天空の翼 Chapter 1 [page 37] prevnext


37 そして旅人は東へむかう


 異様な興奮状態がおさまった後もひとびとはそのまま城壁内にとどまった。広場を中心にしてにわかづくりの宴席がもうけられ、支度してあった料理をわけあい、酒をくらい、談笑したり歌ったり踊ったりして、ひさしぶりの祭りを楽しんだのだ。
 長年の懸案だった〈花占〉をとりあえずやり遂げ、そもそもが異分子だった来訪者たちの姿もなくなって、エリディルはようやくかれらの日常をとり戻したようだった。
 とはいえ、これが一時的な平穏であることは、いまのところだれも予想してはいなかった。
「六の巫女がいなくなったのが、ちとさみしいかのう」
 その翌日の昼下がり、施療室の陽あたりのよいほうの窓の側で、壮年の施療神官は満足そうに薄笑いをうかべ、そんなことをつぶやいていた。膝の上には袋に入った大量の硬貨が鎮座している。
 トーナメントの賭けはいろいろあって大混乱に陥ったが、けっきょく最後におこなわれた守護と聖騎士の対戦はカウントされないことになった。もともと決着のついていない一戦だったから、考慮するにしても引き分けが関の山である。するとやはり勝者はあの若者だったということになるわけで、参加者の大方は掛け金をすべて失った。たったひとりの挑戦者に敗れたエリディル守備隊の面目がまるつぶれになったことはいうまでもない。
 そんなわけで、今回の出来事で純粋に得をしたのは、どうやらボーヴィル師ひとりだけだった。
 神官長は、聖堂から出てきた後に頭痛が痛いなどとバカなことを主張して自室にこもったきりだし、神官長に代わってエリディルの厳父としての役割を果たしつづけてきたフェルグス卿も、守備隊の失態をふくめた一連の出来事にすっかり肩を落としている。
 祀りの最中にあらわれた新たな使者のもたらした報せは、たしかにすこしばかり衝撃的にすぎた。それが、数日前に皆で頭を悩ませた翼のしらせの謎を解明してくれたとしても、いやむしろ解明してくれたからこそ、受ける衝撃は大きかったのだが。
 あきらかとなったのは、短い文章のなかに記された聖騎士の来訪という言葉の中身であり、それはこれからやってくる聖騎士団の一部隊のことであるという真実だった。ひとりきりの従者とともに乗り込んできたカーティス・レングラードは、どうやらそれとはまったくの別口であったらしい。
 つまり、ボーヴィル師がひそかに睨んだとおり、カーティス卿はやはりエセの使者だったのだ。エセと言って悪ければ、内密の使者とでも言おうか。
 たしかにカーティス卿自身、大神官の個人的な遣いだと言っていたような気もする。誤解したのはこちらのほうで、聖騎士は翼のしらせのことなど口にしなかったし、大神官の遣いであることを証明する書簡も本物だったと神官長が認めている。
 しかし、元部下の口から、もっかのところかの人物の聖騎士資格は停止されているのだというもうひとつの現実が明らかになると、その場には疲れたため息がひろがった。
 いま思えば、カーティス卿の態度にはいろいろと不審な点もあったようである。しかし、それを追求しようとするものはいなかった。磊落な態度は後ろ暗いところのある人間のものとは見えなかったし、聖騎士が大きな顔をしていけしゃあしゃあと任務を騙るとも思わなかった。
 いまさらではあるが、あの男はかなりの食わせものだったのだ。
 だからなのだろう、唯一カーティス卿の人となりを知っていたはずのフェルグス卿の、今回のことに対する悔しがりようは並大抵ではなかった。せっかくだからすこしだけとひっぱりだされた宴席でも、杯をかたむける合間にぎりぎりと歯ぎしりする音が聞こえていたくらいだ。
 ボーヴィル師はいちおう医師の端くれとして、もう若くはないのだからそんなに噛みしめると歯がボロボロになる、そのうち追っ手が捕まえて戻ってくるよと慰めてみた。しかし、老騎士は苦々しい一瞥を投げると、麦酒を飲み干して席を立ってしまった。
 じっさい、そのときすでに差し向けた追っ手が跡をたどることができずにすごすごと戻ってきていたことをボーヴィル師は知っていた。
 エリディルの守備隊の、力業以外では役に立たないという評判はまたしても証明されてしまったわけだ。
 間の悪いことはつづくもので、守備隊では、あの屈辱的なトーナメントのさなかに勝手に持ち場を離れていた一部の隊員が、なぜか兵舎の地下室の壁にあいた大穴を発見するという事件も同時に発生していた。
 その穴から翼のある魔物がとび出てきたのを見たというので大騒ぎになったのだ。
 混乱はひとまずおさまったようだが、今度は穴をめぐって早々に埋めるべきか、はたまた中を探索すべきかで隊内の意見が割れているらしい。
 今に始まったことではないとはいえ、これでは眉間の皺もいよいよ深くなろうというもので、老騎士の老朽化した血管はかなり危険な状態に陥っているにちがいない。やはり血液をさらさらにする薬湯でも飲ませておくべきだろう。
 そういえば、新顔の若いリーアム・ディアニースは、宴席ではかなり居心地が悪そうだった。フェルグス卿の手前、災いの遣いとなった自分をはばかっているのかと思ったが、どうやらちがう。じつはかれは、元上司による巫女の略奪劇をかぶりつきで見物していながら、その背後関係にまったく気づかなかった自分にショックを受けていたのだった。
