天空の翼 Chapter 1 [page 34] prevnext


34 女神の結界


 うすくらがりにひそやかに。
 ゆっくりと渦をえがく細かな光の粒子のなかで、声が響いた。
「――時が至った。東方の地で我の半分が眠りから覚めた。そして、我も目覚めた――」
 フィアナの口からフィアナではない何者かの言葉が、すずやかにあふれでる。朱い唇がかすかに笑んだが、それは少女には似つかわしいとは言えぬ、憐れみと哀しみをやどしつつも人肌のぬくもりに欠けた表情をつくった。
 クレアデールは、ふるえる心地で彼女の神を襲った悲劇を思い出していた。
 得るために失い、贖うためにあたえ、ひとつをのぞいてすべてを失った。
 それは神殿の聖史にはけして刻まれることのない、けれど、女神の聖域で宝玉の担い手となるものにはおのずから理解されてゆく真実だ。
 しかし、神の微笑はひとの子の共感など許さない。
 偉大な気配に間近にふれて、額の宝玉は共鳴の脈をうち、視界はさらに鮮明なものへとひろがってゆく。
 うながされ、〈神の眼〉をあずかる自分のつとめを悟って、クレアデールはそっと少女のほそい腕に触れた。
 とたんに、経験したことのないなにかがクレアデールの魂に訪れた。
 これは、なんの音だろう。
 しっとりとして品がよく、それでいてしなやかにつよい旋律がひびく。
 女官長が床に伏せていた顔をあげ、とまどったようにあたりを見まわした。
 どこからともなくやってきた旋律は、いつしか波のようにうねりをおびて、地をつたわりながらしだいに力を増していった。そして、ついには床の敷石を持ちあげんばかりの勢いをもって周囲へひろがりはじめた。怒濤の波はしろい花びらを散らしながら四方八方に走りぬけてゆく。
 クレアデールは視た。
 快哉を叫びはじめた風のなか、鳩たちが我慢しきれぬように翼の音をたて、いっさんに空へと飛び立ってゆくのを。馬たちがとつぜん声を合わせて、厩にとどろくようないななきを響かせはじめるのを。
 準備万端ととのえて枠から連れ出そうとしていた聖騎士所有の戦馬も例外ではなく、仲良く馬の支度を調えていたハーネス家の兄妹は急にいうことをきかなくなった二頭に大あわてをしていた。
「もう、どうしたのよ」
 冷や汗をかきながら文句をたれる妹から、一頭を落ち着かせて駆けつけた兄が轡をとりあげる。神経質になっている馬をあつかう手際はさすがに経験というべきか、タクは口から泡を吹いている鹿毛を落ち着いてなだめ、ついでいぶかしげにあたりを見まわした。
「いま、なにかへんな感じがしなかったか?」
 その足もとでは犬がなにかを見ろとばかりに吠え走り、ネズミたちが怯え、ひだまりでは猫がしっぽをぴたりと静止させてゆっくりとたちあがった。
 守護と聖騎士の豪快な対決に熱狂するひとびとのなかにも、異変に気づいたものはいる。
 息を呑む攻防からふと気を逸らされたかれらは奇妙な顔をして視線をあげたが、女神の旗が風に一瞬はりつめたのを眼にしたのは一握り。おおかたはこの場に居合わせた幸運にあらためて思いいたる以上のことはなかったが、おかげで激烈な鍔迫り合いに対する歓声はそれまでよりさらに大きく膨れあがることとなった。
 ひとびとの昂揚は、とほうもない大きさとなっていた波のうごきに、さらなるちからを供給した。
 まるで巨大な樹の枝のように根のように、高く深く遠くへとひろがって、みるみるうちに響きはあたり一帯を覆いつくしていく。
 鐘の音が、上空で鳴りはじめた。
 身もだえするような震動のひびくなかで、六の巫女は瞑目するように伏せていたまぶたをそっと押しあげた。
「巫女よ、視たか。わがつれあいは、いささか不興のようだ」
 長いまつげにふちどられた空色の眼で、なにかが動いた。
「女神のくびきからたやすく抜け出るほどに、我の力は解放されてはおらぬ。……ゆくぞ、わが褥のある場所へ」


 乱れた鐘の響きが遠のいていく。
 薄暗がりに領された祈りの場所。鈍く光をはじく黒い床に、ルークが見つけたのは箱だった。
 誰もいない祭壇の下、ぽつんと落ちていた箱をとりあげたルークは、そこでよこたわる静寂とあらためてむかいあうことになる。
