天空の翼 Chapter 1 [page 33] prevnext


33 墜ちてゆく記憶


 からだの隅々までしみわたる小刻みな振動に、ふと夢からさめたような気になって、フィアナはあれと一瞬首をかしげた。
 あたりは薄暗くてなんとなく狭苦しくもあり、感覚がとじていくような心地がする。頭上高いところからわずかに射しこんでくる光が、まなうらに木漏れ日のように氾濫してめまいを誘った。
(ここはどこ)
 ゆっくりと訪れたのは混乱だった。なぜだろう。意識を失っていたおぼえはないのに、自分がなにをしていたのか思い出せない。視覚も感覚もどこにも異常はないようだが、思考がうまく流れないのだ。
 たしか、さきほどまで自分は本堂にいたはずだ。儀式を終えたあとで、ほんのすこしだけ気が遠くなったけれど、すぐに目は覚めたはず。ただし、とても空腹でひどい疲労感に襲われており、その点ではかなり気が遠かった。
 だから、女官長に失敗を咎められたとき、すぐに訴えたのだ。食事が少なすぎるから、こんなことになったのだと。女官長はため息をつき、ミアが厨房へと姿を消した。それからフィアナはずっと食事がくるのを待っていて――。
 フィアナは、自分が硬い床にじかに座りこんでいることにようやく気づいた。黒くつややかな石の床面には光の加減で波のような文様がうかびあがる。狭い部屋を支える柱が神樹の幹のように上へとのびてゆき、奥には至高聖所へといたる閉じた扉が絡み合う枝と蔦の文様の中に埋もれている。脚が冷たい。そう思ったとたんに、ひとつの記憶がぽんとはじけた。そういえば、聖騎士に手渡された箱。小さな耳飾りのおさめられたあの箱は、どこにしまったのだっけ。
(ああ、ちがう。そうじゃない)
 フィアナは思考の道筋を間違えたことに気づいて、もう一度慎重にたどりなおそうとした。手は自然と胸の金鎖にのびている。
 考えようとしていたのは、ここはどこなのか、どうしてここにいるのかということだ。どうしてそんなことを思うのかというと、ここにいるはずではなかったと強く感じているからだ。
 それでは自分は、どこにいるはずだったのだろう。
「あっ」
 思わず声が出た。
 と同時に、覚えのある声が耳に飛び込んでくる。
「――ではよいな。神官はそれぞれの場所へ移動して待機。その気があるなら神と宝玉に祈っているといい。そなたたちは、ここに残るもの以外は控えの間へ。打ち合わせ通り、合図があるまでは動かぬように」
 凛として冷静な、人にものを命じ馴れた少女の声だ。
 声のした方向に顔をむけると、逆光のなかに祭服をまとったまっすぐな影が見えた。
 入り口の外から複数の声がして、多くの人間が散ってゆく気配がする。
 黒髪の巫女はさらに残ったものになにかを命じた。興奮したようすで請け負うのは、どうやら三の巫女付きの女官たちだ。
「それでは、ここは閉ざす」
「なんびとたりと中へ踏み込ませぬよう、くれぐれもお願いします」
 つづけてそう言うのは、女官長だ。
 どうやら、ここにいるのはフィアナをのぞくとこのふたりだけらしい。
 深く礼をとる若い女官たちを外に残して、外とのつながりはゆっくりと断ち切られてゆく。軋みながら扉がぴたりと閉じられると部屋はさらに暗さを増し、光源は頭上の天窓からもれる陽光だけとなる。
 それから女官長は戸にかんぬきを下ろし、さらにそのうえから施錠をした。
(ちょっと待って。なんで鍵をかけるの)
 あわてて立ちあがろうとしたが、身体にうまく意志がつたわらず、へろりと力が抜けて床に手をついてしまう。結果的に這いつくばるようになったフィアナは、どうにかして姿勢を正そうとあがいたが、必死の努力が実を結ぶよりも女官長がぶざまな彼女に気づくのが先だった。
「フィアナさま、なにをしておいでです」
(なにって、本堂に戻らなきゃ)
 フィアナはようやく思い出していた。ここは〈祈りの間〉だ。空腹を訴えたのち、本堂で飲み食いするわけにはいかないと言われ、何の疑問も持たずに控えの間に移った。そのあとで、女官長がおもむろに告げたのだ。
「これから〈祈りの間〉に移動して、フィアナさまには身を隠していただきます」
