『妖魔の島』完結記念・お遊び企画

魔法使い見習いエスカの日誌


おもな登場人物

エスカ:日誌の執筆者。〈賢者の塔〉で修行する魔法使い見習いの少年。師匠の言いつけで旅をしている。
シア:孤児の少女。島長の館の下働き。
オルジス:島の賢者。
ティスト:島長の館の作男。


たぶん15日目その4

 悪臭老人の小屋から出て、ティストの導くままに雑木林の悪路を進み、たどり着いたところは、どうやらティスト自身の住まいだった。
 途中、疲労のために意識が遠のき、倒れそうになったが、シアとティストが助けてくれて、なんとか歩き通すことができた。

 こんなに体が重たく感じられるのは、やはりあの鎮め石のせいなんだろうか。シアが平気で持っていられるのは、彼女がちからを持たないせいなのだろうか。

 レイディ・メリアナは、あの石をどうやって役立てろというんだろう。まさか、第一王子にじかに持たせてみろ、なんていうんじゃないだろうな。
 いや、そんなことは僕の考えることじゃない。塔に戻れば、経験を積んだお師匠さまたちがなにか知っているはずだ。

 そんなことが頭の中でぐるぐるとまわっていたが、そのうちすべてが混濁して、わけが分からなくなっていった。血のめぐりの悪いヤツのことを、村では「自分と丸太の区別もつかない」といっていたけれど、まさにそんな感じだ。
 下生えに足をとられてそこら辺にあった樹の幹につかまるたびに、そのまま寝てしまいたいという誘惑と戦わなければならなくなる日が来るなんて、思いもしなかった。

 なんとか目が覚めたときには、もうめざす小屋がむこうに見えていた。この島にあってはかなり大きいのではないかと思える建物の裏側で、煙突からは煙が立ちのぼっていた。誰かがいる証拠だ。手前には羊の柵があり、そこにはなぜか犬が繋がれている。

 ティストが僕を半ば抱えあげるようにして小屋まで運んでいった。大の男が荷物のように運ばれるなんて、みっともないことだ。こんな姿を他の誰かに見られたら、恥ずかしくて外を歩けなくなってしまう。
 運ばれている間、なんてらくちんなんだ、と思ったのは忘れることにする。

 ようやく、人目を気にする必要のない場所までやってきて、一安心とおもったら、シアが来ない。
 ふりかえると、彼女はさきほどの繋がれた犬のところで足止めされていた。犬は尻尾をちぎれんばかりにふって、まわりをぐるぐるとまわったかと思うと、前足をあげてシアに飛びかかったりしている。
 この犬は、よほどシアと親しいのだろう。
 しかし、こんなに騒がれては人に気づかれてしまう。実際、建物の中から呼びかける声が聞こえてきた。

 申し訳ないとは思ったが、黙ってもらうために、犬に少し圧力をかけた。利口な犬なら、森の人々の無言の声を聞き取ることができる。たちあがった耳がこちらに向いた。慣れない出来事に驚いた犬は――そう、名前はシルグだ――原因のにおいを求めて鼻面をさまよわせている。
 お願いだから、吠えないでくれ、シルグ。シアのために。
 最初の乱暴な接触を詫びながら、そっと背中をなでるように懇願すると、シルグは承諾の意を伝えてきた。
 おかげでシアはなんとかみつからずに小屋に駆け込むことに成功した。

 ティストの小屋は、手入れの行き届いた風通しのよいところだった。床はすべて土間だが、乾燥させた香りのよい草が敷きつめられ、中央の炉には大きな鍋が掛かっていた。人は誰もいなかった。
 さかんに燃えている炎によってたちのぼる、あたたかい食べ物のにおいが、せつないまでに胃を刺激した。
 ティストが手渡してくれた古いけれど清潔な毛布にくるまって、ぼくたちは鍋の中身を相伴した。椀の中身は、具は少ないけれど濃厚なシチューだ。ずいぶん煮詰めてあったに違いない。
 おちついた穏やかな家屋のなかにいて、危険から遠ざけられると、ささくれだった神経が次第に安らいでゆくのがわかった。
 すると、清潔に保たれた食器や、整理のゆきとどいた炉端のそこここに、あたたかな心遣いとかすかに甘い残り香が感じられた。

