『妖魔の島』完結記念・お遊び企画

魔法使い見習いエスカの日誌


おもな登場人物

エスカ:日誌の執筆者。〈賢者の塔〉で修行する魔法使い見習いの少年。師匠の言いつけで旅をしている。
シア:孤児の少女。島長の館の下働き。
オルジス:島の賢者。
ティスト:島長の館の作男。


1日目

 きょうは街道沿いで、また<眼>に追いつかれそうになった。
 大急ぎで森の大木の根本に潜って、なんとかやりすごしたが、背中を幹に押しつけていたせいで、昨日村で買ったばかりのパンがおもいきり潰れてしまった。背嚢の中身はぐちゃぐちゃだ。

 詰めなおしながら潰れたパンをつまんでいたら、ずいぶん減ってしまった。気を抜いていると横からさらっていく鳥がいて、非常に腹が立つ。明日食べる分はぜったいに残しておかなくては。

2日目

 残してあったはずのパンが、いつのまにかなくなっていた。しかたないので、水を飲んで我慢する。

3日目

 きょうはとうとう<眼>に追いつかれた。
 <眼>は黒騎士を呼び寄せてきた。あれの姿を見たのは、コルが死んだとき以来だ。
 河にとびこんで黒騎士からは逃れたが、<眼>はしつこくて嫌になる。さんざん突っつかれて傷だらけだ。
 黒々としたくちばしは、魔法でとがらせてあるのだろうか。鳥のものにしては鋭すぎるような気がする。鉤爪もだ。傷を消毒したほうがいいとおもうけど、薬草もないし、もう、くたくた。なにもやる気がしない。
 明日はトリエステに着けると思っていたのに。

 パンがなくなってから、何も食べていない。水を飲んで我慢する。

4日目

 朝になって気がついたら、渡し舟に乗ったまま、河口を通りすぎてしまっていた。
 今いるのは海の上だ。もう、陸地はずいぶん遠くなっていた。きっと、トリエステとは反対の方向に流されてしまったんだろう。
 トリエステには塔出身の魔法使いがいるらしい。ケリドルーズ師から、着いたら訪ねるようにと言われていたのだ。
 だけど、トリエステには行けそうもない。一本だけついていた櫂を必死に漕いでみたけど、ぜんぜん陸地のほうへはもどっていかないのだ。手の皮が擦りむけて腹が減ったほかには、まったく収穫なし。
 さいわい、小袋に入れて頸にかけておいたので、レイディ・メリアナの髪の毛はまだ手元にちゃんとある。さししめす持ち主のいる方向は、あいかわらず海の向こうだ。この舟でたどり着くことのできるところなら、いいんだけど。

 それにしても、荷物をぜんぶ置いてきてしまったのが悔やまれる。奥に干し肉が残っていたことを思い出したのでよけいに悔しい。どうしようもないときのために、残してあったのに。どうしようもないときって、いまじゃないのか?
 これからは、大切なものは全部身につけておいたほうがいいかもしれない。

参照>『妖魔の島』Prologue [page 1] [page 2]

5日目

 漂流二日目。
 天気は快晴。やることがない。どこへ向かっているのかも定かではないのに、こんなことを思うのはどうかと思うが、それでも退屈は退屈だ。おかげでやたらに空腹が意識される。けっきょくはそれか。

 こういうときに『グウェンドラウールによる<賢者の塔>備忘録』があれば、よろこんで目を通すのに。『歳月の書』でもいいや。どっちもカンティース老師のミミズののたくったような文字で記された写本だから、解読するのに時間がかかる。どこまでも些末、微にいり細をうがち、主語も術語もいっしょくたな内容も、暇つぶしには最適だと思う。

 『備忘録』は退屈だから、数十年前に羊皮紙の落剥で存亡の危機に瀕したときにも、書写したがるものがいなかったらしいと、コルが言っていた(つまり、若き日のカンティース師は、貧乏くじを引かされたのだ)。記された出来事をうまく再現すれば、在りし日の塔のようすをつぶさにかいま見ることが出来る「素晴らしく貴重で尊く、優美で格調高いうえにたいへん勉強になる書物」らしいんだけど、いかんせん、複雑すぎるのと煩雑すぎるのとで、とくべつなことでもない限りだれも挑戦しようとは思わないのだ。当然だと思う。一頁読み下すのに、ひと月もかかるのに、全部で千頁以上あるんだから。分厚い上にまるで墓場の石のように重たくて、ひとりでは書見台にのせられないくらいだ。
 そのうえ、あの字。流麗すぎて、どこからどこまで一文字なのかもわからない。いまでは当の老師にも判別できないんじゃないかという噂だ(自棄になりながらペンを走らせていたのにちがいない)。

 カンティース老師の手によったおかげで、読み手すら失いつつあるのをお師匠たちはどう考えていたんだろう。<塔>は貴重な書物を残したくないのだろうか。貴重という意味にもいろいろあるとは思うけど。

 そういえば、スーライア師に罰をくらって、『備忘録』の読み下し文を書かされていたとき、差し入れてもらった軽焼き菓子はおいしかったよなあ…

6日目

 漂流三日目。
 天気、かわらず快晴。雲も高くて雨の気配はない。このあたりの気候は、乾期と雨期が順繰りにやってくるはずだ。そして、いまはまだ、乾期に入る前のはず。なのにどうして雨が降らないんだろう。真水の匂いが恋しい。まわりは水だらけなのに、塩水ばかりで飲めやしない。