 焚かれた香の名残りをのぞき、儀式の痕跡はすっかりぬぐい去られていた。隙間なく埋めつくされていた信徒の席は、がらんとして寒々しいくらいである。
 自分が送り出された試練は、聖堂に巫女をみつけることで終わるのだと思っていた。
 しかしここに六の巫女のすがたはないし、その気配もまた感じとることはできない。そのさきをさらに探ろうと試みれば、いままでにない抵抗感が無言の壁のようにたちはだかる。
 調べてみるとどの扉もかたく閉ざされて蟻の這いでる隙間もなく、どうやらかれはこの場に封じ込められてしまったようだった。
(息苦しい)
 高い位置から帯のように射しこむしろい光。内壁に沈む神話の画の数々。磨かれた黒い石の床にならんで落ちる柱の長い影。
 一見変わらぬ光景に出口のない森に迷い込んだような圧迫をおぼえ、ふと、自分は歓迎されていないのかもしれない、と気づかされる。
 思えば、守護騎士の試練のありかたは、余所者を駆逐するための砦の防衛戦のようだった。
 城門から配置された守備兵や神官の存在。人間たちが古くからのしきたりとしてととのえた障害は、すべて聖堂までの防衛上の要所にあたる。現実の戦なら、これだけの備えを突破し本陣へと踏みいったものは、とうぜんの結果として重大な脅威とみなされるだろう。
 エリディルは神の息吹をいまにつたえるところ。伝説の息づくところ。
 カーティスがこの話題を好んだのは、おもに旅路の無聊を慰める話の種としてだった。いままでは、ルークもそう受けとめていた。
 だが、あの話はそんなふうに軽んじてはいけないものだったのかもしれない。
 いまになって肌で感じるのは、ここにはまだ、神々についての言い伝えにいくばくかの真実が残されているのかもしれないということ。眼には見えないひとならぬものの領域は、もしかするとここにまだ存在しつづけているのかもしれない、ということだ。
 そんなことはありえないと思ういっぽうで、そういえば、と思いあたるふしもある。
 ――見てはおれぬな。
 とつぜん、背後で風がうごいた。
 わしづかまれたような緊張に身をふりかえると、猛々しい気配がいきおいよく迫ってきた。
 ばさりという音とともに見あげる頭上をらくらく飛び越えて、影は大きな祭壇の覆いの上にふわりと降り立っていた。
 鋭い声が、逆光の中から威圧的に放たれる。
 ――驚かぬのだな。気づいていたか。
 それはあきらかに人の言葉ではなかったが、なぜか意味が理解できた。
「おまえがずっと後ろをついてきたことは」
 睥睨する気配は、トーナメントの始めからずっと背後にありつづけたもののそれだった。どんな状況でもこちらの都合に関与してくることはなく、つかずはなれず追従しつづけてここまでやってきた。これまでは完璧な傍観者だったのだが、とうとうその立場を放棄することにしたらしい。
 ――知っていて、無視していたのか。失礼なやつめ。
「関係のないことを考えるのは無駄だ」
 そっけない応えが好奇心のかけらも含まぬことに、影は不満のようだった。
 ――では、そうやすやすとは言い捨てにできぬことを教えてやるぞ。よく聞け、カイリオンの息子よ。おぬしは結界に阻まれている。だが、それも試練の半ばまで到達したあかし。おぬしの使命はこれからあとの半分を心してまっとうすることだ。
「あとの半分?」
 ついさっきまでここが終点だと思いこんでいたルークは眉をひそめた。
 ――そうだ。おぬしはここまでたどり着いたことで人間むけの試練には合格した。残るは掟にしたがい、高位の親族の承認を得ることだ。娘の外出には親の了承が必要だからな。
 親と言われてさらにルークは困惑する。
「俺が連れてゆくのは六の巫女のはずだが」
 六の巫女の実家ディアネイアの当主がここにいるわけはない。それに、ディアネイア候はとっくに娘が神殿を出ることを了承している。
 ――たしかにそのとおりだが、それだけではないのだ。
 重々しい言葉には、口にしたものなりの深い含みがあるようだ。だが、見たところ相手はひとではない。ひとではないものの存在を信じ、その言葉を受け入れてもよいものかどうかはこの際おくとして、ルークにはその含みへの興味もなかった。
 だから、ただ問いかける。
「おまえは六の巫女の居所をしっているのか」
 ――当然至極。
