天空の翼 Chapter 1 [page 35] prevnext


35 舞いおりる翼


 見おろしたそこにあらわれたのは、ふしぎな光景だった。
 〈祈りの間〉の奥にある神樹の文様が刻み込まれた扉は、だれが手を触れたわけでもないのにゆっくりとひらかれてゆく。おろされていたはずの錠の気配はどこにもない。呆然としてただ見守るばかりの人間たちは、その奥からあの調べがあふれてくることもすでに不思議とは思わなくなっていた。
「では、参ろう」
 超然とした空色の眼をもつ、フィアナではないフィアナがまっさきに扉をくぐった。ゆるい円をえがいて沈むきざはしを音もなく下ってゆく。どれだけ下りつづけたのだろう。時間と距離の感覚が消失したころに段がとぎれ、かれらは冷たい空気に満たされた底にたどりついていた。
 ――至高聖所。
 ひとも陽光もめったにたどりつくことのない、神の眠りのための深い闇に支配された場所だ。
 ところが、いまここには光がある。
 巫女の身体から滲みだす神威の光が、ぶあつい闇を押しのけて灯明のように周囲を照らしだしていたからだ。
 闇にうかびあがる洞窟のような空間へ、小柄な少女は悠然と歩をすすめた。背後に三の巫女と女官長を従えて。長い金髪はまるでゆらめく炎のようだった。そのすがたは、完全に闇をはらうにはいたらないまでも、ここがどんな場所であるかを理解するのに十分な光輝をはなつ。
 洞窟の内壁は、細かく砕いた光沢をもつ陶板によってすきまなくうめられていた。床は驚くほどにたいらかで黒というよりはもっと深い色合いをたたえ、まろやかに壁へとのびあがっていた。通路としてもそこはそれほど広い空間ではなかった。だが、みたこともない奇妙な柱によって支えられた天井は、たとえ長身の聖騎士であってもつかえる心配のない程度の高さがある。
 そして、すべてのものに、とぎれなくつづく渦のようなふしぎな文様がひそんでいた。文様は光があたるとゆっくりと息づくようにゆらめいて見えた。
 フィアナの視線はしぜんと奥に向かった。
 そこには巨大な樹の根のようなねじれた太い柱が、床に弧を描くようにして幾本も生え、からみあいながら上へと――あるいは下へとのびていた。その柱のつくるうろのような空間に、棺がひとつ、大切に護られるように安置されていた。古式めいた細工の棺のずらされた蓋の隙間からは、いにしえの綾織りが色褪せもせずに幾重もこぼれてのぞいている。そのようすは、それが棺などではなく、誰かがあがめるべきなにものかのためにしつらえた特別な褥ででもあるかのようだった。
 そのいにしえの贅をつくした褥――もとい棺には、仰臥し、深い眠りに沈むあるじがいた。


 そのおんかたの眠りが始まったのは、神殿の聖史によっても、もうずいぶんと昔のことである。だが、ひとの子にはにわかに真実とは思えぬほど長い年月のあいだにも、ここでは時が流れずにいたのだろう。
 その証拠に、寝姿は腐ることも朽ちることもなく、照らす光を反射する硬い質感をまとっている。見いだされるのはわずかなゆるぎも余剰もない、生の香りもぬくもりも持たない、ひとの身に再現されることはまずありえないと思い知らされる完全な美貌をもつ存在である。眠りは深く瞼がひらかれることはないと知っていても、滲みでるおそろしいまでの気品を感じずにいることはできない。ここにあるのは見ているだけで息がつまり、こころをうちのめされる酷薄な美だった。
 ただ、かつてはあらゆる点で完璧であったはずの身体には、砕かれ削りとられた痕跡がそこかしこにあった。とくに痛ましいのは、左目に穿たれた深い眼窩だろう。それらはすべてひとの子の手により刻みこまれたものだった。この身体にあってはどれだけ無惨な疵もあざやかなままで消えることも薄れることもないのだ。
 それは、おそらくは何千年が経とうと変じることのない身体。
 時に滅ぶ血肉をそなえた人間であるはずはなく、その造形をかたちづくるのは不変の宝玉以外にはありえない。
 至高聖所の中心にあるのは、〈名を失いし神〉の眠れる玉体である。
 これが、ひとが宝玉としてあがめる尊い石の、そもそもの姿なのだった。
 フィアナは、自分のおぼろな記憶の中にもこの奇跡としか思えない光景が残されていたことに気づいて驚いた。巫女たちは、選ばれてその地位に就くときに、いちどだけこの棺の前をおとずれて、尊い一部を預かる神へのあいさつをする。