 村にいたときに、アウワーラが中から水をひねりだして、ちいさな木にかけているのを見たことがあるような気がする。あれは芽吹いたばかりのキサリスの若葉だった。アウワーラなら、この水を飲めるようにできるかもしれない。いや、やっぱり無理か。
 ルディシニスといっても、出来ないこともある。人間にも出来ることがあるように。

7日目

 漂流四日目にして雨が降った。
 とりあえず、暴風雨の中でできるだけのことはやった。

 大揺れする舟の上で、ひたすら上空をみあげているのは、かなりの重労働だった。
 低くたれこめた黒い雲から雨は滝のように降ってくるが、横殴りの風のせいで期待ほどまっすぐには落ちてきてはくれないのだ。
 しかし、すこしばかりの魔法で集められる水はたかがしれている。どんなに馬鹿らしくても、どんなにはかが行かなくても、出来るだけのことはしなければならない。渇きを癒すために必要な水が、ただ落ちてくるというのだから、使えるすべての物を動員してできうるかぎり受けとめなければならないのだ。かかっているのは、自分の命。他人のじゃない。

 雨は半刻ほどつづいて止んだが、喉まで達した水はほんのわずかだった。なのに、身体はずぶぬれ。日焼けでひりひりしていた肌はずいぶん楽になったが、ズボンはじとじとして、かなり気持ちが悪い。それに、ずっと口をあけて上を見ていたせいで、頸と顎が痛い。
 救いは、この姿を見たものはだれもいないということだ。……見てないよな? いま、ふっとアウワーラのしたり顔が脳裏に浮かんできた。だけど、いくらなんでもこんなところまではやって来ないだろう。来ないはずだ。来ないと思いたい。

 保水の術をかけた上着にすこしばかり雨を溜められたので、あと二口分くらいは水が飲める。ふたくちか…。このズボンもしぼってみたらもう少しいけるかも。

8日目

 漂流五日目。
 渇きは治まらず。やっぱり、二口では少なすぎた。空腹もつづいている。なにも食べてないんだから、あたりまえだけど。
 夢を見始めた。やばいような気がする。

9日目

 漂流六日目…だと思ったけど、日にちの感覚が薄れてきて、自信がなくなってきた。
 喉がかわいて、それしか考えられない。
 からだが、眠りを求めだした。
 このままだと、冬の厳しさに耐えるため、いっとき時間を止める樹木のように、意識は殻に閉じこもり、体は活動を停止してしまうだろう。あらがう力は、どこにも残っていない。

10日目

 黒い地中に深く、ひろく、網のように張りめぐらされた根を通し、生きとし生けるものとつながってゆく緑の森を仰ぎみる。
 木々の掌の隙間から降りかかる、命のかがやき。
 生まれる前のような、生ぬるくてどこまでもゆったりとした、守られているというゆるぎのない安心に抱かれた暗がりに。
 ゆっくりとゆっくりと、規則正しくひびく、かすかな胸の鼓動。
 つながっている。つながっている。
 過去へと。(未来へと。)

11日目

 金の鳥を見た。
 夢か、現実かは、わからない。
 翼は光をおびていた。

 島が見える。
 そこに、彼女がいる。

12日目

 ……。

参照>『妖魔の島』 Chapter 1

13日目

 ……。

たぶん14日目その1

 気がついてみたら、納屋の中だった。
 どうやら、ずいぶん深く寝入ってしまったらしい。あやうく冬眠してしまいそうだった。〈眠って〉しまえば食べ物は節約できるけど、ひとりでいるときには絶対にまずいのだ。自力では覚醒できないのだから。最近、栄養不足気味だから、気をつけなければ。〈眠った〉ままで生き埋めにされたくない。

 ところで、いつのまに、どうやって、ここへやってきたんだろう? 舟はどうなったんだ?
 眠っているうちに自分ひとりで移動できたはずはないから、だれかが運んできてくれたんだろうけど……。

 それにしても、安普請の小屋だ。しかも、かなり年季が入っている。これにくらべたら、村長の犬小屋が館に見えそうだ。こっちのほうがこころもち大きいけど、造りと手のかかり方では、だんぜん犬小屋のほうが勝ってると思う。

 村長は猟犬の繁殖家だからだろう、使用人よりも犬のほうが大切だと言ってはばからなかった。もちろん、実際に使用人を犬以下に扱っていたわけではないけれど、伯爵に献上する猟犬の飼育にはことのほか気をつかっていた。
 アウワーラは、村長の猟犬があまり好きじゃなかったっけ。獲物を狩るのは神聖な行為なのだから、楽しむなどもってのほかと息巻いていた。ルディシニスはあまり肉を口にしないから、あたりまえといえばあたりまえの反応だ。

 ここにも犬の気配がある。そんなに大きくはないけど、おだやかな性質の犬みたいだ。
 犬以外にもだれかが寝泊まりしている。だれだろう。人間の気配だ。寝藁も上掛けも、清潔とは言いがたいほどに使い込まれているが、まだ充分現役の気配がするし、となりにひとがいたようなぬくもりが、ほんのかすかに残っている。
 ここの住人が僕を救ってくれたのだとすると、なにか理由があってのことかもしれない。こんなにみすぼらしい小屋に住んでいる人間に、無条件に人を援助する余裕があるとは思えない。助けてもらったのは確かだから、お礼を言って、水をもらおう。
 とにかく、水だ。
 食べ物は期待しないでおくことにする。