 ここには、だれかがいたのだ。おそらく、ティストの帰宅を待っていたのだろう。そして、僕たちがやってくるのを見つけて、静かに姿を消したのだろう。
 奥の部屋に残る歳をとった人物の気配は、かれの父親のものだろうか。寝台は冷えきっていた。僕たちのために、どこかに居を移したのだ。気配が弱ってはおらず、健全に自分の足で移動していったものであることに、少し安心した。
 ティストの行動は、事前に周到な準備をおこなってのものだったらしい。
 ティストはほとんど無言で、必要最小限の言葉しか口にしようとしなかった。きっと普段は、いらぬ好奇心や、大げさな言葉を好まない人物なのだろう。
 老人の小屋での姿は、感極まったあげくの、かれ自身思いがけない感情の発露だったに違いない。

 ひさかたぶりの食事を口にしながら、僕はティストと、つい先ほどまでここにいて、食事の支度をしてくれていたはずの人物に感謝した。

 ひもじさからようやく解放されて、僕たちはそのまま横になって休むことになった。
 腹が満たされるにつれ、これまでの悲観的な考えが遠ざかってゆくのがわかった。
 空腹は悲観のもと。
 またひとつ、あらたな銘が胸に刻まれる。
 これからは、絶対に食べ物がなくなるような状況には陥らないようにしよう。とりあえず、できるかぎりは。

参照>『妖魔の島』 Chapter 4-4

たぶん15日目その5

 日中は泥のように眠っているうちに過ぎていった。
 目が覚めたときには、すでに夕刻を迎えていた。寝る前に食べたものが、身体のすみずみにまでゆきわたり、疲労を癒してくれたのがわかる。それでも、硬い土間で横たわっていたせいで、あちこちに痛みが残っていた。
 僕が目覚めたので、ティストは外のようすを見にひとりで出ていった。示された鍋の中身は、麦がゆだった。あつあつを椀に移して、吹き冷ましながら食べる。意外なほどに美味しかった。

 食事と睡眠のおかげで、自分がずいぶん復活しているのを実感した。石がつまったようだった頭が、かなり鮮明になっている。
 やはり、生き物にとってこのふたつは重要なのだ、としみじみ思う。
 ようやく、目先ではなく未来のことを考えようという気分になったので、これからのことを検討してみることにした。

 メリアナ・グラガードとの面会がかなった今、目的は大陸の〈賢者の塔〉に帰還することになった。
 そのためにまず、当面の目標とするべきは、この島から出ることだろう。
 ただ出るだけではダメだ。ちゃんと大陸へ渡れるように考えて行動しなくては。
 島の厄介なところは、徒歩ではどこにも行けない、ということだ。海へ出るためには、舟を確保しなければならない。
 島には舟があるだろうとは思うけど、それを拝借してもいいものかどうかの判断には迷う。借りるといっても返却しに戻ってこられるあてはないし、そうすれば結果としては盗むのと同じことになる。みたところ、ここの暮らしは豊かではない。舟が一艘なくなれば、それだけ捕れる魚も減るだろうし、いろいろと不便なことにもなるだろう。

 舟といえば、ぼくが乗ってきた河の渡しはどうなっただろう。あの小舟でどこまでいけるかはかなり不安だったが、結局ここまでたどり着いた。これは考慮に入れておこう。

 舟が得られたとしても、海図もなにもない状況なのはかわりない。進む方向を見つけるためには、またいろいろとちからに頼らなければならないだろう。
 ため息が出るが、自分の生死だけでなく、使命が懸かっているのだから、やむを得ない。
 前触れなしに海へ出てしまった前回と違うのは、準備ができることだ。いや、できるかもしれないくらいに留めておくべきか。
 とにかく、少しは腹の足しになりそうなものを持っていこうと思う。今度は連れがいるんだし。あの漂流生活を思い出すと、めまいがしそうだ。

 ところで、その食糧はどこで調達すればいいんだろうか。この小屋のありさまからすると、ティストがそれほど蓄えを持っているようには思えない。かれに好意を抱いている人物にも、これ以上の負担を掛けるわけにはいかない。

 この島に余分な食べ物があるとすれば、それはおそらくこの先の館とやらの中にある。
 しかし、あそこのあるじは島長だから、頼んだからといって大切な食糧を分けてくれるとも思えなかった。だいたい、どうやって頼めばいいのかもわからない。顔を合わせたとたんに、捕らえられるのがおちだろう。
 だけど食べ物は絶対に必要だ……この際、倫理には目をつぶる必要があるかもしれないぞ。