 フィアナは驚いた。そんな話は聞いていない。第一、そんなことをしたら挑戦者に対して公正ではない。相手はフィアナがいるという前提で本堂をめざしているのに、たどりついたときに目当てがいなかったら困るではないか。
 ところが、女官長の言い分はこうだった。
「フィアナさま。われわれは宝玉を守る立場のものですよ。敵である挑戦者に協力などしてやる筋合いではありません。大切なものは奥深くに隠しておくもの。申し上げておきますが、これは神官長が発掘なさった古文書に正規の手続きとして記されていたのです。もちろん、敵方には原則非公開のものですが。とにかくお急ぎ下さい。あの若者は予想以上に善戦しているそうです。万が一の事態にそなえなければなりません」
 穏やかな態度で周囲に無言の圧力をかけるのが女官長のやり方だが、このときは違っていた。命にかかわる重大事かと一瞬信じてしまいそうになったほどの真剣なまなざしに凄まれて、フィアナは反論できなくなった。
 もっとがっかりなのは、クレアデールが女官長の肩を持ったことだ。三の巫女は朝の一件についてこそひとことも口にしなかったが、宝玉とフィアナの状態に対する懸念を忘れてしまったわけではなく、そもそも忠告を無視されたまま黙ってひきさがるような人物でもなかった。真面目な顔でそのとおりだと女官長に同調すると、抵抗するフィアナを女官たちに命じて封じ込め、あっというまにここまでつれてきてくれた。そのほうがフィアナにとって安全だというのが、宝玉の巫女としてのクレアデールの主張らしかった。
 フィアナは、はあ、とため息をついた。
 クレアデールのいうように宝玉が目覚めようとしているのかどうかは、フィアナにはわからない。けれどもいまの自分が普通の状態ではないことは、認めざるを得ない状態だ。現実に、儀式が終わってからだいぶ経っているのに、まだ動悸はつづいている。規則正しいのだが、どうしても意識をそらすことのできない強い搏動がつづいているのだ。消耗が激しいのはそのせいかもしれない。
 いまはとても眠くて、身体に力が入らなかった。気を許すと、意識ももうろうとしてしまう。まだ、そのまま眠ってしまっていないことだけが救いだったが、なぜか、そのことすらも不安と感じられた。
 ときどき、足もとがくずれてゆきそうな気さえする。
 これはやっぱり、空腹がいけないのだと思う。ミアはどこまで食事を頼みに行ったのだろう。思わずフィアナは金鎖を握りしめて弱音を吐いた。
(お腹がすいた……)
 女官長はもうすぐだと何度も請け負ったけれど、食べ物のやってくる気配はいまだにみえない。それに、トーナメントの進行状況も、さっぱりわからないままだ。
 こんなことをしていたら、段取りすべてを完了しないうちに刻限が来てしまう。
 祭壇で祝福を授けたときに、ルークにあんな命令をするのではなかった。衆目の面前であんなに大げさなことを言っておきながらこのまま終わったら自分は大まぬけ。ルークに至っては骨折り損のくたびれもうけで、そう考えるとかれにはかなり申し訳ないことをさせているのだ。反応がないので気づかなかった。
 しかしそれをいうならばもっと悪かったと思うこともあり、それは苛酷な試練に送り出しておきながら、かれの勝利をこれっぽっちも信じていなかったことなのだが、いまになっても誇らしげに眼の前にあらわれるルークというのがどうしても想像できないので、フィアナはよけいに自分が悪いことをしていると感じている。怪我などしていたら、どうしようかとも思う。
 けれど、なぜなのだろう。名前を呼んだ、あのとき、祭壇から闇色のまなざしを見たときは、そんなことはどうでもいいことのように思えていた。勝敗など関係のないところで根拠の不明な確信があって、大胆なふるまいだと思いつつもまったく抑えが効かなかった。まるで別の自分にのっとられてしまったかのように、そうすることが自然なのだと感じていたのだ。
(でも、いまはすごく不安だ)
「フィアナさま」
 フィアナは、目の前にかがみこんできた女官長をうらみがましい思いで見あげた。