参照>『妖魔の島』 Chapter 2

たぶん14日目その2

 そのことに気がついたとき、顔から血の気がひいていくのがはっきりとわかった。首に下げていた皮袋がなくなっていたのだ。どうしてすぐに気づかなかったのか。自分がこんなにまぬけに思えたのは、不用意に森に入り込んで昏倒して以来だ。

 皮袋には、白の賢者のひとり娘メリアナ・グラガードの頭髪が一房、入っていた。彼女の命名式に名付け親が切りとった、大切な髪だ。今回の任務のために、ケリドルーズ師がわざわざエルディスの聖堂を拝み倒して持ちだしてきた。メリアナの居所を探るための、たったひとつの手がかりとして。

 命名式の頭髪と本人との絆は、魔法使いの存在に重要な影響をおよぼす可能性を秘めている。
 聖堂守は頭髪を手渡す前に、皮袋に幾重にも祈りをかけた。もし、これが敵の手に渡るようなことでもあれば、大変なことになってしまう。僕とコルにその危険性を充分にたたき込んだ上で(そうだ。僕たちの頭髪も名付け親がそれとは気づかれないようにして持っているはずだ)、ケリドルーズ師も補強の呪文を刻み込んでくれた。
 それをなくした。
 夢だと思いたい。
 目覚めて、食べるものがなにもないと知ったときよりもショックだ。
 ここはどこかなんて、どうやってきたかなんて、目的の前にはどうでもいいことだ。メリアナ・グラガードがいなければ、そこはすべて通り道に過ぎないんだから。

 僕の世話をしてくれていたのは、「島長の館」とやらの下働きらしい女の子だった。
 シアと名乗った少女はまだ子どもで、ひどく痩せているが、そばかすだらけの顔色はそれほど悪くない。大きな眼をしてじっと僕のすることを観察している。よそ者が珍しいんだろう。
 その子が、皮袋を探すと言いだした。きっとあわてて外に出ようとして戸口で倒れたのに呆れていたのに違いない。
 やけに熱心なようすなのが気になるけど、自分で動けるようになるまでに情報の切れ端でもいいからつかみたいと思って、申し出を受けることにした。

 彼女はちょっと饐えたにおいのするミルクと、石みたいに固いパンを運んできてくれた。
 この際、贅沢は言えない。ありがたく頂戴することにする。

参照>『妖魔の島』 Chapter 2-2

たぶん14日目その3

 じつのところ、皮袋を探してくれるというシアの言葉をまともに受け取ったわけじゃなかった。
 彼女の言葉の端から、ここは島であり(多分そうだと思ってた)、長と呼ばれる統率者の他に、賢者と呼ばれる人物がいることがわかってきた。
 共同体に知識をもって奉仕し、ひとびとに尊敬され、賢者と呼ばれる存在には、塔の出身者であるものが多い。魔法使いとしての才を持たなくとも、塔で学べることは他にもたくさんある。経験を積んだ薬師はどこへいっても尊重される。そのことはこれまでの旅でも大変な助けになってきた。
 もし、ここの賢者が塔の出身者であるのなら、僕のおびてきた使命を完璧にとはいえなくとも理解してくれるだろう。
 期待していたのは、むしろそちらのほうだった。

 だが、シアは期待以上の活躍をしてくれたうえ、賢者に対して抱いていたあわい期待を粉々に打ち壊してくれた。
 いや、彼女はなにも悪いことはしていない。むしろ、できる限りの言葉で警告してくれていたのだ。拡散した感覚の中で島をとりまいている空気にふれながら、疲れのせいにして予兆に目をつぶっていたのだから、悪いのは自分なのだ。

 もうすっかり日が暮れたあとのことだ。皮袋らしいものを持ってシアが戻ってきたとき、不穏な風もいっしょに流れ込んできた。そのときには、すでに納屋は大勢の非友好的な人間たちによって取り囲まれていた。
 シアが納屋から出ないようにとくどいほどにくり返していたわけが、ようやく理解できた。ここでは、よそ者はすべからく自分たちを脅かす脅威でしかないのだ。
 先頭に立ってなにやら言いつのっている老人の得意げな姿を、篝火のゆらめく炎越しにみとめてこみあげてきたのは、失望を通り越した自嘲の嗤いだった。

 シアが連れてきた嫌な風のすくなくとも何分の一かは、老人から発せられている猛烈な臭いが源だった。こんなときには、鼻が利くのが恨めしい。あの老人は、もう何年も体を清潔にすることを忘れているんだろう。ねばつくような饐えた体臭と、むやみやたらに混ぜ込まれた植物の刺激臭がすっかり染みついている。
 たしかに薬草のにおいも混じっているが、こんなに不潔な男が薬師であるわけがなかった。あの男に治療されたら、小さな切り傷がとんだ大事になりかねない。

 そこでハッと気がついた。目覚めたときに塗りつけられていた不快な膏薬も、この臭いを含んでいたのだということを。

 とたんに虫酸がはしって、体を洗い流したくなった。よく見てみると、老人のそばに立っている男は、どうにかして身を離そうとやっきになっている。さもありなん。これだけ離れていてもにおうのだから、あんなにそばに立っていたら鼻が曲がるだろう。