 そんなことをこもごも考えていると、だいぶ時間が経ってしまった。
 ティストはまだ帰ってこないが、そろそろと思ってシアを起こす。
 昨夜、奮闘したせいで、彼女もずいぶん疲れていたようだ。なかなか目覚めず、目をあけてからもしばらくぼんやりとしていた。麦がゆの椀を押しつけると、ぼんやりしたまま食べきった。

 そういえば、このあとシアはどうしたいんだろう。
 もくもくと食べている顔を見ていて、自分がすでにこの子を連れて行くつもりだったことに気がついて、すこしびっくりした。
 困難な旅になることはわかっている。どう考えてもひとりのほうが身軽だし、責任も持てる。年下の女の子を連れて旅をするような、そんな余裕が、自分のどこにあるのかと思う。
 ところが、レイディ・メリアナに頼まれたときには、何の疑問も持たなかったし、いまのいままですっかりそのつもりでいた。
 なんでだろう。
「きみはどうする」
 確かめるために尋ねてみたら、予想外にシアが動揺したので、少し後悔した。
 もっとはやく、伝えておくべきだったんだろうか。
 だけど、いままでこんなことを考える余裕は、ぜんぜんなかったんだし。
 …なんだか泣きそうな顔になっているよな…?

 ティストが戻ってきてくれたので、助かった、と思った。

参照>『妖魔の島』 Chapter 4-6

たぶん15日目その6

 ティストの小屋から、島長と悪臭老人の率いる島びとたちの出陣式を見送った後で、そっと外へ出た。
 今朝方、無理に抑えこんでしまった犬のシルグが、すこし警戒しながらこちらへ寄ってきて、僕をちらりと見た。さっきは不本意ながらも言うことを聞いたけど、それは緊急だったからだとでも言いたげだ。
 シアとシルグの別れはしばらくつづいた。
 シアの顔は、しばらく前からはりつめたものになっていた。すこしでもつつくと、はじけて泣きだしてしまいそうだ。そのシアを、ティストがいたわるように導いていく。それぞれに自分の思いを抱えながらも、ふたりがお互いに思いやっていることがよくわかった。
 塔の仲間や、アウワーラのことが懐かしくなった。
 いまごろ、なにをしているのだろう。考えるとやりきれなくなるので、つとめて思考を目の前のことに限定しようとする。
 とにかく、島から脱出しなくては、何事も始まらない。

 心配していた食べ物だが、館の厨房から保存食品をごっそり頂戴した。
 夕闇にまぎれて館の裏を通り抜けようとしていて、女の子にみつかって大声で悲鳴をあげられたときには、これで終わりかと覚悟を決めかけた。
 ところが、後から出てきた島長の奥方とかいう女性が厨房の食品棚を差して、「なんでも持っていっていい」と言ってくれたのだ。
 たぶん、厚意で言ったんじゃないとは、思うけど。
 シアとティストは、大きなずだ袋の中につぎつぎに食品をほうり込んでいった。情けも容赦もない、そのやり方は「少し手加減したほうがいいんじゃないか」と不安になるほどだった。
 だけど、ふくらんでいく袋の中身に、胸がときめいたのは事実だ。
 暗がりで、よく見えなかったけど、パンやチーズのほかに、肉や豆なんかもあったような気がする。
 これで餓え死ぬ可能性が少し減ったかもしれない。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5

たぶん15日目その7

 周囲が暗いというだけで不安になるのは、ひとが昼間活動する生き物である証拠なのだろう。
 食糧の入った大きな袋をかついだティストを先頭に、月明かりに照らされた夜道を舟のある浜をめざして歩いている途中、世界はおぼろに闇に沈み、得体のしれない存在を秘めた、油断のならないもののように感じられた。

 必要以上にびくびくしていることはわかっていた。島は朝とほとんど変わりなかった。ただ、メルカナンの光が見えないというだけで、イリアの薄衣が悪さをしているわけでもない。
 もともと、はじめからこの島はなにかがおかしかったのだ。島びとや〈賢者〉だけが変なわけじゃなかった。

