天空の翼 Chapter 1 [page 36] prevnext


36 最後の鐘と空にむかう祈りの歌


 足が痛むかと問われて、フィアナはぽかんとルークを見あげた。
「足ではないのか。では腕か、頭か」
 それでも意味がのみこめずにいると、さらに真顔で訊ねられる。
「どこかが痛むのだろう――ちがうのか」
 そういえば、さきほどから視界がゆがむのはなぜだろうと思っていたのだが、それは涙のせいだったのだ。
 あわてて眼をぬぐい、大丈夫だどこも痛くないと告げると、ルークはほっとしたように息をついた。
 若者の顔は、最後に眼にしたときとは別人のようにひきしまっていた。
 戦装束というものはどれだけ古びていようとも、身につけるものに得も言われぬ緊張感をつけ加えるものらしい。
「挑戦者よ。よくぞここまでたどりつきました。そなたに残された関門はあとわずかにひとつです。巫女の保持する宝玉に手をあずけ、宝玉とその巫女への忠誠をあらわしなさい」
 すっかり貴婦人然としたすがたになった〈大地の娘〉が、ねぎらいの笑みを浮かべてやってくる。
 ルークは、見知らぬ女性の居丈高な命令にとまどうこともなく、至極普通の顔をして受け入れている。
 けれどフィアナはそうはいかなかった。いまのいままで、そんなことを言われるとは知らなかったのだ。
 気がつけば、フィアナの宝玉が放っていた光はすっかり薄れてしまっていた。フィアナが身体をとりもどすと同時に、〈心臓〉は存在を主張する気を失ったらしい。
 クレアデールのしろい額にはいつもどおり宝玉が煌めいていたが、あるべき場所にないフィアナの宝玉は、こうなるとそとから見ることはできない。動悸はいまだにつづいているが、歌はずっとひそやかなものになっていた。おそらく他人には聞こえないだろう。
 宝玉に代わり女神の輝きに照らしだされた室の中で、ひざまずいたルークの集中する気配に、フィアナはおもわずまぶたを閉じた。
 かれはフィアナの宝玉のことを知らされているだろうか。そうでなかったとしても、ここにたどり着いたときに目にしてはいないだろうか。輝きの源にあったものに気がついてはくれなかっただろうか。
 黴びた革の匂いを強く意識する闇の中で、女神のひくくうながす声がする。
「どうしたのですか。宝玉は何処にありますか。そなたには見えませぬか」
 深い慈愛とともに激しい冷酷さをもにじませる女神のふしぎな声が反響する。
 ルークは沈黙をつづけた。
 フィアナの鼓動はさらに速くなり、ささやかな旋律が身体につたわった。〈心臓〉が期待にふるえているのだ。
 そのうち服地越しの胸になにかがそっと押し当てられて、フィアナは眼をあけた。革手袋をした手が、眉を寄せて目を閉じた顔がすぐそこにあった。
 予想外の距離にフィアナの思考はさまよいはじめた。ぼんやりと気がついたのは、目の前の若者が上から下までまんべんなく汚れているという奇妙な事実だ。なにがあったのだろう、まるで頭から煤を被ったようで、頬をゆびで撫でたらあとがしろく残るような気さえする。甲冑の上からまとった、挑戦者の外衣ももはや白ではないだろう。
 汚れのせいで妙に滑稽な、けれどおそろしいほどに真剣に集中しているすがたを見ているうちに、このひとはいったいどうやってここまで来たのだろうと思った。大変なことはなかったのだろうか。どこかを痛めたりはしていないだろうか。疑問は山ほど浮かんできたが、そのうちにおなじく汚れた手袋につかまれている自分の祭服の行く末に思いいたって、はっとなった。
 そのことがなにかのきっかけになったのだろうか。
 目を閉じたまま、ルークは唇をひらいた。
「――宝玉は、ここに。六の巫女の心臓のすぐ横にある」