 そのとき以来、おそらく初めて眼にするはずの礎石には、あきらかに異変が起きていた。
 棺の中に綾織りにくるまれた肌がわずかに青白い光をおびて、光はゆっくりと明滅を繰りかえしている。こんなことは以前にはなかったはずだ。
 さらにかつては現実離れした美をそなえた尊い彫像のようにしかみえなかったおもてに、なにかの気配が――それはひとであれば生気と呼ぶべきものであったかもしれない――ゆらめくのがみえた。
 そこに、光をまとった巫女がゆるりと近づいていく。
 闇の中にうかぶその光景は、まるで神代のできごとを目の前で再現されているような厳かさ、輝かしさをともなっていた。
 畏れ多さにどこからかためいきが聞こえ、もやのように闇に消える。
 そのとき、静寂を破って、何者かの立ちあがる気配がした。


「遅かったねえ。なかなかやってこないから、待ちくたびれてしまったよ」
 それは白いずきんで頭を覆った賄いの女で、あろうことか神の棺のあしもとに腰をかけていたらしい。そのとなりにはどういうわけかダーネイ神官長の姿があった。神官長はあきらかに茫然自失状態で、こちらを見て目を剥いたものの、ただひたすら首をふるばかり。なにかを言う気力は持ちあわせないようだった。
 なぜここにというまなざしでの問いかけたに応えたのは、女のほうだ。
「もちろん、頼まれたからに決まってる。ほら、フィアナのお弁当」
 にんまりとわらってずっしりとした大きな籠を見せる。
「ミアにはおやつって言われたけど、どうやらこっちのほうが必要かと思ってね。半欠け娘のためにできるだけ腹持ちのいいものをたくさん詰めといたよ」
 ああ重いと籠を降ろして大げさに腰に手を当てると、右肩をくいくいとまわす。行儀の悪いしぐさはこの場にふさわしいものとはまったくいえなかったが、女は堂々として悪びれるようすもなかった。
 いったいこの女、そして神官長は、どうやってここまでやってきたものだろう。
「でも、困ったねえ。肝心の六の巫女はどこにいったんだい?」
 ぐるりとあたりを見まわされて、フィアナはどきりとした。
 神官長だけが目の前の巫女を、ではこれは何者なのかと睨んでいたが、反応するものは誰もいない。
 女は首をすくめた。
「わかっているね。ここは禁域。女神の聖域のなかだよ。ご招待をさしあげるのは確かに遅れたが、ずかずかと勝手に入り込むとは無礼だと思わないかい。だからといって女神に蹴り出すつもりはないだろうけれどね」
 それまで呑まれたように言葉を失っていたクレアデールが、つぶやいた。
「シェルダイン女官長。この者はわれわれの眼に映るとおりの存在ではない」
 女はちらりと笑んだ。
 そういえば、どこにも灯りをおびていないのに、女のすがたは闇の中でもくっきりと眼に見える。
「我がいとしきつれあいよ」
 透き通った硝子のような声が呼びかける。
「凍りついた流れがうごきはじめる時がきた。遠き東のかたで、失われた半身がめざめたのを感じたのだ。これより我はかつては我がものであった半身をみいだし、ふたたびまったき我となるであろう。そして今度こそ天界の門へと到るであろう。女神よ、その優しき手と我が褥への長きにわたる保護を感謝する。だが、いまはもうそのときではない。不要な結界を解け」
 その言葉は、フィアナの耳にしたことのないちからに満ちていた。自信にあふれ、わずかたりともゆるがない。すべてがまえにひれ伏しても不思議ではない威厳のまえに、ところがここにまっこうから反論する者がいた。
「いいや、もちろんそんなことはしない。掟は掟だ。宝玉は守護者なくして聖域から離れることあたわず。そう定めたはだれだったか、忘れたのか。あんたはまだ、外界への導き手を得ていない。あんたは儀式を完遂しなければならないよ。そのためにあんたがたはここへ来たんだろう?」
 冷ややかに言うのは賄い女だった。
 六の巫女はつと眼をほそめ、かすかな苛立ちをおもてに浮かべたが、怒りをすぐにおさめ、口元に傲岸な笑みをつくった。
「――たしかにそのようだ。では結界のあるじに敬意をあらわそう。御前にて候補者を召喚し、守護者に任じることにしよう」
「そうすればいい。あたしは止めないよ。大地の眷属に対してなにか言うことがあれば聞いておこう」