 視点をずらせて感覚にゆだねてみると、この島は、潮のうねりによってできたかのような、なにか大きな渦の中に埋もれている。もしかすると、僕がここに流れ着いたのもこの渦のせいだったのかもしれない。
 渦そのものは、ただの力の流れというだけのものだが、問題なのは、いにしえの力の寄り集まるところ、ほかの種類の力も引き寄せられてくる、ということだ。まるで、吹きだまりのように、それは性質を選ばない。
 そして、いまこの島にあつまりつつある力は、負の性質を強くおびていた。このまま強くなっていくと、闇に転じてしまわないとも限らない、つよい力だ。

 それは島のものたちに微妙に作用しているようだった。純粋なクウェンティスであれば、もっとはっきりとしたことがわかるのかもしれないが、ぼくにはその原因はよくわからない。いや、わかりたくないのかもしれない。いにしえの力の流れは、魔法使いの働きかけることのできるものではない。〈賢者の塔〉では、それは触れてはならないものとされている。言葉によって物事を制御する存在にとって、名づけることのできない原初の混沌は、恐怖以外の何物でもないからだ。

 いままで漠然と感じていたそのことに、はっきりと気づいたいまは、島を吹きわたる風にまで得体のしれないものが含まれているような気分がした。シアが怯えているのも無理はない。不安と怖れとで体中に鳥肌がたって、消える気配もないのだから。

 ようやく砂浜にたどり着くと、黒い舟の影がふたつ、見えた。
 どんな状態になっていても、たぶん、なにかに利用するために保存してあるだろうと見当はつけていたものの、実際に自分の乗ってきた渡し船を確認できて安堵した。この舟なら、勝手に乗っていっても誰も文句はいわないだろう。とりあえず、浮かべるのに支障のありそうな傷も痛みも見あたらないので、これで帰ろうと思う。
 シアがあきれ、ティストまで不安そうな顔をするので、なんだかよけいに意地になって言い張ってしまった。
 となりにあった島の舟だって、そんなに大きさは変わらない。たぶん、どちらの舟を選んでも、危険性という点においてはそれほど違いはないんじゃないかと思う。だったら、あとで良心の呵責に苛まれずにすむほうを選択するのが、のちのちのためにもいいんじゃないとか思うんだけど。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5-15-2

たぶん15日目その8

 舟を沖まで押し出す作業は、予想よりもはるかに重労働だった。
 移動用のコロもなく、足ゆびが潜り込むような砂地を三人で押してゆかなければならないのだ。島のひとたちはいつもどうやってこの舟を使用しているんだろう?  はっきりと戦力となっているのはティストだけだった。ほんとうに、かれには申し訳ないと思う。もともと腕力には自信がなかったが、僕ひとりが押しても舟はほとんど動かなかっただろう。それでも、押さないよりはマシだろうと、懸命に船尾に体重をかけつづける。

 せめてと拍子を合わせるために掛け声をかけていたものの、そのうち息があがって声が出せなくなってしまった。
 舟を選ぶのにふてくさり気味だったシアがあとを引き継いでくれたが、頭数を増やしているだけの存在だったのだから、これくらいはしてくれて当然だと思う。小さい方の舟でこれだけ苦労しているんだから、島の舟を借りたりしなくてよかったのだ。ひとまわり大きいあちらの舟は絶対に三人では動かせない。
 ……だんだん、性格が悪くなってきているようだ。もう、考えるのはやめて、労働に専念することにしよう。

 砂地を脱して波が足首を洗うようになると、舟の移動はずいぶん楽になってきた。
 押し寄せる波に引き戻されてしまうこともあるが、かすかに浮力がついているので砂の抵抗が減ってきたのだ。
 一押しで進む距離が目に見えるようになって、自分でも前進していることが感じられる。
 そのうち、ひいてゆく波に舳先がぐいともちあがり、舟が完全に海面に浮かんだ。
 とたんにシアが歓声をあげて船縁にとりついた。
 抗議の声をあげる間もなく反動で舟が押し戻されて、ティストと僕は船腹の下敷きになりそうになった。
 まったく、なにをやってるんだよ。
 ずぶぬれになりながら体勢を立てなおそうとしていると、シアが奇妙な顔をして後を見つめているのがわかった。
 ふりかえると、暗い浜辺を小走りにやってくる中年の女性の姿があった。