 確信に満ちたつよい声が告げるとざんばらな髪の奥でまぶたがもちあがり、闇色の眼がフィアナをまっすぐに見た。
「俺はあんたに望みをかなえるよう命じられた。命令に従うことをここに誓う」
 まじるもののない意志をこめた誓いの言葉が、闇の中で一音一音くっきりと、光のような存在感をおびた。
 とたんに胸のまんなかでつよい賛意の鼓動が鳴った。〈心臓〉が歓喜の歌を高らかにうたいあげ、目もくらむような輝きをときはなつ。
「そなたに守護騎士の資格ありと認めよう!」
 女神の宣する声が聖域全体にとどろきわたった。
 間髪おかずに、はるか頭上で鐘が鳴りはじめる。
 呆然として、あれは何度目の鐘だろうと思うまもなく、ルークは切迫したようすでフィアナの腕をつかみ、すっと立ちあがった。
「急いでくれ。時間がない」


 時間がないのは本当のことだった。それは最後の鐘だったのだ。
 急き立てるかのように地中にひびきはじめた鐘の中、ルークはフィアナの手を引いてすぐさまとって返そうとする。
 それをとどめて、フィアナはひとりの人物をふりかえった。
「モード。私、行く。行ってもいいでしょう」
 モード・シェルダイン女官長は苦しげになにかを口にしかけて首をふり、途方に暮れた顔で両手を組みあわせた。
 そのかわり、思わぬ方向から否定命令がやってきた。
「六の巫女、だめだ。あなたはここに留まるのだ」
「ハル・ダーネイ。そなたがこの試練の始まりを宣言したのだぞ。そして挑戦者は守護騎士としての資格を認められた。いまになって言葉を反故にする気か」
 クレアデールが柳眉を逆立てるのに、神官長はふんと顔をそむけた。
「反故などと。私の言いたいのは、たしかに試練は始められたが、まだ終わってはいない。いや、そもそも、今回の試練がじっさいに効力を持つかどうかは、またあらためて検討を必要とする問題だろう。すくなくとも私は女神の司祭として、その薄汚れた小僧を守護騎士とすることについては大いに疑問があると言わざるをえないのであって――」
「妾と宝玉が認めたのにか?」
 〈大地の娘〉が婉然と笑むのをむりやり無視して、神官長はいっそう顔をこわばらせる。
「この〈花占〉を主催しているのは、宝玉神殿の長たる私である。その私が、試練はいまだまっとうされていないと表明しているのですよ。そうだ、すべてを定めるのは私のはずだ。賄い女の言うことに耳を貸すなど言語道断。宝玉が目覚めたなどといって、いまどきどこのだれが信用する。ここで私が見たものは、すべて夢、幻なのだ。だいたい、このままでは……このままでは……」
 声をうわずらせて頭上を睨みつける神官長を素通りして、フィアナは必死に女官長を見あげた。
「モード、お願い」
 つよい懇願のまなざしに、女官長はちいさなため息をついた。
「……そのかわり、見つけてきてくださいませ。フィアナさまにとってたいせつなものを、ひとつでもかまいませんから。世間を甘く見てはなりませんよ。他人の意見にまどわされず、けして後悔なさいませんように。どんな決断でも、最後にすべてを受け入れることになるのはご自分なのだということをお忘れなく」
「わかったわ、約束する」
 女官長はフィアナを子供の頃のようにぎゅっと抱きしめ、思いを断つようにすぐに腕を解いた。
 同時に、女神がルークに手の籠を押しつける。
「さあ、これを持ってお急ぎ!」
「こ、こら待て! そうすんなりことを運ばせてたまるか。これではあの聖騎士の思惑通りではないか!」
 我に返った神官長は歩み出そうとしたフィアナに体当たりをしかけた。よろめいたフィアナは神官長に腕をつかまれて、ぐいとひき戻される。バランスを崩して、フィアナは悲鳴をあげた。
「ぎゃあ!」
「なにをする!」