「……言いませんよ、言えるわけないでしょう。ここでカーティス卿に会ったなんて、そんなこと言ったら隊長が激怒するにちがいないんです。でも、嘘をついたら……」
 うわごとから察するに、上司はよほど存在感のある人物のようだ。
 だが、青ざめ怖じ気づいていたリーアムは、ボーヴィル師がその隊長が到着するのはいつだと訊ねるとすこし考える顔になった。それまではくつろいだらどうかと杯をすすめたら、それもそうですねとありがたく受け入れた。
 聖騎士にしては純朴そうな若者だが、かなり切り替えの速い性格であるらしい。
「それにしても、どうして皆さんこんなにご機嫌なんですか」
 いくつかの皿をたいらげ、幾杯目かの杯を干してから、聖騎士にしては牧歌的な風貌の若者は不思議そうにあたりを見まわした。
 そのころには宴もたけなわで、楽器の奏でる音曲にあわせて楽しげな踊りの輪がいくつもできあがっていた。宝玉の巫女が攫われて行方不明というのにまったく気にかけるようすのないひとびとに、神に仕えるものとしてはいささか理解しがたいものを感じたようだ。
 それについては、六の巫女付きだった侍女が当を得た応えを元気に返した。
「だってせっかくひさしぶりの〈花占〉なんだもの。楽しまなくちゃ、損じゃないですか」
 ハーネス家のミアは、自分ではこんできた戦利品の中から揚げ鶏を選んでぱくりと噛みついた。
「それにフィアナさまなら大丈夫。ちゃんと守ってくれる騎士さまができたんだし」
「騎士って、あいつが騎士って柄かよ」
 横からやはり揚げ鶏に歯形をつけていた自称従者見習いのジョシュは吐き捨てたが、ハーネス家の女は男の言葉に動じたりなどしない。
「だって強かったじゃない。それによくみたら見た目も地味なだけでそんなにはひどくなかったし。剣をふるってるところは、なんだかぞくぞくしちゃったし。そりゃあ、騎士の中の騎士のカーティス卿にはどこをとっても断然負けるわよ、でもあちらは血の繋がったおじさまでしょ。むしろ、フィアナさまの騎士にはあれくらいがちょうどいいのかなあと……とにかく、トーナメントの優勝者なんだから、今年の守護騎士には違いないじゃない」
「なんだよ、さんざんこき下ろしてたくせに」
「なによ、あっというまに負けたくせに」
 フィアナの侍女として、ミアはあるじの誘拐幇助で追求されてもおかしくない立場だったのだが、フェルグス卿が責は極悪なカーティス・レングラードに在りと宣言し、お咎めなしということになった。けっきょくのところ彼女はカーティス卿にうまく利用されただけだ。やり口が巧妙だったらしく本人に聖騎士を恨んだり怒ったりしているようすもない。
 不思議に思ったボーヴィル師はミアに、聖騎士になにをどう頼まれたのかと訊ねてみた。
「ご実家のことはうかがったわ。それでフィアナさまが神殿を出ようと決心されたってことも、今回が千載一遇のチャンスだってこともね。それとあのルークってひと。フィアナさまはすっかり忘れてるみたいなんですけど、ずうっとまえにフィアナさまに会ったことがあるかもしれないんですって。それで今回の随員にあのひとを選んだのだとか。それを聞いたときにああ、って思ったの」
「考えてみたらあのひと、最初からようすが変だったのよ。ぼうっとしてどこを見てるのかもわからないし、ちょっとたりないんじゃないかとおもうくらい注意散漫で。でも、カーティス卿の話を聞いて気がついたの、あのひとはぼんやりとしてみえるけどそれだけじゃなくて、なにかに集中しようとしているみたいにも見えるって。目で見えるものじゃない、べつのなにかによ。そしてそのなにかっていうのが、もしかしたらフィアナさまの声なんじゃないかって。そうしたら思いあたることが色々とあって」
「ほら、フィアナさまってご自分でも無意識に歌をうたってることがあるでしょう。あたしたちはもう慣れっこになってしまったけど、あれは最初のうちはほんとに不思議なことなのよね。それにフィアナさまが落っことしてきた薬草おじさんの袋を届けてきたの、あれはあのひとだったとカーティス卿が教えてくださって。でもって、それをフィアナさまがあんなにぎゅうっと握りしめてたってことは……!」
 カーティス卿は、若い娘の気を惹くための嘘がほんとうにうまかった。フィアナは三歳の時にエリディルにきたのだし、そのころあの若者がどんな環境に身を置いていたにせよ、どう考えてもふたりの間に接点があったとは思えない。
 しかし、もしかしたらあの晩ふたりのあいだになにかがあったのかもしれない、と黄色い声でうれしがるミアの妄想は、もういいといくら遮っても止められるものではなくなっていた。
「で、で、もう、こうなったら伝説をそのまんま再現するしかないでしょ? そりゃあ、なんだってするわよ、あたしはこれでもフィアナさまの侍女ですもん。守護騎士を持てばフィアナさまだってみんなにちゃんと巫女なんだって認めてもらえるかもしれないじゃない!」
 どこかで焦点がずれているような気がするのだが、ミアが今回の事件で今まで以上に騎士に対するあこがれをふくらませてしまったことだけは確かだ。
 舞いあがるミアはまわり中から注目を浴びまくっていたが、制止しようと無駄な努力をするものはひとりもあらわれなかった。