 どんなに滑稽な一幕が目の前で繰り広げられていようとも、笑ってばかりはいられなかった。かれらが僕たちを捕らえて始末しようとしているのは、あきらかだった。

 不思議なのは、かれらの仲間であるはずのシアまでもが魔物呼ばわりされたことだったが、老人の理不尽な言い分を聞いているうちになんとなく理由はわかったような気がする。理解が訪れてもなんのなぐさめにもならなかったが。かれらを説得するのは不可能に近いということもわかってしまったせいだ。いま、島の人々は完全に頭に血が上っている。冷静に話し合うことができればどうにかなるかもしれないが、そんな余裕は……見るかぎりどこにもない。

 飛びかかってきた男たちに、されるがままに縛られて海岸へと運ばれ、杭に縛りつけられた。抵抗するのも馬鹿らしい気分だった。

 納屋から運び出されるときに、シアが持ってきたお椀が蹴飛ばされて、中身が寝藁の上にぶちまけられた。シチューらしき匂いがしていて、食べるのがすごく楽しみだったのに。
 またも空腹が意識されて、いままでで一番腹が立った。

参照>『妖魔の島』 Chapter 2-6

たぶん14日目その4

 連れて行かれたのは、海辺だった。後ろ手に縛られ、両側に大柄な見張りをつけられて、できうるかぎりの沖に処刑用の杭が打ち込まれるまで待たされた。一刀両断に首でも落とされるのかと思っていたのに。拍子抜けする。

 遠回りな処刑の仕方が選ばれたのは、かれらが僕たちを魔物だとすっかり信じ込んでいたからに他ならない。賢者と名乗る老人は、僕たちをどんな魔物だと吹き込んだものか。自分で手を下して、魔物の断末魔の呪いを受けたくないと、立派な体格の男たちがみな尻込みしたのだ。潮位が上がった末の溺死であれば、なりゆきとしてはおなじでも、直接手を汚すことにはならないということか。

 待たされている間、悪臭老人に周囲をうろつかれて閉口した。
 かれは僕を上から下まで検分していた。隠し持った財産のありかを探り出そうとしているかのような、いやらしいまなざしだった。篝火に細かい血管の走る濁った白目がうきあがり、そっちこそ、魔物じゃないのかと思う。こんな魔物は、古文書の中にも見たことはないけど。
 感情がつい表情に出てしまったらしく、老人は僕の視線をとらえて近づいてきた。「来るな」と心のなかでくり返すたびに、嫌味のように歩を進めてくる。だらしなくゆるんだ口からのぞく黄ばんだ歯の隙間から、白い唾液がしたたっているのを認めて、背筋に悪寒が走った。このくそじじい、酒を飲んでいる。

 その後に交わした会話は、思い出そうとしても思い出せない。
 酒気の混じった生あたたかい悪臭を何度も吹きかけられて、気が遠くなっていたからだ。
 秘密を知っているならば教えろと恫喝されていたような気もするが、記憶に残っていない。
 もし、作業終了の報せが来ず、老人が離れてくれなければ、この場で窒息死していたかもしれない。

 シアは放心状態でうなだれていた。あたりで起きていることには気づいていないようだ。老人がそばを通っても、表情がまったく変化しない。
 乱暴に運ばれて、杭にぐるぐると縛りつけられても、しばらくそのまま呆然としていた。時間が経つにつれて潮位が上がり、つめたい海水に洗われはじめたせいで、ようやく我にかえったようだが、僕がいることにもなかなか気づかなかった。現状を認識するのに時間がかかったのだろう。それでも、少しきつめの言葉をなげてみると、けっこうすばやく反応が返ってきた。

 覚悟を決めた。使命を果たす前に、こんなところで悪臭老人の手にかかるようにしておぼれ死ぬのはごめんだ。
 頭の中で段取りを考える。まず、縄抜け。それから人気のない方に向かって泳ぐ。向かって右手の方向に岩場がある。そのむこうへとまわりこめば、砂浜からは見えないだろう。シアは泳げるだろうか。泳いでくれないと困る。緊張感を持続して、ひと思いにやり抜く。ぜったいに生きて海岸までたどりついてやる。

 何度も塩辛い水を飲み、死ぬ思いをしたが、どうにか陸地にたどりついた。シアの泳ぎは期待どおり、あまりうまくなかった。それでも彼女はあきらめることを知らないかのように、もがきつづけていた。まるで受けた衝撃をすべて怒りとして放出しようかという勢いだ。もうすこし、力をぬいてくれた方が助かったのだが、やる気に水をそそぐようなまねをするのはやめた。そんな暇もなかったし、言ったところで無駄だったろう。

 いままでのことから推し量るに、この島での彼女のくらしは、あまり幸せとは言えないものだったようだ。それでも、故郷への帰属意識は育つものだ。日頃どんなに相手を嫌っていても、疎外されれば心が痛む。冷たい仕打ちを恨みながら自分の落ち度に理由を求めたりもする。
 今回の出来事は部外者から見ても相当ひどかった。まだ年端もいかない子ども相手に、よくもあれほど憎悪むきだしの言葉を投げつけられるものだ。シアが希望を失ってしまったとしても、僕は驚かなかったろう。

 シアの顔つきは、まだ衝撃を受けた後の空白を感じさせるものだった。自分の受けた理不尽な仕打ちの意味が、まだはっきりとは飲み込めていないようだ。彼女に非はないと、なんとかわからせようとしたが、あまりうまくいかなかった。こういうことには時間がかかる。それは自分のことでよくわかっていた。