 驚いたことに、ルークはいまだに負けていないらしい。こうなったら、なんとしても最後の瞬間に間に合わせなくてはと思うのに、これでは身動きがとれそうもない。厚みのあるあたたかな手が触れると、すこしだけ不安が遠のくような気さえしてしまう。相手はフィアナの思惑を妨げることに余念のない女官長なのに。
 だが、モード・シェルダインはけして楽しげにそうしているわけではなかった。あいかわらずしっかりとした手は、フィアナを気づかい、やさしく肩を抱いてくれる。そんなふうにされると、いつまでもこうしていたいと思ってしまう自分はいまだに子供のようで情けない。
 そういえば、こんなことが昔はよくあったのだ。
 フィアナは思いだしていた。
 あれはたしか、幼かった頃、まだエリディルに来たばかりのころだ――。


 齢三歳の年に、フィアナはエリディルにやってきた。
 黒ずんだ石の城壁に取りかこまれた信仰の世界は、大家族の末っ子として甘やかされてきた幼い子供には、ひどく親しみにくいところだった。視界は彩度のない石で覆いつくされ、隙間からほんの少し顔をのぞかせる空を見ようにも窓は高い位置にあり、椅子はのぼると危険だからと隠されていた。息がつまりそうだった。
 フィアナは、よくひとりで石畳に舗装された路地をさまよい歩いていた。帰りたかったのだ、家へ。ひろびろとした空を仰ぎ見ることのできる、ディアネイアの領地へ帰りたかった。けれど迷路そのものとしか思えない入り組んだ道を、足が痛んで歩けなくなるまで進みつづけても、期待どおりの場所にたどり着けたことは一度もない。
 城の炉辺で見た母のすがたは、まなうらから薄れてゆくばかりだった。
「あなたはこれから、大切なおつとめをしなければならないの。それはとても名誉な事よ」
 がんばって、きちんと果たしてきたら、きっとすてきなご褒美がいただけるわ。
 そんなことを言われても、フィアナはおつとめなんかしたくなかった。それはいつも兄や姉が嫌々しているもののことだろうと、見当がついていたからだ。すてきだというご褒美がどんなものかを知りたい気持ちはあったものの、上手に歌が歌えたときに両親のうかべる満面の笑顔(さくさくした焼きたての甘いお菓子つきの)よりもすばらしいなにかがあるとも思えない。
 頸にかけてもらった台座が空の長い金鎖は、暖炉の炎を受けてきらきらと光っていた。
「あなたは大切なお役目をいただいてエリディルへ行くのよ」
 母はフィアナのちいさな手をつつみこみ、肩を抱き、頬に頬を寄せて、ゆっくりといつもより低い声で、何度もおなじことをくりかえした。まるでなにかの呪文みたいにだ。あまりにも真剣なようすになんだか怖ろしくなって、かあさまも一緒でしょうとおそるおそる訊ねてみると、いいえ、おかあさまはおうちで待っているわと哀しげに答えが返る。そんなのはいやだとフィアナはだだをこねたはずだが、いつもは苦笑しながらうなずいてくれる母は、なかなか頸を縦に振ってくれなかった。それでも最後には折れてくれるだろうとさんざん泣きわめいて抵抗したフィアナは、おそらく疲れて眠ってしまったのだろう。
 つぎに目覚めたときには馬車のなかで、つきそっていたのは女官長ひとりだけだった。
 それから、母には一度も会っていない。
 このままでは、母の顔がわからなくなってしまう。
 陽の射さぬ路地裏をさまよいつづけて迷子になったフィアナは、部屋に連れ戻されるたびに泣きながら訊ねた。
「ねえ、かあさまはどこ」
「フィアナさまのおかあさまは、ここにはいらっしゃいませんわ」
「それじゃあ、いつくるの」
「フィアナさまのおかあさまは、当分おいでになりませんよ」
 当分という言葉は事実をつたえるにしのびない女官の言い逃れであることを、理解したのはいつのことだったろう。
 繊細ではないけれど乾いてあたたかな女官長の手に背中をなだめられながら、フィアナは思っていた。いつかは母親がやってくる、そうしたらまた母のぬくもりに守ってもらえる。それからはまた、以前のように安心してたのしく過ごすことができるのだと。
 辺境の神殿では時間の流れがゆっくりとしている。
 見あげる小さな空には、いつも翼あるものたちの自由な姿があった。
 鳥たちのように城壁を飛び越えて外へ行くことは、フィアナにはどうやらできないらしい。