 得意気な応えに、ルークはならばと問うた。
「どこにいる」
 ――だから結界の中だ。感じぬか。
「結界だと」
 ――そうだ。ここは大地の女神の結界のなかだ。どうやらおぬしの眼には見えておらぬようだな。いいだろう、もうひとつ教えてやる。この地に根ざす神樹の大木が、大地の娘の意志に応じて護りの力を高めたのだ。とくに大地の護りはつよい。この大物の根はエリディルのすみずみにまでゆき渡っているからな。聖域へ侵入しようとするものには相応の困難が待ちうけているだろう。
 ルークは、地中に深くのびて網の目のようにはりめぐらされた大樹の根を無理矢理おもいえがいた。とすると六の巫女は地の中にいるのか。想像すると不思議な気分になってくる。これはほんとうに現実のことなのだろうか。
 ――だが、大地の娘はおぬしを排除したいのではない。試しているのだということを忘れるな。
「なにを試す」
 ――もちろん、巫女の守護者としてふさわしいかどうかに決まっている。
 あきれられたが、守護騎士になることそのものに現実感がもてないのだから緊張感もないのだ。おまけに、顔にはまったく出ないとはいえ異様な状況に直面していることに違いはなく、ここにいたるまでについやした多大な労力を半ば忘れかけていたらしい。
 ルークは思考をめぐらせてみた。
 それではこの抵抗感が結界ということなのだろうか。どんなに感覚をひろげようと試みても、あるところからはねかえされてしまう。まるでそこで世界がとぎれているかのようで、拒絶されていると感じたのもそのせいだ。
 だが、いわれた言葉が正しいとすれば、道はどこかに必ずあるはずだった。それでなくては、試練そのものが成り立たない。
 となれば、しるべとなりうるなにものをも、逃してはならないことになる。
「巫女の居所は」
 辛抱強くもう一度問いただすと、唸り声がした。
 ――横柄だな。それにしつこいぞ。感じぬものに教えても無駄とは思わぬか。だが、よかろう。かわいい巫女に免じて入り口までは連れていってやる。
 天井を覆い隠さんばかりの巨大な翼が音をたててひろげられる。人外の言葉を話すそれは、居丈高に一声鳴くと飛びあがった。
 ――さあ、いくぞ。ついてこい。


 暗闇を、墜ちてゆく感覚があった。
 どこまでも、どこまでも。
 落下はいつまでもつづき、身体の内からわきだす恐怖にはとめどがない。
 かたく閉じたまぶたの裏には青い空が灼きついていた。転落の寸前に視た刹那のしみるような色あいが、自分がどこへむかって落ちているのかを否応なしに突きつけてくる。
 落ちている。いまも、落ちつづけている。
 フィアナを支配しているのは、絶叫すら凍りつくほどの激しい感情だった。
 それは叩きつけられることへの恐れとも、その結果到るであろう死への不安とも微妙に違う。
 恐怖は、すでに味わったことのある過去を否応なしになぞるものだった。
 大地に激突した衝撃に皮膚を裂かれ、肉を潰され、骨を砕かれる。
 そこなわれた肉体の発する声は激烈な痛みだ。
 灼熱の炎を抱えこんだかのごとく、全身が焼かれ、苛まれる。
 耐え難い感覚にとどめようもなくあふれるのは涙の声だ。
 もういちど体験するのかとおもうだけで、心の底からふるえがでる。それくらいなら、いますぐに死んだ方がましだとさえおもう。
 痛みはこころを弱くする。
 これは現実ではない、過去の出来事だとうすうす気づいてはいたものの、記憶に刻印された衝撃と痛みにはいまだにフィアナを傷つけずにおれない強い力があるのだった。
 なによりも、痛みの記憶にはあのつらい感情が分かちがたくむすびついていた。
(からだが熱い。目がみえない)
(痛い、痛い、痛い)
(かあさま、たすけて)
(からだが、燃えてる)
 泣き叫ぶ幼い声が、耳から離れない。
 それが自分の声なのだと、いまのフィアナにはわかっている。
 やめてくれと心が悲鳴をあげた。
 母を何度呼ぼうと、やさしい答えが返ることはない。けしてない。
 あのとき母は遠いディアネイアで病床にあり、すでにこの世での生を終えていた。
 あたたかく包んでくれる救いの場所は、失われていたのだった。
 フィアナの手のとどかない、遠い故郷で、知らないうちに。
(もう、やめて!)