 ルークにひっぱられながら必死で神官長をふりはらおうとするフィアナに、神官長はぞろながの裾にしがみつくように食いついて離れない。
 なりふり構わない神官長は、まるで追い込まれた小動物のようだった。歯をむき出しにして唸り、わめき、噛みついてあたりを威嚇する。女官長のたしなめも、効き目はなかった。
「なんと見苦しい。これが妾の司祭とは。つれてこなければよかった」
 〈大地の娘〉がうつくしい眉間に不快げな皺を刻んでみせる。
 あまりの醜態にそのまますべてが崩壊してしまいそうになった、その場を収拾したのは、黒髪の巫女の一喝だった。
「いいかげんにしろ、ハル・ダーネイ。そなたは恥ずかしくないのか。神の御前であるぞ」
 同時に放たれた手首のしなりの効いた一発と凍りつくようなひと睨みで往生際の悪い神官長の手を放させると、クレアデールは厳しい顔でふりかえった。黒々とした双眸が額の宝玉とともにつよい輝きをやどしている。
「フィアナどの、はやく行かれよ。これが最後の鐘だ。鳴りやむ前にここを出るのだ」
「……クレアデール」
 信じられないものをみて立ちつくすフィアナを、女官長が叱咤した。
「ほら、ぐずぐずしない! 外へ行きたいのでしょう。最後まであきらめてはいけません!」
 つよく背中を押し出されて、フィアナはふたたびルークの腕にひき戻された。
「感謝する」
 ひとこと告げてルークは駆け出した。フィアナは最後に光を放ちつづける棺の中の神をふりかえった。至高の神はフィアナにむかってうなずくように瞬いた。しかしそれも、あっという間に見えなくなる。響きつづける鐘の合間に女官長の巫女をよろしくと叫ぶ声が遠ざかった。母と別れたときのことがよみがえって涙がこみあげてきたが、留まっている時間はなかった。女官長の言うとおり、フィアナは外へ行きたかったのだ。〈心臓〉もそれをつよく後押ししていた。
「足はほんとうに大丈夫なのだな」
 走りながら念を押すルークに、フィアナは荒い息の下から応えた。
「そういったでしょ」
「では、もうすこし速くうごかしてくれ」
 鐘はまだ鳴りつづけていた。
 どうしてこんなにいつまでも鳴っているのだろう。それでも、響きつづける鐘の音は、フィアナたちにとっては歓迎すべき異常事態なのだった。どれだけうるさかろうが、神経に障ろうが、止んで欲しいと願うことなどできない。鐘が鳴っているあいだは、まだ可能性が残されているのだから。
 ルークは何度もフィアナを励まして強引に走らせつづけたが、そのうち彼女の足に見切りをつけたらしく、手を胴にまわして脇に抱えあげた。ほとんど足が地に着かなくなったフィアナをひきずるようにして、ルークの駆け足はさらに速度を増した。周囲のようすはなにもわからなかった。移動の衝撃が増して、息はさらに苦しく熱くなった。若者の力強い足運びが憎らしく、もう置いていってくれとなんども口に出しそうになったが、鐘の音が鳴りつづけるのにうながされて足は惰性で動きつづけた。
 疲労に意識が遠くなりはじめたとき、耳元で声がした。
「あとすこしだ。がんばれ」
 そのとき、フィアナは風の香りを感じた。
 陽光のあかるさとぬくもりと緑の息吹を含んだ、さわやかな春の香りを。


 聖堂前の広場は、騒然となっていた。
 鐘が鳴りはじめたとき、それが試練の刻限を告げるものだと気づいたものはそう多くはなかった。目の前でくりひろげられていた死闘のおかげで時間の感覚が失われていたからだ。それでも、たがいに相手を叩きつぶさんと奮闘していた守護と聖騎士が鐘の音にうごきをゆるめ、しまいには聖堂をみあげて立ち止まってしまったとなれば、とうぜん話は別である。
 閉ざされた正面の大扉は、いまだにぴったりと合わさったままだった。いったい中でなにが起きているのか、ようすは皆目わからない。