「そして、見て! 宝玉の巫女は守護騎士に導かれて、ついに閉ざされた地下の砦から外の世界へと足を踏みだしたわ! これからふたりに待ち受ける苦難の道のりはいかばかりか。でもいいえ! けして巫女はくじけない。だって、いつも騎士さまがそばにいてくれるから!」
「きゃあ、なんてことなの! フィアナさまが、あのひねくれもので素直とかかわいげとかとはほど遠かったフィアナさまが! 馬とぼんやり男とはいえ、同時にふたりから求愛されるなんて! ああ、あたしも一緒に行けばよかったかなあ。そしたら今後の展開をかぶりつきで見られたのにいいい」
「……おまえ、仕事がなくなったってのに元気だな。明日からどうするつもりなんだ」
 力説しまくる妹にタクが辟易しながら訊ねると、ミアはえっへんと胸を張った。そして驚愕の新事実を披露した。なんと彼女はクレアデールに雇われることになったというのだ。
「えっ、なんでだよ!」
 すっとんきょうな声があがったが、ジョシュが驚くのも無理はない。
「ええと、なんでかな。でも、よくやったって褒めてくださったわ」
 周囲も本人もとまどいながら首をひねったが、妄想娘が三の巫女に賞賛された理由はだれにもわからないままだった。
 ともあれ、エリディルの六の巫女は長年暮らした宝玉の神殿から姿を消した。
 神官長はこれは誘拐だ事件だとうわごとのようにくり返していたが、どうみてもあれは本人了解の上での逃亡劇だ。
 いにしえの、守護騎士をしたがえた巫女はただ護られるをよしとせず、暗黒の世にひとすじの希望を求めて聖域をとびだしたとつたえられている。まさか伝説のように魔物や罠が待ちうけているとは思わないが、残ったものにできるのが旅路の幸運を祈るくらいのことでしかないのは今もおなじだ。
 これからは少し真面目に聖堂に通って〈名を失いし神〉に祈ってみようか、そんなことを思ってボーヴィル師は苦笑する。
 たしかに信仰者に期待される清廉潔白とはほど遠いかもしれないが、カーティス・レングラードは悪い人物ではない。当人が思うよりもはるかに善人に近いだろう。なによりかれは聖騎士としての自分に誇りをいだいている。誉れにかけてフィアナを全力で護るだろう。そのことに疑いを挟む余地はない。
 気がかりなことがあるとするならひとつだが、それもここで気をもんでどうにかなるようなことではない。しかしあの、背中に刻印を負った無口な若者の瞳から意志の光がついえぬことを願うのは、自分ではなく他の誰かの役割にしてもらいたかったと、ボーウィル師は思ってしまうのだ。
「まったく、柄じゃあないわな」
 つぶやきながら見あげる空は青かったが、昨日までよりもやや雲がめだつ。
 かすかな湿り気を風に感じて、ボーヴィル師は窓を閉めようと席を立った。
 フィアナがいなくなったことで、神殿生活の楽しみはいささか減少していた。噂話と賭けの格好のネタが消えたことも残念だったが、あの声がないと朝のお勤めがひどく味気ないのだ。いつもフィアナを叱りつけていた祭儀神官ですら、とまどい気味に見えるのは気のせいではない。
 よくもわるくも、フィアナはエリディルの日常の一部だった。
 失敗に落ち込む姿も、いつのまにか立ち直って鼻歌を歌っている姿も、腹を空かせて厨房まわりをうろついている姿も、ところかまわず昼寝している姿も、もう見られないのだと思うとすこし寂しい。
 シェルダイン女官長はきのうからぼんやりとして沈んでいた。十数年前に一人娘を失っているモード・シェルダインはひどく抱えこむたちだった。しばらくは気をつけてやった方がいいだろう。
 こういうときこそわれらが守護の出番なのにと思いつつ、こころの休まる特性煎じ薬の調合を考えていると、白い花びらが目の前をよぎってゆくのに気づいた。
 覚えのある旋律がかすめたような気がして、思わず耳を澄ましてみる。
 あのとき。
 鳴りやまぬ鐘のもとで、突然主役を失った祀りはいつものように大混乱に陥りかけていた。普段ならそのまま大乱闘になっていただろう。ところが何故かきのうはそうならず、そのかわりにいつのまにか皆で歌をうたいはじめていた。だれが最初だったのかはわからないが、それにしても、あの瞬間のあの場所でうたわれる歌としては、あの歌以上にふさわしいものはなかっただろう。
 うたわれたのは、トーナメントで勝ち抜いてその年の〈守護騎士〉となった人物のための祝歌で、いにしえの言葉のふしぎなひびきを歌詞にもち、すこし哀しげだがのびやかな旋律をそなえた、エリディルの人々に長く愛唱されてきた歌だった。
 歌声はみるまにいちめんにひろがってゆき、村人たちとともに守備隊の荒くれたちも、ふだんは真面目ぶった神官たちもいちようにその輪のなかに加わっていた。加わざるをえなかったのだ。そして最終的には城壁内にいたすべてのものたちが大声をはりあげていたのだろう。ふだんはけして歌などうたいたくないボーヴィル師までもが、旋律らしきものを口ずさんでいたのだから怖ろしい。
 参ったと思いながら、それでもひとしきりつづいた大合唱が終わったときには不思議なほど晴れがましい心地になっていて、ボーヴィル師もまわりとおなじようについ大空を見あげてしまった。
 高く澄みわたった青い青い空だった。
 そのときには、あれだけやかましかった鐘もまた、満足げに沈黙していたように思う。