 認めることはなかなかできなかったけれど、叶わぬ夢にいつまでも気がつかずにいるほど、フィアナも鈍感な子供ではなかった。
 この寒くて陰鬱な場所で、フィアナのこころをとらえたのは、音だ。
 はじめて聖堂で歌ったときにはこれが自分の声かと疑うような効果があって、単純に嬉しかった。
 それに、いにしえの言葉の響きはフィアナをすぐさま魅了した。唇にのせると、心の中に光がともるような歓びがうまれるからだった。
 そういえば、あれはいつのことだったろうか。
 あるとき、ふと、耳に届いた音に心を奪われたことがあった。どんな楽器の音とも違う。どんな人間の声とも異なっている。それは一度も耳にしたことのない、ふしぎな音色だった。
 風にのって、ときに吐息のように、ときには冷たい石をつたわってささやくように、それ自体が光をおびて、きれぎれだけれどたしかにつながっていく旋律には、この場所のすべてをつつみこむような不思議な深みとひろがりがそなわっていた。
 この窮屈な石の神殿のどこかで、だれかが絶え間なく音楽を奏でている。
 そのことが、幼いこころにどれだけの感動をもたらしたことだろう。
 はじめて耳にしたときのことを、フィアナは鮮明に覚えている。あれは、白い花びらのふりそそぐ春のことだった。
 それが、古い女神にかかわりのあるものかもしれないと知ったのは、しばらく無心に音と旋律に身をゆだねたあとのことだ。
 太古の昔、大地の女神の樹陰の宮殿では女神をことほぎ、つねに穏やかでみずみずしい楽の音が響いていたという。
 ふもとの村からきた侍女が、女官長には内緒だと言いながら教えてくれたエリディルにつたわる昔語りは、冷たい輝きにいろどられた神の世の神秘の気配を漂わせたものだった。
 けれど時代が下り、女神が永遠の眠りにつき、その娘が聖域を司るようになってさらに時が経ち、しだいに樹陰の音色は人の子からは遠いものとなっていった。いまはもう、ひとびとが楽の音を耳にすることはない。
 ただ、もし万が一、どこから流れてくるのかわからないふしぎな音色や声を耳にしてしまったら、注意しなければならないけれどと、侍女は話をむすんだ。
 用心深く顔に出さないようにしていたが、フィアナはその話を聞いて有頂天になった。
 もしかしたら、自分が聞いたのは大地の女神の闇の聖域に流れる音楽、秘密の音楽なのかもしれないと思ったのだ。
 そして音は、待ちうけるフィアナのもとに頻繁に訪れるようになった。
 ――こちらにおいで。
 誘うようにうたう音色に、胸の奥から是と答える慕わしいなにかを感じて、フィアナはひびきを追いはじめた。あたえられた私室からぬけだして、城壁内の路地をさまよった。迷子になる回数が増え、女官たちの懸念と監視はきびしくなったが、それでもフィアナは音を求めずにはいられない。まるで、ひびきの源にじぶんの母親がいるかのような錯覚までおこして、それはそのうち確信に変化した。
 あの音楽の在るところに、慕わしい誰かがいる。
 けれど、どうしてもたどりつけなかった。追いかければ追いかけるほどに、音は遠くなってゆく。
 ――はやく行かなければいけないのに。
 ふたたび季節がめぐり来て、間近に迫った祀りの準備に周囲は慌ただしさを増していた。そんなおり、緊急の報せが東から届けられた。女官たちの顔色が変わり、報せが不吉なものであったことが察せられた。青ざめてこわばった女たちのフィアナを見る目が、憐れみをたたえてゆれうごいた。その意味がフィアナにはわからないと、なぜか彼女たちは思いこんでいた。
 ――はやく、たどりつかなければいけないのに。
 行く手を阻むのは、分厚い石の壁だった。それはフィアナを拒んではねつけて、大きく威圧的に立ちはだかる。
 どうしても超えられない障壁を前にした焦りと悔しさが涙にかわり、嗚咽に変化した。
 あのときほど、自分の境遇がうらめしかったことはないと、いまでもフィアナは思っている。
 もしも自分に翼があったなら、母親のもとまで空を駆けていったのに。
(でも、変だ)
 それならば、どうして自分はあの神々しい樹陰の記憶を持っているのだろう。
 なにかがおかしい。
 自分の記憶が信用できなくなって、フィアナは混乱した。