 だが、のんびりしている暇はなかった。潮が引けば、僕たちがだまって杭に縛られたままでいなかったことは、すぐにばれる。不幸な彼女をさらに不幸にしてしまったのには僕にも責任があるが、なにをするにしてももっと時間のあるときにするべきだ。
 いま、目の前のことをひとつひとつ片づけていくこと。コルの言っていた教訓を思い出す。コルが生きていたら、どうしただろう。きっと、一番大切なことは何か、考えろと言うはずだ。
 旅の目的。それはメリアナ・グラガードを探すことだ。
 幸運にも、シアがメリアナの頭髪の入った皮袋をしっかりと持っていてくれた。あの騒ぎの中でだ。なんて役にたつ子なんだろう!

 海水に湿った袋を手にとると、メリアナの存在が驚くほど近くに感じられた。たぶん、この島の中のどこかにいる。そう思うと、矢も楯もたまらなくなった。

参照>『妖魔の島』 Chapter 3

たぶん14日目その5

 ようやく、目的を果たした。
 メリアナ・グラガードと会えたのだ。
 とはいえ、それはあまり喜ばしい出来事ではなかった。
 当代の〈白の賢者〉を名乗るシーウァ・グラガードの一人娘であり、若いころより力の言葉に関するたぐいまれな資質を認められていた女性も、ケリドルーズ師が期待していたような、第一王子のもちいる力を抑制する術を提示することはできなかった。
 そして、もっとも期待していた彼女自身の助力も、受けることはできないと知らされた。
 今回のことで一番不幸だったのは、すでに彼女が鬼籍に入って久しかったという事実だった。

 わかってみると、いままで気がつかなかったことが阿呆のようだ。
 目印としていたメリアナの頭髪は、たしかに本人の気配を伝えていた。しかし、この島には偉大な賢者の住まうところに感じられる、あのなんとも言いようのない厳かなちからの脈動が、まったく存在しなかった。もちろん、他者に対して影響をおよぼすことを嫌って、みずからの存在を隠蔽してしまう者もいるだろう。それでも、メリアナと名づけられた魂の在処を、その属する一部を持って探索する者に隠し立てすることはできない。
 僕が感じていたのは、ただ、彼女がこの島のどこかに在るということ――それだけだった。生のぬくもりを求めようとしなかったのは、追いかけている対象が偉大なんだという先入観がありすぎたせいかもしれない。

 月光に照らされた魔物の塚と呼ばれているらしい地面の下に、かつてメリアナ・グラガードの肉体を構成していたモノが埋まっていた。すでに長い年月が経っていて、人のかたちなど留めていようはずもないが、そこには暴力によって健やかな生を中断されたものの、悲痛な嘆きが刻まれていた。
 あたり一面草がぼうぼうと茂っているもりあがった土饅頭の上に、拘束の戒めとして杭がうちこまれていた。乏しい知識をもって自分たちの罪を封じ込めようとしたのだろうか。そのため、メリアナの魂はいまだこの地にとどまり、冥界に下ることもできずに時間の流れるままに薄れ消えようとしていた。涙が出た。

 だから、僕はここで禁を犯すことにした。
 森を出るときに挙げた誓いの言葉を、いったん無効とする。
 塔に入るときに受けた戒めの言葉は、決意をしたと同時にあっけなく消し飛んでいた。

 どうか、ケリドルーズ師。僕がしたことが間違いであると思われたら、後ほど叱責してください。メリアナと会うという目的がなかったとしても、生きとし生けるものに対してのこんな仕打ちを見逃すことはできません。

 塔の門を叩いたときから、魔法使いであることを放棄したいと思ったことは一度もない。けれど、この仕事は、魔法使いである自分には不可能なものだった。だから、このいっときだけ、ぼくは森の人々に助力を請う自分に戻ることにした。僕の魂は制御可能なちからをふるうものではなくなり、ひたすらにわき出るいにしえのちからを紡ぐだけのものに変化していた。不安はあったけど、後悔はしていない。でも、もう二度とこんなことはしたくない。

 メリアナは、わずかだが精一杯の手がかりを示唆してくれたのち、朝の光の中に溶けていった。
 くびきを解かれた魂は、すみやかにいるべきところへと向かっていったのだと信じたい。

 シアは……そうだ、シアのことを忘れていた。
 彼女はなんと、レイディ・メリアナの娘だった。メリアナが魔物と思いこまれていたため、娘である彼女も魔物として扱われつづけていたのだ。なんて痛ましい生い立ちだろう。蒼白い炎の姿をした母親を見て、泣いていた。

 でも、メリアナの娘ならもう少し器量よしでもいいんじゃないか?
 たしかに、輪郭や造作のひとつひとつには似た雰囲気があるものの、彼女はどう見ても村の悪ガキだ。威厳あふれる女魔法使いにゆかりの者とはだれも思わないだろう。
 目はぱっちりとして澄んでいる、といえないこともないけれど。

参照>『妖魔の島』 Chapter 3-2

たぶん15日目その1

 いつのまにか夜が明けていたが、休んでいる暇はなかった。
 空腹に悲鳴をあげる身体はできるかぎり無視することにする。いくら考えたところで、追われているかぎり食べ物が手に入るあてはない。