 思い出したくなかった。こんなことは忘れていたかった。私は痛いのはイヤ。哀しいのは嫌い。寂しいのは、空腹よりももっともっと大嫌いだ。
 こんなところに、来たくなかった。たったひとりで、家族から離れて。こんな寂しいところに、こんな冷たいところに。かあさまに二度と会えなくなるようなところに、来たくはなかったのに。
 激情に翻弄された。これがもし現実だったら、フィアナはぼろぼろと涙を流して泣きじゃくっていたはずだ。
 じじつ、嗚咽に息が苦しくなったとき、フィアナは遠くて近いところでつぶやくような声をきいた。
 ――かわいそうに。そなたは宝玉のあるじととくに共鳴しやすい性質らしい。そなたの嘆きは、わがつれあいの泣き言にそっくりだ。
 ――けれど、痛みは陶酔をまねくもの。強ければ強いほど、身は深みにはまるのだ。そなたがいまのいままであのかたを眠らせておれたのは、それゆえかもしれぬの。
 しっとりとして威厳にあふれる女性の声には、かすかに聞き覚えがあった。
 ――だが、この痛みを招いたのは、そなた自身だよ。
 ことばはひやりとフィアナの胸に突き刺さった。
(だって、あのときは知らなかった。私は馬鹿だった。飛んでみようなんて、どうして思ってしまったんだろう)
 胸に響く音色に誘われるようにして、たどりついた高みからいっきに飛び出そうとした。
 足が地から離れ、同時に音色は去った。変わっておとずれたのは灼けつく青と暗い闇。
 落下とともに自分には翼がないのだと思い知ったときの絶望の冷たさははかりしれず、記憶の底に深くうずめてしまわなければ生きていくことなどできなかった。
 それなのに。
 ――たしかに、そなたは身の程をわきまえぬ無謀な雛だった。だがな、そなたも理由なく神域に身を置くことになったわけではない。余人がもたぬものをそなえているからこそ、輝く御方はそなたをみいだしたのだ。
 ――だが、よいか。あのときそなたを導いたのは宝玉。宝玉はあのおかたの望みを叶えようとするが、そなたの生も幸福もあのおかたの問題とするところではないと心得よ。
 ――いま、そなたが立っているのは一生のうちに幾度もめぐりあわぬ、大きな岐路だ。
 ――妾はそなたが後悔のない道を選びとることを願っておる。
 フィアナはためらった。
(でも、そのためには……)
 そのあとを言葉にするつよさはいまだになかったが、フィアナはゆっくりとうなずく気配を感じていた。
 ――外界での生を望むのならば強くあらねばな。いまならば、可能であろう。だが勇気がもてぬのならしかたがない。このまま神域にとどまるのだ。それもよかろう。
 樹陰の闇で出会った貴婦人の慈愛にみちた声音は、しかし最後になって急に警告の色をおびた。
 ――ただし、このままであればそなたは自分の身体を失うことになるであろう。宝玉が目覚めた。
 それはどういうことかと問う前に、闇の中、光の影が灯火のようにうかびあがった。



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