 本当にあのとき自分は、迷路を抜け出ることができなかったのだろうか。
 門衛の隙をついて、裏門から出ていったことはなかっただろうか。そのまま白い花びらの降りしきる外へと、歩き出したことは一度もなかったのだろうか。
 どこかでなにかを忘れているような気がする。わざと目をふさいで、見なかったことにしているような気がする。このあとに待ち受けるものの正体を、知っていたような気さえする。
 それがなんであったのかを、いまのフィアナはどうしても思い出すことができなかった。思い出せないこと自体が愉快とは言いがたい出来事を暗示しているようでもあり、考えようとすると浮かんでくるのはぼんやりとした不安と暗闇ばかりとなった。
 いったい自分は、あのときなにを見たのだろう。
 光の音色に重なっていたあこがれが、いつのまにかべつのものに変化していたことに気づいて、フィアナは愕然とした。
 いまはただ、胸の鼓動だけが大きく膨れあがり、思い出せない記憶に身がすくんでいる。
 いやだ。この先には行きたくない。
 唐突にうまれた拒絶の感情は、あきらかに過去の体験に根ざしたものだった。
 舞い落ちるしろい花びらのなかで、まばゆいばかりに輝く何者かが自分を招いている。
 けれど、前へと踏み出すことはできない。
 なぜならば、この先へは、翼がなければゆけないことがすでにわかっているからだ。
 ――そうだ、我をその身に秘めし、いとしき娘よ。
 突然。ふるえる胸の奥から、自分ではない、なにものかの声が聞こえた。
 ――時が至った。奈落へ落ちるか、飛翔するか。運命を受け入れるのはそなただ。
 ――覚悟をさだめよ――。


 小さな身体ががくりとくずれ落ち、床にのめりそうになる。すんでのところでフィアナを受けとめたのは、モード・シェルダイン女官長だった。
 そのとき、一瞬、地面がふるえた。地面だけではない、聖域全体がぶるりと身震いしたようだった。まるでいままでこらえつづけていたものが、ついに我慢しきれなくなったとでもいうように。
「フィアナさま。どうなさいました、フィアナさま」
 何度呼んでも返事がない。なぜだか、フィアナは深い陥穽にとらわれたように身動きができなくなっていた。
 そのままずるずるとすべり落ちそうになるフィアナをひき止めようとして、腕に痺れるような衝撃が走ったことに女官長は驚いた。
 あわてて床に腰を落とし、膝の上にのせてたしかめると、フィアナの頬は血の気が失せてまっしろになっていた。
「だいじょうぶ……へいき」
 まぶたをとじたまま、紫色になった唇でつぶやく。苦しそうに眉根を寄せている。女官長はただならぬ事態を感じとって、三の巫女をふりかえった。
「クレアデールさま」
 扉を背に立ちつくしていた黒髪の巫女は、はっとしたように一、二度目をしばたたかせる。
 モード・シェルダインがフィアナの変調をそれと気づいたのは、本堂での儀式の最中のことだ。
 六の巫女の神おろしの舞は、ひとびとの事前の期待を完璧に裏切るものだった。
 それはたしかに光り輝く三の巫女に比べればたどたどしいものではあったが、にもかかわらずフィアナはクレアデールに負けることのない輝きを放ちつづけた。萎縮することなく可憐な気品に満ちた所作をつづける六の巫女のすがたを、ひとびとはほとんど初めて眼にしたのだった。
 六の巫女の、いつもとは違う存在感は、つねとはかけ離れているという違和感を周囲にあたえた。数年の空白を経てとりおこなわれた〈花占〉で、それでなくとも準備段階からぎこちなかった儀式にさらなる緊張を強いた。その後、トーナメントの参加者に対しておこなわれた祝福の儀式で不手際がなければ、〈花占〉はもっと不穏な雰囲気のまますすんでいたことだろう。
 挑戦者をずぶぬれにした巫女の不器用さと、被害者の若者の不調法なすがたに思わずの笑いが起こり、張りつめていた空気が一気にゆるんだそのときに、しかし、モード・シェルダインに、安堵は訪れなかった。
 女官長はフィアナの顔に、畏れとともにみまもることしかできなかった、かつての一の巫女の面影を見いだして愕然としていたのだ。