 島長の奥方は、忘れ物だと言ってシアに水の入った袋を手渡した。
 肩で息をして、とても苦しそうだった。きっと一生懸命に走ってきたのだろう。この歳の人間は、もう滅多に全力で走ったりしないものなのに。シアに別れを告げるためにやってきてくれたのだ。
 奥方がシアにかける言葉を聞いていて、彼女にはティストの他にも味方がいたんだとわかって、ちょっと安心した。このひとは、当たりはきつそうだけど、自分の目で見たものを自分の物差しで判断する人なんだろう。
 魔物狩りの理由をすべて賢者に預けている夫を、どう思っているのだろう。尋ねてみたい気もしたが、そんな余裕はなかった。
 追っ手が近づいてきたのだ。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5-2

たぶん15日目その9

 追っ手が近づいてくるのを防ぐために、ティストは浜へ引き返していった。島びとがティストに群がり、とらえてひきずり倒そうとするのを、舟の上でぼうぜんとして見ていた。
 どうしてあんなことができるの、とシアは言った。
 危険の中に飛び込んでいったティストを、無謀だと思い、そんなことをする必要はないと叫びたかったけれど、去りがてに残していったかすかな微笑みに気圧されて、何も言えなくなってしまった。

 助けなくては。ティストを犠牲にしてこの場を逃れたいとはシアも思っていないだろう。
 少女は大きな目をみひらいて、はらはらと浜辺の攻防をみつめていた。苛立たしげに手で膝を打つと、顔をしかめ、膝を傷つけた指環をぬきとろうとする。
 そのとき、どうしてそれまで気づかなかったのか、と思った――いまではどうしてこのとき気づいてしまったのかと後悔しているが――ここに、精霊の指環があるじゃないか。レイディ・メリアナの操ったという精霊を拘束し支配する、名を刻んだ指環が。
 精錬された金属の指環には、やはりそうだ、クウェンティスの古文字で名らしきものが記されていた。

 かつては名をもち、ひとにその名を呼ばれしもの。
 いまは名を失い、失われた時を呼び名とするもの。

 精霊の名としては幾分変わっている。いにしえの力につらなる精霊は、その属するものにちなんだ名を持っていることが多いと教わった。
 しかし、ここに刻まれている言葉は、まるで過去にあったできごとを呼び返すためのまじないのようだ――。
 かすかに躊躇したものの、事態は切迫していた。
 このままぼんやりとうすれかけている文字を眺めていてもどうにもならない。
 集中力を保つためにシアに静かにするように頼んだあとで、頭の中でルーデンス師の講義を必死になってさらった。
 召喚の呼び声を発する前にすべきこと。
 ひとつ、心を平静に保つこと。凪いだ湖面のように穏やかな、湖底が見通せるほどに澄んだ心で、それを行うこと。
 ひとつ、自分のまわりのあらゆる事象を把握すること。ちいさな粒子を細微に渡って感じ取ること。大きな波に呑み込まれることなく同化し、なおかつ自分を保つこと。確固としたおのれを持たないものに、他者に呼びかけることはできない。

 箇条書きのすべてを思い出す前に、指環を持った手は空へと伸び、くちはまるで準備していたかのように刻まれた文字を声に還元した。
 音となった名前が、同質の存在である精霊そのものの存在をうかびあがらせる。

 名は正確な発音で純粋にその意味のみを響かせること。まじりけのない響きが、他者の本質をついたときのみ、呼びかけは成立する。

 名を呼んだ。声は、自分でも驚くほどに正しく名を空間に響かせた。
 光のように、それは輝きをおびて、その響きを自身の証明とする存在をひきよせた。
 おおきく、つよく、猛々しく、美しい――
 間近にせまってくるそれを感じて、背筋がふるえた。
 自分の呼びかけに応じてあらわれた、そのこと自体が奇跡に思えるほどに、つよい輝きを放つ精霊が、やわらかな風をまといながら宙にうかんでいた。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5-3

たぶん15日目その10

 指環をもちいる召喚術は、いちおう、成功したようだ。
 目の前には、あの奇妙な言葉を名とする精霊があらわれたし、なんとか言うことを聞かせることもできた。ほんとうに、なんとか、という状況だったが。

 争いを鎮めろと命じると、精霊はティストをとりかこんでいた島びとを追い払っただけではなく、かれらによりついていた悪夢をゆびのひと触れで祓ってしまった。あたりに渦巻いていた黒い流れが、精霊が飛びまわるとあっというまに霧消していく。それはあまりにもあっけない、拍子抜けのするような一幕だった。島びとを散々追いかけまわしたあげく、失神寸前まで怖がらせる必要がどこにあったのかと思うほどだ。
 もしかして、あれは僕に対する意趣返しだったのだろうか。自分の力を見せつけて、自信を喪失させようと計っていたのだろうか。