 あれは、なんだったのだろうなとボーヴィル師はいまも疑問におもっているのだが、たぶん、答えは永遠にわからないのだろう。
 ただ、あの瞬間のことを思いかえすと、白い翼の幻影が蒼穹をよぎってゆく姿が目に浮かぶ。
 そして、どうしてだろう。ほんのりとあたたかな、希望のようなものが胸をみたしてゆくのだ。
 ぼさぼさの髪を風に弄ばれながら、ボーヴィル師は窓を閉じる前にふたたび空を見あげた。
 雲は東へと流れてゆく。


 フィアナは夢を見ていた。
 風をとらえて空をゆく、そんな感覚は夢なのだともう彼女にもわかっている。
 飛翔の夢は不安と喜びとをすこしずつ含んでいる。つめたい気流に身をゆだね、オパールの輝きをはなつ雲海の上を飛びつづけると、下界を睥睨する丘に銀の樹とひとつの人影があらわれた。
 丈高くすらりとした身に蒼いマントを風になびかせ、陽光に銀の武具と癖のない髪を煌めかせる。冬のように孤独な戦士の面に、彼女をみとめてかすかな、ひどく優しい笑みがともる。
 フィアナはそのとき理解した。自分の胸にこみあげる熱くせつない感情の源は〈心臓〉に刻みこまれた傷口なのだということを。
 地上を流れる時とはかかわりなく、たわわに花をつける神樹の陰で、銀の戦士は膝を折り、主君に対する礼をとる。
 記憶よりもはるかに深い愁いをやどした面差しに、慰めの言葉などうかばない。謝罪の気持ちをつたえることもできない。
 すべての生きとし生けるものから遠く離れたこの場所で、〈自分〉が去った後にながれた歳月のなんという長さだろう。
 ただ凝視めるだけ。それ以外のなにをすることもできなくて思わず泣きたくなる。
 それでもこの姿を眼にすることができたことが嬉しくて、しずかに瞳を伏せた顔にフィアナはそっと手をのばそうとする。
 気配をさっした相手が顔をあげると、陽光を反射して輝く、澄んだ瞳が自分を見かえしてくる。
 ああ、この眼だとフィアナは思う。
 自分はこのまなざしを覚えている。真正面からまっすぐに、心の中心を射抜くかのようにむかってくる真摯な瞳を、この全身の熱くなるような感覚を、たしかに覚えている。
 聖堂の壁画にいだいた懐かしさや慕わしさは、このまなざしの記憶がもたらしたものだと、いまならわかる。
 ふしぎなのは、このまなざしをごく最近にも見たと思うこと。とてもよく似た眼をしっていると思うことだ。
 白い花びらはくるくると舞い落ちてゆく。
 風がふたりのあいだをはばかるようにとおりすぎ、夢の終わりが近いことをしらせてきた。
 陽光があたりをつつみ、世界が輝きを増してゆく。
 ああ、待って。私はまだ、なにもつたえていない。
 あまりのまぶしさにまわりが見えなくなったとき、すぐそばで自分を呼ぶ声がした。
 夢の世界から流されまいとして必死に腕をのばすと、逆光の中でだれかが手をとった。
 やさしくつかむ感覚に思わずその手を握りかえし、懸命に眼を凝らしてみる。
 するとまばゆい光にふちどられた暗い輪郭の中で、ざんばら髪の奥からのぞく眼をみつけた。
 おなじ角度でおなじようにみつめる視線に、一瞬、どこにいるのかわからなくなる。
 これは夢のつづきだろうか。それとも、夢と現実はつながっているのだろうか。
 いや、それよりも、この闇色のまなざしの持ち主はいったいだれだっただろう。
 混乱は、長くはつづかなかった。
 すこしかすれた、低い声が言ったからだ。
「六の巫女。そろそろ起きてくれないか。出発だ」
 とたんにあらゆる想いが一気に収束した。
 これはルークだ。
 巫女の守護騎士となった黒髪の若者は、つかんだ手をひいて無造作に彼女を起こしてくれた。


 まるで眠気がまとわりついて離れないとでもいうように、フィアナは一日に何度もあくびをかみ殺していた。
 儀式の疲れが尾をひいているのか、なし崩し的に始めてしまった旅に身体が適応できずにいるのか、とにかく四六時中眠いのだ。
 カーティス卿は急ぐ旅にもかかわらず馬足を一定に保ち、定期的に休息をとってくれたが、そんな気遣いにもかかわらず、戦いは一方的に睡魔に軍配が上がっていた。
 ただ眠いだけならいいのだが、問題はほんとうに眠ってしまうことだった。
 眠ってしまったフィアナはさんざん揺り起こされてようやく目をさます。しかし、馬の上に押しあげられて鞍に腰を落ち着け、聖騎士のゆるがない腕に支えられると、とたんに安心して船を漕ぎ出してしまう。
 駆けつづける馬の上で、これはかなり危険な行為だった。支えているのがカーティス卿でなければ落馬をする可能性もあっただろうが、幸か不幸か、聖騎士は実にたくみにフィアナを支えつづけてくれた。
 しかし、そのためにフィアナはよけいに夢の衣にくるみこまれることになってしまったらしい。時が立ち止まることなく駆けつづけている事実にすら気づかないこともしばしばあるほどだ。
 ときおりなにかの拍子に意識が戻り、あたりの光景にびっくりする。そんなときには自分の置かれた状況を思い出して懸命に目を見ひらこうとするのだが、しばらくするといつのまにかまぶたは閉じていた。神殿から持ってきた籠の中身がすべてなくなったときには、すっかり目が覚めたような気分だったのだが、それも長くはつづかなかったようだ。