「我の望みは我が身を灼くほどに強い。残念ながら、我はそなたにも大地の女神にもいとまを告げねばならぬ」
 わずかな皮肉をうけとめることなく後に残すと、六の巫女はさらに礎石に歩みよった。よこたわる玉の体をみおろし、高い鼻梁に手をのばす。なめらかではあったが冷たく硬い肌がゆびに触れる感覚が、かすかにフィアナにもつたわってきた。
「挑戦者を見せよ」
 鋭い命令と同時にクレアデールの額の宝玉がかがやき、周囲を覆っていた闇の帳がいっせいにひらかれた。とたんに女神の結界のなかにあるすべてのことが、つまりはエリディルの城壁内の一切合切が、フィアナの視界の中にも奔流のようになだれ込んでくる。
 めまぐるしく変化する光景にめまいをおぼえて遠ざかろうとすると、ふたたびあの声が聞こえた。
 ――見たであろう。
 気がつくと、すぐかたわらにあの賄い女がいて、輝く闇を集めたような深い深いまなざしがフィアナをひたと見据えていた。
 ――よいか。いま、そなたの身体を支配するのは〈心臓〉の半分じゃ。輝くおんかたそのものではない。その証拠に、あれを突き動かしているのはあのおかたの無念の思いのみ。あれなる半かけは慈愛のかたわれといわれつづけていたが、そのぶん理性に乏しい半分だったというわけだ。
 ――とはいえ、わがつれあいは昔から理性的であったことなどなかったな。そうであるならばひとの子の嘆きに耐えきれずわざわざ天より舞い戻ってくるはずもなし、突きつけられたさだめを受け入れずに、大地との契約を反故にするようなまねもしなかったであろう。そして娘たちに宝玉を受け継がせることも。あのかたは叶えられぬと知った天界への帰還の道を、みずからのちからを分けた巫女に託さずにはいられなかったのだ。天への憧れも、境界の門に残した風の戦士を思い切ることも、どうしてもできなかったのだよ。
 ――往生際の悪い、中途半端な、まったくもってはた迷惑なおかただ。
 輝く神をかたる大地の娘のことばは辛辣だったが、どこまでもいとおしげだった。フィアナがそのことに気づいたことに笑うと、闇の女神はつづけた。
 ――天界の門へ到るために必要とされることを〈心臓〉はむろん知っている。こうなったからにはそのすべてを可能なかぎり実行しようとするであろう。まずは目覚めた残りの半分をとりもどし、ゆくゆくは……いや、そのことはここでは言うまい。まずはなにを置いてもこの大地の女神の聖域を抜けることは不可欠。ここは身を守るにはよいが、あのおかたのちからをふるうには不便な場だからな。
 ――娘よ。〈心臓〉は、そなたを置き去りにしてでもここから出てゆこうとするぞ。そなたの身体とともに。
 さきほどの警告の意味がようやく腑に落ちた。このままだと、フィアナは自分のからだを宝玉に奪われて、魂だけでエリディルに残されることになるのだ。
(そんなこと、言われても)
 呆然とするフィアナのもとに、どこかからか風が吹きつけてきた。
 同時に、〈神の眼〉によってひらけた視界の中に、求めていた姿があらわれる。
 挑戦者の使命をおびた若者は、たったひとりで、手に触れることもできそうな濃密な闇の迷路を歩んでいた。風は、かれの足跡をたどるようにして外から流れこんでくるものだった。
 そのことに、フィアナとほぼ同時にクレアデールも、そしてフィアナの身体の〈心臓〉も気づいた。
「みつけた!」
 自分の発する声ににじみでたとほうもない歓喜と我の強さに、フィアナはたじろぎ、背筋の凍るような畏れを覚えた。
 ――娘よ、はやくあのものの名を呼べ。
(でも、私は)
 ――呼べばそなたは外界へのしるべを得るだろう。しかしそなたが放棄すれば、そなたの持ち物はすべて〈心臓〉の思うがままとなる。あのものも〈心臓〉の道具にされる。それはひとの子にとって、しあわせな事とは言いがたい。
 ごくりと唾を飲み込みたくなった。
 あのとき、名前を呼んで縛ったことがこんなかたちで返ってくるなんて。
 かれはこんな事態を予想していただろうか。名を捧げた相手が、途中で別の存在にとって代わられるようなことを。そんなわけはない。そもそもかれには自分の意志なんてなかったのだから。
 ただ、名前を預ける相手はフィアナとさだめて、そのことだけは譲ろうとしなかった。かれにとってそのことにどんな意味があるのかは、フィアナにはわからない。けれど、自分にはかれに対する大きな責任があるのだということを、忘れるわけにはいかなかった。