 あいにくだが、そのときの僕はほとんど自棄だった。
 いちおう、成功した術を最後まで持たせるだけで精一杯だった。なんにも考えていなかったし、怯えるほどの繊細な感情も残っていなかった。たぶん、疲れすぎて感覚がすべて麻痺してしまっていたんだろうと思う。
 浜にいる島びとがみんな意識を失って、シアと一緒にティストのもとに戻ったときに、精霊がまだそこにいることに気づいて、まだ術は解けていないのか、と少し驚いたほどだ。
 途中から、精霊を縛っているはずの名前の戒めを意識することも忘れていたらしい。
 それとも、精霊があまりにも従順なため、引き綱をしぼる必要がなかったせいだったのだろうか。
 ほんとうのことをいうと、このとき、精霊がまるで自分の意志でこちらのいうことに従っているような、おかしな気分に陥っていた。
 精霊について、少しでも知っているものならば、こんなことは考えもしないだろう。
 冷静になって考えると、ものすごく馬鹿馬鹿しくて、自分でも半分眠っていて夢を見ていたんじゃないかと疑わしくなる。
 精霊がひとのために何かをしたがるなんて、そんなことがあるわけがない。
 塔の師匠たちなら、そのことをほのめかしただけで、講義で何を聴いていたのかと叱るだろうし、アウワーラには思いっきり、馬鹿にされるのがオチだろう。
 精霊は、竜のつぎに古い、太古のちからの化身だ。名を持ったせいで呼ぶことのできる存在になったが、基本的には混沌としたいにしえの力に連なるものたちなのだ。人間とは根本的に異なった存在。名をもった力には感情などない。それはクウェンティスなどよりも、はるかに異質で、理解不能な存在のはずだった。
 いったい、なにを考えていたんだろう。
 そう思いながらも、あのときの感触が身から離れない。
 やっぱり夢だったのだろうか。夢にしては、現実感が残りすぎるような気がするが。
 いや、やっぱり夢だ。夢だと思うことにする。

 ひとり意識を戻されたティストは、とつとつと押し出すようにして過去を語ってくれた。
 それはシアの母親であるメリアナが島にやってきたときからはじまる、長い物語だった。
 耳を傾けながら、僕はぼんやりと思っていた。
 島はちゃんと現実にあって、人々が日々を暮らしているというのに、ここはまるで異界のとば口のようだと。
 名を持たず、あいまいで暗暗として方向性も指向性も持たない、それでいてときにひとびとを駆りたててむこうみずな行為に走らせる、このちからは、いったいどこから来るのだろう。
 すべてを名づけ、その名のもとに制御しようとする、クウェンティスのやり方――魔法使いも踏襲する方法で、その理由を知ることはできるのだろうか。
 メリアナ・グラガードは、ここでなにを見、なにを感じ、なにを思って逝ったのだろう。
 いまになって、白の賢者の娘にもう二度と会えないことを思い知り、とてつもない喪失のように感じてしまうのは、どうしてなのだろう。
 彼女の残した指環が拘束する精霊に、違和感を感じる理由を知りたいと思うからなのだろうか。
 感じる疑問さえ混沌としていて、きちんとした言葉にできているかどうか、心許がない。
 それでも。
 「疑問を持つのはいいことだ」といったアウワーラの姿を思い出した。
 「焦って答を求めてはいけない」
 これは、ケリドルーズ師の言葉だったろうか。
 そうだ。疑問はしまっておいても腐らない。
 いまは目の前のことに集中する必要があるが、そのうちゆっくりと取り出して眺める時間もあるだろう。
 知らないこと、すなわち無力であることを思い知らされるのは、悪いことではない。
 生きている限り、学びつづける。それが〈叡知を求める者〉の本質であるはずなのだから。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5-4

たぶん15日目その11

 ティストの悔恨に満ちたうち明け話のあとで、僕たちは船出した。
 一緒に行こうと誘ってはみたが、ティストは島に残ることを選択した。たぶん、そうなるだろうと思っていた。ティストには、帰りを待っている人がいる。