 そして、いまも道ばたで食事をとりながら休息した後の記憶がとぎれている。どうやら鞍袋に寄りかかるようにして寝入っていたらしい。
 ところでルークの起こし方は無造作そのもので、これだけがくがくと揺すられれば意識は嫌でも覚醒にむかいだすし、じつは無感動な呼び声だってきちんと聞こえていた。
 起きようと思ってはいるのだ。だが、からだの反応はいたって鈍かった。べつに無礼な若者に嫌がらせをしようというわけではなく、まぶたがどうしてももちあげられないのだ。陽射しが暖かいのも、風の運ぶさわやかな草の香りも、いっこうに気付けの役には立ってくれなかった。
「六の巫女、起きてくれ」
 そういってまた肩を揺すろうとするルークは、フィアナを護ろうと威嚇するので離れた場所につながれた黒馬と、はげしく視線で牽制し合っていた。
「ルーク、いいからもう少し寝かせてやれ。まだ無理をさせることはないさ」
 離れたところからカーティス卿ののんびりとした声が言った。
 肩書きだけは大層になったはずのルークだが、聖騎士はいまだにかれを従者扱いしていた。きちんとした叙任式をしていないからとか何とかいっていたような気がするが、なにしろ眠くてまわりのことがよく認識できないので、フィアナにとってルークの身分が実際にどうなっているのかということはどうでもよいことのひとつだった。それよりも問題はこの眠気である。
「きっと儀式でいろいろと疲れていたんだろう。それで馴れない馬に乗りつづけているのだから、文句も言わずによくやっている。こういうときはこちらが気を遣ってやらねばならないのだぞ、〈守護騎士〉どの」
「そうなのか」
 いぶかしげな問いに、聖騎士の声は得意気な響きをおびる。
「そうなのだよ。騎士とはそういうふうに考えふるまうものだ。年長者の忠告を聞いておけ」
「わかった、善処する」
 ルークはすこしフィアナから距離を置いた。それで黒馬も気をゆるめたらしい。ごそごそと物音がはじまったのは、聖騎士の命令に従ってルークが広げた荷物を詰め直しはじめたからだろう。
「そうだな、おまえはまだ肩書きだけの騎士だ。これから学ぶことはたくさんある。とにかく、よく認められたものだよ。だが、トーナメントはすばらしい出来だった。褒めてやるぞ。あれだけ短時間で長剣を使いこなせるとは正直私も考えていなかった。このままつづければもしかすると名人級になれるかもしれないな。それはそれで、ちょっと癪だが。ところで、あのあといったいなにがあったのだ?」
「どのあとだ」
「だから、私がわざわざフェルグス卿を挑発しておまえの進路を確保してやった、そのあとのことだよ。すぐに戻ってくると思ったのに、ずいぶん時間がかかったな。心配したぞ。なにか問題でもあったのか」
「問題はない」
「その言い方は、あったということだな」
 興味津々の元あるじを、元従者は淡々と牽制する。
「俺は資格を認められた。刻限にも間に合った。ほかに話すことはない」
 だがカーティスは、否定の言葉をあっさりと無視して勝手に納得をする。
「そうか。あまりにいろいろなことがありすぎて、話す方法がわからなくなったのだな」
「そうではない」
「では、ひとつひとつ質問をしてやるから、それに答えろ。まず、どこで服を汚してきたのかだ、いってみろ」
 同時にするどくゆびを突きつけられて、ルークはしぶしぶと答えた。
「……地下通路だ。長年使われていなかったようだが」
 エリディルの城壁の中に主要な建物をつなぐ地下の抜け道があったのだと、ルークは言った。というより、とつとつとしたルークの言葉を繋げるとそういうことになったのだ。本堂の入り口は直接その地下には通じていないが、兵舎を経由して聖堂の地下の室――至高聖所にたどりつけるらしい。
 そんなものがあったのかとカーティス卿は言ったが、驚いたのはフィアナもおなじだった。それでかれはあんな埃まみれの汚れた姿になっていたのか。
「だが、どうしてまたそんなところを通る必要があった?」
「六の巫女がその先にいたからだ」
「……フィアナはおまえほど汚れていなかったようだが」
「べつの道を通ったのだろう。帰りは手入れのされた風通しのよい道だった」
 まさにそのとおりに違いなく、フィアナはルークが最初の道を馬鹿正直に引き返さなかったことに感謝した。
 カーティス卿はうーむと感心して唸った。
「やはりいろいろとあったじゃないか。このぶんだとつつけばまだまだ出てくるな。だが、そろそろ時間だからとりあえずひとつだけにしておこうか。〈最後の試練〉はどうやって切り抜けた」
 フィアナは急に跳ね出した自分の心臓を意識の外に押しやりながら、つぎの言葉に耳をそばだてた。
「どうした。〈最後の試練〉を知らないのか。いや、そんなわけはないだろう。聖域のあるじが認めたからこそ、おまえはここにこうしているはずだ」
 得々と指摘する聖騎士に、ルークはなにかを気づいたようだ。かすかに不満そうに問い返す。
「カーティス、あんたは知っていたのか」
「なにを」
「〈最後の試練〉とやらの、内容をだ」
 カーティスは重々しくうなずいた。
「むろん、知っているとも。私の一族はフェイエルガード、つまり大昔の〈巫女の守護騎士〉から発した家柄だからな。〈試練〉の内容は代々ことこまかにつたえられてるんだ。それがどうかしたか。ああ、教えておいて欲しかったのか。すまん、思いつかなかった。怒っているのか」