 とはいうものの、なにかが起こるような気配もなかったのではあるが。
「――どうやら、間に合わぬようだな」
 フェルグス卿が、石畳に幅広の大剣を乱暴に突き立てて言った。
「防御の陣をぬけられたときには、覚悟をしていたのだが……あらたな守護騎士は出現することなく終わりそうだ。今回はわしの勝ちだな」
 肩で息をしながら髭の口元に笑みを刻んだ恩師に、汗ではりついた金の髪をかきあげたカーティス・レングラードは、浮かべた失望を気の抜けた笑いに塗りかえた。
「致し方ないな。ま、いいですよ。今回、勝ちは両方とも閣下にさしあげることにします」
 この投げやりな発言は老騎士の神経に障った。白黒つくまで相手をしろとすごむ恩師に、もう飽きた、またの機会にしませんかなどと不真面目に返す教え子のため、その場の雰囲気が一気に悪化する。
 若い聖騎士リーアム・ディアニースは、かつての上司の態度に脱力していた。このひとはいつも相手を逆撫でるように気を使うので困りものだ。ついさっきまで、滅多にお目にかかれない経験豊かな剣士同士の真剣勝負に手に汗握っていた感動はどこへやら、すっかり風向きがかわってしまっている。
「やれやれ、今回の〈花占〉はほんとうにめちゃくちゃだ」
 施療神官が嘆きの言葉を心底楽しげにつぶやくとなりで、いまだ放心状態から抜け出せていないタクの甥が、鐘楼を見あげながらうーんと気のない返事をする。
 風向きといえば、風はずいぶん強くなっていた。しろい花びらがくるくると舞い、城門塔に掲げられた旗が――リーアムにはそれがなんの旗であるかまではわからなかったが――ちぎれんばかりにはためいている。髪を乱された若い女の子たちの悲鳴があちこちであがる。
 そして、鐘はいまだに鳴りつづけていた。
 儀式に区切りをつける鐘だというが、それにしても長い。
 余所者のリーアムは知らなかったが、このとき城壁内にいるほぼすべての人間が、鐘の音に落ち着かぬ気分をいだきはじめていた。リーアムがたんに長いと感じた鐘は、エリディルの人間にとっては異変を告げているにひとしい長びき方をしていたのだ。しきたりどおりならば十回で終わっているそれは、五十回を数えてもいまだに止む気配がない。ひとびとは困惑していた。鐘つきはなにをしているのかと怒っているものもいる。鐘楼の上では、役目を仰せつかった神官が止まない鐘に手を焼いたあげく、とうとう隅っこに避難して耳を塞いでいたのだが、そんなことは地上にいるかぎりうかがい知ることはできない。
 執拗に鳴りつづける鐘の音は、みなが忘れかけていたそもそもの理由――そういえば、自分たちは守護騎士の誕生を見届けようとここにきたのではなかったか――を思い出させることになった。そしてまた、聖騎士がエリディルに到着したときの、あの異様な鐘の音の連続をも。
 荘厳であるべき聖堂の周囲には、落ち着かないざわめきが生まれた。そして、なにかを待ち受けるような空気があたりを支配し始めたとき、聖堂の重たい扉がひらいたのだ。
 どよめきが漣のように、しだいに勢いを増して広場全体にひろがってゆく。
 ひとびとの頭越しにリーアムが見たのは、正面扉の柱の影から蒼い衣の少女と大きな籠をかかえてあらわれた、黒髪の戦士の姿だった。
 記憶よりかなり薄汚れていたが、たしかにそれは、苛酷なトーナメントを勝ち抜いたあげく聖堂に姿を消した、あの挑戦者の若者に違いなかった。
 おお、と大勢の勢い込む圧力に、若者はすこし驚いたように足を止めた。そのはずみに少女がずるずると足もとに崩れた。長い金の髪と長い祭服の裾をつよい風がもてあそんで、ばたばたとひるがえる。髪に隠れて少女の顔はよく見えなかったが、どうやらなにか文句を言っているようだった。
「――よし!」
