下ろした大剣を造作なく受けとめられて、フェルグス卿は声を荒げた。
「邪魔をするでない」
「それはこちらの台詞です」
「そこを通せ」
「言われて素直に通すとお思いか」
 けんか腰のやりとりをつづけながら、ふたりの巨漢は容赦なく大きな得物をぶつけ合った。双方の鋼が低い唸り声をあげて激突し、金属系の大音響とともに火花が散った。くりかえされる迫力の剣戟に、ボーヴィル師をふくめた周囲はやんやの大喝采である。
「こら、警備! 手の空いてるもの! だれでもいい、不審人物の侵入を阻止せんか! 聖堂の扉を閉じよ!」
 至近距離で始まったたたかいに度肝を抜かれていた兵士たちは、老騎士の一喝に我に返った。
 みれば、白衣の後姿は一直線に聖堂へむかっている。
「おい、やばいぜ」
「はやくしろ」
「ちくしょう、あいつめ。止めてやる!」
 個人的な恨みに突き動かされてあとを追う兵士たち。
 そして、聖堂の正面玄関は巨大な扉を閉じようと懸命に身うごきし始めた。
「こっちだ、捕まえろ!」
 つぎからつぎへ、神殿中から集結してきた守備隊兵士は若者をめざして殺到した。そのうち、どこかで勢いあまって転ぶものがあらわれ、するとつぎつぎに折り重なって転倒者が続出し、可愛げのない悲鳴と罵声とがとびかいはじめた。
 突如として出現した大混乱の中を、ルークはらくらくとすり抜けていく。
「待て! それ以上近づくな!」
 聖堂方面から侵入者を阻もうとあらたな一団が駆けつけてきた。
 だが、あと少しで若者をとらえようというところ、かれらはその姿を忽然と見失う。
「と、跳んだ……!」
 力強く大地を踏みきった黒い影はみあげた青空でかろやかに一回転し、驚愕の声をあげた兵士の上に衝撃とともに着地する。つぶれた兵士を踏み台としてふたたびの跳躍が生まれ、さらにまきこまれて倒れる兵士を無情に踏みつけて、ルークはとうとう聖堂へと到達した。
 ごうごうとあがる非難の声を背に、ほとんど閉じようとする大扉の隙間へ身を躍らせる。
 一瞬遅れて、なにかがすべるように若者のあとを追ったが、気づいたものはだれもいなかった。


 あわてて飛び込んだために勢いを殺す余裕はなく、ルークは硬い床の上をごろごろと数回転した。玄関ホールを通りこし、ようやく停止したときには本堂の中央通路にまで達している。
 酷使した肉体が要求したしばしの休息ののち、乱れた呼吸がなんとか活動を再開できるまで落ち着いたことを確認して、最後に大きく息をつく。
 そこで、ルークは異変に気づいた。
 まわりが、やけに静かなのだ。
 儀式の香がかすかに残り、ひやりとまとわる空間は薄暗く、いままでの騒ぎがべつの世界の出来事であったかのように、しんと静まりかえっていた。
 ふりかえれば、背後の大扉は完全に閉ざされていた。かれをのみこんですぐあとに、追いすがる兵士たちを拒むように重々しい音とともに閉じられて、追っ手は完全にせき止められていた。外からはこじあけようとしている気配がかすかにつたわるが、あの阿鼻叫喚の騒ぎは意外なほどに聞こえてこない。
 周囲の空気は、それまではりつめていたものが消え失せたかのようで、どこか虚ろですらあった。
 この静けさは、まるで――。
 かつりと黒い床に長靴の音がひびいた。
 まさかと思いながら立ちあがったルークの眼は、天窓から降りそそぐ輝きをたどり、陽光にうかびあがる祭壇をもとめる。
 そこで、かれは名を喚ばれ、冷たいしぶきとともにひとつの命を受けたのだった。
 だが、金の髪の小さな巫女のすがたは、そこにない。
 六の巫女だけではなかった。あれだけたくさんいたはずの人影がきれいさっぱりと消え失せている。
 がらんとした堂内に、三回目の鐘が無情に響きだした。



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