 いまもルークは、綾目も分かたぬ闇の中をまっすぐにフィアナをめざして進んできていた。なにか手がかりでもあるのだろうか、いくつもの分かれ道でもあやまることなく、確実に室への道を探りあてている。
 あくまでも前進する意志をしめしつづけるその姿に、あのまっすぐな闇色の眸を見たような気がして、フィアナのこころに小さな炎が兆した。
(そうだった。私がかれに命じたんだ)
 自分の望みを叶えよと。
 もしかしたら、あのときフィアナはすでに〈心臓〉に支配されていたのかもしれない。けれど、口にした言葉はけして他人のものではなかった。その声にかれは懸命に応えようとしてくれている。
 このまま自分から諦めてしまうわけにはいかない。
 〈心臓〉が若者の名を求めて自分の支配する身体の記憶を探る。
 三の巫女がフィアナに気づいて、驚愕の声をあげた。
 その一瞬の間に、フィアナは死にものぐるいで恐怖をふりおとし、目の前の自分へと身を躍らせた。


 気がつくと、やはりフィアナは落下していた。
 とたんに恐怖に身がすくんだが、フィアナは懸命に目を閉じまいとした。そのうち、吹きぬける風の中でかすかな浮力にとらえられたが、それでも落下は止まなかった。
 時間も距離もなにもかもが遠くなった。
 はっきりしていたのは、ひとつの名がいましも大気をふるわせようとしていたことだ。
 彼女が喚ぶのだろうか。
 それとも、べつの何者かが。
 一瞬の空白がおとずれ、光が炸裂する。
 視界をしろく塗りつぶす閃光の中で、礎石のそばにひらいた穴からまろぶように何者かがあらわれた。
 突風にゆらいだ身をわずかの間にたてなおして、ここはどこかとあたりを見まわしている。
 かれの背後には風の吹きぬける道が、外界へとつながる道がつづいていた。
 ――ルーク。カイリオンのヴェルドルーク。
 呼び声にふりかえった黒髪の若者にむかって、フィアナは思い切り身を投げ出した。
 空気がびりびりと震え、しびれるような衝撃が全身に走る。
 はじきかえされると思った次の瞬間、フィアナはルークにぶつかっていた。
 ルークは完全に不意をつかれていたが、なんとか受けとめささえてくれた。そのかれが、腕の中のフィアナを見て目を瞠った。
 暗い地下道からとつぜんひきずりだされたからだろうか。ひどくまぶしそうなのに、懸命になにかを確かめようと頑張っている。まるで穴から出てきたばかりのモグラのようだと、そんなことを思ったフィアナは、そこでようやく自分が自分のあるべき場所に戻ってきたことに気がついた。
 安堵のあまりどっと力が抜けて、涙があふれた。そのままくずれるようにして、ぺたりと床に座りこんでしまう。
 〈心臓〉はいまだに強く脈打ち、とほうもない存在感も衰えてはいなかったが、フィアナはそれを自分の外ではなく内に感じていた。フィアナは気がついた。自分を誘う歌はじつはここから生まれていたのだということに。それは半分欠けた旋律で、補いあうもう半分を求めていまも外を渇望していた。
 神は目覚めず、いまだに眠りのなかにあり、しかし、いまの状況に満足しているかのようにかすかな微笑みを浮かべていた。礎石のはなつ力はまさにきわだっていた。あのちからをすべて解きはなたれていたら、いまフィアナがここにいることはなかっただろう。
 触れる人肌のぬくもり。はずむ呼吸。汗のにおいすらもがいとおしい。
 それに比べれば、この場のすべてが目をまるくして自分をながめていること、それは自分の背に大きくひろがったしろい光の片翼のためであることなどは、とるに足りない、ささいなことでしかない。
 現にそのことを吟味するより前に翼はうすれて消え、フィアナのひろく鮮明だった意識はしだいに焦点を失った。
 流れる涙がなにに由来するものなのか、フィアナにはもうわからなくなっていた。
「六の巫女」
 一本調子の呼びかけに顔をあげると、そこにはいつものかれが――かぎりなく無表情に近いルークが彼女を見おろしていた。
 かれはフィアナの涙に気づいて、思案するように口をつぐんだ。
 そして、真面目な顔をして言ったのだった。
「どうしたのだ、六の巫女。まだ足が痛むのか?」



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