 シアは頑固にティストと話すことを拒みつづけたが、胸の中で迷っているのは容易に見てとれた。
 意地を張りつづけていいときと、わるいときがあると、言ったほうがいいのだろうか。
 背中に向かってすこしだけ諭してみたけれど、自分でもぜんぜん説得力がないような気がした。言えば言うほど、過去の苦い思い出がよみがえってきてしまう。

 ひどい言葉を投げつけてしまったアウワーラが、泣き笑いのような顔をして見つめてきたとき、優しく抱きしめてくれたとき、ほんとうは嬉しかったのに、ふりほどいて逃げだしてしまった。
 あのとき、きちんとごめんと言えていたら、気まずく別れなくてもすんだかもしれないのに。
 あれで物心ついたときから苦手だった姉が、さらに苦手になってしまった。
 あれからずいぶん経ったけれど、いまだにあの瞬間は心の中で凝っている。あのときの空の色、大気の薫り、風の感触までがよみがえってくる。そして、かならず、口のなかが気持ち悪くなる。
 二度とおなじことはするまいと思いはするが、その決心がちゃんと果たされているかどうかについては、あんまり自信がなかった。

 しばらく小舟の中で遠ざかる人影を見つめていたシアは、意を決したかのように息を吸い込み、闇にむかって、あらん限りの声でティストにさよならを叫んだ。
 やっぱり、シアは僕とはちがう人間なんだと思う。
 ここで別れてしまえば、もう二度と会えないのだ、ということを彼女はちゃんと理解していたのだ。
 人への思いを変にねじ曲げることなく、すなおにあらわすことのできる少女が、すこしばかり羨ましい。
 浜からずいぶん離れてしまい、風はこちらに向かって吹いている。声がとどかない確率が高そうだったので、ほんのすこし声を後押ししてみた。
 波の音にまぎれてしまうかもしれないが、彼女のこころが少しでも届くようにと思いながら。

参照>『妖魔の島』 Chapter 5-5

たぶん16日目

 小舟で島を出て、一日目。
 夜が明けると、すでに島影ははるか彼方に遠ざかっていた。
 昨日までの疲れで気がつくとうとうとしてしまうが、名前の縛りによってつながれている精霊のうごきだけは、居眠りしていてもなんとなくわかる。精霊はまだ大人しく舟を運んでいる。指環はシアに返したが、精霊の真の名は意識にしっかりとかたちづくられている。これを忘れないようにしておけば、しばらくはなんとかなるだろう。

 照りつける陽光がきつく、悪臭老人のボロでもいいから頭からかぶるものが欲しくなる。

たぶん17日目

 外海に出ると波が高くなってきた。小舟がゆれるせいだろうか、シアの顔色が悪く見える。
 昨日もきょうも、メルカナンが天上の宮殿に達する前に眠ってしまった。
 ゆれにもめげず、こんこんと眠りつづける姿を見ていると、疲れているんだろうなと思う。ときどき、涙のあとが残っているのが痛々しい。

 精霊は、なにも語らなくなったが、まだそばにいる。いつまであれを拘束しつづけられるだろう。

たぶん18日目

 元気のないシアだが、食欲だけは落ちない。
 がめてきた食糧の入ったずた袋からチーズの欠片などをとりだして、ときおり口に含んでいる。
 とくに食事の時間を決めたわけではなかったが、こういう食べ方はあまり感心しない。かぎりある食糧をできるだけ長くもたせるためにも、食事にはきちんとけじめをつけたほうがいいと思う。

 みすぼらしい袋はまだかなり大きくふくらんでいたものの、調べてみると記憶にはあったはずの食べ物がずいぶんなくなっている。
 中身をぜんぶ出してみて、傷みが早いと思われるものから食べることにしようと決めたのは、最初の日の夕方だったのに、もっとも長持ちしそうだと判断してより分けたはずのいくつかがかなり減っていた。
 犯人がだれなのかは、火を見るよりも明らかだった。
 これからは、袋の減り具合にもう少し気をつけておかなければ。
 水袋の中身もかなり減っていたし、傷みかけてにおいを発しはじめている。
 水の補給も考えなければならないだろう。