 〈神の眼〉を額にいただく巫女は、普段とは違う喉にかかったかすれ声で告げた。
「瀬戸際だな。フィアナどのはいま、狭間に立たれている」
 クレアデールは眼をほそめた。まぶしかったからだ。フィアナの身体から滲みだす宝玉の波動は、今朝と比べてもはるかに強くなっている。それが聖域をかたちづくる女神のちからの脈に呼応して、ひどく不安定な状況をつくりだしているのだ。ただし、それがいつのことからかを、クレアデールは口にしない。
「はやく礎石のもとに連れていったほうがよいだろう。そのほうが場が安定して、フィアナどのへの危険も少ないはずだ」
「礎石……ですか」
 神性をそなえたまま大地にとどまろうとしたあげく、玉と化した神の身体。宝玉とは、人間がその玉体の一部を切り分けて、便利に扱おうと名をつけたものに他ならない。
 女官長の声が低くなった。
「いけません、礎石のそばは。フィアナさまにはよくないのです」
 クレアデールは怪訝に眉をひそめる。
「礎石はすべての宝玉の源だ。乱れた宝玉を鎮めこそすれ、悪影響をおよぼすことなどありえない」
「それは、フィアナさまが巫女としては半端だからです。宝玉をわずかでもあつかえないものに、礎石の力は偉大すぎるのです」
 不審をあらわにする三の巫女に対し、自分でも根拠不十分のことを主張しているとわかっているのだろう。女官長の声音からはいつもの余裕が消え失せている。
「それに、フィアナさまは目覚めを望んではおられません」
「だが、フィアナどのは宝玉に求められた巫女なのだ。この事実は隠せはしてもけして失われることはない。遅かれ速かれ、目覚めはやってくるだろう」
「――クレアデールさまは、巫女であることが幸せだとお思いなのですか」
 沈黙のあとで突然投げつけられた問いに、クレアデールはとまどいつつもあきらかに気分を害して言った。
「わたくしは、エンクローズの父の娘であること同様に、巫女であることに誇りを持っている。女官長、そなたはいったいなにを言いたいのか」
「――フィアナさまは、すでに宝玉のために一度死にかけているのですよ」
 ぐったりとしたフィアナを見おろしながら、女官長はくぐもった声で主張する。
「その話は聞いている。むかし、神懸かりしたときに〈見晴らしの壁〉から転落したそうだな。おそらく、そのときにフィアナどののこころに目覚めに対する強い障壁がうまれたのだろうと……」
 クレアデールの双眸に、はっと理解の色が訪れた。
「そうか、女官長……そなたはフィアナどのを神威から遠ざけていたのだな」
 フィアナは巫女としてはふしぎなほどに神殿の祭礼と無縁な生活を送っていたが、とくに〈祈りの間〉での潔斎を頻繁にさぼっていた。それは、彼女が〈祈りの間〉の奥に安置された礎石からつねに距離を置きつづけていたことを意味している。
 礎石は神の御力の源泉だ。宝玉や礎石そのものから眠れる神の存在を感じとることができるのは宝玉の巫女のみだが、その能力は突然あらわれるものではなく、宝玉を得てから神威を身に受けて徐々に花ひらいてゆくものだ。礎石にかかわらずに巫女の能力を磨くことは、ほとんどの場合困難である。そのうえ、大がかりな祭儀だけでなく、日常のこまごまとしたつとめからさえフィアナは遠ざけられていた。フィアナは宝玉とかかわる能力をみがくことも、試すことも、意識することもなく日々を過ごしていたのだ。
 周囲はそれを、落ちこぼれには当然のことと疑問も持たずに受け入れていたのだが、しかし、フィアナが無能であるという評価をくだしたのは、いったいだれが初めだったのだろう。
「……たしかにクレアデールさまは特別なおかたです。フィアナさまとはまったく違う。フィアナさまは、このまま眠れる巫女であったほうがずっと穏やかに暮らしてゆけるのです。こんな小さな肩に、神の力など負担なだけです」
 淡々と告げる女官長に、クレアデールは信じられないといわんばかりに声を強めた。
「フィアナどのはいま危険にさらされているのだぞ。はやく楽にしてやろうとは思わぬのか」
「そうしたら、フィアナさまはさらに辛い人生を歩まねばならなくなります」
「モード・シェルダイン女官長。そなたの申していることは本末転倒だ。それに矛盾している。そなたはフィアナどのをここに止めたいのだろう」