 かけ声にふりかえると、カーティス・レングラードがやったとばかりに拳を小さく突きあげていた。何事かととまどう周囲を押しのけて聖堂へ向かって猛烈な前進を開始しながら、鋭い口笛をひびかせる。
 それに応えたのは石畳を蹴る蹄の音だった。
 近づく音を求めてふりかえると、ほれぼれするような立派な戦馬が二頭、路地から雑踏の中へ突っ込んでくるところで、蹄にかけられまいと逃げ散るものたち、それでも前方へ進もうとするものたちで、その場は大混乱に陥った。
 侍女を背に乗せた黒馬は、おのれの前途を阻むものを思う存分蹴散らしてから、誇らしげなようすで蒼い衣の少女の前に足を止めた。
 うやうやしげな口づけを小柄な少女に贈るそのすがたは、まるで敬愛する姫君に礼をとる騎士のようだった。
「ルーク。グレンの隊がそこまで来ているらしい。このまま出るぞ」
 小柄な牧童頭から鹿毛の手綱を受けとりながら、カーティスがあわただしく告げた。若者は一瞬絶句していたが、うなずくまもなく即座に侍女と入れ替わった。侍女はへたりこんでいた少女を叱咤し、黒馬の鞍の若者の前に押しあげる。若者は片手の籠を少女に手渡し、少女がしっかと抱えこんだのを確かめると、馬の腹を蹴った。
 矢のように飛び出していく黒馬に、ひとびとは悲鳴とも歓声ともつかない声をあげた。
 そのようすを横目にカーティス・レングラードも馬上の人となり、なおもざわめくひとびとにむかって大声を張った。
「エリディルの諸君。見てのとおり、たったいま、わが従者は女神の掟にしたがって守護騎士の資格を得た。よってこれより六位の巫女フィアナ・ディアネイアの保護権はこのカーティス・レングラードが預かるものとする。われわれはこれよりエリディルを発ち、長い旅に出るつもりだ。しかし案ずることはない。われわれは巫女の護衛として、いかなる危険、困難からも巫女を護る覚悟である。この命に代えてもだ!」
「なによりも心強いことに、いまや宝玉の巫女の背後には守護騎士がいる。数十年にわたる長き不在の期間に終止符を打ってあらわれた守護騎士だ。かれはその身を巫女の盾とし、剣ともなして、未知の世界で彼女とともに新たな日々をきりひらいてゆくだろう!」
 朗々として力づよい聖騎士の声は鐘の音に負けじとひびきわたり、すでに興奮しきったひとびとの心を理屈抜きでつかんだ。
 わきあがる拍手と歓声、聖騎士の名を連呼する渦のなかで、血相を変えたフェルグス卿が腕を振りまわす。
「待て、カーティス! 祀りはまだ終わっとらん!」
「そうかもしれませんが、急ぐ必要がありましてね。申し訳ないが、残りは我らぬきでどうぞ。いやいや、ご心配は不要です。祭りはもう十分に楽しみました。エリディルの諸君と閣下のおかげです」
「そういうことではない! おぬし、フィアナさまをどこへ連れていくつもりだ!」
「むろん、アーダナです」
 馬上から涼しげに返る応えに、リーアムは頭を抱えた。
 では、かれの元上司は大神官の命令でうごいているのだ。
 そういう考えが少しも浮かばなかったわけではない。しばらく前から、カーティス・レングラードは大神官個人の子飼いとみなされている。それに、表面的にはそのことにとくに問題はないはずだった。聖騎士団は神に仕えるもののふの集団であり、大神官は神の代弁者なのだから。
 問題は、かれの現上司が――というより現実に聖騎士団の上層部の半数以上が、大神官とは敵対する長老たちの陣営に与していることにある。
 リーアムは再会したときにした問いを、なかば諦めつつもう一度くりかえした。
「カーティス卿。あなたはいったいなぜここにいるんです。謹慎命令はどうなったんですか。隊長はこのことを――」
「リーアム。私たちと会ったことはグレンには内緒にしておいてくれよ」