「……いや、もういい」
「ならば答えろよ。どうやってフィアナの宝玉の場所をつきとめたんだ? じつは、そのことだけは事前に教えておこうと思っていたのだが」
 忘れたんだ、とカーティス卿は笑い、罪悪感などひとかけらもふくまれていない声で詫びた。
「悪かったよ。ずっとそれが気がかりでな、閣下との手合わせにも集中できなかったんだ。で、どうしたんだ。困っただろう」
「……確かに。すこし苦労はした」
 ルークはしぶしぶ認めた。
「すこしか。いったいどうやってわかったんだ。まさか、見たわけではなかろう」
「もちろんだ。だが、あれは何故あんなところにあるのだ」
「いや、それは話すと長くなるが……私はどうしてそれがわかったかを訊ねているのだぞ。もしかして触ったのか」
「理由を知っているのか」
「それはディアネイアの内輪では語りぐさだからな。それにしても、おまえにそんな芸当ができるとは思わなかったぞ。感触はどうだったんだ。いいから恥ずかしがらずに言ってみろ……お?」
 そこでカーティスはみだれた金髪の下からうらめしげに自分を見あげているフィアナに気づき、とってつけたような笑顔を返した。
「やあ目覚めたか、巫女どの。ではそろそろ行くかな。支度を急げ、ルーク。私は馬たちを見てくる」
 悠然と遠ざかる宵闇色のマントを見送ると、フィアナはそろそろと身を起こして視線を戻した。
「ルーク、あなた宝玉がここにある理由を知りたいの?」
 つけつけとした口調にフィアナの不機嫌を感じとり、ルークはすこしのあいだまなざしを泳がせ、そのあとで思いついたように言いだした。
「そうだ、六の巫女。渡しておくものがあった」
 汚れた上衣と甲冑はとうに着替え、ルークはいつもの地味な従者の格好に戻っていた。そのふところからなにかを取り出す。
 差し出されたのは、母の形見の収められたちいさな宝石箱だった。
 お守りとしてふところにしのばせて、儀式に臨んだものの途中で行方がわからなくなり、てっきりどこかに忘れてきてしまったと思いこんでいたものだ。
 フィアナはぼんやりと箱を見おろした。
「これ、どこにあったの」
「聖堂の祭壇横の床にだ」
 そういわれればどこで無くしたのかは自ずと明らかだ。
「踊ってたときに落としたんだ……」
 言いながらまぬけな気分になった。この若者とのあいだに、おなじような状況を一度経験していることに気づいたからだ。
 ルークはそのことには気づかないのか、あるいは気づいても何とも思わないのか、あくまで冷静にそのようだと同意した。
「だがじつは、おかげで助かったことがある」
「え?」
「六の巫女の居場所を探し当てられたのは、その箱のおかげだ。案内は入り口までだったからな。ほんとうに俺を巫女に導いてくれたのは、その箱と巫女に預けた俺の名前だった」
 フィアナは顔があげられなくなっていた。あのときの出来事がとつぜん脳裏によみがえってきて、おもわず身体がふるえそうになったのだ。
 ルークの言葉はあいまいだったが、それでも言わんとすることはなんとなくわかるような気がした。もしかすると、かれもあのときなにかを体験したのだろうか。神の眠る神殿の地下の闇の中で、埃まみれになりながら、眼には見えない世界に触れていたのだろうか。
 そうなのかもしれない、とフィアナは思った。そうでなければどうしてあのとき、あの場所にたどりつくことができたろう。
「あ、ありがと」
 つぶやくように感謝の意をつたえると、ルークは淡々とそれを受け入れた。
「いや。しかしこれからは気をつけてくれ。ひきかえして探す余裕はもうない」
「箱のことだけじゃなくて。あの……」
 フィアナが口ごもったまま固まってどうしようかと逡巡していると、ルークがふたたび口をひらいた。
「六の巫女」
 呼ばれたフィアナは、いつもにまして真面目なまなざしに出会って動揺する。
「え、なに?」
 思わず物言いがきつくなって、自分が嫌になる。だが、ルークはやはりそんなことはかまわないようだ。
「すまない。もう少し聞いてくれ」
 すこしもすまないようすではないが、いったいなにを言い出すのかと待ち受けていると、妙におごそかな短い沈黙のあとで、ルークは話し始めた。
「じつは俺は巫女の守護騎士というものになったらしいのだが、」
「う、うん」
「俺には騎士というものがよくわからない」
「ああ……うん、そうみたいね」
「だが、俺は巫女に名前を預けた。そのことについてはすべて理解しているつもりだ」
「……」
「〈試練〉の前に巫女は言った、望みを叶えよと。あのときの言葉の意味は推測できた。だから俺は〈試練〉を果たすことにした。しかしそれはもう終わった。これからはどうすればいいのだ」
 聞いているうちに嫌な予感がしていたのだが、闇色の眼につよく問いかけられた瞬間、フィアナは本気で頭が痛くなってきた。いきなりそんなことをいわれても、困る。だが、ルークにしてみるといきなりではないのかもしれなかった。そういえば、〈大地の娘〉にも似たようなことを言われた記憶がある。
 ――そなたが放棄すれば、あのものは〈心臓〉の道具にされる。
 それもこれも、すべては自分がかれの名前を呼んでしまったことから始まっていた。
(カーティス卿……!)