 レイディ・メリアナが示唆したのは、鎮めの宝石クウェル・シルアーリンの存在だった。闇に直接はたらきかけるものではないが、なんらかの効果を期待できるかもしれないというのだ。
 メリアナがすでにこの世になく、嘘をつくことのできない存在であるとわかっていても、耳を疑いたくなるような情報だった。

 クウェル・シルアーリンは失われたと思われていた。それもここ数年の出来事ではなく、いにしえの大陸を襲った大混乱の時代に起きたことだというのが定説だ。クウェンティスの黎明期にあって、ひときわ輝く盾もつ乙女の伝説は、誰もが耳にしたことのある吟遊詩人の歌にもなっていて、その中でも鎮め石の失われる様がはっきりと歌われている。
 現に、連綿とつづいてきた時の流れをすべて記憶に残し、石が現存すればまちがいなく所有する権利があるはずの森の長たちだって、力の石は失われたものと信じてる。
 それが、〈白の賢者〉の手元にあったのはどうしてなのか。そして何故かれは自分の娘にその石を託したのか。平時ならば塔と森の間にひと騒動が起きること必至の大事件だろうが、それはこの際さておくとして。

 その伝説の鎮め石が、ディナス・エムリスからこんなに離れた、海図にも記されることの少ないひなびた島に隠されていたということのほうが、僕には衝撃だった。

 しかも、よりにもよって、あの悪臭老人の、悪臭の源ともいうべき根城、みすぼらしい小屋。幾百幾千の分別しようもない臭いの混ざり合い、小屋をかたちづくる古びた木材の芯の芯にまで幾重にも染みついた、触れるだけで悪臭に侵されてゆくような混沌のなかに、埃と汚れとシミで変色したぼろきれに包まれたまま、十数年も省みられずに放置されていた、というのだからたまらない。

 なんだか、悪夢を見ているような気分じゃないか?

 老人の小屋でシアが持ちだしてきた長持ちの中は、まるで物の価値のわからない子どもが集めたような、怪しげだがまがいものばかりの収集物でいっぱいだった。
 たとえば、乾いてしなやかさを失った羊皮紙には、古いインクでなにやらしたためてあったが、これはよく見るとどこかの薬屋がどこかの薬師に送りつけた請求書だった。よほど勘定をためこんだものらしく、支払いを済まさなければ、即刻家財道具一式を差し押さえるとつよい言葉で宣告している。薬屋にしては凝った意匠の花押を使っているのがすこし意外だが、後生大事にとっておく価値があるとも思えない。こんなもの、どこで拾ってきたんだろう。あのじいさんは。

 こんなふうな雑多でしけた老人の「宝物」の中に、クウェル・シルアーリンがいっしょくたにされていたのかと思うと、くり返すようだが、ひどく虚しい。
 どんなお宝も、価値のわからない者の手にあってはガラクタとおんなじなのだ。もし、アウワーラがこのありさまを見たら、個人的にも種族的にも侮辱されたと思いこんで怒りのあまり卒倒しかねない。
 だけど、石にとっては、かえって中途半端な扱われ方をされずに済んだ分、よかったのかも知れない、とも思う。考えてみれば、このふたつがここにあるということは、第一王子の手にあったとしてもおかしくないということなのだ。メリアナが北じゃなくて南へ来てくれて本当によかった。

 クウェル・シルアーリンは思ったより大きくて、汚穢のような場所にあったにもかかわらずしみひとつなく、つややかに光沢を放っていた。煌めく星ごと夜空を閉じこめたような深みを感じる色合いで、まるで石自身が考えを持っているみたいだ。
 触れたとたんに警告のような痛みが走り、僕は拒まれていると感じた。あつかいが難しいといったメリアナの言葉が思い出されるのと同時に、僕のちからはあっさりと石に消されてしまっていた。
 これが鎮め石のちからなのだろうか。最後に残してあった余力を奪いとられたような感じだ。身体にとくべつ支障はないけれど、のしかかるような疲労が襲ってきて、その場でへたりこんでしまいたくなった。

 シアはそんな僕を見ていぶかしげにしていた。そういえば、彼女は石を持っても平気な顔をしていた。もう一度持たせてみたが、なんともないらしい。どうやら力をふるうことのない人間に所有されるほうが、石の意に叶っているようだ。とりあえずこのまま持っていてもらうことにする。錆の浮いた銀の鎖を首にかけて、シアはなんだか嬉しそうだった。この子のこんな顔を見たのは、初めてのような気がした。

 さあ、はやくここから逃げだそう。これ以上ここにいたら、この臭いがこっちにまで染みついて、消えなくなりそうだ。

参照>『妖魔の島』 Chapter 4

たぶん15日目その2

 やっぱり来た。
 やっぱりというと、まるで来ることを予想してみたいだが、そうじゃない。
 あの老人が絶対に現れるだろうなんてことまでは、いくら魔法使いだってわかりはしない。
 ただ、メリアナの召喚に成功したときも、クウェル・シルアーリンが見つかったときも、こんなにうまく事が運ぶわけがないとは思っていた。幸運のあとには三倍くらいの苦労が待っているというのが、これまでの短い人生の中で得た教訓だ。
 そして状況を鑑みるに、この島でよからぬことが起きるとすれば、それはどうしたって悪臭老人が何らかの形で関与しているのに違いないのだ。
 だから、元凶元締めである本人がここで姿をみせたところで、それはごく自然な流れというものだろう。そもそも、この粗末な小屋は、かれの根城だ。老人だから睡眠は浅いのかもしれないが、いくらなんでも徹夜は辛いだろうし。