 カーティス・レングラードはにやりと笑いながら手を振ると、鐙で足を突っ張り、背筋をぐっと伸ばした。
「エリディルの諸君。願わくば旅の無事を祈っていてほしい。われわれにはこれから多くの幸運が必要となるはずなのだ。では名残は惜しいがこれで別れだ。いつかまた諸君に会わんことを心から願う――女神の地エリディルに永遠に栄えあれ!」
 それを最後に聖騎士は馬首を返し、宵闇色のマントをひるがえしてあっというまに路地の合間へと姿を消した。儀式のためにひらかれていた正門へ意気揚々と駆け去ってゆく人馬を、ひきとどめる手段はどこにもなかった。
 いにしえの英雄を讃えるごとくに感極まったたくさんの声と拍手が聖騎士の退場を見送り、うまれた大音響は雷鳴のごとく城壁全体をゆるがした。
 しかも、頭上ではいまだに鐘が鳴りつづけている。
 まるで鐘自身がなにかを喜んでいるようなリズミカルな音の合間をぬうように、鳩たちが大空へとつぎつぎに舞いあがってゆく。
「女神に栄えあれ!」
「エリディルに栄えあれ!」
 リーアムは呆然としていた。子供の頃に聞いた西の狂戦士の昔語りを思い出した。ここのひとびとはほんとうに熱くなりやすいのだ。抜け目のないカーティス・レングラードがこの性格をなんらかのかたちで利用しようと考えなかったはずはなく、どうやら事は完全に聖騎士の思惑通りに運んでしまったようだった。
 気がつくと、城壁内ではそこかしこで荒々しい小突きあいがはじまっていた。当初はただ抑えきれぬ興奮を暴力的にわかちあっていただけだったのに、手加減がきかないために火種はどんどん煽られてゆくのだった。とどめようとしても、頭に血の上った男たちは聞く耳を持たない。
 祭は祭でも、これでは地獄の肉弾祭である。
 ところが、リーアムが先行きを不安に思い始めた矢先、ふしぎなことが起こった。
 だれかが歌をうたい始めたのだ。


 澄みわたる青空の下、ふりそそぐ花吹雪の中で、女は光の季節を迎えたエリディルを眺めていた。
 まだ若かった世界に生をうけ、深き森から歩みいで、天を臨むこの地に居をさだめてどれほどの時が過ぎたことだろう。
 歳月を刻むことのない横顔は、美しいというよりも近寄りがたいといったほうがふさわしい。それでも、女の輝く闇をあつめたまなざしには慈しみと哀しみがつねにたたえられ、威厳に満ちた美貌にやわらかな深みをあたえてきた。
 いまではエリディルの守護聖女とひとびとに親しまれる伝説の女は、かつては輝くつばさの神にならびたつ闇と森の女神とあがめられた身でもあった。
 ひとの子が街道までを見晴るかせると自慢する高い石積みの上で、女は遠ざかるものたちを見送っていた。宝玉の巫女と誕生したばかりの守護騎士、そして神につかえる騎士のすがたを見届けたまなざしは、そのままなだらかな緑の丘陵と広大な森林地帯、蛇行する大河、その向こうのひとの営みのつづく東のかたへとむかい、想いはもっと遠く、はるか彼方天空の高みへと馳せてゆく。
 銀の甲冑、空のマントのあのひとは、いまも独りで下界をみまもっているのだろうか。
 エリディルの風は歓喜の歌とともに有頂天に舞い踊って、女の長い髪と裳裾をさかんに吹き散らかした。
 ともにゆこう、輝くあのかたを追いかけてゆこうとしきりに誘いかけてくる風に、女は朱唇にかすかな微笑をのせるだけで応えることはせず、蒼穹にあらわれた影がまっすぐに近づいてくるのを待ち受ける。
 白い猛禽は、気どったようにシャンシーラの大木におりてきた。
 その、雪の花のなかではいささか黒ずんで見える翼を眺めて、女はおかしそうな笑みをうかべた。
 ――やれやれ。あの風の民の小僧はうまくたどりついたようだな。神殿はたいへんな大騒ぎになっているぞ。