 フィアナは自分をそそのかしたカーティス・レングラードを呪った。
「……いいじゃない。私の命令なんかなくても。守護騎士なんていつでも解放してあげる。あなたはカーティス卿の言うことを聞けばいい」
「守護騎士の任を解かれても、俺のあるじは六の巫女だ。カーティスではない。いままで従っていたのは、巫女が命令を出せる状態ではなかったからだ」
 フィアナはため息をついて、言ってみた。
「カイリオンのヴェルドルーク。あなたの名前をここで返しても意味はないということ?」
 すると、無表情にみえたルークのまなざしに、とまどうような心細げなようなゆらいだ色がうかび、それ以上そっけない言葉は口にできなくなった。
 どうしてこんなふうに人を見るのだろうか。フィアナがどんな人間だか知りもしないのに。こんなふうに心の中心を射抜くように凝視されては――身動きがとれないではないか。
「……わかった。とりあえず、あなたのあるじであることを放棄したりはしない。でも、私だって騎士がどんなものなのかなんてわからないんだから、あんまり期待しないでよね」
「了解した。俺は六の巫女の命令を遂行するだけだ」
 生真面目な顔のまま、それでも安堵したらしくやや緊張を解いたようなルークに、フィアナは心の中で突っ込んだ。
(だから、その命令をどう出せばいいのかわからないと言ってるんだってば)
「それで、叶えたい望みとはなんなのだ。具体的に言ってくれ」
 フィアナは目を伏せて、声を落とした。
「それは……まだはっきりとはわからない。だって私はそれを見つけたいと思って神殿から出てきたんだもの。あの石の建物の中には私の手にしたいと思うものはなにもなかった。ひとつだけ、あることはあったけど、それは絶対に手がとどかないものだとわかってたから……だから、私の望みは、その望みをみつけることなの」
 たいせつなものを、ひとつ見つけなさい。
 そう言って送り出してくれた女官長のこころを、自分はこのさき裏切らずに生きていけるだろうか。
 少し泣きたくなった気分など察することもなく、ルークが訊ねる。
「よくわからないが、その命令は具体性に欠ける。俺のすべき事はなんだ」
「あー、いいのよ、これは私のするべき事なんだから。あなたはあなたで自分の望みを見つけなさい」
 ところがルークは引き下がらない。
「しかし俺は巫女の望みを叶えると誓ったのだ」
 きっぱりと宣言されて、たしかにそうだった、と思い出したフィアナは落胆すると同時に頬が熱くなった。暗がりで、ルークが宣誓をしたときの記憶が急によみがえってきたからだ。
「だ、だったらあなたは私の手助けをしてちょうだい。とりあえず、安全に旅ができるようにしてくれればそれでいいから」
「騎士としてのつとめは、どうすればいい」
「そ、それは私にはわかんないわよ。とにかく、当分のあいだ、あなたの指揮はカーティス卿に預けるわ。カーティス卿について騎士の修行をしてもらうの。どうせこの旅はカーティス卿がとりしきってるんだから、ちょうどいいでしょ」
 苦しまぎれの提案だったがルークはそうだなと了解する。ひとまず納得したようすに、フィアナはほっとひといきついた。
 どうやら自分はこの若者としばらくつきあっていかねばならないらしい。
(そのあいだに私も命令の出し方を覚えたほうがいいのかも)
 まるで道ばたで大きな犬を拾ってしまったみたいだとぼんやりと思う。馬といい、これといい、自分はいったい前世でなにをしてきたというのだろう。
(ありがとう、はまたあとでもいいわよね)
 無駄のないうごきで荷物をまとめてゆくルークの姿をながめながら、フィアナは思い出していた。
 あのとき、〈心臓〉に身体を奪われそうになったとき、暗闇の中からあらわれたルークの姿にフィアナは救われた。いまとなってはすべてが夢のように思えるけれど、かれがあらわれなければ、自分はきっとここにこうしていなかった。
 そのことをどうやって告げたらよいのかはわからないし、告げたいのかどうかもわからない。けれど、あれは特別な瞬間だったのだという感触だけはいまもつよく残っている。
 闇色のまなざしにおぼえた、不思議な感動とともに。
 まるで前にもどこかで出会ったことがあるような、懐かしい想いにこころがふるえた。
 そんなことを話したら、この生真面目な若者はどんな顔をするのだろう。
 あのとき、あそこに来てくれたことをとても感謝している。
 聖騎士の残していった荷を肩に担ぎあげるルークの隣で、フィアナはたったいま目覚めたような心地であたりを見わたしていた。
 青空にひろがる白い雲。ふりそそぐ陽光の下には風が吹き、みずみずしい草がかるい音を立てている。見慣れた山並みは遠ざかり、ひらけていくのはまだ見たことのないあらたな景色。
 五感のすべてで世界を感じながら、ここでかれといられることがこんなにも嬉しい。