 しかし、勢い込んでやってきた老人は、どうやら休息をとりに帰宅したようすではなかった。
 お供に若い男をふたり引き連れてきたので、気が大きくなっているのだろう。あるじのいない間に上がり込んでいた客を泥棒呼ばわりして(反論はできないが)、筋肉の落ちた肩を怒らせ、元気いっぱい、威嚇攻撃に余念がない。

 朝っぱらから(空きっ腹なのに)、嬉しくない状況だった。
 饒舌なじいさんの、独善的なおしゃべりにつきあうのも、これで何度目だろう。
 どんな経験も糧にせよと言ったのは誰だったろうか。そういえば、この人物のひととなりを観察しようとしたことはこれまでなかった。悪臭に気圧されてしまい、発生源までは気がまわらなかったのだ。

 シアがオルジスと呼ぶ高齢男性は、年の頃は……黒ずみ黄ばんだ歯の欠け具合からして五十代後半から六十代後半くらい。肌はシミだらけの皺だらけのうえ、顔にゆがみがあって口元が大きく曲がっているので、実年齢よりかなり老けて見える。頭に毛は一筋も生えていない。
 シミの浮いた特徴的な大きな鼻。二重三重に重なるようにして垂れ落ちた頬、性根の曲がった性質を浮き彫りにするたるんだ口元。ぼさぼさにのびきった霜降りの眉の下にゆるみきって垂れたまぶたがぼってりと存在し、その下から覗いているのは、損得勘定に長けた小ずるそうな目だった。
 短身痩躯で猫背。手足は身長相応に短いが、手のひら足のひらは不必要なまでに大きい。手も足もゆびは太くて短く節くれだっていて、爪は横広で汚れがつまって黒ずんでいる。履き古して分解寸前の革製のサンダルをつっかけ、べたべたと歩くその姿は、なにやら人とはべつの生き物のようだ。

 服はもともと黒いのかと思っていたが、よく見ると、どうやら汚れがこびりついたあげくに黒光りしているものらしい。袖口や襟元がとくに色が濃いが、ときおり赤い染みも混ざっている。食べ物をこぼしたあとだろうか。

 島のひとたちは、どうしてこんな人物に我慢し、その後、賢者として崇めるまでに至ったんだろう。なんだかものすごく知りたいような、ぜったいに知りたくないような、複雑な気分になってきた。

 小屋のあちこちに腐りかけの藁に混じって生野菜や穀物のかけらが落ちているが、周辺に畑はなかったから、島びとが届けているんだろう。ならばついでに服を洗ってやろうとは思わないのだろうか。
 いや。
 この服に触れるくらいなら、新しい服を作ってやった方がまだましだ。
 だけど、さほど広くもない島の牧草地では、綿羊を養うのもほそぼそとだろう。貴重な羊毛を苦労して紡いで、織って、仕立てて、あげくこんなふうに着こなされたのでは悲しすぎる。
 老人が古着を愛用しているのかもしれないが、ひとびとはそれを黙認しているのかもしれない。

 嵩に掛かって奮闘する老人が異常接近してきて、慣れかけていた鼻にさらに強烈な悪臭が襲いかかってきた。
 もしかして、僕たちはここで悪臭に負けてしまうのだろうか。
 それはないだろう、と思うとオルジスのいい加減な作り話にだんだん腹が立ってきた。
 えらくなりたいのも人から尊敬されたいのも、人間にとってはごく普通の感情だ。だからといって、事実をねじ曲げたり、他人を誹ったり、他人の物を盗んで自分のものに見せかけたりすることで、自分を実際よりもよく見せようとする行為を、許せるわけじゃない。それは他人をないがしろにし、自分の価値を自分で貶めることだ。

 それでも、どんなに卑屈になろうともどこまでも自分の得になるほうに話を転がそうとする老人の、粗野で哀れな生きるための努力を見ていると、辟易させられはするものの、なにがなし感心させられるところもあった。
 瀕死のドブネズミが最後まで自分のやり方にしがみつき、一発大逆転を夢見て姑息に悪あがきをしている姿を見て覚える感慨って、こんな感じなのだろうか。

 いくらこの男を糾弾したところで、失われた者は戻っては来ないのだ。

 そんな事を考えているうちに、突然老人が殴られて倒れた。
 思わずホッとした。

参照>『妖魔の島』 Chapter 4-2

たぶん15日目その3

 偽りの老賢者が昏倒したのは、ティストという男が後から殴りつけたためだった。
 島長の使用人だという彼は、苛酷な力仕事で鍛えたと思われる身体と、錆びついたかんぬきが掛けられているのではと感じるほど重い口を持っていた。粗末な上着を着ていてもわかる盛りあがった二の腕を見て、殴られたのが自分じゃなくてよかったと、心底思った。この人物は、その気になれば素手で頭蓋をへこませることもできそうだ。