「わかっている。だからここにきたのだよ」
 神殿の方角からは、鳴りつづける祝福の鐘の音とともににぎやかな騒音がきれぎれに飛ばされてきた。耳を澄ますと、雑多な響きのつらなりがなつかしい旋律をかたちづくろうとしているらしいことがおぼろげにわかる。
 ――歌をうたうのはかまわんが、できれば上手くうたってほしいものだ。大地の民も風の民も、もうすこしマシな歌い手だったと思うのだが、私の記憶違いだったか。
「さあ、どうだったろうな。昔のことなので忘れてしまった。だが妾はうれしいのだよ。かれらはいまだにあの歌を歌い継いでいてくれる。そのことがとても嬉しいのだ」
 ――そう、そうだな。
 しばらくのあいだ、ふたりは石積みの建物からとどくお世辞にも洗練されているとは言いがたい人間たちの歌声に耳を傾けていた。
「……ヴェルハーレン。妾はこれからもかれらを見守りつづけるだろう。ここは妾の領土、妾のからだの一部だ。輝くおんかたの眠りを護るため、妾はみずからをここに植えつけ、根を張りめぐらせた。そのことに後悔はない。とはいうものの、見てのとおり妾はここから動くことができなくなった。だからそなたに頼みたいのだ」
 巫女を見守ってほしい。落ち着いた声音でそう頼む女に、ヴェルハーレンは訊ねた。
 ――見守るだけでいいのか。
「守護騎士のつとめに手出しは無用だ。そなたにはただ一部始終を見とどけてほしい。そしてできるならあのおんかたの行く末を妾に伝えてほしい。お願いできるだろうか」
 ――これはまた、ずいぶん殊勝なお言葉だな。とはいえ、私は輝くおんかたのしもべだ。目覚めかけた〈心臓〉をもつ巫女から離れるつもりもない。ついでに見ているくらいは造作のないことだが、ほんとうにそれでいいのだな。
「かまわぬ。もし宝玉と巫女の利害が相反するようになったとしても、巫女のためにうごいてほしいと望むことはない。そなたはそなたのつとめを果たすがよい」
 ――よかろう。わが名にかけて、承知した。
「最後に――風の戦士の消息をしっているか」
 ――ああ、息災だ。むろん、あなたのように忙しくしてはおらぬが。言づてがあれば承るぞ。
「いや、いい――もう、行っておくれ」
 猛禽は白き花の枝から――〈大地の娘〉のしなやかな腕から勢いよく飛び出した。風をきっての優雅な滑空の後に、しろい翼がおおきくしなる。
 別れを告げるために旋回する輝く神のしもべに、女は手をあげた。
「ときどき報せをよこしてくれると嬉しいぞ」
 ――できればな。
 遠ざかる翼は空の青のなかへと吸いこまれていった。風がたわむれにその後を追いかける。
 とつぜんいきおいを増した風に、花がいちだんとひどく散りはじめた。
 盛りを過ぎた白い花は、この騒ぎでもうじき季節を終えてしまうに違いない。



 空よ、大空の大神よ。
 いとし子は大地の娘を愛した。
 飛翔への憧れを熱い思いに変えて、輝く神はひとびとの守護者となった。
 残されたあのかたの幸せを祈って、いまはこのときを祝おう。
 風がこの歌声を空へと運んでくれる。

 空よ、大空の大神よ。
 いとし子は眠りについた。
 大地の娘は失意のからだをだきしめ、母のふところに身を横たえた。
 やすらかな眠りのために、白き花と娘たちを育てよう。
 風がこの歌声をふるき友のもとへと運んでくれる。

 空よ、大空の大神よ。
 いとし子は解き放たれた。
 娘の翼はまだ片方だけ。でも、いつかはたどり着くかもしれない、忠実だったふるき友のもとに。
 旅路の幸運を祈って、いまはこのときを祝おう。
 白き花とともに、風はこの歌声を天の門へときっと運んでくれる――。



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