 未来を眼にしたような新鮮な喜びが心の奥からわきあがって、思わず声が出た。
 ひさしぶりに腹の底から放った声は意外なくらいおおきく響いて、一瞬、あたりがしんと静まりかえってしまった。
 驚いてふりかえるルークの疑問だらけの顔がおかしくて、フィアナはなんだか笑いたくなってくる。
「ううん、少し思い出しただけ。そういえばあのときのあなたの顔ったら」
 ほんとうに真っ黒だったわね。
 そう口にしたらまた、日なたに出てはじめてルークの顔を見たときの衝撃や、そのほかにもあの緊急時に起きたとんでもないことや、そのときにあたまを駆けめぐったさまざまなことを思い出して、どんどんおかしくなってきた。
「やだ、笑いがとまんない……」


 頃合いを見はからって戻ってきた聖騎士は、いつになく朗らかなフィアナを見て、いったいなにをしていたのかとルークを問いつめたが、もちろん説明などできるわけもない。
 フィアナを乗せるのは自分だと主張しつづける黒馬を抑えるのに苦労したあとで、ルークはゆるやかに駆け出す鹿毛の上で聖騎士にささえられたちいさな姿に視線を移した。
 躍動する馬の上で、長い金髪がやわらかに風になびく。そのゆれる角度からすると、どうやら巫女はまた居眠りをしているらしい。いつまで眠りつづけるのだろう。そして自分は何回彼女をゆり起こせばいいのだろう。
 しかし、フィアナに驚かされたのはそれだけではなかった。あの食欲はいったいなんなのか。賄い女の姿をした存在が弁当の籠を持たせた理由がわかった気がした。もしくはあれは巫女の食べ物を絶やすなという警告だったのかもしれない。
 いずれにしても、フィアナという少女がルークのとぼしい想像力をはるかに超えた存在であることに間違いはなかった。
 西方は人の営みの尽きるところ。人の世の果てだという。
 神の息吹を含んだ風の吹く伝説の土地は、しだいに背後に遠ざかりつつあった。
 ひとならぬものの気配を感じ、ひとならぬもの世界を垣間見た瞬間は確かにあった。だが、ひとならぬものの存在がすべてのものにあきらかになることは、とうとうなかった。
 あれは不思議の存在、夢と幻の狭間に伝説として息づきつづける。いにしえの遠き幸せの残響なのだと、翼あるものは言った。
 では、そのあわいの輝きの中にルークが見いだした彼女は、何者なのだろう。
 晴れわたった空の下、大地にのびる道に濃い影を落として、かれらは旅をつづける。
 かつて世界を切りひらくためにひとびとがめざした、太陽のいずる方向、東のかたの人間のくに、さまざまな思惑のせめぎあう混沌のすみかへと、戻ってゆこうとしている。
 華奢なからだに神の宝玉をやどした巫女は、まだ無邪気な少女の姿をして、いまはひたすら眠りをむさぼっている。
 静かで平穏にみちた聖域に別れを告げて、彼女はなにを求めるのだろう。
 だが、かれはもうなにを考えることもしたくなかった。
 ――カイリオンのヴェルドルーク。
 澄みわたった透明な大気に、きらきらと輝く光のような声がとおる。
 あの声を聞いたときに、かれの運命はさだまったのだ。
 それがきっと、かつてのあるじの望みでもあったのだと、ルークはぼんやりと感じていた。
 人ひとり通りかかることもない、緑ばかりがゆたかなさびれた街道にひとつの影がよぎった。
 影のぬしは青空を旋回し、ルークの視線にすこし小馬鹿にしたように会釈をよこした。
 同時にひやりと冷たい山の風がどこからか吹いてきて、その風にのってなにかが舞うように落ちてくるのに気づく。
 白いなにかに視界を遮られておもわず馬の足をゆるめると、聖騎士の鹿毛が寄り添うように近づいてきた。
「エリディルの餞別かな」
 深みのある低い声がつぶやくの聞きながら、ルークは名残の花びらがいちめんにひろがり、風にひきつれられるようにして草原を遠ざかるのをただ見送った。
「もう、鐘楼も見えなくなったな。伝説の土地ともお別れだ」
 これからは気をひきしめてゆかねばな。グレンの隊に追いつかれると面倒なことになる。巫女どのももうすこし元気になってくれればよいのだが。
 あれだけ食べていて元気ではないのかと疑問に思うルークに、カーティスはくすりと笑った。
「そういえば、宝玉の話は聞けたのか」
「いや」
 否定の返事にそうか、とうなずいた年長の男の態度には、どこかやっぱりという笑いが見え隠れしていた。
「まあ、いいさ。そのうち私が話してやろう。まだ時間はある」
 そのときはおまえもさっきのつづきに答えろよ。そういって聖騎士は鹿毛をうながした。フィアナの髪がゆれて、走りはじめる鹿毛を、黒馬はうながすまえに追いかけてゆく。
 ――命に代えても、巫女を護る。
 そう誓った旅は、まだはじまったばかりだった。



――『天空の翼』第一章 エリディルの六の巫女 〈了〉――




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