 精霊は、まだ舟のそばにいる。

たぶん19日目

 陸地が見えた。
 ジョドル島を出てから、初めて見る岩礁よりも大きい、向こう側を見通すことのできない島。
 たぶん、南アブリディア群島の南のはしから少し離れたところにある、名もない島のひとつだろう。
 おぼろな地図の記憶をたどりながら手探りで進んできた方向が、間違っていなかったことがわかってホッとする。

 感覚をひろげてみると、ずいぶん小さな島だということがわかったが、かつて人が住んでいたらしい形跡が残っていた。それならばと思って調べてみると、崩れかけた泉がみつかった。出口をふさいでいた大量の葉っぱを取り除くと、ちゃんと飲める水が湧いてきた。
 とりあえず、水袋の中身が確保できた。
 今日はここで一日過ごすことにする。ゆれていない広い場所で眠れるのが嬉しい。

 シアを舟のそばに待たせておいて、島のまわりをぐるりとまわって食べられそうな木の実をあつめてきた。戻ってみると、シアが大きな緑の葉のうえに自分の両手よりもすこしばかり大きめの魚をのせて「ほら」と笑っている。
「つかまえちゃった」
 シアの言うことには、岩場で海を眺めていたら、突然大きな波がやってきて、しぶきにびしょぬれになったあとで気がついたら、足下でこの魚が跳ねていた、ということだった。
 こっちは島中にまばらに生えている貧相な木々の間を、わずかばかりの実を求めて歩いてたというのに。なにか理不尽な気がした。

 その夜は、薪に使えそうな枯れ枝を集めて、火を熾し、魚を細い枝で串刺しにして焼いた。身はそんなについていなかったし、二人で分けたのでもっと少なくなってしまったけど、けっこう美味しかった。

 精霊は、終始シアのそばにいるようだ。

たぶん20日目

 小舟でさらに北東をめざす。
 シアは元気になってきたようだが、こちらはだいぶへばってきた。
 三頭ばかりの海獣たちが小舟に寄ってきて珍しそうに伴走していく。波間から顔を出しては、かん高い声でなにごとか話しかけてきているようだ。
 シアが歓声をあげている横でぼんやりしていると、目の前に水袋を差しだされた。生ぬるい水を口に含んで、横になった。

 精霊が、だんだん主導権をとりたがるようになっている。ときどきひっぱられるような感覚がする。

たぶん21日目

 だんだん、まずいことになっているような気がしてきた。
 体をおこしているのが辛い。
 はやく、ゆれないところで横になりたい。
 でも、一度眠ったらしばらく目覚められなくなりそうだ。

 夕方、島影が見えた。たどりつくまでが大変だったが、なんとか風よけになりそうな岩影を探して横になる。

 精霊の存在を忘れかけて、あわてて縛りをたぐる。よかった。まだそばにいる。

たぶん22日目

 出発前に、袋の中身を点検してみる。
 やっぱり。チーズがほとんどなくなっている。乾燥豆は残っているのに。
 問いただしたときの、シアの言葉。「マメはスープにしなくちゃ。もそもそして、飲みこみにくいんだもん」
 水が少ないのは仕方がない。節約しているんだから。
 食べやすいからといってチーズばかりを食べるな。こっちはがまんして乾燥豆を食べてるんだぞ。
 シアはごめんと謝ってみせたが、どれだけ反省しているかは神のみぞ知る。背後で「けち」とつぶやいたのはちゃんと聞こえていたんだからな。

 夢の中に森が出てきた。アウワーラが怒っている。
 精霊が、ほくそ笑んだような気がする。

たぶん23日目

 シアがチーズをつまみ食いするのをやめたようだ。もうチーズはないのかもしれないが。

 思考がだんだんまとまらなくなってきた。意識があるときとないときの区別が自分でつけられない。わかるのは日焼けの痛みと喉の渇きのことだけだ。
 空をゆびさして呼ぶシアの声につられて視線をあげたとき、翼をひろげた金の鳥が見えたような気がするが、あれは夢だったのだろうか。

 精霊の存在が遠くなってきたようだ。ひきもどす気力が湧いてこない。

たぶん24日目・最終日

 精霊は。
 精霊はいまなにをしているんだろう。まだ、そばにいるんだろうか。
 はやく大陸へ連れていってくれないだろうか。
 まずい……嵐が近づいている……。
 シアを…はやく逃がさなければ……。でも、どこに……。

意識がなくなって、とりあえず〈完〉
(この旅は『海人の都』へとつづきます)

参照>『妖魔の島』 Epilogue
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