 ティストが僕たちに助力を申し出てくれたことは、この島に来て初めて聞いたよい報せだった。孤立無援だったこれまでを思うと、すこしでも頼れる人間がいるのといないのとでは大違いだ。
 もっとも、ティスト本人にとって僕たちを助けることが何を意味しているのか、それを考えると手放しでは喜べない。
 島中から魔物と忌み嫌われ、抹殺されようとした存在を、どうして救おうなどと思うようになったのだろう。
 ティストの顔は恐ろしいほどに真剣だった。ひどく思い悩んだすえに心の闇をのぞきみた者のしるしが、その暗い瞳には刻まれていた。もがき苦しんだことのあるものだけにそれとわかる、苦い刻印だ。
 かれがここにきて、僕たちに声をかけるまでに、どれだけの痛みを味わってきたのかは、他人に想像できることではない。長い苦しみにひと思いに決着をつけようとしているかのような、すこし自棄気味かと思える潔さが、このティストという男にはあった。
 もし、僕らを助けることでかれの心が楽になるというのなら、こちらに言えることは何もない。

 男の真剣な顔を見ているうちに、僕は胸を衝かれた。この島の人びとも、ただ一度きりの生を精一杯に生きる人間なのだという実感が、ようやくわいてきたのだ。

 そして、かれとシアがたがいに牽制しあっているのが気になった。
 ティストはこの島で唯一、シアと普通に話し相手になってくれる人物であったらしい。
 いきさつを話す彼女の傷ついてすねた表情は、歳の離れた兄に見捨てられたといって泣きべそをかいていた、修練生仲間の顔を思い出させるものだった。シアは気づいていないようだが、ティストのほうは彼女を傷つけたことに困惑し、後悔しているようだ。どちらも素直に謝りそうにないから、なにか手助けをしてやったほうがいいのかもしれない。

 ところで、シアが、ティストは僕が来てから態度を変化させたのだと、つよく主張するので、こちらもいささか傷ついた。
 僕が何をしたっていうんだよ?
 そりゃ、シアがひどく辛い境遇にあることは認める。今回の出来事のきっかけを作ったのは僕であることは事実だけど、好きでやった事じゃない。不可抗力なんだ。
 この島にやってきて僕がやったことは、おぼれ死にそうになったところを命からがら逃げだしたことと、宣誓を破ってレイディ・メリアナの霊魂を呼び起こしたことくらいだ。両方とも、シアのためにはなっても、害にはなっていないと思うのだが、間違いだろうか。
 襲われて、傷ついて、漂流して、生き延びたと思ったら迫害だ。そのときそのときで最善を尽くしているつもりだけど、割に合わないことばかりのように感じてしまうのは、やっぱり僕にはまだまだ足らないところがたくさんあるせいなんだろう。
 島の人たちのことを、たんなる分からず屋の集団のように感じていたのも、そのひとつだ。
 こんなときこそ、コルの意見を聞きたいとしみじみ思う。
 どうやらここにきて、疲れがピークに達しているらしい。おかげで、思考がよけいに悲観的な方向へ流れているようだ。
 言いつのるシアに、そんな意図はなかったことは確かだが、聞いていると自分が非難されているみたいに感じられて仕方ない。

 その後、オルジスの腕を恨みをこめて締めあげるシアを叱ったら、不満そうに睨み返された。
 ほんとうは僕だって、さんざん嫌がらせをされたお返しをこの老人にしてやりたいのだ。それを我慢してえらそうなことを言っている自分を、少し馬鹿じゃないかと思っていたりもするのだ。
 だけど、実際に何かをしてしまったら、ぜったいにあとになって後悔する。後ろめたい思いをしたくないから、よかれと思う方向にすすんでしまうのだ。僕にひと思いに悪行をしてのける勇気はない。

 もし、仕返しをするとしたら。
 と、少し考えて出た結論は、老人が気を失っている間にサボン草をぶくぶくに泡立てたあつあつの湯船につけ込んで、すみずみまでつやつやぴかぴかに洗い浄めることだった。
 おそらく、お湯はたらい一杯では足りないだろう。
 長年ため込んだ垢によって、どんどん汚れていくに違いない。
 竈で大鍋に湯をたぎらせて、絶え間なく煮立たせておかなければならない。いや、もちろんそのままは使わない。ちゃんと水で埋めてからたらいに入れるのだが、そのままぶっかけてやりたいという誘惑から逃れるためには、すこし我慢が必要かもしれない。
 たわしでごしごとしこすってやったら、ずいぶん気分がいいだろうけど、老人だから肌は弱いかも知れない。傷をつけるのはまずいだろうか。

 外側だけじゃダメだ。もちろん口のなかも綺麗にしなくては。
 欠けたり、ぐらぐらと動いたりしている前歯は、いっそのこと全部ぬきとってしまおうか。
 歯の隙間のヤニや歯茎の膿をとりのぞくには、どうすればいいんだっけ?

 施療院の薬師デューイー師はご存じだろうが、ここまで汚れきった人間をまっとうに清潔にするには、かなりの労苦と忍耐と時間が必要とされそうだ。
 それに、そんなにまでして綺麗にしても、あとで老人に感謝されてしまうかもしれない、という危険がある。
 そうだ。あんまり臭くて汚いから、そうするのが趣味なんだとばかり決めつけていたけれど、もしかしたら本当はきれい好きなのかも知れないじゃないか。
 度が過ぎたきれい好きは、思うように清潔にできなくなると、反動でごみためのようなところにでも平気で暮らせるようになるとか、どこかで聞かされたような気がする。

 ……。
 思わず気を失った老人の顔をまじまじと眺めていたら、のびた鼻毛をひくひく動かして、いびきをかいていた。ものすごく後悔した。

参照>『妖魔の島』 Chapter 4-3
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