 フィアナが巫女として目覚めれば、大神官もあえて彼女を神殿の外へ出そうとはしないはずだ。たとえ守護騎士を得たとしても、危険のほうが利点をはるかに上まわるからだ。
「そうかもしれません。けれど、私はフィアナさまを守ってさしあげたかった――〈神の心臓〉を保持するものの運命から」
 おもわず吐き出された感情に反応したように、胸にもたれていたフィアナがかすかに身震いした。すでに意識はなく、ほっそりとした顔は青ざめて、ひどく痛々しかった。
 どうしてこんなことにと、女官長は両腕でぎゅっと小さな身体を抱きしめた。
 嫌な予感はしていたのだ。あのひどい鐘の音とともに聖騎士があらわれて、それからというもの、エリディルとフィアナのこころはともに大きく乱されつづけていた。大神官の遣いを名乗りながら、その実、カーティス・レングラードは自分の姪にとんでもない災いを運んできたようなものである。それだけではなかった。すでに昨年の秋、ディアネイアからもたらされた書簡があった。そこに記されていた常識外の要求を神官長があざ嗤うほど、女官長の不安は高まった。あのとき、どうしてだれにも見せずに書簡を握りつぶしてしまわなかったのか。いくら後悔してもしたりなかった。
 女官長は疲れた顔でつぶやいた。
「そうなのですね。私がフィアナさまに書簡を手渡したりしなければ、こんなことにはならなかった。きっとあれがすべての始まりだったのです」
 そのとき、
「それは違う」
「もちろん、そうではない」
 クレアデールの否定にべつの声がかさなって、暗がりに不思議な協和音がひろがった。
 驚いて顔をあげると、三の巫女のうつくしい顔が表情を失ってなにかをじっと凝視している。
 その視線を追う。
 フィアナは、いま目覚めたばかりのようにゆっくりとまぶたをひらいた。
 呼吸は落ち着いており、頬はまだ白かったが唇には赤みが戻っていた。抱かれていた腕のゆるみをついてほそい身を起こす。かすかに首をふってかかり落ちる髪をふりはらった。頭上からわずかに落ちる光のなかで、なみうつ長い金髪から編みこまれていた白い小花の飾り紐がほどけ、するりと黒い床に落ちた。
 それにはかまわず自分をかかえている腕をそっと、しかし断固としておしのけると、背筋を伸ばしてゆっくりと立ちあがった。すこしふらついていたが、態度にゆるぎはあらわれない。
「時が至ったのだ」
 少女の朱い唇からつづけて放たれる声は、いつもの無邪気さではなく、かぎりない慈愛、相反する深い哀しみにいろどられていた。おごそかな威厳に満ちており、そこしれぬ力に裏打ちされたゆるがぬ自信にあふれていた。それでいて、声はフィアナの特質をうしなってはいない。鈴のようにかろやかで、清冽な印象を残す、希有な声質はあきらかに聞きなれた六の巫女のものだった。
 大いなる威圧の感覚に、女官長はわれしらず床に膝をつき、ぶるぶるとふるえながら低くぬかずいた。
 クレアデールもおなじように膝を折ると、畏れに身をこわばらせて冷たい床に手をついた。
 宝玉によって得られた視力には、フィアナの華奢な身体からあふれた神威の輝きがゆっくりと明滅を繰り返すのが見えた。細かな光の粒子は消滅するのではなく、濃度を減じて四方へと散じてゆく。ただ、ゆたかな髪には光がいつまでも粉のようにまとわりつき、そのためなのか髪は重さを失ったようにふわふわと浮いて踊っていた。そのようすは、祭服の長い裾に足が隠れていることもあって、まるで身体ごと宙に浮かんでいるかのように見える。
 ふりかえる眸は空の色だ。
 濡れたように潤みをおびて、つややかに光をはじく。
 漠として、どこを見ているのか判別のつけがたい、謎めいたまなざし。
 薄暗がりのなかでもはっきりと見てとれる双眸の鮮やかさに魂ごと吸いこまれそうになり、クレアデールはつよく身体に力をこめた。
 ここにいるのは、フィアナではない。
 すくなくとも、さきほどまでいた六の巫女とは違う人格によって、少女の身体は支配されていた。



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